一日中、空を見て過ごすことが多かった。屋敷の者は、まるでそこに誰もいないかのように通り過ぎて行く。関わらない方が身のためだと、誰もが感じているのだ。
目の部分だけが開いた白い仮面で顔を隠し、ほとんど話す事もない。いったい何者なのか、気にはなっているだろうが問いかける者ない。主人の雷薄がどこからか連れてきて、側に置いているのだ。
しかし仮に問いかけたとしても、仮面の男が答えることは出来ない。なぜなら、彼自身も己が何者なのか知らないからだ。
全身に火傷を負い、瀕死のところを雷薄によって救われたのである。一命は取り留めたのだが、記憶を無くし、仮面で顔を隠して過ごさなければいけなくなったのだ。以来、男は是空(ぜくう)と呼ばれ、雷薄に剣の実力を認められて色々と汚い仕事を任されるようになっていた。
(少し、出てくるか……)
是空は重い腰を上げ、遠乗りに出かけることにした。屋敷の者はもちろん、街の者たちも自分を怯えたような目で見ている事に、彼は気付いていた。それゆえ、部屋に籠もっていることが多かったのだが、火傷を隠すように暑い日も長袖をまとい、仮面も付けているので体が火照ってしまうのだ。だから時々、人目を気にせずに冷たい風に当たりたいことがあった。そんな時は馬で遠乗りに出るのである。
「おいで……」
馬だけが、自分を怖がらない。すべてを見透かすような瞳で、是空を見つめるのだ。自分ですら気付かないような、心の奥底を覗き込んでくる。
(俺の深淵に、何が見えるというのだろう?)
自分は空虚だ、是空はそう思う。けれど自分を見つめる馬の瞳には、何かとても懐かしい感情が浮かんでいるような気がしてならない。
急かすように、馬が声を上げる。是空は小さく笑い、馬の首筋を優しく撫でた。どこへ行こうか、そう考えながら馬に跨がる。息の詰まる日々の中で、ささやかな楽しみの時間だった。
雪蓮は、森の中を走っていた。人目を避け、村や街には近寄らない。木の実や果物で飢えをしのぎ、洞穴や草むらで夜を明かす。ただ、ただ、見えない幻から逃げるように、怯え、当てもなく逃げ続けていた。
朦朧とした意識の中、彼女の心は辛い現実を忘れるように、幸福に包まれていた過去の思い出の中にあった。それはまだ両親が健在で、三女の小蓮が生まれて間もない頃のことだ。
三度目の出産で少し体調を崩した母を労るように、父が静かな森の中にあった古い屋敷を買い取り、家族そろってそこで暮らしていた頃の思い出である。顔を合わせることもないほど多忙な両親と、久しぶりに過ごす一緒の時間。何よりも大切で、暖かい思い出だった。
「父様! 母様!」
湖畔で釣りをしていた雪蓮が、いっぱいの釣果を網に詰めて戻って来ると、二階のベランダから小蓮を抱いた母が手を振った。父と蓮華は、庭で剣術の練習をしている。
「姉様、おかえりなさい!」
「おかえり、雪蓮」
満面の笑みで手を振り替えした雪蓮は、大切な家族のもとに向かって走り寄った。途中、小さな石でつまずいて、照れくさそうに笑って顔を上げた雪蓮は、その表情を凍り付かせた。
あるはずの光景が、目の前から消えている。いや、はじめからそんなものはなかったのだ。
「……ここは」
焼け落ちて廃墟となった屋敷跡が、雪蓮の前に広がっている。かつての思い出が重なり、強く頭を叩かれたように現実に引き戻された。
「はは……は……」
崩れるようにその場に座り込んだ雪蓮は、しばらく呆然と周囲を眺めた。あの頃のぬくもりすら失われたように、木々が覆い茂って薄暗く、どんよりと重い空気に包まれている。
「私……全部、無くしちゃったんだ……」
溢れる涙が、一筋こぼれる。歯を噛みしめ、雪蓮は体を震わせた。そして天を仰ぎ、腹の底から吐き出すように声を上げて泣いた。ずっと堪えてきた想いをすべて乗せ、ただ、子供のようにいつまでも泣き続けていた。
どれくらいそうしていたのか、泣き疲れ、雪蓮は魂が抜けたように呆然としていた。当てもなく歩き続け、気がつけば思い出の場所にいる。
(このまま、ここで死ぬのも悪くないかな……)
そう思って雪蓮が目を閉じかけた時、草を踏む足音が聞こえた。驚いて振り向いた雪蓮の前に、一人の男が立っていた。白い仮面の男――是空だ。
「……震えるような、慟哭が聞こえた」
是空はそう言いながら、雪蓮の側まで来る。
「深い悲しみ……。お前は、何を泣いていたのだ?」
「私は……」
雪蓮は不思議な気持ちになった。初めて会う、仮面を付けた不気味な男なのに、どこかその口調に安心感を覚えるのだ。緊張を解き、深く吐いた息と共に、雪蓮は言葉を漏らす。
「私は……大切なものを……全部無くしたの。自分のこの手で……壊してしまったのよ」
「……」
「だからもう……思い出の場所で、眠るの……」
崩れるように身を横たえた雪蓮は、重い瞼をそっと閉じた。今までの疲労もあってか、気を抜けばすぐにでも深い眠りに落ちそうだった。そんな雪蓮の耳に、是空の静かな声が届く。
「お前は、まだすべてを無くしてはいない。少なくとも、悲しみに泣けるだけの思い出はある。俺には、それすらもないのだから……」
沈みゆく意識の中で、雪蓮はその言葉を聞いた。そして再び、懐かしい夢を見る。久しぶりに感じる、ぬくもりと安らぎに包まれながら……。
許昌に戻ってすぐ、真桜は新たに創られた技術部隊に所属することとなり、部隊長には一刀が選ばれた。その理由は、一刀の持つ天の国の知識を広く役立てるためで、技術部隊で開発されたものは『魏』以外でも自由に使えるようにする予定だった。
また、一刀と真桜の希望により、兵器の類は考案しない事に決めた。ただし桂花たち軍師の指示による、製作のみは請け負う。これは主に何進との戦いを想定してだった。
「まあ、このくらいは譲歩しないとな」
そんな経緯で誕生した技術部隊には、真桜が助手として使えそうな兵士を数人引き抜き、隊員として所属している。最初の仕事は一刀の義手製作だが、これにはまだそれほど人手はいらない。
「遊ばせておくのも、もったいないわね」
そう思案した華琳は、技術部隊にもう一つの役割を与えることにした。それは一刀の提案でもあったのだが、街を巡回する警備隊である。
これまでは通常部隊の一部が、任務の一環として交代で警備を行っていた。しかもそれは常に行われていたわけではなく、定期的な任務だった。
「街の治安を守るには、常駐した警備隊が必要だと思うんだ」
「なるほど……確かに必要かも知れないわね」
「だろ?」
「でも活動は、もう少し落ちついてからにしてもらうわ」
警備隊の役割は認める華琳だったが、今はまだ警戒態勢にある。何進軍がいつ、再び攻めて来るかわからない状態なので、街には常に兵士が待機していたのだ。
「良い機会なんだから、一刀も少し休みなさい」
「あー、それなんだけどさ……。前からちょっと考えてたことがあるんだ」
「……一応、聞きましょ?」
嫌な予感を感じつつ、華琳は訊ねた。
「華佗に会いに行こうと思ってるんだ」
「華佗? 確か、霞を助けてくれた医者よね?」
「ああ。あの時はさ、華琳の事があって急いで飛び出てきたから、ちゃんと挨拶もしてなかったし。落ち着いたらまた行こうって、ずっと思っていたんだ。出来れば風にも会いたいしね」
わずかに目を閉じて、華琳は諦めたように息を吐いて笑った。
「どうせ、もう決めているのでしょ?」
「まあ……でも、一応さ、華琳にも相談してって思ったから」
「別にいいわよ。もともと、私に一刀の行動を制限できる権利なんてないし」
「そんな事は……」
そう言いかけた一刀の唇を、不意に華琳が自分の唇で塞いだ。
「――っ!」
「ん…………っふぁ。ふふふ」
「か、華琳!」
「行ってもいいけど、ちゃんと帰って来なさい。無事に、ね」
「わかってる」
こうして、一刀は再び旅立つ事となった。華佗に会うということで、護衛も兼ねて霞を付き添わせることを華琳が決め、風にも会うと聞き、稟が同行を志願した。そして、
「いい? 私個人はどうでもいいけど、華琳様のために、あのバカがバカな事をしないようにしっかりと見張るのよ」
桂花がミケ、トラ、シャムの三匹に言い聞かせ、道中の見張りとして無理矢理連れて行かせることを決めたのである。
すぐに準備をして、一刀、霞、稟、そして三匹の猫たちが許昌を旅だった。暗雲が漂う、呉の地に向かって――。
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恋姫の世界観をファンタジー風にしました。
楽しんでもらえれば、幸いです。