「陛下、追加の書類です」
クライスは腕を出来るだけ下げても二の腕ぎりぎりまで積んである紙の山を優しく置いた。横には先ほど捕獲したばかりのグラドフィース陛下の姿。
眉を嫌そうに寄せつつも、その手には羽ペンがある。うぅ、と唸りながらゆっくりと書いたり、インクに浸したりを繰り返している。文面は優しく見ると、ほど良い。厳しく見ると、汚い。正しく言えばそれは文面が悪いのではなく、ただ単に文体が悪いだけである。
「クライスー、こんな量を出来るわけないだろーが」
「貴方がさぼって何処かへ出掛けてしまうからこんなに溜まったのですよ。自業自得です。これでも殿下が仕事を減らしてくださっているのですから、これくらいで音を上げないでくださいね」
「……、無理だな」
そう言いつつも紙の上でペンを走らせる辺り、きちんと現状を理解したようだ。溜め息を漏らしつつも先程よりもしっかりとした手つきで書き始める。文体も綺麗なものへと変わった。
わざと汚くしていたのか、クライスは思ったが口には出さなかった。逃げ出す様子も見られないため、クライスは部屋を出て行く。
「ケシスに用があるのでしばらくこちらへは来ませんが、くれぐれも仕事の手を休めないようにしてくださいね。本当はもっと溜まっているのですから」
「……へぇーい。出来るだけ、な」
陛下はクライスの方を見ないで返事をした。難しい顔を崩す様子は見られないことに、彼はとても安心した。そして笑顔のまま言い放つ。
「あと、殿下からのご連絡がきたら、内容はきっちり教えていただきますからね」
グラドフィースは小さく体を震えさせ、すぐに顔を上げるとクライスの顔を凝視した。
素直な方だと改めて思い、そして騙されてはいけないと思った。こういう軽い事には自分の方が一枚上手でも、もっと大きな事に関しては相手の方が上手だ。調子に乗っていると足下を攫われる。
もしかしたら、自分が気付かない何かも潜んでいるのかもしれないと、クライスは身震いした。
「……何を言ってんだか解らんな」
「誤魔化しても無駄ですからね、貴方が自身の子供にそんな権限を持たせるはずがない。殿下にはまだ荷が重過ぎる。――私にはお見通しです。貴方に何の意図があって、殿下を会議に送り出したのか」
それでは、とクライスは言葉を切って退室した。ぱちくりと瞬きをしつつも目を円くしていたグラドフィースは口元を歪ませ、つまらなさそうな顔をしてペンを走らせるのを止めた。傍らにそれを置いて、椅子の背もたれにもたれ掛かる。
「結局最初から見透かされていたって訳か。くそぉ、やけに今回は聞きわけがよかったと思ったらこういう事か。いつもだったら犬みたいに喚いて反対するもんな」
わざとらしい盛大な溜め息を吐いて、こうなったら自棄になってやろうかと思ったが止めた。ここで自分が投げ捨てて、息子がストレスで白髪になるのは勘弁してほしい。そんな考えすらも思考の何処かで思うほど、この国には戦争を含めずとも問題があった。
再びペンを取ったが紙の上を走らせる事はなく、頬づえをついただけで何もしなかった。脳内の片隅で、このままだったらクライスに怒られると思いつつも、行動はしない。
ちろり、と舌を出して笑う。賢王は道化となり、嘘も上手く吐けない素直な王を演じ、騙っている。
一刻が経ってやっと、彼はペンを走らせ始めた。
その顔に、笑みはなかった。
「ケシス、頼んだことの内容は掴めましたか」
彼はケシスの私室のソファーに座りながら、目の前の参謀総長に尋ねた。
「ああ。間諜に調べさせた。ほら、初の女性間諜として一時期注目されていた、あれに頼んだ」
「賢明ですね。リーゼラは平民の生まれといえど、孤児で親はおらず、機密を洩らせる人もいない。――ですが、どのようにして頼んだのです? 彼女は滅多に動かないと聞きますが」
その質問に、ケシスはそうだな、と相づちをうった。確かに彼女は頑なで、軽々しく動くような人間ではない。
「イリルが彼女と親しいらしくてな、相談したところすぐに手配してくれた。まったく、あいつの人脈はどれだけ広いことか」
末恐ろしいものだとケシスは言って、それから本題へと移った。
「報告によると、スールの国民の王に対する思いは尊敬、敬愛といったところらしい。公明正大で、平民から貴族までの人間全てが認めているそうだ。日々頭を悩ませてきた盗賊被害も最近になってやっと少なくなってきて、戦争に向けた準備は万端。――こんな事調べさせて、一体何に使う気だ」
「私は王のバックアップが仕事ですから。……それで、もう一つの頼みの方は?」
尋ねられて、ケシスはしばらく黙り込んだ。だが意を決したのか、口を開いた。
「相手が狙っているのは領土でも、国の没落――国王の首でもない。ただ何かを我が国が冒涜したから、そのために戦争を仕掛けたそうだ」
「……そうですか」
落胆したような、けれども何処か安心したような、真意の見えない表情で頷いた。
ケシスは友のその表情の意味を悟ったが、彼の思惑が判っただけで彼の感情までは理解できなかった。王の首を差し出さなくて良かったという安堵か、それとも。
そこで彼は考えるのを止めた。どちらにしろ、それはもうないのだから。
クライスが悪役になる必要は、ない。
所変わって。ティスは机との睨めっこを、ようやく終えた。
「出来た、父様へのご報告の手紙」
「ん、報告? 何しているかと思ったらそれか」
イリルは意外そうな顔をして、ティスの前にある紙切れを覗き込んだ。ティスは驚いて、恥ずかしそうにそれを腕で覆い隠す。
「かっ、勝手に覗くな! 言っただろう、ただの報告だと! 別に私情のことなど、書いていないが見るな!」
「……書いてるんだな」
わたわたと慌てるティスを見て、イリルは苦笑した。
貴族達に一室ずつ与えられた仮部屋の机に向かっているティスとは反対に、シェウリはソファーの上で寝ていた。窓が開いている上に薄着であったため、心配になったのかクリスナがその上に毛布を掛ける。シェウリは少し唸ると、その毛布を掴んで顔の半分までかぶせた。
それを見てクリスナは少し笑った。慈悲に富んだ笑みだった。
「シェウリ様、最近よく寝るな。夜、眠れないんだろうか」
イリルはその様子を見守りながら、ティスに話しかけた。だが、返事は返ってこなかった。
ティス、と再び名を呼ぶと彼はシェウリから視線を離し、イリルに振り向く。すまないと一言謝罪し、そのまま立ち上がって荷物を漁った。
何の関与もせず見守っていると、彼は荷物の中から一つの鳥籠を取り出した。銀の装飾が施されている鳥籠が重いのか、危ない足取りで机へ向かおうとするティスを見かねて彼は鳥籠を持ってやる。
中を覗くと、そこには蒼い首輪をつけた一匹の鳩がいた。
「……陛下の鳩か。もしかしなくても今から伝書鳩で手紙を届けさせるのか」
ティスは鳩を鳥籠から出して、足に付けられた茶色の筒の中に手紙を入れた。そして、最初から開けておいた窓から鳥を羽ばたかせる。
「――よし、これでいい。ところで今何時だ?」
「え、ああ。……正午ちょっと過ぎ。もうすぐ昼食会だから、今から準備しはじめた方がいいな」
そうかと頷くと、彼は窓を閉めた。それから眠りについていたシェウリを優しく起こすと、荷物の中から放り出したままのしわくちゃの上着の代わりを取り出して着るように言う。
未だ思考の半分は夢の中のシェウリをクリスナは軽く一回叩いて、毛布をその手の中から取り上げた。あうー、とシェウリは毛布を取り返そうとするがそれは叶わず、渋々ティスから言われていた通り上着を着た。
顔を洗い、完全に目覚めたシェウリは憂鬱そうにソファーに座り込む。また寝る気は無いようだ。
「シェウリ様ぁ、そんなゆーうつそうな顔しないでよぉ。気が滅入っちゃうよー」
「……誰の? 君の?」
シェウリの疑問に、クリスナは迷う事無く答えた。
「うん、ぼくらの。そんな顔をされたら、殿下が悲しむから。だから、だよ」
彼は笑った。その笑顔はまるで陽だまりのように温かいと、シェウリは一瞬だけ思った。返答の疑問に気がついて眉を顰める。そして言った。
「お兄ちゃんが悲しむはずないよ。だって、僕は要らないものだもの」
何の未練も無いとでも言うように、軽々しく言葉を言い放った。イリルはその言葉に静かに驚愕し、悲しむはずがないと言われた人物は哀しそうに目を伏せた。クリスナは驚愕する事も、目を伏せもしなかった。ただ、寂しそうにその言葉を呟いた。
「シェウリ様は、殿下のことが、嫌いなの?」
答えようとして、シェウリの言葉は紡がれなかった。ノックの音がする。ティスが開いていると言うと、外の人物は扉を開けた。この建物に勤める執事だ。
「ティスウィンリーク殿下、シェウリディス様、昼食会の御時間に御座います。早々に御来場戴きたく申します」
「分かった、すぐに赴こう。下がれ、案内は要らない」
言われたとおりに執事は下がった。扉も音を立てないように気をつけたのか、あまりしなかった。
「行くぞ、シェウリ。もたもたしている時間は無い様だ」
「……分かってる、分かってるよ」
あーあ、と残念そうに言って、シェウリはのろのろと立ち上がった。一回背伸びをして、扉を開けて出て行こうとする兄に従う。
イリル達も王子達の姿を見失う前にその部屋を去った。鍵を持って出る事も、鍵を閉める事も忘れない。腹の虫を鳴かせたクリスナに一言注意して、軽く頭を叩いた。子供みたいに声を上げた彼を見て、小さく溜め息を吐いた。
――結局、昼食会でも会話は少なく、大した進展は無かった。
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騎士と王子、城に勤める者たちが織り成す、願いと思惑の物語。
第一章のⅡ-5です。