No.206123

水を染みこませることに関して

高宮さん

あんたの無意味な人生にも、もっと意味もたせなきゃ

2011-03-12 00:18:42 投稿 / 全2ページ    総閲覧数:302   閲覧ユーザー数:300

白く透き通った午前の空気が暖かい日差しと混ざり合っている。

三月のこの街は、春を迎えつつあるその表情に彩られていた。家庭菜園の植物は芽をつけ、花々も蕾の色を満たしつつある。庭の梅の花は咲き誇りはじめており、その高潔な純白が凛とした姿かたちを露にしていた。

ハウスの中で、彼は土にまみれ、ただひたすらに農作業に勤しんでいた。農作業といっても大したものではない。今、彼がやっているのは土に水を撒くだけの簡単な内容だ。手にはホースにつながれたシャワーから水が勢いよく撒かれ、それはハウスの中に所狭しと並ぶ数百もの園芸用の土の入った黒いポリ容器に向かっていた。

「土に溢れるくらい水を染み込ませろ。たっぷり水を染み込ませた後、種を撒く」

先ほど、彼の父親にそう説明され、彼はその言葉をぼんやりと反芻していた。彼の目はどこか空ろだったが、それは春の陽気のせいではないようだった。暖かい春の陽気に当てられて、孟浩然の詩のごとく春眠暁を覚えずというわけではなく、その空虚さは彼の内側より出でているように見えるものだった。錆びきった金属バケツの中にある腐臭のする水のような、頼りなく淀んだものが彼の目より湧き出ているかのようだった。

彼は父親に言われたとおりに水を満遍なくそして充分すぎるほどに撒いていた。手元に水を撒くのは容易だったが、奥のほうになると水の勢いがどうしても拡散しがちになる。しかし、土はその色の暗度を持ち始めており、一見すると水が染みているように見えた。

彼もそれを見て大丈夫だと思ったようだった。そうして作業を続けていくと、一通り全ての土に水がいきわたったことになった。

「終わったのか?」

彼の父親がハウスに入ってきてそう訊ねた。

「ああ」

彼は短くそう返した。

父親は一通り土の様子を見て、彼の子どもを見た。

「なら水を止めてくる。お前はその辺に適当に水を撒いておけ。水が止まったらそこにあるバケツの中に先を入れろ」

「わかった」

父親はそう言うと、ハウスを出て行った。

彼は言われたとおり、ぼんやりと水を撒き始める。細かい水の粒子がスクリーンとなって太陽の光を透過させる。そこに現れるのは七色の曲線だった。

(あぁ、きれいだな…)

彼はその七色の弓を見て、そう思った。しかし彼の雰囲気は変わるものではなく、虹が陰鬱たるそれを少しでも紛らわすこともなかった。ただ湧き上がるそれは、どうしようもなく彼の本質に起因しているものだった。

不意に水が止まった。水のスクリーンは消えうせ、虹は彼の視界より姿を消した。彼はため息を一つつくと、父親に言われたとおりに後片付けをした。

「おい」

父親が再び姿を現し、片づけをしていた彼に話しかける。

「そろそろ飯だ。いったん戻れ」

力強い父親の語気に対し、彼はぼんやりとした微笑で応えた。

二人で家に戻るため歩き始めた。その途中に

「夕方になったらもう一回撒くからな」

父親がそう言った。

彼より身長は低いが筋肉質な父親の背中を眺めながら、彼は父親に調子を合わせるように歩いていた。

夕方になった。父親がポリの苗袋に指を突っ込み

「だめだ」

と、一言言った。どこか厳かな男性的な視線が彼の息子に向けられる。

「お前も指を突っ込んでみろ」

彼はそう言った。彼が指し示す苗袋は、彼の息子が水を撒いた奥のほうのものだった。

水を午前中に撒いた彼は、言われたとおり奥に回って土に触れた。

「あ…」

「どうなってる?」

「乾いている…」

彼が午前中に水を撒いたものの一部は、表面のみに水がかかっただけで、奥のほうにはまったく染みていなかった。それどころか、温度の高いハウスの中でその水気も蒸発してしまっていた。つまりその土に変化をもたらすことは一切なかったのだった。

「奥のほうは水が届きにくいから仕方ないが、これではだめだ。しっかり水を染みこませないと」

彼の父親がそう言う。彼は続けて説明する。

「朝夕で水を2回分けて染みこませるのは土全体に水を行き渡らせるためだ。その後種を撒き育てないといけない」

「なるほど」

「表面だけでは意味がない」

「…ごめんなさい」

彼は素直に謝った。夕方の水やりはそこを反省し、彼は水の届きにくい奥にも確認しながら水を含ませていった。

それゆえに時間もかかった。しつこいほどが丁度いいその水の量を行き渡らせ、慎重に水まきを行っていった。

水まきが終わり、彼は父親に話しかけた。

「なぁ、父さん。もしも夕方もあのまま表面だけだったら…」

「水は蒸発してだめになってた」

「そうだね…。奥まで染み渡らせないといけないんだよね」

「そうだ。表面だけ変わってもいずれ近いうちに元に戻る。それでは意味がない」

「うん…」

辺りはすっかり夕暮れ時になっていた。赤い日差しがハウスの中に入ってきており、年輪を重ねた父親の顔つきには、力強い重厚な影があった。彼は作業着から煙草を取り出し、慣れた手つきで火をつける。マイルドセブンの匂いと煙が彼の周りに渦巻いた。

「まぁ、慣れだ」

こざっぱりとした笑顔を見せ、父親はそういった。

「そうだね」

彼はそう返した。

仕事を終え、二人で家に歩いて帰りはじめる。不意に彼は

「半端は、ダメだ」

そう誰に言うわけではなく呟いたのだった。


 
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