「……兄さん」
言って霜雪が立ち上がり、閉まっている方の障子をがらりと開けた。それと同時に薄暗い部屋の中にも光が差し込み、立ち込める重たい空気をさぁっと洗い流して行く。
雷封は、庭に足を投げ出すような格好で縁側に腰掛けていた。傍らには、彼の得物である不思議な形をした錫杖が立てかけてある。履き物を履いたままだというのを見ると、家に上がらず勝手に庭に入り込んだのだろう。呆れたような二人の顔を見、彼は弁解するようにひらひらと手を振った。
「あのな、勘違いすンなよ。俺はきちンと断ってだな……」
「じゃあ何だって庭からなど入って来るのです。きちんと断ったなら堂々と上がって来たら良いじゃありませんか」
「きちンと……てーかねェ。正確には、断ろうと努力した、ってェところなんだよなァ」
苦笑いを浮かべて雷封が言う。だがすぐに笑いを引っ込めると真顔になってこう言った。
「ここの兄弟、見事に兄弟仲よろしく無いンだろ」
まァ、仮にも村長の弟が、鬼と仲良くしてるなンてのはあンまり嬉しいこっちゃアねェんだろうけどよ、と面白く無さそうな口調で続け。
「あの二人、顔を合わせたって何の話もしやしねェ。まァ見た感じ、弟の方が聞く耳持たねェ話もしねェって意地張ってる感じだったけどなァ。ま、好きにしてくれって言われたンで、好きにさせてもらったのさ」
「つまり。取り合ってもらえなかったと」
「そ。身も蓋もねェ言い方すりゃアな」
そこで一度、会話が途切れた。雷封が、手入れのあまり行き届いていない庭を見つめて口を閉ざしたからだ。
また沈黙が訪れ、重たい空気が立ち込めそうになった時。二人に背を向け、正面にある庭を見つめたまま雷封がぽつりと言った。
「……この仕事。手ェ引かねェか?」
「……え?」
けして、大きな声で言った訳でも強い口調で言った訳でも無い。それなのに、その台詞はやけにはっきりと響いて草雲の耳に届く。
「どういう、意味です」
草雲が問い掛けるよりも早く。霜雪が厳しい口調で問う。
「どういう意味も何も。そのまンまの意味だよ」
俺達が関わって、何が出来ると思うよ。
「――なァ、先生?」
「……え? わ、私ですか?」
何となく、傍観する気分で聞いていた草雲は思いもよらず話を振られ、返事に窮した。
「俺はさァ。鬼退治だって聞いたから引き受けたンだ。それが、蓋を開けてみたらすっきり大暴れ出来そうな鬼なんか何処にもいねェじゃねェかよ。いねェモンは、俺がどれだけ優秀だって退治なんか出来やしねェぞ」
話を聞く限りじゃア。
俺達がどうこうする事じゃアねェだろ。
「兄さんは、どの程度まで話を知っているのです?」
固い、声。思わずびくりとする。だが雷封は、そんな弟の声も態度も慣れているのか、普段通りのやる気があるのか無いのか分からない、のらりくらりとした態度で言葉を返した。
「さァねェ。だけどな、沙雪から聞いた話と、凶暴な鬼なんざ何処にもいねェって事実。沙雪と仲が良い青戸珪吾が赤月村村長の弟だって事。そんだけ揃ってりゃア、十分じゃねェか?」
「沙雪から、一体何を聞いたのです。彼女は、昔の事は覚えていないのでは無いのですか?」
「ああ。そう、言ってたなァ。気がついたら、ここに居たンだって。名前も分からなければ、何をしていたのかも分からねェ。だけど、何となく居心地が良かったンだと。ここに居たら、何かを思い出す事が出来るンじゃねェかと」
……名前聞かれるの久しぶりって言ったの……嘘なの。
「そんな。そんな都合の良い事が」
吐き捨てるような霜雪の台詞。ちくりと微妙な違和感を覚え、草雲は「おや?」と首を傾げた。まるで、そんな事など有り得ないと悟り切っているような、感情的な言い方だったからだ。
「そう。まるで作り話みてェに都合の良い事だァな。でも、起きちまったンだよ、これが」
――沙雪?
沙雪、だよね?
ものの見事に、青戸珪吾と鉢合わせちまったのさァ、と少しだけ哀しそうな声で言い、錫杖を持って立ち上がった。しゃん、という澄んだ音が草雲の耳をくすぐる。
「そのお陰でさ。他にも色々、思い出しかかってるみてェだぜ。一体何があって沙雪が記憶を無くしたのかは知らねェが、今まで生きて来た証を忘れちまうぐらいの何かが起こったって事だけは確かなンだ――」
そこで赤毛の青年は唐突に言葉を切った。二人に背を向けたままだから、表情は見えない。
――ま。
俺が仕入れて来た話はこのぐらいさ、と青年はさらりと言い、くるりと振り返った。すっかり見慣れた、人を小馬鹿にしているような表情がそこには浮かんでいる。庭に立ち、己の髪の色よりも深い、まるで血のような色をしている二つの瞳で二人を見上げていた。一瞬視線が合い、草雲はすぐに目を逸らす。
生まれ付きの色なのだろうからどうしようも無いのだろうが、正直言って草雲は雷封の瞳の色だけはどうしても好きになれないのである。真紅、紅(くれない)、炎、夕日。少し考えればいくらでも比喩の仕様は見つかりそうなものだが、雷封のそれは他のどんな喩えよりも「血のような」という形容詞がしっくりはまってしまうような色なのだ。どうも、不気味な印象が付き纏ってしまい、青年と知り合ってかなり経つはずの今でも彼はその瞳が苦手だった。
草雲がそんな事を考えているとはつゆ知らず。雷封はその赤い瞳で静かに弟を見上げ、「どうするよ」と訊いた。
「その顔じゃア。お前だって、あンまり心境よろしくねェ話でも聞いたンじゃねェか?」
「……心境のよろしく無い話を聞かされるのは、今回だけじゃありませんから」
ちらりと、傍らの草雲に視線を走らせる。
「もう、引き受けた仕事です。引き受けた以上、途中で手を引くなど」
「職務熱心なのは良い事だけどよ。ほら、臨機何たらって言うじゃねェかよ」
「臨機応変、ぐらい覚えておいて下さい。覚えてもいない言葉を使おうとしたって、意味なんて伝わりませんよ」
「いンだよ。俺が分かってりゃア」
「兄さんはともかく。一緒に居る私達が恥ずかしいです」
ねぇ、草雲さん? と少年に同意を求められ。どうしたものかと考えながら「ええ、はい、まぁ」と曖昧な返事を返した。それを聞いて雷封が、大袈裟に肩を落とす。さも、傷ついたと言わんばかりだ。
そんな兄に向かって追い討ちをかけるように。霜雪ははっきりと言い切った。
「ともかく。仕事は降りません。関わるだけ関わって今更手を引くなど、出来ない相談でしょう」
睨んでいると言っても過言では無い程の、きつい視線で真っ直ぐに雷封を見ている。この少年がこんな風に感情を表に出す事は珍しい。どうも、ここに来てからというもの、少年の知らなかった面を見る羽目になっているな、と草雲は思った。そして、それは一体何故なのだろうと色々思考を巡らせる。
「……俺はあンまり、気が乗らねェんだけどなァ」
二、三分の沈黙の後。呻く様に呟いた雷封。その小さな呟きの中には、切実な諦めの響きが聞いて取れた。
――ま、しょうがねェ。
「で? 一体如何する気だよ。そこまで拘るからには、何か良い秘策でもあるンだろうな」
「悪い秘策なんてものはそもそも存在しませんよ。まぁ……考えは、あります」
とりあえず、ここを出ましょう、と霜雪は続け。二人の返事を待たずに表戸へと向かった。
「……考え、ねェ」
「何を、考えているのでしょうか」
「さァ……?」
苦笑を浮かべて顔を見合わせ。
残された二人も、霜雪の後を追ったのだった。
それから、程なくして村は茜色の見事な夕焼けに染まり。
「ホンの少しの辛抱だ」
――ホントに、良いンだな?
念を押すようにゆっくりと噛んで含めるように訊かれた問い。
その問いに、躊躇いもせず返事を返す。
あたいはね。
あたいは、それで構わないよ。
「だってもう、この世界に未練なんてありゃしないから」
赤月村には夜の帳(とばり)が下り。夕闇が村を覆い隠す時刻。
霜雪と共に青戸珪宋が駆けつけた時にはもう、全てが終わった後だった。二人がやって来た事に気がつき、黒い着物の青年がふと振り向く。その小さな動作で青年の胸元に下げられている鈴が揺れ、ちりんと澄んだ音を響かせた。
彼の足下には。
血を流して倒れている幼い少女の姿。
――沙雪。
「後味悪ィ仕事は全部俺の分担かよ」
青年が、低いがよく通る声で霜雪に向かって呟く。彼が左手に持っている、先が互い違いに交差しているという特徴的な形をした錫杖。その先に赤黒い何かが付いているのが目に入り、珪宋は無意識の内に視線を逸らしていた。
地面の上にも。
転々と。
「おや。面白そうだから鬼退治をしたいと言ったのは、兄さんの方じゃありませんか」
「まァな――」
準備運動にもなりゃアしなかったけどよ。
あっさりとそう言い捨て、珪宋を正面から見据えた。ぞくりと、何とも形容し難い寒気が珪宋を襲う。
「さァ。お望みどおり、鬼は始末してやったぜ。これで、満足か?」
「兄さん」
咎める様な響きを持った短い台詞。それを聞き、雷封はちッと小さく舌打ちをしたがとりあえずは口を閉ざした。だが、虫の居所が悪いのは誰の目にも明らかだっただろう。
恐る恐る。
沙雪へと、視線を戻した。
「……本当に」
一瞬、誰が話しているのかと思った。それが、自分の発した言葉だという事に気が付くまで、しばしの時間を必要とした。
……私は。
祓い屋は、二人とも珪宋の方を見ない。
「本当に、死んだのでしょうか」
自分は一体、何を言っているのだろう。そんな事は、今目の前の状況を見たら一目瞭然ではないか。
霜雪はやれやれと言った風に首を振り、「じゃあ、確かめてみたらどうです?」と言った。
「死人は生き返ったりしません。例え、半分鬼の血が入っていようとそれは同じ事です。死人は何もする事が出来ません。何も、怖い事はありませんよ」
死人は、何も。
――父の、村。
「守り刀なンてなァ……何処にも無かったぜ。沙雪が持ってたなァ、ただの小刀だ。野菜を刈るにも、魚を捌くにも、一人で生活するにゃア欠かせねェだろう」
――からん。
軽い音を立てて地面に転がったそれには、見覚えのある家紋など何処にも無い。変哲の無い、使い込まれた古い小刀だ。
……そんな。
すとん、と膝から力が抜けた。震える手で小刀を拾い上げ、まじまじと見つめる。
――怖いんですよ。
ふ、と笑みが浮かんだ。諦めと後悔の入り混じった、後ろ向きの笑み。
「……私は」
私は一体、何を怖がっていたのでしょうねぇ。
ふふふ、と小さく声を上げて笑いながら。
自分でも気がつかないうちに、珪宋ははらはらと泣いていた。
――ポゥ、と遠くに小さな火が灯った。
それを確認し、草雲は珪吾に悟られないように注意しながらそっと安堵のため息をつく。
上手く、行きましたか。
つ、と横目で珪吾の様子を伺う。少年は、その光を見てはいなかった。両手を固く握り締めて膝に乗せ、ただひたすらに床を睨みつけている。
視線を妖しく揺らめく小さな火へと戻し。今、兄弟が行っているだろう事を考えた。
――計画通りに事が進んだら、青戸の家から小さな火が見えるでしょう。
そう霜雪は言って、彼に珪吾をこの家から出さないようにと頼み、珪宋を伴って家を出たのだった。
山の入り口で雷封が退治し終わったはずの、沙雪の姿を見せる為に。
もちろん、それは本物では無い。予め雷封が式術を使って作り出した型を素に、簡単な幻術を組み合わせて作り出した偽物である。わざわざ、暗くなるのを待って計画を実行したのも、それが偽物だとバレにくくする為にと霜雪が提案した事だった。
ポゥ、と小さな火が一つ増えた。
あの火が灯ったという事は。少なくとも偽物を沙雪だと思わせる事には成功したという事になる。何故ならあの火は、彼女への弔いの火――生を真っ当出来なかった彼女が、今後彷徨い出てくる事が無いようにと、霜雪が仕掛ける結界――封印――の準備であるはずなのだから。
「沙雪は、何で戻って来たんだろう」
独り言のように、珪吾が言った。
「戻って来なけりゃ、こんな事には」
「沙雪さんは、記憶を失っていたのでしょう?そんな状態で、少しでも見覚えがあると感じた場所に居たいと思うのは、当然じゃないでしょうか」
「そう、かな」
「違いますかねぇ」
居心地が良い場所だと彼女は言っていたそうですよ、と草雲は言い口を閉ざした。
この少年は、何も知らないのである。
彼は、兄が知ってしまった事を何一つ、知らない。
沙雪にとって不幸だったのは、彼女の出生の秘密を知ってしまったのが珪吾では無く、珪宋であったという事だろう。知っていたのがもし、兄では無く弟の方であったなら。きっと、そんな事は気にせずに幸せにやっていけたのではないか――。
もし。きっと。
そんな言葉を使わずに生きられる人生を送れたら、どれだけ素晴らしいのでしょうねぇ。
何だって、報酬を辞退しちまうかねェ。
……どう考えたって、割に合わねェ。
そりゃまァ結局。鬼退治なんてしなかった訳だし、やった事といやア「鬼を退治しましたよ」と騙くらかした事だけであるのは確かなんだけどよ。
あれから十日程経った。ねぐらにしている首都外れの廃寺でごろごろとしながら、未だ雷封は先だっての仕事について鬱々と考え込んでいるわけである。普段、あまり根を詰めて仕事をする事の無い彼だけに、終わってしまった仕事にこれだけ拘るのは珍しい事だと言えた。
「……でもやっぱり、納得いかねェ」
ぼそり、と声に出して呟く。不機嫌そのもの、というような口調でぶつぶつごちゃごちゃとまた続けた。
「大体だ。そりゃア、確かに鬼退治はしてないさ。だけど実際、アイツがぬくぬく家の中で茶ァでも飲んでた時にひーこら歩いて沙雪を探したのは俺だぞ? アイツがのんびり村長と散歩みてェに歩いて来る間に式神で仕掛け作ったのだって俺だぞ。芝居とは言え、子供殺すなんて後味悪ィ役までやらせやがったクセに、表向きはどうあれ、依頼内容と違うから報酬は貰えねェだと? じゃア何だよ、俺はタダの骨折り損の草臥れ儲けじゃねェか」
ぶつぶつとぼやいて、雷封は立ち上がった。いくら悩んだってどうしようも無い事を悶々と考えていると、余計に頭に血が昇る。元より、あれやこれやと考えるのは性に合わない質なのだ。
気分転換でもしようと、思いっきり大きく伸びをする。埃っぽい寺に篭りっ放しだったのが悪かったのか骨がごきりと盛大な音を立て、気分転換どころか余計に情けない気持ちになった。
「ら、雷封さん!」
その音を掻き消すように、騒々しく駆け込んで来たのは草雲だった。黒衣の青年があからさまに嫌そうな顔をしたのにも気付かず、草雲は屋内をきょろきょろと見回すと切羽詰った口調で問う。
「霜雪さんは? 霜雪さんは、何処です!?」
「あいつなら、ここにゃアいねェぜ。まァた仕事でもどっかで勝手に請けちまったりしてるンじゃねェか?」
「そ、その、仕事ですよ! 大変な事が分かったんですよ!」
「大変な事ねェ……」
じとーっと半眼で草雲を見つめる。
「また、金にならねェ情報かよ?」
そんな、雷封の皮肉は右の耳から入って左の耳から抜けているようだった。そんな事を言っている場合じゃ無いんです、とさらりと受け流し、草雲はぱらぱらと帳面を捲る。
どうしても、気になって調べてみたんです、と帳面に視線を落としたまま草雲は言った。しばらく捲って、慌しく動いていた手が止まる。
「……沙雪さんの母上を殺したのは、珪宋さん達なんですよ!」
――だってもう、この世界に未練なんてありゃしないから。
その言葉には、嘘は無いはずだった。少なくとも、そう思っていたから口にしたのだ。
それなのに。
時間が経てば経つ程、外の世界が懐かしく感じるのは何故だろう。
――今更?
外の世界では、あたいはめでたく死んだ事になってるってのに。
あの祓い屋が、そう言っていた。自分を始末したように見せかけるのだと。
本当は、そうした後にひっそりと別の土地へ移って欲しいのだと言われた。誰も、知っている人間がいない土地へ移って欲しいと。
もちろん、その言い分は分かり過ぎるほどによく分かる。死んだはずの人間が同じ場所でのうのうと生活していたらまずい。ただ、それだけの事だろう。
分かっていたのに。
何故か、首を縦に振れなかった。
それがどれだけ祓い屋の仕事に支障をきたすか、気がついていないと言えば嘘になる。本当は、自分を退治する為に雇われたはずの彼らが、何故か自分を助けようとしてくれている事も、また。
だけど。
だけど、あたいには。
――ホントに、良いンだな?
あの時の、雷封の問い。その問いに、迷わず首を縦に振ったのだ。もうこの世界に未練など、ありはしないと。
その答えを聞いて。
雷封が、一瞬悲しそうな表情を浮かべたのは何故だろう。
それは、およそ彼には似合わない類の表情ではあったのだけれど。
けれど、そんな似つかわしくない表情を浮かべていたのも一瞬の事。
彼は諦めたようにため息を吐くと、仕掛けを聞いた後でも考え直せるからなと念を押し、気乗りしない調子で話し始めた。
依頼された通り、自分を始末したように見せかけるという事。幻術で自分の死体を作り、その後に彼女がここを離れないという場合はこの周りに結界を張り、他人が入れないようにするという処置を取る予定だという事。
そこまで話し、雷封はもう一度、彼女の意思を確かめた。
「この結界は、そンなに力の強いモンじゃねェ。お前まで出られなくなったら生活していけねェわけだし、あくまでも応急処置的な手段なんだ。だから、何となく嫌な場所だ、ここは避けて通ろう、と他人に思い込ませるぐらいの効力しか無い。お前の出入りを出来るようにするとなると、これ以上強力なモンは仕掛けられねェンだよ」
つまり。
余程ここに思い入れのある人物にゃ効かねェぜ。
雷封は、そう言った。
「やると決めたからにゃア、失敗は出来ねェ。だから、俺個人の意見を言わせてもらえば、この応急処置には頼りたくねェンだが……」
彼にしては珍しく、歯切れの悪い台詞だった。そもそも、自分のこんな言葉一つで沙雪の決心が変わるわけも無いと分かり切っていての意見だったのだろう。
分かり切っていながら口にせざるを得なかったのはきっと、先程、雷封には似つかわしく無い表情を浮かべたのと同じ理由。
そう思ったから。
話す気になったのだろうか。
「……あたいには、この場所しか無いの」
祓い屋から目を逸らし、少し遠くを見るような目で。
「気がついたら、ここにいたの。あたいの知ってる場所は、ここだけなの。ここだけが、懐かしいっていう気持ちが分かる場所で、ここだけが、あたいの――」
――名前を、聞いてくれた人がいた場所で。
「だからここが、あたいの全てなんだ」
それが、雷封を説き伏せた一言だった。
――ここが、あたいの全て。
そのはずなのに。
どんどん外の世界が恋しくて堪らなくなってくるのは、何故?
そんな自分に腹が立ち、手近にあった湯呑みを壁に投げつけた。勢い良く土壁にぶつかった湯飲みはひとたまりも無く粉々に砕け散り、中に残っていた僅かな量の水も一緒に飛び散って沙雪の顔に跳ね返る。
「……水」
聞き覚えのある声が、呟いた。それが自分の声だという事に気がつくまで、少しの時間を必要とする。
声を出す事も少なくなったから、そのうち自分の声も忘れそう。
「水、汲んで来なきゃ」
わざとに声に出して言いながら、彼女は桶を持って家を出た。
この小屋に、井戸は無い。生活に必要不可欠は水は、赤月村にある共同の井戸から汲んで来て使っている。
辺りはすっかり暗くなっている。今なら、誰にも見られずに水を汲んで来る事が出来るだろう。
そう思い水場へと駆けて行く沙雪を、真っ白い満月が見つめていた。
案の定。
彼女は、井戸に辿りつく事が出来なかった。山の入り口付近で男が二人、立ち話をしているのが目に入ったからである。
咄嗟に、小さな身体を脇の茂みの中に隠す。尖った葉が当たって多少チクチクするが、この二人をやり過ごすまでの辛抱だと自分に言い聞かせた。
山の入り口は、自分が退治された事になっている場所である。霜雪が張った結界の境目にもなっている場所でもあり、それを印象付けるかのように小さなお地蔵様が建てられていた。その前には、誰が供えたのか小さな饅頭と真新しい花が几帳面に置かれている。
……あたいが、化けて出無いように、かな。
そんな事を考えて、くすりと笑った。死んでしまっても怖がられるなんてと、何故だか少し滑稽に思えたのだ。
井戸の前の二人組は一向に立ち去る気配を見せない。背の低い方の男がちらりと地蔵へと視線を走らせ、「可哀相になぁ」と聞き取れないほど小さな声で呟いた。
「どうしてあの子は戻って来たんだろうな。戻って来なけりゃ、母親と同じ場所で死ぬ事にもならなかっただろうに」
小さいはずのその言葉は、まるで直接頭の中に届けられたかのように鮮明な響きを持って沙雪の心に突き刺さる。
……え?
――どくん。
今、あの人は何て……?
母様は……。
どくん。
割れるように、頭が痛んだ。身を潜めて隠れながら、がんがんと痛む頭を抱えるようにして耳を塞ぐ。それでも、その声は容赦無く沙雪の耳の中に潜り込んで来た。
「いくら鬼の血が入っていると言ってもなぁ、村長。あんな小さな女の子まで、殺す事は無かったんじゃないのかい? 追放するぐらいで良かったじゃないか」
「今となっては、私もそう思っていますよ。沙雪は、証を持っていなかった。あの時、母親が彼女に持たせたと思ったのですが……」
――どくん。
いや。
「雪華(ゆきか)さん、どうして村長家の宝刀を持ち出すなんて事、したんだろうなぁ。そんな事さえしなけりゃ……あんな事には」
――違う。
一面の、朱。
珪宋が口を開くより早く。
「母様がそんな事したなんて、嘘だ!」
考えるよりも先に、言葉が口をついていた。身を隠していた茂みから勢い良く立ち上がり、一体何が起きたのかと理解出来ないまま動きを止めた二人の男に向かって言葉を叩きつける。
「あの刀は、父様から貰ったんだって母様は言ってた。父様から貰った、大切な宝物だって。だから……ッ」
貴女が、持っていてくれる?
――貴女の父様が残してくれた、唯一の形見ですもの。
目の前が、朱に染まる。
美しい、鮮やかな朱に染まった母。
もう何も映さない、深緑の瞳。
ひゅうひゅうと漏れる耳障りな空気の音と共に、母の口から短い台詞が紡がれる。
――逃げて。
ずきりと、一際深い痛みが走った。
「……父様、だって?」
小男が、どういう事だという疑問を筆頭に色んな質問を貼り付けた顔のまま、珪宋へと顔を向けた。珪宋は男と顔を合わす事もせず、突然現れた少女の姿に釘付けになっている。
そして、話し続ける沙雪も、また。
目の前に立つ男の顔を、穴が開くのではないかと思える程強い視線で睨みつけている。その顔は、沙雪の記憶の中の顔と一致していた。
あの時。
朱に染まった母の、肩越しに見えた顔。
薄ぼんやりとした記憶が、はっきりと形を結ぶ。
――ギリッと。
奥歯が、軋んだ音を立てた。
「どういう事だよ、村長。この子は、死んだはずじゃあ……」
訳が分からないという疑問を顔一杯に貼り付けて、珪宋と沙雪の姿を交互に見やる。珪宋は、そんな小男の姿を見る事もせず、死んだはずだな、と独り言のように呟いた。
「だが、どうやら化けて出てきた、という訳でもなさそうです。しかし、あの時の祓い屋の態度は、依頼に失敗したという感じにも見えませんでしたが……」
……報酬を、受け取る事も、しませんでしたね。
一言一言、自分に言い聞かせるようにゆっくりと言い。
「狂言ですか」
結論を出した珪宋の顔は、何故か穏やかだった。
「生きていてくれて嬉しいですよ、沙雪。私はね、お前が死んだと聞かされても、お前の死体を目にしても何故だか心は晴れないままでした。私を縛り付けてきた父の影も、お前の母親の影も、消える事が無かったんです。……何故だか、分かりますか?」
「……村長?」
父の時は、最期を看取り。
雪華の時は、自分のこの手で。
「お前だけが、最期をこの手で感じていないからですよ。本当に死んだのかどうか、確かめられなかったからですよ。……確かにお前は死んだはずだと、自分に言い聞かせなかった日はありません。実感の沸かない恐怖。形の見えないものが一体どれほど恐ろしいものか」
だから。
こうして、姿を見る事が出来て、嬉しいのです。
そう言った年若い村長の声は、本当に嬉しそうだった。小男が、小さく喉を鳴らして後ずさる。
「……それなら、何でわざわざ人を雇ったりしたんだよ。最初っから、自分であたいを殺しに来たら良かったじゃないか」
驚くほど静かな口調で沙雪が問う。その問いに珪宋は小首をかしげ、苦笑を浮かべて見せた。
「そうなんですよ。今となっては私もそう思うのですが。ですがやはり、一人も二人も一緒、というわけにはいかなかったのでしょうね」
それは、瞬きする間も無い程短い、刹那の時間。
二人からそろそろと離れていた小男の目からは、まるで他人事のように話す珪宋に向かって沙雪が軽く手を振っただけのように見えた。
――たった、それだけ。
珪宋の身体が、ゆらりと揺れた。
身体は、前の方向へ。
そして、首だけが後ろの方へ。
どさりと。
とさりと。
恐怖も痛みも無く。先程の苦笑を浮かべたままの村長の目と、視線が合った。
「……ひッ……!」
悲鳴を上げる事も出来ず、しゃくり上げたような音だけがかろうじて喉を鳴らした。すぅっと通り過ぎて行った風が、生臭い匂いを運んで彼の身体に纏わり付かせて行く。
振り払いたいのに、両足が根を下ろしてしまったかのように動かない。
「……最初から自分で来てりゃ、もっと早くにこうなってたのに」
その静かな声に小男は、びくんとして顔を上げた。沙雪は自分の身体程もある大きな太刀を地面に突き刺し、静かに珪宋を見下ろしている。そのあまりに不釣合いな大きさに、彼女があの太刀で村長を斬ったのだ、という答えに達するまで彼は少しの時間を必要とした。
そんな事を考えている時間があるのなら、必死になってこの場を離れる努力をするべきだったと気付かされるのは、ほんの少しだけ後の事である。そうしていたなら、彼がまだその場にいる事に気が付いた沙雪が何かを言おうとする事も、そんな沙雪に向かって小男が思わず、彼女の心を粉々に砕いてしまう力を持った一言を呟く事も無かったのだろう。
それも多分、瞬きする間も無い程短い、刹那の時間。
白い月明かりに照らされ、朱に染まった少女の姿を見て、彼は言ってしまったのだ。
「……鬼」
――きりりと。
沙雪の心が軋んだ音を立てた。
鬼の子は鬼だって。
化け物の子は化け物だって。
皆が、そう言うなら。
――お望み通り、なってあげるよ。
ざんッ。
嗚呼、思ったよりも、ずっと簡単。
沙雪の手に握られているのは雷封と対峙した時に見せた、小さな彼女には不釣合いな程大きな太刀だった。鬼と人の混血であるが故、血の薄い彼女が持つ鬼としての唯一つの力。それが、魔力を結集させて作り出したこの巨大な太刀をも軽々と操る事が出来る、馬鹿力。
その力のままに、太刀を振るう。力任せで大振りなその太刀筋は、相変わらず滅茶苦茶なままだ。だが、戦う術を持たない村人達にはそれで十分なのである。
ごつッと固い感触が腕に伝わる。眉をしかめて動きの止まった太刀の先を見た。
得物は人間の胴体に食い込み、半分程の所で止まっている。脇腹から太刀を生やしたまま、その人間はびっくりしたように目を見開き、自分の腹から生えた太刀を当たり前のように、見た。
「……え?」
名前を呼ぶ事も出来ず。
それが、最期の言葉。
太刀を持つ手に力を入れる。ただそれだけの動作で、まるで人形を切断するように簡単に村人の胴体が半身毎に泣き別れ、ぬるりとした生温かいモノが少女の小さな身体を濡らした。
不思議そうな表情を浮かべたまま。
上半身だけの身体で、珪吾は彼女を見つめていた。
否、見上げてはいるが、その瞳は彼女を映してはいない。その瞳はすでに、何かを映すという本来の機能を失ってしまっている。
まだ、瑞々しさを保っている所為か、何も映さないソレは奇妙な宝石のように美しかった。
それはあの時の、母の瞳と一緒で。
「――なぁんだ」
こうなっちゃったら、オニもヒトも一緒じゃない。
じゃあ皆、母様と一緒になっちゃえば良い――。
――ふふっ。
自分が笑みを浮かべていると気付かぬまま。
全身を朱に染めて、白い少女は死を招く巨大な得物を振り下ろした。
ヒラヒラ、ヒラリ。
そこはもう、村では無かった。
かつて村だった場所。村が存在した場所。つまりは、廃墟となっていたのである。
その廃墟の中に、転々と転がる村人の身体。人という生命体の一部であったという事すら想像出来ないようなモノと化してしまった部品からそれなりに人としての原型を留めているモノまで様々ではあるが、それらは皆一様に恐怖や後悔と言った負の感情を染み付かせて転がっていた。これから先、二度と命の火を灯す事が無いであろうそれはもう、廃墟の中に転がる瓦礫と同一のモノでしか無い。生きている人間が居て、住むべき場所があって。生活があって初めてその場所は村となる。ここにはもう、その僅か一つも感じる事は出来なかった。
ほんの一月も経たない間に。
赤月村は、村を構成する物全てを失って崩壊していた。その惨状を見て、草雲が声にならない声を上げ、その場にへたり込む。
「……霜雪。これが、お前のやった事の結果だよ」
低く、押し殺したような雷封の声。そんな彼の声を、これまで草雲は聞いた事が無かった。
その声に引き摺られるかのように、彼は黒い法衣の式術師を見上げる。
式術師は、とても厳しい顔をしていた。
「俺達が関わるべきじゃア無かったンだ。途中で、手を引くべきだったンだよ」
血の繋がらない兄の、何処か哀しげな声を聞きながら。
霜雪はぼぉっと一点を見つめ、立ち尽くしていた。
悔しいが。
兄の言う事は、正しかったのだ。
話を聞き、全てを理解したところで手を引くべきだったのだ。
『村』という組織の中に、無理に手を加えるべきでは無かったのだ。
「でもこれが、沙雪のやった事だとは――」
我ながら、らしくない反論だと思った。否、反論では無い。これは、ただの言い訳だ。
こんな事。
村を一つ壊してしまうなどと言う事が、あの少女以外に誰が行える。
あの――。
鬼の血を引く少女以外に、誰が。
言い訳だと、解っているから。
霜雪は、言葉を最後まで口にする事が出来なかった。雷封もまた、最後まで言わせる事はしなかった。
草雲は。
そんな二人の歳若い祓い屋を、ただ黙って見つめている事しか出来なかった。
彼が知る限り。是ほど完璧に兄弟が仕事に失敗したのは、初めての事である。今まで、多少計画通りに行かなかった事があれど、臨機応変で対応し、結果的には成功を収めてきたのだ。
――だからこそ。
そんな二人を見ていたからこそ、草雲も簡単に二人に話を持ちかけたりしたのだろう。心の何処かで、失敗するはずが無い、と思い込んでしまっていたから。
ちりん、と。
雷封の法衣に結わえ付けられている小さな鈴が、鳴った。
そんな小さな音を合図にしたかのように。
その場から動けない二人を尻目に、雷封は村の中を見て回った。普段軽口を叩いている彼からは想像もつかないような厳しい表情を崩さないまま、あちらこちらを確認して回る。
……ふと。
彼の動きが、止まった。
何かを拾おうとでもしたのだろうか。すっと地面に手を伸ばしかけ、そして止める。
「……僕は」
呟くような霜雪の声。村だったものの惨状から目を逸らし、すぐ下の地面を見つめながら、少年は続ける。
「私は、どうしたら良かったのです? 私は、沙雪を助けたかった」
――だから、あんな芝居まで打ったのに。
「良かれと思ってやった事が裏目に出る事はある。そんな事は良くある事です。……でも。……でもッ」
「人の心が絡んじまえばさ。それを一から十まで読み切るなんて事、到底出来やしねェんだ。そんな事を考えるのは――傲慢だよ」
雷封の言う事は正論だ。確かに、人が人の心を読み切るなんて事が出来るわけが無い。人が、人である限りは。
だからこそ。
人の世を生きていくのは、難しいのだ。
「……全く」
――季節外れの、桜が咲いちまったなァ、と雷封は呟いて。
「それじゃア」
――鬼退治と、行きますか。
ちりん。
冷たい、鈴の音が鳴った。
何処からどう、狂ったのだろう。
「あたいはさ」
――やっぱり、鬼だったんだ。
小さく呟いたはずの言葉。それでも、誰もいないこの家の中では十分過ぎる程に響いて自分の耳に届いた。
分かっていた、はずなのに、さ。
「……鬼ってなんなんだよ。人間ってなんなんだよ……ッ。あたいは、どうして」
――生まれて来ちまったんだろう。
まだ、両手に感触が残っている。
肉を斬る嫌な感触も。骨を断つ硬い感触も。
頭の片隅に色鮮やかに残る、人々の、恐怖を貼り付けた表情。もう、耳にしたくない様々な、音。身体に染み付いて離れない、むせ返るような血の匂い。
そして、珪吾の、不思議そうな色を一杯浮かべた、あの、瞳。
人形のように地面に横たわっても、その色だけはずっと消えなかった、あの瞳。
――どうして。
何で、あんたは――。
「……何も、知らなかったからさ。お前が妹なんだと知っていたのは、兄貴の珪宋唯一人――。村人も珪吾も、何も知らされちゃアいなかったンだ」
外から聞こえて来た声は、初めて対峙した時に聞いた様な感情の感じられない冷たい声だった。
「雷封――。あたい、何で生まれて来ちまったんだろう。どうして、生き残っちゃったんだろう。どうして母様(かかさま)はあたいを」
――置いて、いっちゃったんだろう。
「あたいは、母様にも、捨てられたんだね」
まさか、と、外の声は言った。
「捨てるつもりなら、お前が生きようが死のうが気にかけやしねェだろう。それなら一緒に死んだって同じ事。そうさせず、お前を逃がしたのは一体何の為だよ? 命を懸けてお前を逃がしたのは、一体何の為なンだよ?」
言っている台詞とは裏腹に、感情の感じられない凍りついたような口調のままだ。もしかしたら、声と口調が似ているというだけで、雷封では無い人物が話しているのでは無いかと思う程、普段の彼とは印象が違う。
分からねェなら分からねェで良い。分かりたくねェならそれはそれで構わねェ。
どっちにしろ――
俺にゃア関係のねェ事だ。
そんな言葉が聞こえて。
きゅっと両手を握り締めた。何だか、無性に怖くなったのだ。
だって、雷封の仕事は――。
――理由も分からねェで退治すンの、嫌いなんだよ。
結局、祓い屋なんだ。
結局、あたいが鬼だったのと、同じように。
――鬼退治と、行きますか。
草雲には、その言葉の真意が未だに分かりかねていた。霜雪が口を出さないところを見ると、どうやら彼にも兄の考えている事がはっきり見えて来ないのだろう。いくら自分の失敗にショックを受けているとはいえ、それをあからさまに仕事に持ち込む程、彼は素人では無いのだから。
失敗の、後始末。
もしかしたら、そういう事なのだろうか。
……だけど。
そんな事。
納得が行く、はずが無いではないか。
「……退治するのは、気が乗らなかったんじゃ無かったのですか」
雷封の背中を見つめながら、思わず口をついて出た言葉。それを耳聡く聞きつけた霜雪が、諦めたように小さく首を横に振る。
――しょうが、ありませんよ。
呟いた霜雪を一瞬咎めるような視線で見、草雲は何か言いたそうに口を開いたが言いたい事が纏まらなかったのか、何も言わずに口を閉ざした。どうやら霜雪が、わざとに彼の耳に入るように呟いたという事には気が付かなかったらしい。
――確かに、ね。
一体、どうするつもりなんです?
確かに雷封は、この仕事自体に乗り気では無かった。だがそれは言わばいつもの事であり、別段気にする程の事では無いと霜雪は思う。そもそも雷封は、仕事というモノが嫌いな質なのだ。
それでも時々、兄の行動が分からなくなる。普段なら兄の単純な行動を読み切る事など、いくらでも出来る。何処でどれだけ散財しているのかも、そのお陰で詐欺紛いの副業をしている事も。
だが時々。
兄のそう言った単純な行動は、わざとにやっているのではないかとそう思う事があるのだ。自分はそういう人間なんだと、わざとにそう見せようとしているのではないのかと。
何故、彼がそんな事をする必要があるのかと問われれば、霜雪自体解らないと答えるしか無い。ただ、血の繋がらない兄が時折見せる、別人のような冷たい一面を見ていると何となくそう感じるのだ。本当の雷封という人物は、こちらなのでは無いのかと。
今だって。
抑揚の無い声で、沙雪に話しかけている兄の背中を見上げる。いつもの見慣れた黒い法衣。左手に携えているのは、独特の形をした錫杖。
見慣れ過ぎた背中。
真意の見えない背中。
背中を見慣れ過ぎているという事が、悔しかった。結局いつも、助けられているような気がしてどうしようも無く、悔しかった。
どうするつもりなのか、明かさないという事。
つまりそれは、何があっても責任を一人で負うという事だ。
それが、共に信頼して仕事をしている事になるのだろうか。
……何か、違うような気が、していた。
雷封の、やけに淡々とした声だけが辺りに響く。
「沙雪。俺はさ。鬼を、どうにかする為にここに来たンだ」
――分かるよな?
そう言って言葉を切ると、小さな縁側へ腰掛けた。変わった形をした錫杖を抱き抱える様に腕を組む。
「面倒くせェのは嫌いだから単刀直入に言うぞ」
沙雪は聞いているのかいないのか。家の中に居るのかどうかも判断がつかない程、家の中は静かで人の気配がしない。だから、雷封の言葉は誰かに語りかけているというより独白に近いものに見える。
多少言葉を交わしただけで、一度も姿を見ていない。それでも雷封は構わず次の言葉を口にした。
「俺の式になンねェか?」
ちりんと、小さな鈴の音が響く。
「ちょ、一寸待って下さい!」
兄の言った台詞を聞いて、霜雪は思わず声を上げてしまった。
式にする。
――それは。
「全ての責任を被るつもりですか」
沙雪を式にすれば、当然契約者である雷封にも責任が及ぶ。沙雪が村を壊滅させた後に結んだ契約だとしても、事の成り行きを全て知った上で結ぶ契約なのだから。
「なァにおっかねェ顔してンのよ。そンな難しい話じゃねェって」
先程までの無表情な雷封は何処へやら。ひらひらと手を振ってみせる。その仕草は、霜雪が見慣れている血の繋がらないいつもの兄そのものだ。
「お前だって、沙雪を助けたかったからあんな無茶な事したンじゃねェか」
「……それとこれとは話が違います」
「どう違うってのよ。同じ事だろ。お前だって、沙雪を殺したいわけじゃねェンだろが」
さらりと恐ろしい事を言い。
「それとも何。お前、沙雪がついてくンの、嫌なわけ?」
「そうじゃなくて……」
「じゃア問題ねェんじゃないの。ンなわけで、こっちは問題無いわけよ。どうする、沙雪? 後はお前次第だぜ?」
こんなとこにいねェでさ。俺達と一緒に過ごさねェか?
――それはきっと、優しいコトバ。
そしてとても、残酷なコトバ。
「……式にするって、一体どういう意味なんです?」
ぽわんとした顔で質問をして来た草雲に吐き捨てるような強い口調で答えてしまったのは、兄が言っている事がどれだけ非常識な事かが分かっているからなのだろうか。
「どういう意味も何も。そのままの意味ですよ」
「式として使役するって意味で良いのですか? でも、人間も使役出来るものなんですかね」
「もちろん、出来ませんよ。ですが、沙雪は半人半鬼です。人として生きる道を捨てるなら、契約を結ぶ事も可能でしょうね」
「……そんな」
言葉を無くした草雲から目を逸らし、兄を見る。
――兄さんの方が、余程無茶な事を言っているじゃないですか。
声に出さず、一人ごちる。
一体、これの何処が鬼退治だと言うのです。
鬼として生きろと、言っているようなものじゃないですか。
もちろん、霜雪だって沙雪を助けたくないわけでは無い。悔しいが、それは先程兄に指摘された通りである。このまま彼女を放っておけば、それこそ噂を聞きつけた退治屋だか祓い屋だかに退治という名目で殺されてしまうだろう。
だが、それでも。
それこそ、他の方法があるように思える。わざわざこんな方法を取らずとも。
草雲に言ったように、沙雪の鬼としての部分と契約を結び、式として使役する事は理論上は可能である。可能ではあるが、残った人としての部分が術者にどのように作用するかは未知数であり、力の大部分を封印されたままの状態でどれだけ受け止められるのかは不安なところである。そもそも、海を隔てた遠い異国の地では召喚術と呼ばれる術に酷似している妖そのものとの契約自体が、術者が自らの術力を注いで作り出す擬似的な亜精霊を扱うのとは比較にならない程の精神力を必要とし、術者に負担をかけるものなのだ。
何故、そこまでして。
どれだけ考えても結局、兄の真意は見えて来ない。
ヒトとして生きる道を捨てるなら。
聞こえてしまったその言葉。
どれだけ確り耳を塞いだつもりでも届いてしまうのは、心の何処かで聞きたいと願っている自分がいるからなのだろう。
――それはつまり。
一緒に居たいと願う自分が、確かに存在しているという事。
それでも、いい。
それだけで、いい。
――ガタリ。
立て付けの悪い音を立てて開いた襖の間から。
まるで、初めて笑う事を許されたような、自信の無い笑顔を浮かべて。
「よ。元気?」
相変わらず、意地悪に口の端を持ち上げて言った台詞。
「……元気に、見えるの?」
「いンや。全ッ然」
「やっぱりアンタって、どうしようも無くムカつくよね!」
「そりゃ、どうも」
にまっとした笑みを浮かべながら、心底嬉しそうに言ったその台詞を聞いて。
沙雪は、自分の頬を熱いものが伝って落ちるのを感じ。
自分は今、泣いているのだと自覚するよりも早く、顔をくしゃくしゃにして思い切り雷封に抱きついていた。
――ヒラヒラ、ヒラリ。
「……雷封。あたいは、思い出したくなんて、無かったんだ。思い出を忘れたまま、母様と暮らしたこの場所で静かに暮らしたかっただけなんだ。それなのに」
……思い出なんて、いらなかったんだ。
いらないから捨てたのに、どうして。
その言葉は、霜雪の心の奥深い所に入り込み、小さな痛みと共に引っ掛かれたような細かな傷痕を残す。
何故。
どうして、自分の生きた証をいらなかったのだと、こんなにはっきりと言い切れるのだろう。
――嗚呼。
まるで、理解出来ない事ばかり。
「どうしてッて言われてもなァ。結局、いらねェモンじゃなかったから捨てられなかった――それだけじゃねェか?」
しれっと答えた雷封の、彼らしい単純な答え。
「本当にいらねェと思えるモンなんて、この世の中ドレだけあるよ。忘れたまま暮らしたかったなンて、それこそ忘れたくなかったってェ事の証じゃねェか」
――そンな都合の良い事は。
生きてる限り、出来ゃしねェンだよ、と少しだけ哀しそうな音を滲ませながら。
その深い赤の瞳が何を捉えているのか、草雲には図り知る事が出来なかった。
「雷封さん。私にはどうしても分かりませんよ」
ぽつりと、独り言のように口から漏れたその呟きを聞き、赤毛の青年は顔だけを草雲の方へと向けてみせる。
「私は、珪宋さんの気持ちが少しだけ、分かるような気がしていたのです。大きすぎる父の影と期待を常に感じながら生きていくという事が、どれ程辛いのかという所では共感すら出来るかもしれないと思いました。けれど、何故ここまでしなければならなかったのです? 影を断ち切る方法は、他にいくらでもあったのでは無いのですか?」
あるだろうなァ、と、赤毛の青年は答えた。
「ただ、見つけられなかっただけ、なンだろうな。不安材料を消すなんてなァ、一番確実だがこの場合は一番選んじゃいけねェ逃げ道じゃねェか。それにすがりついちまうだけ、青戸珪宋が弱かったってェ事だよ」
「あっさり、言いますね」
「難しく言ったってどうにもなンねェだろ。難しく言おうが単純に言おうが、起きちまった事は変わらねェンだから」
「はぁ……。雷封さんらしい答えですねぇ」
「何だそりゃ。単純だって言いてェのかよ」
「あ、いえ、そういうわけでは」
わざとらしく慌てて否定をした草雲を雷封はじとーっと見つめていたが、ふいっと目を逸らした。
「人間だ鬼だって言ってもよ。そんなモンはタダの種族の違いであってさ。結局は、同じようなモンなのよ。同じように泣きもするし笑いもする。見た目が違うなんて、些細な事じゃねェか」
それは確かに正論だと、草雲も思う。
だが、正論がいつも通るとは限らない。皆が皆、雷封のように人に在らざるものと直接接しているわけではないのだから。
見た目が違う。種族が違う。
ただ、それだけで。
畏怖の対象になり得てしまうのだという事もまた、理解出来るのだ。
形の無い恐怖ほど、恐ろしいものはない。だから、人は皆、恐怖に明確な形を求めてしまう。
今回はそれが沙雪であり、沙雪の母親だっただけの話。
――人ではない。
ただ、それだけの理由で。
――ヒトは皆己の心に鬼を飼い、真実の鬼を目覚めさせる。
そう、頭の中では理解出来ていたのだ。
納得は、していなかったとしても。
「……妖とは、一体何なのでしょうかねぇ……」
その呟きは誰に届く事も無く、空に昇って儚く消えた。
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「桜鬼」後編。