一本の梅の木があった。
近所の公園の、人目にもつかないような奥まった場所。
そこに、周囲から取り残されたようにひっそりと立っていた。
小さな木だったけれど、咲かせる花はとても綺麗だった。
まだ幼かった俺は、その木がひどく寂しげで可哀想に思えて、暇があれば根元に座り込んでいた。
そうすれば、きっと梅の木も寂しくないだろう、と。
実際、背中を預けていると温もりや鼓動が伝わってきて、木が喜んでくれているような気がしたものだった。
そんなことをしているうちに、なにかに落ち込んだときや考えごとをするときには、いつも梅の木の根元で座り込むようになっていた。
父さんや母さん、兄さんも呆れるぐらい、いつもいつも。
そんな俺に、ある日、一人の女の子が声をかけてきた。
顔も名前も知らない、不思議な雰囲気を持った可愛い女の子。
だけどなぜか俺は、ずっと前からこの子のことを知っていたような気がして、あっという間に仲良くなった。
以来、毎日のように梅の木の前で一緒に遊び回った。
だけど。
気づけば、その女の子の姿は、ぱったりと見なくなった。
最初から、そんな女の子はいなかったかのように。
幻であったかのように。
――ある日、そんな昔の夢を見た。
俺は、高校一年生になっていた。
今でも、梅の木の所に行く習慣はなくなってはいない。
* * *
「お前、サッカー部をやめたんだってな」
朝。
我が家の居間。
朝食を食べ始める直前に、兄さんが唐突に言った。
隠す気もなかったので正直に頷いた。
「うん、やめるよ。誰から聞いたの?」
「担任の先生が電話してきたんだよ。なにかあったのかってな」
「先生が? ……あの人は心配性だから」
「いいじゃないか。良い先生だ」
「まあね」
「――で、なんでやめたんだ」
兄さんは味噌汁をすすった後、責めるでもなく訊いてきた。
中学から始めたサッカー。
そこそこ運動神経が良かったらしい俺は、高校に入っても無事にレギュラーになれていた。
特に仲が悪い奴が部内にいるわけでもないし、スランプに陥ったわけでもない。
急にやめたことは、兄さんでなくても気になるのは当然だろう。
「なんとなく、さ……やる気がでなくなったんだ。友達に薦められて始めただけで、もともとサッカーが大好きってわけでもなかったし。もちろん嫌いってわけでもないけど、続けることに意味があるのかなって思ってさ」
「ふうん」と兄さんが言った。
焼き鮭に手をつけて、塩加減を間違えていたのか顔をしかめた。
「まあ、お前くらいの年なら、そんなことを考えてもおかしくないか。いいんじゃないか」
「止めないんだ」
俺はちょっと意外に思って、言った。
兄さんは肩をすくめた。
「部活をやるか、やらないか、なんて単なる保護者代わりの俺が口を出すようなことじゃないさ。まあ、できることは一言アドバイスをするぐらいのものかな」
「アドバイス?」
俺が怪訝な顔になると、鼻先にびしっと兄さんが箸を突きつけてきた。
「本当にサッカーから縁を切る前に、お前自身にとって、それが本当に後悔しない選択なのかをよく考えろ、ってな」
「…………」
「それでお前がやめるべきだって思うんなら、それでいいんだよ。例え、間違っていても問題ないさ。若気の至り、大いに結構。人間は間違えながら成長するんだぞ」
兄さんは、そんな説法じみたことをいうと、ははは、と笑った。
十歳も年の離れた兄さん。
五年前に両親が事故で他界して以来、保護者代わりに自分を育ててくれた、心から尊敬と信頼できる唯一の家族だ。
冗談めかして言っていたけど、この人の言うことには、いつもちゃんとした意味がある。
だから、俺ももう一度、考えてみようと思った。
自分の選択が後悔しないものなのかを。
「わかったよ。俺、考えてみる」
「そうかそうか。必死に悩め、考えろ、若人よ」
兄さんは妙に芝居がかった口調でいうと、満足そうな笑みを浮かべた。
俺は思わず苦笑しつつ、ようやく朝食に箸をつけた。
焼き鮭だ。
思った以上に、塩辛かった。
* * *
学校を終えた放課後。
部活に行かなくていいので、いつも以上に早く梅の木の前に俺は来ていた。
もう慣れた動作で、根元に座り込んだ。
この場所は、あの時から、まったく変わっていない。
ひっそりとしていて、静かで。
梅の木もいつものように優しく佇み、甘い花の香りを届けてくれた。
「サッカー……どうしよっかな」
思わず一人ごちた。
授業中もずっと考えてみても、どうするのが正しいのかはわからなかった。
今思えば、すぐに部活をやめたのは安易だった気もするし、だからと言って戻る気になったかと言えば、それも違う。
ただ、ひとつわかるのは。
こんな中途半端な気持ちでは、間違いなく俺は後悔するだろう、ということだけだ。
自然と溜息が漏れた。
そのとき、不意に。
――ねぇ。
背後から声が聞こえた気がした。
はっ、として振り返ると、木の陰から小さな一人の女の子がこちらを覗き込んでいた。
漆黒の髪に朱色の眼をした不思議な女の子。
「君は……」
自然と声が漏れた。
――知っていた。
俺はこの女の子を知っていた。
小学校に入るより前、幼い自分と一緒に遊んでくれた女の子。
気づけば会うこともなくなっていて、もしかしたらただ夢だったのではないかとさえ思っていた。
けれど。
女の子は確かに、俺の眼の前に居る。
――久しぶり、だね。
女の子がそう言って微笑んだ。
いや違う。
口で喋ったのではない。
この子の唇は、少しも動いてなどいない。
まるで気持ちが、意志が、直に頭に流れ込んでくるかのようだった。
「君は……やっぱりあのときの子なのか」
――そうだよ。
「なんで、急に姿を見せなくなったんだ?」
――見せなくなったんじゃない。小さい子以外には、私の姿は見えないの。
「見えない? 君が、あの頃の姿のままなのも関係あるのか?」
――そうだよ。私は、この……
女の子が寂しげな光を瞳に浮かべながら、梅の木に手で触れた。
――梅の木だから。
「……君が、梅の木?」
俺は呆然と呟いていた。
普通なら、とても信じられない話。
だけど、なぜか。
それは本当のことで、この子はあの梅の木なんだと俺は確信していた。
彼女の漂わす不思議な空気が、そう思わせたのかもしれない。
いや。
きっと、俺は知ってたのだ。
初めて出会ったときに。
幼すぎた俺の記憶は、十年近い年月で薄れてしまっていたのだろう。
「だけど、だったらなんで今は君の姿が見えるんだ?」
俺が訊くと、梅の木は哀しそうな表情で顔を俯かせた。
――もう、私はいなくなってしまうから。お別れを言うために。
「いなくなるって……どうして!」
気づけば、俺は声を荒げていた。
嫌だった。
いつも辛いとき、苦しいとき、自分を支えてくれていた梅の木がなくなるのが。
しかも、こんなに突然に。
――病気なの。もう時間がない。この姿も、すぐに保てなくなる。
「そんな!」
俺は、本物の梅の木の方に慌てて駆け寄る。
両手で触れてみるが、特に異常は見られない。
見た目には、異常がわからない病気なのかもしれないか、それとも――俺に心配をかけまいと、見た目に変化が起きないようにしていたのか。
俺は歯噛みして、両拳を硬く握っていた。
どうして!
どうして、俺は気づかなかった!
いつも傍に居たのに!
――そんな顔をしないで。あなたのせいじゃない。
「だけど!」
――生きたのは、ほんの二十年ほどだけだったけれど、私は本当に楽しかった。あなたが、いつも傍に居てくれたからだよ。
「…………」
――何一つ思い残すことはない。こうやって、最後に大切なあなたと言葉を交わすことができたから。
梅の木はそっとこっちに歩み寄ると、俺の右手を手に取り、自分の両手で包み込んだ。
暖かかった。
とても。とても。
溢れた涙が頬を流れた。
――忘れないでね。私がここに居たことを。私の温もりを。
俺は強く頷いた。
「忘れない。絶対に忘れてたまるものか」
梅の木はとても嬉しそうに笑んだ。
それは、俺が今までの人生で見てきた中で一番綺麗だと思える最高の笑顔だった。
ざあ、と強い風が吹いた。
思わず眼を閉じる。
再び瞼を上げたとき、もう女の子の姿はない。
ただ微かな温もりだけが、俺の右手の中に残っていた。
鼻をくすぐる梅の香りが、ひどく切なかった。
* * *
「やっぱり、ここに居たか」
また梅の木の根元に座り込んでいた俺は、聞きなれた声に顔を上げた。
兄さんだった。
口の端に煙草をくわえ、呆れた顔で頭を掻いていた。
「まったく。いつまで経っても帰ってこないと思ったら、なにをやってるんだ?」
「兄さん」
「ん?」
「俺、サッカーをまたやるよ」
それは梅の木を去り際を見届けた瞬間に決意したことだった。
兄さんは梅の木に背を預けると、空に向けて紫煙を吐き出した。
「そうか」
「……どうして、とは訊かない?」
「じゃ、訊こう。どうしてだ?」
「綺麗に、さ……」
「は?」
「綺麗に笑って死にたいと思ったんだ」
しばし沈黙。
少ししてから兄さんが、くっくっと笑う声が聞こえた。
「お前、その年で死に方なんて考えてるのか。ジジくさい奴だな」
俺は、むっとなる。
「いいだろ。つまり後悔を残さない死に方をしたいってことだよ。だから、せめて高校卒業まではサッカーを続けてみようと思ったんだ。その先のことは、そのときまた考える」
二十年。
梅の木はそう言った。あいつは、たったそれだけしか生きられなかったのだ。
それに比べ、まだ先のある俺はなんて幸せ者なのだろう。
だったら。
眼の前に出来ることがあるなら、それに全力で取り組もうと思った。
まだ先がある俺が、まだ若すぎる俺が、自分の今やってることに意味など見出せるはずもないのだから。
それが俺の――後悔しないと思える選択。
「いいんじゃないか? お前がそう決めたんならさ」
応える兄さんの声は、妙に嬉しそうで優しく聞こえた。
それだけで自分の選択も間違ってなかったかな、と思えた。
「さて」
兄さんは携帯灰皿に煙草を押し込むと、俺の頭を、くしゃっと撫でた。
「そろそろ帰るぞ、弟」
「了解」
俺は腰を上げる。
そして、もう鼓動も温もりも感じなくなってしまった梅の木を振り返った。
もうこの先、この木が花をつけることはないだろう。
ただ――朽ちていくだけ。
「……兄さん」
「どうした?」
先に行こうとしていた兄さんが、顔だけで振り返る。
俺は眼の前の梅の木を優しく撫でた。
最後の別れを告げるように。
「いずれ俺が社会に出て、誰かと結婚して、自分の家を持てるようになったら――庭に植えようと思うんだ」
「何を?」
兄さんが訊いた。
俺は迷いなく、それを告げた。
「もちろん――梅の木を」
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いつだって少年を支えてきた一本の梅の木。
一つの別れは、彼を大人へと一歩成長させる。