頭を空白にする。
心を両耳へと傾ける。
すると、普段は聞き流している様々な音が聞こえる。
誰かが楽しげに談笑する声。
遠くを走る電車の音。
風が木々を揺らす音。
そして――雨の音。
僕は小さい頃から雨の音が好きだった。
理由はわからない。
誰しも生まれつき、いろんな好みを持っているように、僕にとっては雨の音が生まれつき好みだったのかもしれない。もしくは物心つく前に、好きになるような出来事があったのかもしれない。
だけど、どちらにしろ。
僕が雨の音が好きなことには変わりはない。
晴れの日には、少しばかりの落胆を覚え、雨の日には自然と心が高揚する。
きっと僕は。
雨に恋をしているのだ。
雨が愛おしいのだ。
まるで恋人へと向ける想いのように。
そんな馬鹿げた恥ずかしいことを、十六歳の六月の朝にぼんやり考えていた。
* * *
朝食を胃袋に収め、鞄を手にすると、いつも通りの時間に僕は家を出た。
そして、習慣のように空を見上げる。
梅雨だというのに、蒼穹が広がり、愛しい雨雲の姿は見えない。
地球の異常気象が少し憎かった。
使われることのない折りたたみ傘の入った鞄を、落ち込んだ気分のまま掌で叩いた。
気を取り直す。
今日は晴れでも、明日は雨かもしれない。
それに人が生きるためには太陽の日差しも必要なのだ。
「よし、行こう」
自分自身に言い聞かせて、汗ばむ熱気の中で僕は歩き出した。
朝の駅。
ホームは、僕と同じ登校する学生や、通勤するサラリーマンなどでごったがえしている。少しばかり田舎な街の駅でも、平日の朝となれば、この程度の人ごみはできる。
僕は定位置である階段の下に佇み、電車を待つ。
時間があったので、暇つぶしをかねて眼を閉じると、耳をすませた。
女子高生の朝から高いテンションの会話が耳障りだったが、無理矢理に脳内から遮断する。
すると。
線路の向こうの、さらにフェンスを越えた先で、誰かが家の前で水を撒いている音が聞こえた。
雨の音とは程遠かったけど、少しだけ寂しい気持ちが癒えた気がした。
しばらくして電車が到着した。
人々が雑多な足音の中、電車内へと乗り込んでいく。
僕は開いている席を探すことなく、降車口の扉の前に立つ。
これもいつもの定位置。
僕の足がそこに落ち着くと同時に、横手から声がかかった。
「残念だね」
朝の定番である「おはよう」の挨拶じゃなかった。
声の主は、僕とは違う高校の、ブレザーの制服を着た女の子。
丸顔で大きな眼をした、肩より少し下まで伸ばした黒髪がよく似合う子だった。
「うん」
僕は同意して頷いた。
それだけで僕と彼女の意思疎通はできた。
つまり僕達は今日が晴れであることを悔しがっているのだ。
この女の子の名前も年も、僕は知らない。
だけど朝の通学のときには、毎日、会話を交わしていた。
きっかけは一週間前、朝の電車の中。
――その日は、喜ばしいことに雨だった。
* * *
僕は、窓の外の流れる景色と降りしきる雨を、じっと見つめていた。
普通の人なら、電車に乗るときには邪魔と感じるであろう傘の重みさえも、心地良く思いながら。
そのとき。
「――好きなの?」
突然に。
何の前置きもなく。
そう問いかけてきたのが、その黒髪の女の子だった。
「……何が?」
僕が怪訝に問い返すと、女の子は、
「雨。外を見たまま、ずっと嬉しそうに微笑んでるから」
僕は思わず手で自分の口に触れた。
「……本当に?」
「うん。本当」
女の子は頷くと、悪戯っ子のように笑った。
可愛い笑顔だった。
その日の会話は、それで終わりだった。
本当に短い、数秒ほどの会話。
普通なら、それっきりになりそうな出会い。
だけど、次の日も、僕と女の子はどちらからともなく声をかけ、話をしていた。
別に家を出るときからそうしようと思っていたわけじゃなかった。
本当にごく自然に、気づけば彼女と話していたのだ。
話しているうちに、彼女も僕と同じで雨の音が好きなんだとわかった。
それで、嬉しそうに雨を見ている僕の姿を見かけて、仲間だと思って声をかけたらしかった。
そんな理由で、他校の、しかも見ず知らずの僕に声をかけるなんて変な女の子だとも思った。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
だから、今日まで毎日のように会話を交わすのも苦じゃなかったのだ。
例え、年も名前も知らない女の子でも。
僕は思いつきで、彼女のことを心の中で雨音(あまね)と呼ぶことにした。
* * *
「梅雨なのに、この天気は反則」
その声には、僕は一瞬で過去から今に引き戻された。
雨音の方を見ると、差し込む陽の光に、まぶしそうに眼を細めながら唇を尖らせていた。
僕は苦笑する。
「仕方ないよ。たまには晴れないと、困る人もいるさ」
「そうだけどね。でも、やっぱりつまんないよ」
そう言って、雨音は扉に背を預けて、小さく溜息を吐いた。
気持ちはわかるけれど、天気ばかりは人間の手ではどうしようもない。
いつだって、自然の前では人の力なんて無力だから。
「きっと明日は雨だよ」
それでも僕は、自分が、そして雨音が望んでいることを口にした。
雨音が頷く。
「そうだね。じゃないと、私ひからびちゃうよ」
「カタツムリじゃあるまいし」
「あはは、じゃあ、君は蛙ね」
「じゃあって……おかしくない?」
「そうかも」
雨音はまた「あはは」と楽しそうに笑った。
僕もつられて笑みを見せていた。
電車が僕の降りる駅へと滑り込んでいく。
雨音が少し名残惜しそうな表情を見せる。
「あ、ついちゃったね。じゃあ、また明日」
「うん、また」
僕と雨音は当然のように「また」と声をかけ合う。
それがなんとなく嬉しかった。
僕がホームへ片足を下ろしたところで、背後から雨音の声がかかった。
「あ、忘れてたよ。ちょっと遅れたけど……おはよ!」
本当に遅い、おかしな朝の挨拶。
僕はそれが可笑しくて、
「おはよっ」
思いのほか元気良くそう返していた。
雨音が乗った電車が去っていった後、僕はようやく気づいた。
今日が晴れだとわかって感じていた陰鬱な気分が、不思議なほどやわらいでいることに――。
* * *
それから何事もなく一ヶ月ほどが過ぎ、雨音との朝の短い交流も変わりなく続いていた。
七月になり、せっかちな台風が日本に訪れることも、たまにあった。さすがに、そういう嵐のような雨には、僕も雨音も喜びは見出せなかった。何より風の音が強すぎて、のんびり雨の音を楽しむこともできない。
そんな小さなこだわりにまで、雨音との会話は至っていたのだ。
それでも、お互いの名前も年も聞かなかった。
まるで暗黙の了解のように。
別に聞くのが躊躇われたわけじゃなかった。
ただ、知らなくても僕の雨音の繋がりには、何の問題もなかったのだ。
――そう、あの日までは。
* * *
「今日は、一番、気持ちの良い降り方だね」
雨が窓を叩く音を楽しみながら、僕は隣の雨音に言った。
いつも通りの時間。
いつも通りの電車の中。
だが、彼女だけは違っていた。
「……うん、そうだね」
答える雨音の声には、どこか覇気がなかった。
心ここにあらずで、ただ窓の外をじっと見つめている。
いつもの彼女らしい明るさが、今日はない。
二人の繋がりの証である、大好きな雨の日なのに。
僕は心配になって、
「どうしたの? 何かあった?」
「なんで、そう思う?」
雨音がこちらに眼を向け、逆にそう問い返してきた。
なぜかその双眸には、真摯な光が宿っている。
僕は素直な感想を言った。
「だって、今日はいつもの君と違うじゃないか」
「人は変わるものだよ。そして、その関係も――変わるの」
「何で急にそんなこと……」
「…………」
雨音は、再び、窓の外に視線を戻した。
電車の揺れる音も。
周囲で話す人達の声も。
全く聞こえなかった。
ただ、雨の音だけが、不思議と僕達を包んでいる気がした。
雨音が、静かに口を開き、僕にだけ聞こえる小さな声で言った。
「好きなの」
「え?」
その言葉は、彼女が僕に最初にかけたものと同じ。
始まりの一言。
だけど。
今日のは問いかけではなく、彼女の一途な想いを込めた一言だった。
僕は、あの日と同じように問い返した。
「……何が?」
「君のことが」
彼女が、それを口にした瞬間、変わるときが来た。
僕も。
彼女も。
二人の関係も。
変わるときが来たのだ。
出会いは偶然だったとしても、この変化は必然。
人は変わる。
その胸の内の想いと共に。
だから、僕は言った。
迷いはなかった。
だって、それは彼女と出会ってから、気づけばずっと僕の心の中を占めていた想いだったのだから。
「僕も……だよ」
雨音は少しだけ眼を見開いた。そして、僕の答えを受け止めるように眼を閉じた後、
「……そっか」
笑った。
本当に嬉しそうに。
だけど、いつもの彼女の笑顔で。
雨音は、僕の方へと向き直った。
「じゃあ、教えて――」
そっと僕の手を優しく握る。
「君の名前を、ね」
「やっと聞くんだ」
「当たり前。お互いの名前も知らない恋人なんてさまにならないよ」
「そうかな?」
「そうなの。……それにもっと知りたいから。君のこと」
「……うん。僕もだ」
僕はそこで、ふと気づいた。
「あ、その前に一つだけ」
「なに?」
「最初から、そのつもりで僕に声をかけたのかなって……そう思って」
「ふふっ、それは秘密だよ」
「秘密なんだ」
「そう、秘密。だって、どっちでも、私と君の気持ちに変わりはない――そうでしょ?」
「確かに、そうだね」
僕と雨音は笑い合った。
そして、僕は改めて小さく息を吸ってから、
「じゃあ、教えるよ。僕の名前は――」
それを告げた。
僕と彼女の――新たな関係を始めるために。
その日から。
僕の恋焦がれる相手は、雨から、その少女へと変わった。
彼女の存在が、僕を癒し、僕を満たしてくれる。
それは。
雨音の導いてくれた、どこにでもある――だけど、かけがえのない出会い。
僕は雨の音が好きだ。
そして、雨の音と共に出会った、彼女がもっと好きだ。
そんな少し恥ずかしくて大切な想いを、十六歳の七月の朝にはっきりと感じた。
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少年は雨音が好きだった。
そして、それをきっかけに一人の少女と出会う――。