No.191102

十五年前のクリスマスプレゼント(前編)

小市民さん

左腕が生まれつきない篁(たかむら)千雪(ちゆき)が赤坂の霊南坂教会で出会った人物は……
障害をもつ女の子が、パイプオルガンのオルガニストを目指す中で、本当に贈られたクリスマスプレゼントに気付くまでの物語です。義手やリハビリに関しては、本職に読まれても大丈夫なつくりになっています。もっとも医学書ではなく、物語ですので気楽にお楽しみ下さい。クリスマスまでには完結させたいのですが、間に合わなかったらごめんなさいです。ラストのどんでん返しに気付いた方、黙っていて下さいね。それでは始まり始まり!

2010-12-22 21:27:00 投稿 / 全3ページ    総閲覧数:965   閲覧ユーザー数:949

 クリスマスが近づいた都心には、抜けるような青空が拡がっていたが、日陰に入ると、さすがに北風がこたえる。

 優良なブリーダーから直接に買った自慢の純血腫のポメラニアンを連れた老婦人が、ホテル・オークラやアメリカ大使館が建ち並ぶ、閑静な東京都港区赤坂一丁目の一角を通りかかったとき、異様な小学生を目にし、立ち竦んだ。

 老婦人は、自慢のポメラニアンを抱きかかえると、逃げるようにその場を立ち去った。

 一九九五年十二月。赤坂六丁目にある港区立の小学校に通う四年生の篁(たかむら)千雪(ちゆき)は、女の子らしい淡いピンクのトレーナーにパーカーを重ねている。

 小学四年生の平均身長は百三十三センチだったが、千雪はそれよりもはるかに低い百二十五センチと小柄だった。しかし、黒目がちの彫りの深い顔立ちからは、利発そうな性格が窺われる。

 よほどつらいことがあったのか、顔を俯け、ひっくひっくと泣きながら、とぼとぼと当てもなく歩いている。

 背負った赤いランドセルにふわりと乗ったフードと長い黒髪は、北風が吹くたびに可憐に翻るものの、左袖口も頼りなげに揺れてしまう。

 千雪は、右手に左前腕に繋がった左手首を大切そうに抱いている。

 明らかに千雪自身の左腕を右腕に抱き、閑静な住宅街をさまよい歩きながら、声を上げて泣くその姿は、誰の目にも不気味であった。

 アメリカ大使館の純白の門を警護する屈強な警察官の目も小波立ったが、自分の任務は大使館の入退館者のチェックであって、迷子の捜索ではないと、千雪から目を逸らせた。

 千雪は、ふと、傍らの総赤レンガ貼の建物から荘重な楽器の音色が聞こえることに気付いた。

 霊南坂教会の礼拝堂から聞こえてくるのは、パイプオルガンの演奏だったが、十歳と幼く、絶望の底に突き落とされたような今の千雪に、理解出来ようはずもない。

 正に、天からの調べのようなこの荘厳な音色を出す楽器とは、一体どんなものなのだろう……左腕がない千雪は、両手を使う音楽と体育の授業の殆どは見学とし、他人事であって、興味もなかったが、理屈などは抜きに強烈に引きつけられた。

 霊南坂教会は、一八七九年に京都にある私立大学・同志社の第一回卒業生である牧師と十一人の青年達によって設立された、会衆派と呼ばれる組合教会の流れを汲む教会だった。

 やがて、赤坂霊南町に、赤レンガの会堂が建築され、大正時代の名建築として親しまれた。

 その後、一九四一年のプロテスタント教会の合同により、日本基督教団に所属する教会となり、旧堂の面影を残した総赤レンガ貼の現在の会堂が、一九八五年に建築されている。

 千雪は、まるで研修施設のように現代的な設備とバリアフリーを備えた会堂に無断で入り込み、ステンドグラスが美しい影を石畳の床に描き出したホワイエに進むと、不意に視界が開けた。

 右側に広く小暗い礼拝堂が拡がっている。

 正面の純白の壁には、巨大なパイプが、白銀にきらめく氷の列柱のように設置され、人気のまるでない会衆席の一角には、唯一、長い艶やかな髪の女性が、細い背を見せ、演奏席にずらりと並ぶ手鍵盤と足鍵盤を自分の手足のごとく操り、壮麗な音色を奏で続けている。

 千雪には、頭上を圧するパイプオルガンはさながら巨大な神像のようであり、オルガニストが演奏という祈りをもって、ようやくに神が音色という神託を授けているように見えた。

 千雪は、オルガン奏者が、両手を手鍵盤上を滑らせ、両足で足鍵盤を一糸の乱れもなく踏み込む、正に全身全霊を用いての演奏技術と、奏でられる厳かな音色に、泣き叫んでいたことも忘れ、黒目がちの目を見開くと、会衆席の最前列に、威儀を正し、腰を下ろした。

     ◯

 千雪は、生まれつき左肘と左前腕を三分の一ほど残し、そこから先はなかった。

 病態名は、先天性左前腕欠損だった。

 赤坂六丁目の高級マンションに住み、東京・大手町にある鉄鋼会社の東京本社に勤める父と、専業主婦を続ける母との間に、雪がちらつくクリスマスに生まれたことから『千雪』と名付けられて生まれた千雪は、自分に左腕がないことを全く自覚せぬまま四歳まで過ごしていた。

 兄弟姉妹のない一人娘で、朗らかな性格に育ったことに加え、何かの支持動作をしたいときは、腋に抱えたり、左肘や断端部で押さえつけたりと、幼児なりに工夫を繰り返していたため、ADLと呼ばれる日常生活に不自由は感じていなかったのだった。

 それでも、西新橋にある東京恩恵会医科大学付属病院のリハビリ科には定期的に連れて行かれ、健側である右前腕と比べ、ぷつりと途絶えてしまったような左前腕の病態や反肘張を調べられた。

 また、千雪の左腕は、先天性欠損児の前腕短断端切断に当たり、右腕ばかりを使っていると、左腕の残端部の筋肉が廃用性萎縮を起こしてしまう危険性があり、子供と過ごす時間が多い母親には、小児科、リハビリ科の医師から事細かに自宅でのアプローチが指示されていた。

 幼い千雪には大人同士の難しい話は解らず、処置室や診察室では、まるで他人の話でも聞いているかのように感じていた。

 千雪は成長し、幼稚園への入園が近づいてくると、妙に両親がケンカをすることが多くなった。

 これは、切断児の親や保護者は、自責の念、怒り、悲しみなどを深くもち、精神的に不安定な状態になるためであった。

 特に子育ての核となる母親の心理や希望に、理学療法士は耳を傾けなければならなかった。

 当の千雪は、左腕を欠損している以外は、全くの健康体で、後天性の切断児に留意される合併症や運動発達の遅れ、心肺機能、内臓異常、体幹機能障害なども認められなかった。

 本人は、自分の体に障害があることなど、全く感じずに過ごしていたものの、幼稚園への入園を数日後に控えたある夜、父がコンビニに雑誌を買いに行くと言い、千雪も半袖のブラウス姿で、断端部を丸出しにしてついて行ったのだった。

 コンビニの店内で、父親に何かを買ってもらおうと、スナック菓子の棚を眺めていると、一リットルのペットボトルを二本買っていた若い母親が、レジ袋に重いペットボトルを店員に入れてもらい、連れて歩いていた五歳ぐらいの男の子に持たせたのだが、男の子は二キロもある荷物を片手で持てることを母親に自慢した。母親は、

「ちゃんと両手で持ちなさい」

 と、叱りつけたのだった。この一部始終を見聞きしていた千雪は大きな衝撃を受けた。

 よく見れば、周囲の誰もが、両親でさえ、手は二つあるのに、自分は片方だけしかない……全くささいな出来事が、自分は障害者であったことに気付かせたのだった。

 自宅に戻ると、千雪は激昂し、両親に、

「どうして千雪には手が一つしかないの! みんな、二つあるのに! 何で!」

 生まれて初めて感情を爆発させたのだった。

 先天性四肢欠損の発生頻度は、一万出生に六程度とされているが、特に手指の欠損が多く、千雪のような症例は多くない。

 原因として、四肢形成が成立する胎生七週までに生じた一つの局在した組織形成不全から起こることが解っている。

 しかし、千雪が求めている答えはそんなことではないことが痛いほど解るだけに、父も母も何も応えることは出来ず、翌日、かかりつけの恩恵会医大病院で、本人と両親の希望により、義手の処方を受けることにしたのだった。

 幼稚園に入園し、同じクラスの子供達に千雪の障害を目の当たりにされ、心ない言葉で大騒ぎされるよりは、はるかにマシで、千雪の人生にとっては、よけて通れない道であった。

 義手の処方、といっても多くの種類があり、患者や保護者の希望にしたがって、整形外科医が処方し、義肢装具士に制作が依頼され、作業療法士が患者自身に扱えるよう、訓練を繰り返すのだが、千雪の母は、とにかく外見ばかりを主張した。

 この結果、千雪が装着することになったのは、ソケットと手先具で構成された前腕義手と呼ばれるものであった。

 ソケットとは、断端部にはめ込む部分で、腕を降ろしてもすっぽ抜けない自己懸垂型で、手先具と言っても、まるで能動性のないシリコン製コスメチックグローブ付前腕義手であった。

 これは、健側の右腕をコンピュータが3Dデータとして読み込み、左右反転させて原型である陽性モデルの修正までを行う。後は、シリコンで成形し、実際に装着する千雪に仮合わせを繰り返し、仕上げとなる。

 大変な工程を経て、ようやくに患者に引き渡しとなる義手だったが、中空のいわば張りぼてで、指先部分には芯材として針金などを挿入し、その周囲を綿やスポンジを充填した軽量を最重要視した人工の腕であった。

 以前は、変色しやすい塩化ビニール製だったが、人体に近い質感を再現したシリコンを使うことにより、生身と殆ど区別がつかない。

 こうして、幼稚園を難なく卒園して、社会福祉士に養護学校に入学することを勧められたが、千雪と両親の希望により、港区立の小学校で受け入れを承諾された。

 積極的になれない教科もあったが、千雪は無難に過ごしてきた。しかし、つい先ほど、給食を終え、クラスの男子児童達に誘われ、千雪は仲良しの女子児童達数名と校庭の一角でドッチボールをしているうちに、左前腕の断端部にボールが当たり、ソケットが外れ、生々しい前腕義手を校庭に落としてしまったのだった。

 クラスメートの誰もが、千雪が重傷を負ったと思い込み騒然となった。千雪自身、男子児童ばかりか、驚きのあまり、目に涙を浮かべた仲良しの女子児童の姿に、四年間も周囲を騙し続けていたこと、生まれつき左腕がなかった自分に改めて恐怖に近い感情が全身を突き抜けた。

 慌てて生々しい義手を拾い上げたものの、もはやごまかしようもなく、千雪は午後の授業も受けず、左腕を再現した前腕義手を右手に抱えると、教室に戻り、無造作に教科書やノートをランドセルに押し込むと、学校から逃げ出したのだった。

 明日からは、仲の良かったクラスメート達からは、相手にされぬどころか、陰湿ないじめの対象となり、不登校になろうものなら、神経の細い母はますます父といさかうことだろう。

 母に再三再四、注意されていたように、断端部をソケットにはめ込む際、より確実とするために、ハーネスと呼ばれるベルトを用いて上腕や肩に固定しておけば、こんなことにはならなかったかもしれない……ハーネスを用いて背中を見ると、まるで早くもブラジャーをしているおませな女の子と、男子達から勘違いされ、からかわれるのが嫌で、わざわざ外していたのだった。

     ◯

 千雪が深い後悔に唇を噛みしめていると、無断で入り込んだ霊南坂教会の礼拝堂では、それまで続いていたパイプオルガンの演奏がぴたりとやみ、髪の長いオルガニストが人の気配にくるりと振り向いたその瞬間、会衆席に座り込んでいた千雪とまともに目が合った。

 千雪は慌てて前腕義手を背中の陰に隠したが、オルガニストは、

「こら、こそこそすんな」

 明るい笑顔で言い、千雪のすぐ傍らに腰を下ろした。

 世界の誰からも、どこからも嫌われ者になったと思い込んでいた千雪は、オルガニストの優しい態度を意外に感じながら、

「だって、気持ち悪くないんですか? こんなわたし……片輪者の女の子なんて……」

 確かめるように聞くと、オルガニストは千雪の柔らかな頬をつねり、

「自分のことを、『こんな』とか『片輪者』なんて言うの、やめなさい」

 温和な顔で言ったが、語調は厳しく、千雪を叱った。

 ふと、千雪は言葉を失ったが、はっとして、

「きれいな音が出る大きな楽器なんですね。弾いているお姉さんも、まるで踊っているみたいで……本当に格好よかったです」

 オルガニストが演奏する姿を目の当たりにした感想を言った。

 オルガニストは、この巨大な楽器はパイプオルガンというもので、自分が弾けるようになるまで十五年もかかってしまったこと、今は海外留学中で、クリスマスコンサートが多いこの時期、日本ではオルガニストが人手不足となり、奏者の応援を頼まれたこと、コンサートのプログラムのリハーサルをしていたことと、ある理由もあって一時帰国していることを千雪に言った。千雪は興味津々に、

「ある理由って何?」

 聞くと、オルガニストはそれまで着ていた黒いブラウスの左袖をまくり上げた。千雪は息を呑んだ。オルガニストの左腕も義手であった。オルガニストは、

「これの定期検診を受けなきゃいけないの。

 この義手はね、筋電義手といって、手先具を自分の指みたいに自由に開いたり、閉じたり、握ったり、つまんだり、が出来るの。」

 実際に手先具の五本の指を自在に動かして見せた。五本の指ばかりか、手首関節に相当する手継手と呼ばれる部分を、橈屈、尺屈、回外、回内の運動まで可能だった。

 千雪の義手は、、指部分に芯材として針金が仕込んであるだけで、何かを持たせたいときは、健側の右手で義手の指を広げ、他動的に挟み込む方式とは大違いだった。

 不意に、オルガニストは、ぽつりと、

「あのね、人生って、自分自身を認めて、受け入れないと、始められないの」

 ゆっくりと言った。千雪には、その言葉の意味が解らず、きょとんとしてしまうと、オルガニストは、

「よし、千雪ちゃんにお姉さんから一曲プレゼントしてあげよう」

 にこりと笑って言うなり、再び演奏台に向かい、壮麗なオルガン曲を弾いた。

 千雪は自分だけに贈られた演奏が、この上もなく嬉しかった。

 わずか数分の演奏が終わると、右手で左前腕の残端部を叩き、拍手としながら、再び自分のすぐ傍らに座ったオルガニストに飛びつかんばかりに、

「すごい! すごい! すごいよ! 今のなんていう曲! 書いて!」

 敬語を使うことを忘れ果て、興奮するあまり、叫ぶように言い、算数のノートとシャーペンを渡した。オルガニストは、

『J・S・バッハ 小フーガ ト短調BWV578』

 大きく記した。千雪は算数のノートを胸に押し抱き、

「ありがとう、お姉ちゃん。わたし、この曲が入ったCD、パパに買ってもらいます!」

「オルガン曲、好きになってくれた?」

 オルガニストは千雪の瞳の奥を見つめ、尋ねると、千雪は朗らかに笑い、

「うん!」

 大きくうなずいた。


 
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