#2
「…知らない天井だ」
目を覚ますと、木造の天井が目に入った。うちも大概に古い家だが、ここまで整然としていない天井ではない。それに、布団の感触がいつもと違う。うちのベッドにしては固いし、布団もどこかごわごわとしている。
「どこだ、ここ?………っ!」
そして俺は思い出した、気を失う前に何が起きたのかを。鏡が光ったと思ったら知らない場所にいる。これはいったい何の冗談だろうか?爺ちゃんか?…いや、確かにひょうきんなところはあるが、今日は学校もあるはずだし、ここまで手の込んだイタズラはしないだろう。
俺は布団の中で身体に異常がないことを確かめると、上半身を起こした。と―――
「………」
寝台の傍に置かれた簡素な椅子に腰掛けた、赤髪の少女が目に入った。俺が目を覚ましたことにも気がつかず、すやすやと眠っている。褐色の肌がところどころ露出しており、さらには刺青もはみ出している。
俺の記憶にこんな娘は存在しない。もしいたとしたら、絶対覚えているはずだ、だってこんなに可愛―――
「ん…」
少女が身動ぎしたが、どうやら起きるわけではなく、体勢がどこか居心地が悪かったらしい。もぞもぞと動いてすこし身体の向きを変えると、再び定期的な寝息が聞こえてくる。
「ははっ…」
どこか小動物を彷彿とさせるその動作に、思わず頬が綻んだ。そうして眠っている少女をしばらくの間見ていると、ふいに部屋の扉が開いた。少女が目を引きすぎていて気がつかなかったが、部屋はかなり狭い。4畳あるかどうかである。ベッドと椅子の他に置いてあるものはなく、言ってしまっては失礼だが、この家の経済的事情が伺える。
「あら、お目覚めでしたか」
入ってきた女性は、年齢は30代前半だろうか、背中まである黒髪はまっすぐで、その肌は白い。どこか気品を感じさせるところもあるが、着ている服は、この家同様に簡素なもので、どこかの令嬢というわけでもなさそうだ。
ひとまず俺は両足を床に下ろすと、ベッドに腰掛けた。
「あの、ここは…?」
「武都の街の近くの邑です。恋の話では、あなたは村から5里ほど離れた荒野に倒れていたそうですよ?この娘がうちまで運んできたのです」
「そうですか、ありがとうございます(武都って、どこだ?)」
「ふふ…お礼ならこの娘に言ってあげてくださいな。……あら、起きたようね」
その言葉に俺は先ほどまで眺めていた場所に目を向けると、少女がこちらをじっと見ていた。可愛いな。
「えっと…おはよう」
「………………おはよ」
「えっと、運んでくれてありがとう。俺の名前は北郷一刀といいます」
「ほら、恋。この御方にご挨拶は?」
「ん。恋は呂布。字は奉先」
「………………………………………………………………はぃ?」
その後、混乱する俺を宥めて、女性・呂奉さんが状況を説明してくれた。呂布はというと、話が退屈なのか部屋を出て行ってしまっていた。
「じゃぁ、今は劉宏…様が帝である、と」
「そうですよ。あなたは漢の臣民ではないのですか?」
「俺は、日本人です」
「日本?」
「えと……今だと大和の国、なのかな?東の海を渡ったところにある島国です」
「…申し訳ありませんが、ちょっと聞かない名前ですね」
「そうですよね………」
それきりしばし沈黙が流れるが、ふと、呂奉さんが口を開いた。
「ところで、恋が言っていたのですが、昼寝をしているときに流れ星が落ちてきて、そこに貴方が倒れていた、ということなのですが、何か心当たりは?」
「流れ星、ですか?…覚えていないですね」
「………もしかしたら、貴方が噂の『天の御遣い』かもしれませんね」
そういって女性は微笑んだ。思わずドキっとしたが、悟られないように下を向く。さて、どうしようか。この女性のいうことが本当だとすると、俺はどうもタイムスリップしてしまったらしい。それなんてエロゲ?的な状況だが、21世紀の日本にこんなボロい家に住んでいる人などほぼ皆無だろう。
だが、もし本当にそうだとしたら、俺はいったいどうするべきなのだろうか。仮に『天の御遣い』かもしれないからといって、何をすればいいのかわからない。さて―――
「あの、呂奉さん。信じてもらえないかもしれませんが、いまわかっていることをお話しします。まず……俺は、この世界の人間ではありません」
「…………それで?」
「おそらくですが、俺は今から1800年以上先の未来からやってきました。ここに来る前に起きたことは覚えているのですが、何故ここにいるのか、何をすべきなのか、どうやって戻るのかすらわかりません」
「そうですか………では、『天の御遣い』としてこの乱世に乗り出すというのはいかがですか?最近街の方で噂になっているのですが、『眩き流星と共に、天より遣いの者がこの大陸に降り立つ。天の御遣いは天の智とその大徳を以て、世に太平をもたらすであろう』というものです。もし、貴方の言うことが本当であるならば、それも可能ではないかと………」
俺は呂奉さんの言葉を反芻する。まずイエスかノーで答えろと言われたら、答えはもちろん『ノー』だ。仮にこの時代で名を上げるにしても、知識がなさすぎる。ではどうする………。
俺はしばらく考えたのち、答えた。
「仮に俺が乱世に乗りだすといっても、俺は、この世界の常識を何も知りません。ですので、大変不躾な申し出とは思いますが………ちゃんと働くので、俺をしばらくの間ここに置いてはいただけませんか?」
数秒の沈黙ののち、ギィッっと音がしたかと思うと、扉が開き、呂布さんが顔を出した。
「あら、どうしたの、恋?」
「おかあさん、お腹すいた…」
「あらあら、じゃぁそろそろ夕飯の支度をしなくちゃね」
そう言って呂奉さんは立ち上がる。と、扉のところで振り返り、こう言った。
「恋、今日から北郷さんも一緒に暮らすから、ちゃんと仲良くするのよ?」
俺は両膝に手を置いて、閉じた扉へと頭を下げていた。
「(パクパクムシャムシャモキュモキュ…)」
「………すごいですね」
俺が隣の部屋に顔を出してまず目にしたのは、大量に盛られた食事の皿だった。まさか俺のために?とも思ったが、それが見当違いの推測であることは、すぐに理解できた。
「(パクパクモキュモキュ…)」
「ほら、恋、もう少しゆっくり食べなさい。ごめんなさいね、北郷さん。この娘ったら食べるのが大好きで」
少し気恥ずかしそうにする呂奉さんだったが、俺はまったく気にしていなかった。むしろ、その食べる姿に見惚れていた。
「あはは、可愛いですね………呂布さん、俺はもうお腹一杯だから、よかったらこれも食べなよ」
俺はそう言って、目の前に置かれた皿を呂布さんの方へと差し出した。呂布さんはというと、「いいの?」とでも言いたげに首を傾げたが、俺が笑顔で頷き、呂奉さんの許しが出ると、嬉しそうに微笑んだ。
それにしても本当に幸せそうに食べるなぁ。俺はそんな思いで見ながら、白湯を啜る。呂奉さんも嬉しそうにそれを眺めるのであった。
「…ごちそうさま」
満足したのか、呂布さんはそう言うと、俺の傍にテトテトと移動して座って、徐に寝転がり、俺の膝の上に頭を置いた。
「え、ちょ!?」
「あらあら、恋ったら、もう北郷さんに懐いちゃったのね」
「懐いたって………呂布さん―――」
「恋」
「え?」
「恋の真名。恋は、恋」
マナってなんだろう?でも、呂奉さんも呂布さんのこと『恋』って呼んでるし、あだ名かな?俺が突然の禅問答(?)に戸惑っていると、呂奉さんが助け舟を出してくれた。
「真名というのは、己を表す、姓・名・字とは異なる、神聖な名前のことです。自分が心を許した者にしか呼ばせることは許されぬ名です」
「えっ!?いいの、そんなに大切なことなのに?」
「一刀、いい人…だからいい。それに、いい匂いもする」
そういうと、恋はスイッチを切ったかのように、スッと眠りに入った………俺の膝の上で。
「何かよほど気になるところでも出てきたのでしょうかね。その子の真名は『恋』です。受け取ってあげてください」
そういうと、呂奉さんは頭を下げた。俺はというと…
「わかったよ、恋。おやすみ」
「…ん」
今度こそ恋は、眠りへと落ちていった。
「この子がここまで気を抜いた姿を見せるのは、あたし以外で初めてです。」
何を話すともなく、二人で白湯を飲んでいると、ふと、呂奉さんが口を開いた。
「そうですか………失礼ですが、ご主人は?」
「あら、私は独身ですよ?」
「え、そうなんですか?でも恋が『お母さん』って…」
「恋も私と血は繋がっていません。5年前に村の外で行き倒れているところを、私が拾ったのです」
―――回想―――
最初は、それはもう手のつけられない子どもだった。目が覚めたかと思うと、頭を撫でようとする私の手に噛み付き、振り払い、どこで拾ったのか、気を失っている間も握ったまま離さなかった戟を構えて、部屋の隅でうずくまるのである。何度食事を与えようとしても、器をひっくり返すばかりで、決して口にしようとはしない。大人に懐かず、かといって同年代なら、と頼んで来てもらった子どもたちにも心を開かず、ただひたすらに警戒心を向ける日々。いったいどんな環境でこの娘は生きてきたのだろうか………。
そして、この娘を拾ってきて10日ほど経った夜だったか。空腹のせいか、少女はうずくまったまま動かなくなった。私はこれ以上は見ていられないと、娘を寝台に寝かせ、粥を作り、その口元へと運んだ。
匂いに釣られてか、娘が目を覚ます。だが、すぐそばに私がいることに気がつき、寝台から起き上がろうとするものだから、つい、押さえつけてしまった。そして―――
「……離せ」
「…!!」
――――――私は見てしまった。
なんて暗く、冷たい眼をしているのだろう。この娘はこれまでどれほど惨めな目に合い、どれだけの憎しみを向けられてきたのだろうか。
そう考えてしまった私の両目からは、涙が溢れ出すのだった。何かを喋ろうとしても、口を開けば出てくるのは嗚咽だけ。私は暴れる彼女の上に乗っているにも関わらず、布団に顔を押さえて涙を流し続けるのだった。
どれほど泣き晴らしただろう。あの娘は出て行ったのだろうか。私には自分が何をしているのかもわからなかった。ただ、一つだけ気がついたものがある。私の頭に触れる、暖かい何か。その何かはまるで子どもをあやすかのように、私の頭を撫でていた。
ふと顔をあげると、そこには、涙を眼に湛えたあの娘がおり、その右手は上げられ、私の頭上へと伸ばされていた。
「泣か…ない、で………」
「うぅ、ぅ、うああああぁぁぁああぁぁっ………」
私は、やっと触れることができた。この娘の奥底に眠っていた、少女本来の優しさに………。
―――回想 了―――
「それが、私と恋の生活の、本当の始まりでした」
「そうですか………なんていうか、強いですね」
「私がですか?まさか、ただの女ですよ」
「いえ、そこまで出来るのは優しさではなく、最早強さだと俺は思います」
「ふふっ、ありがとうございます。さて、私たちもそろそろ寝ましょうか。明日からしっかり働いてもらいますからね」
語尾に音符マークでも付きそうなその言葉で、今日の夕餉はお開きとなった。
ちなみに、恋を寝台に抱えて行った時になかなか服を離してもらえず、結局抱きつかれたまま眠ってしまい、翌朝起こしにきた呂奉さんにからかわれたのは、また別の機会に。
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