No.172262

しあわせみつけ

小市民さん

葛城美紗子と憲哉は結婚満1年の新婚。二人を祝い美紗子の母に食事に誘われたものの、憲哉はもさもさとするばかり。
美紗子が我慢も頂点に達したときに見たものは。
小市民に短編2弾、まったりとお楽しみ下さい。

2010-09-13 18:04:25 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:522   閲覧ユーザー数:504

 場違いな石垣……葛城美紗子には、そうした印象しかもてなかった。しかし、夫の憲哉(けんや)は嬉しそうにその石垣を交通の激しい幹線道路の歩道から見入っている。

 やがて、憲哉は外堀公園に面した土手から石垣の上へ駆け上り、、一眼レフデジカメのファインダーをのぞき込み、構図を求め始めた。

「ねえ、これ、何?」

 美紗子が石垣の下から憲哉に尋ねると、憲哉はファインダーから目を離さずに、

「四谷見附(みつけ)。もう少し早くくれば、花見ができたのに……来年またこよう」

 残念そうに答えた。JR四谷駅東口の外堀通りと新宿通りが交差した一角に遺された石垣などの何がいいのか、それよりも今日は紀尾井町にあるグランドプリンスホテル赤坂の新館にあるレストランで、美紗子と憲哉の結婚満一年を祝い、昼食をと、美紗子の母と約束があり、待ち合わせの時刻まで後一時間もないにも関わらず、憲哉は四谷で電車を降り、のんびりし始めている。美紗子は気が気ではなく、次第に苛立ちを募らせていた。

 美紗子の母は、六本木、麻布、赤坂といった都心の一等地でエステサロンを経営する実業家で、人を見抜くことに長けていたから、母と憲哉を会わせるのは、美紗子には不安であった。憲哉は美紗子の前に戻ってくると、

「見附って言うのは、近世城郭の城門の別称だ。まあ、城門の外方を監視、哨戒する防御施設だな。江戸城外郭の場合、外堀に沿って枡形構造をもつ城門が百近くもあって、その中のいくつかは地名を冠して呼ばれていたんだ」

 流暢に説明した。美紗子は思わず溜息をついた。

 美紗子の旧姓は今村であったが、結婚している、という自覚はいまだなかった。憲哉が名所や史跡といったものにあきれるほど造詣が深く、今日のような旧跡巡りに美紗子を連れ回していたが、美紗子にとっては食傷気味だった。新婚旅行には、モン・サン・ミシェル、ベルサイユ宮殿、ルーヴル美術館とフランスの旅はよい思い出となったが、それだけで、二人の収入では首都圏の日帰りが精一杯で、それでもテーマパークで羽を伸ばしたい美紗子と、観光名所を回りたい憲哉とは根本的に考え方が違っていた。

 美紗子は以前、こうした憲哉の趣味を離婚経験のある同僚に話してみると、

「何だか定年後の親父みたいな趣味だね。一応、まじめに働いているんだから、とやかく言えないけれど、あんたとは合わないんじゃない? 考え直せば? まだ一年しかたっていないわけだし、子供もいないから話は早いよ。決めるなら、早い方がいいって」

 と離婚を勧められた。

 憲哉は美紗子を促すように新宿通りを渡ると、外堀通りを赤坂方面へ歩き始めた。ゆったりとした紀之国坂を降りていくと、左側には初夏の陽射しを受け、白銀に弁慶堀がきらめき、右手には人目を避けるような塀と樹叢(じゅそう)が延々と続いている。美紗子があの塀の内側には一体、何があるのか、と思っていると、憲哉は、

「迎賓館などの皇室用地で、和歌山藩徳川家上屋敷跡だ。一般開放していないか、今度、調べてみよう」

 目を輝かせて言った。間もなく、青山通りと外堀通りが交わる赤坂見附交差点に出ると、美紗子は母との待ち合わせ場所である巨大な凹面鏡のようなグランドプリンスホテル赤坂の新館が、五月晴れの空を圧していることにほっとすると、憲哉は交差点を素通りし、青山通りを進んで行った。

 新館開業二十五周年を記念して催されているスペシャルメニューを注文できる時刻が刻々と迫っており、美紗子は慌てて、憲哉の後を追うと、

「どこに行くの? ホテルは……」

 言ったが、憲哉は青山通りのすぐ傍らにある石垣の周囲を行き来し始め、

「赤坂見附だ。都心でも交通量の多い交差点としては知られているけれど、見附そのものはここにあったのか」

 デジカメを構えた。美紗子は茫然とした。首都高が間近に走る、四谷見附と同様に場違いな石垣などのどこがいいのか!

「いい加減にしてよ! レストランは予約制なんだよ! 間に合わなくなるじゃない!」

 美紗子が声を荒げると、憲哉はデジタル表示の腕時計に目を遣り、

「ああ、丁度いい」

 けろりと言うなり、手早くシャッターを数回きり、赤坂見附の交差点に戻り、弁慶橋を渡ると、グランドプリンスの敷地へ入って行った。美紗子も自分の瀟洒な腕時計に目を遣ると、母との待ち合わせ時刻には、まだ十数分あった。憲哉は、史跡の位置、距離や所要時間など、全て緻密な計算の上で行動していたのだった。

 二人がホテルの敷地へ入る弁慶堀に面した遊歩道を進むと、傍らに、ホテルそのものが紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡である碑が建ち、併せ、和歌山藩の来歴を記したパネルがあった。

 その説明文の末尾に、明治五年、紀伊と尾張の徳川家、井伊家のそれぞれの頭文字を合わせ、この地が「紀尾井町」となった旨、認(したた)められている。美紗子は息を呑んだ。

 紀尾井町の一流ホテルで食事ができる、そのことだけに自分は心がとらわれ、景色すら楽しむゆとりを失っていた。今、自分がいる町の名の由来を学び、理解を深めただけで胸が開かれ、光を得た思いであった。憲哉は、こうした輝くような気持ちを常に感じ取っていたのだった。自分もこんな豊かな人生を歩んでみたい……

「ちょっと、待ってよ!」

 美紗子は、小走りに、憲哉の後を追った。


 
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