わずかな坂道であった。
そこが綱坂という地と知らなければ、自然の起伏として気にも留めず行き過ぎてしまう。
小沢菜緒(なお)は、港区が立てた道標からそこが綱坂の上り口であることを確かめると、父が遺(のこ)したF・ベアトの作品を特集した横浜市発行のグラフ誌の頁(ページ)を繰った。
ベアトは、幕末に来日し、西洋化を急ぐ日本の風景を多く伝えている。この中に『薩摩屋敷』と誤ったタイトルをつけた作品を撮影しているが、その撮影地が、現在の東京都港区三田二丁目の綱坂の上り口であった。
菜緒は現在の景観と百四十五年前のそれを見比べてみると、周囲の建物こそ全く変わってしまっているが、道や坂はそのままで、父がよく口にしていた『歴史を肌で感じる史跡巡りの醍醐味』を実感した。
不意に、傍らの信号が赤であったことから、タクシーが小さくブレーキ音を上げ、停まった。信号が青になり、タクシーはすぐに走り去ったが、菜緒は思わず両耳を塞ぎ、しゃがみ込んだ。車のブレーキ音が恐ろしくてならないのだった。
十年前の初春、中学三年生であった菜緒は、『女は大層な学歴は必要ない、社会で活躍できる技能を一つでも多く修める時代だ』という父の言葉に従い、横浜市立の商業高校を受験した。しかし、合格の発表があったそのとき、無職で無免許の少年が、飲酒の上、高級車を盗み、暴走させ、通りかかった父を跳ねて死なせてしまったのだった。
遺族には何の保障もなく、幸い、母に生命保険と労災保険の他、遺族年金が支給され、生活には困らなかったが、高校合格を知らせられなかった深い悔いが、菜緒の心に深く刻み込まれた。
父は働き盛りの会社員であったが、時間を見つけては史跡巡りを楽しんでいた。その際に、『女の子はそんなことに興味ありませんよ』と苦笑する母の言葉も聞かず、幼い菜緒の手を引き、名所旧跡を連れ歩いた。菜緒も帰りがけ、ファミリーレストランで食事をさせてもらえることが嬉しく、来歴をまるで理解できずとも、父の後を追っていた。
菜緒は、父が亡くなってからは、ぴたりと史跡を訪ねるのをやめてしまったが、ふと気づくと、高校を出、七年間に職場を一回、二回と変わった月並みなOLとなって、環境だけは移り変わっても、心が止まっていた。
それが辛く、寂しく、何かが得られればと、JR田町駅から近い綱坂を訪ねたのだった。
タクシーが走り去っていくと、ふと傍らに人の気配を感じ、菜緒は顔を上げると、
「ほら、坂の右側には、備前島原藩松平家中屋敷の長屋塀が続いていたんだね。今は慶應義塾大学になっている」
十年前そのままの父が立っていた。菜緒は、目を疑い、立ち上がると、父その人の顔をじっと見入った。不思議と恐ろしいとは感じなかった。父は生前そのままに顔を輝かせ、
「慶應の上が、伊予松山藩松平家中屋敷でイタリア大使館になっている。菜緒も見てごらん」
「……おとうさん……」
茫然とする菜緒をよそに父は、生き生きと先に立って綱坂を上り始め、
「お前が座り込んでいた慶應義塾中等部のグランドの管理小屋は、昔は辻番所があった。今も昔も変わらないな。あはははは。坂の左側の木立の中には、陸奥会津藩松平家下屋敷があったんだね。今は三井倶楽部だ。こうして道や坂の形が変わらないのは、地権者が明確だったからだろう」
楽しそうにグラフ誌の誌面と町並みを見比べた。菜緒は、
「おとうさん……あの……あのね……」
今の自分の心の行き詰まりを相談しようと考えたが、どんな言葉を使っても死者に不安をかけるだけと思うと、言い出せない。父は、不意に娘の頭を鷲づかみにすると、乱暴になでくり回し、
「この先の天祖神社を抜けたところに、ベアトが『黒田家上屋敷』を写した場所があるんだ。お前一人で探してみなさい」
三井家の賓客接待用の三井倶楽部の前で言った。菜緒が父の指した方へ目を向け、戻したとき、既に父は消えていた。しかし、頭に父の温もりがはっきりと残っている。お前一人で……その一言に、父の娘に対する思い全てが込められているように思えた。
どれほど悲しい過去であっても、とらえ方によって無限の希望へと変えることができる、父の期待に終生、応えていきたい……輝く思いを胸に、菜緒は綱坂を振り返った。(完)
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小沢菜緒(なお)は、東京都港区三田にある綱坂に訪れます。菜緒の父は、史跡巡りが好きで、菜緒をよく連れ歩いていました。交通事故で突然に父を亡くしてからは、菜緒は史跡巡りをやめてしまい、喪失感の中で生きてきました。こうした年月に区切りをつけようとしたのです。
綱坂の上り口で菜緒が出会ったのは……小市民の読み切り短編、ご感想お待ちしています。