剣と魔導-6
『お掛けになった電話番号は現在使われておりません。もう一度ご確認のうえ、お掛け直し下さい』
駅のプラットホームに設置された、公衆電話の受話器から発せられた言葉は、衛宮士郎が全く予想していないものだった。
告げられた内容を理解するのに僅かながら時間を要し、不審な表情を浮かべながら受話器を戻した士郎は、役目を終えて吐き出されたテレホンカードを手に取ると、しばし間考え込むような仕草を見せ、やがてもう一度それを電話機に差し込んだ。
受話器を耳に当てた士郎は、今度は先ほどよりも慎重に、押し間違いのないよう電話機のボタンを一つ一つ確認しながら押してゆく。
だが、士郎の耳に飛び込んできたのは、先ほどと一字一句変わらない平坦な録音案内だった。
「………」
無言で受話器を置いた士郎は、より一層険しい表情を顔に浮かべた。
士郎が電話で連絡を取ろうとしていたのは、彼の自宅である。
転移事故から数えて七日、時空管理局の煩雑な諸手続きとやらが終わり、ようやく地球に帰ってくることが出来た。
トランスポーターで降り立ったのは、東日本にある海鳴市という所だった。
ここからは公共の交通機関を利用して冬木へと向かうということだったので、新幹線の待ち時間を利用して、深夜に突然いなくなってしまったことの侘びと、来客の知らせをするつもりで留守を預かっているイリヤと桜に連絡をつけようとしたのだが、結果はこの通りだ。
留守電に繋がるというならばわかる。通話中と言う可能性も考慮していた。だが、自宅に繋がらないとは一体どういう了見か。
十日前、帰国する際に連絡を入れたときにはこの電話番号で間違いなく通じていた。
よもやこの僅かの間に、電話番号を変えたのだろうか。普段ならば、一笑に付してしまいそうな考えを抱き、それならばと藤村大河の自宅である藤村組にも電話を掛けてみた。
電話が繋がり、受話器から人の肉声が聞こえた時は一旦は安堵したが、それもすぐに裏切られた。
応対に出た人間は、彼の姉代わりの人物でも藤村組の若衆でもない。それどころか、全く無関係な姓名を名乗った。
藤村大河のお宅ではないかと念のために問いかけてみるも、違うと返され電話を切られた。
通話切れの電子音が受話器から聞こえてくる中、きっかり一度数減って、三度吐き出されたテレホンカード。それを半ば無意識のうちに士郎は回収した。
何か、冷たく重いものが腹の中に降りてくる感覚が、士郎を襲う。
焦りにも似た感情を抱き、何かに急かされるように、もう一度カードを押し込もうとした士郎だったが、服を引っ張られる感覚に我に返って後ろを振り返った。
「衛宮さん、もう時間ですよ」
眉をへの字にした困り顔で、コートの裾を引っ張っていたのは、よそ行きの衣服を着込んだ赤毛の少年、エリオ・モンディアルだった。八神はやてが編成した冬木市調査チームの一人である。
時間という言葉に懐中時計を取り出し、現在時刻と駅の電光掲示板に表示されている新幹線の発車時刻を見比べる。
確かにもう時間が無い。エリオの後方にいるフェイト・T・ハラオウン、キャロ・ル・ルシエ、シャマルの三人も一体どうしたのかという顔でこちらを見ていた。
士郎は気付いていなかったが、先ほどからエリオは何度も士郎に声をかけていたのだ。一向にこちらに気付く様子の無い士郎に、エリオはコートの裾を引っ張って自分の存在を気付かせたのである。
「すまない、それじゃ行こうか」
返事が返ってくるのを確認すると、士郎はフェイトたちの元へと戻っていった。
「衛宮さん。どうかしたんですか?」
さきほどのエリオとのやり取りが気になったのだろう。子犬――変身魔法によって姿を変えたフリードである――の入ったケージを抱えたキャロが問いかけてきた。
「……家に連絡を取ろうと思ったんだけど、繋がらなかったんだ」
一瞬、告げることをためらうような素振りを見せたが、士郎は事実を口にした。
「留守だった。ということですか?」
続けて問いかけてきたのは、フェイトだった。
士郎は首を横に振って否定する。
「いや、そうじゃない。電話番号が使われてないって言われたよ」
口早に士郎は返答しつつ、床に置いてあった荷物を手にとった。
「それは、一………」
眉を顰めつつ発せられたフェイトの声は、突如起こった騒音によってかき消された。
まるでタイミングを見計らったように、駅のホームに新幹線が滑り込んできたのだ。
車両が停車すると乗り込み口が開き、列を作って並んでいた人が次々とその中へと入り込んでいく。
「フェイトちゃん、とり合えずその話は後で」
ホームの床においてあったバックを手に取ると、シャマルが列車に乗り込んだ。
物珍しそうに車体を眺めていたエリオとキャロが慌ててそれに続く。何か言いたげだったフェイトは言葉を飲み込むように口を閉ざすと、荷物を持ち上げ乗り込み口をくぐった。
最後に士郎が乗車する。車両に乗り込む直前、形容し難い漠然とした想いが胸をよぎり、士郎はふと足を止めた。
白と青のコントラストに彩られた車両をゆっくりと見回す。
見慣れたものだ。自分とて、日本列島を移動する際何度となく利用した交通手段だ。
ましてや、自分は今からこの列車に乗って故郷に向かうのである。ならば郷愁の念を抱くのが道理であるというのに。
だというのに、何故、自分は今胸騒ぎなど覚えているのだろう。
まるで足元から虫が這い上がってくるようなぞわぞわとした感覚が士郎を襲う。所詮錯覚に過ぎないと、不安を振り払うように息を吸って活を入れると、士郎は車両に乗り込んだ。
冬木市調査チームと銘打たれているが、その構成はライトニング小隊副隊長シグナムが抜け、その代わりに医務官であるシャマルが入っただけのものだ。
同世界出身者である八神はやて、高町なのはが構成メンバーに入っていないが、それには無論わけがある。
本来ならば、最低でも彼女らのうちどちらか片方が参加する予定だったのだが、本局経由で別件の任務が入ってしまったのだ。
古美術品のオークション会場、ホテル・アグスタの警備任務である。
士郎が六課に宿泊した翌日、朝一で次元漂流者の帰還及び、冬木市の調査を目的としたトランスポーターの使用願いを地上本部に提出した、その直後のことだった。
本局から送られてきた書類に目を通したはやては、タイミングの悪さに思わず溜め息をついた。
もっともその時には、『衛宮さんには申し訳ないけど、戦力の分散を避けるために帰還を先延ばしにしてもらおうかな』と考える余裕くらいはあった。
だが、その日の午後に送られてきた地上本部からの返答によって、溜め息は呻きに変わる。
トランスポーターの使用許諾の通知と共に、地上本部から送られてきた書類に目を通した途端、苦虫を噛み潰したような表情ではやては頭を抱えこんだ。
トランスポーターの使用許可日とホテル・アグスタの警備任務の日時が思いっ切り重なっている。しかもトランスポーターに関しては、地上部隊がらみの重要物資の運び込みがあるのだが、六課のために関係者各位に連絡を取って予定を調整してもらった。と、書類に付記されていたのである。
『そこまでしてくれなくてもいいですよ!』
はやては心の中で叫びをあげた。ここまでされてしまったら、『やっぱり使いません』などと言うことは出来ない。
ミッドチルダから他の世界に移動する場合、転移魔法かトランスポーターを使うことになるのだが、密出入国、密輸を防ぐため、無許可でこれらの魔法及び施設を使うことは出来ない。
使用するには当然許可が必要なのだが、このミッドチルダにおいて基本的にそれらは地上本部が管理している。
無論、ミッドチルダに設置されたすべてのトランスポーターが完全に地上本部の管轄化にあるわけではない。本局が押さえている箇所もあるし、いざとなれば自分の後見人達から手を回してもらうという選択肢もあるにはある。
機動六課は時空管理局本局の部隊だ。地上本部の都合を最優先にする必要はない。しかし、ミッドチルダに拠点を構えている以上、一定の配慮をしなくてはやっていけない。
思い出すだけでも気が重くなる。機動六課設立の際、地上本部の幹部達に挨拶回りをした時の事だ。
重鎮の一人にして、地上本部の影の支配者とも言われるレジアス・ゲイズ中将の、あの敵意に満ちた視線をどうして忘れられようか。
今回の地上本部の差配を無碍にしたとあっては、後でどんな難癖をつけられるかわかったものではない。
ただでさえ本局と地上本部の軋轢は深刻なのだ。つまらないことでさらに溝が深まり、それが足枷となって六課の機動力を削ぎ落とす。などどいう結果を招いては笑い話にもならない。
警備任務を断れば本局の心証を悪化させ、地上本部の都合を無視すれば今度はそちらと角が立つ。
あちらを立てればこちらが立たず。
考え抜いた末に、はやての下した決断は部隊の二分割。調査チームには、単独戦闘能力の高いフェイトと探査系能力に優れたシャマル。
ホテル・アグスタには強力な遠距離砲撃を持つなのはをそれぞれ配置することを決定した。
二つの任務が同時に進行するため、総指揮官であるはやては六課隊舎から動くことは出来ない。
後は、それぞれが動きやすいように残りのメンバーを割り振っていった。
そうなると、基本的にスターズ、ライトニング分隊のメンバー構成に手を加えないほうがやりやすかろうという結論に達し、ホテル・アグスタにはスターズ分隊と、シグナム、ザフィーラ、リィンフォースⅡが向かうこととなった。
「なのはちゃん、ほんまごめんな。久しぶりに地球のみんなと会えたかもしれんのに」
『にゃはは、しょうがないよ、任務なんだから。それにみんなに会いたかったのは、はやてちゃんも一緒なんだし』
今はどちらも異常なしということで、はやてはグリフィスに指揮を任せ、隊長室で執務をこなしていた。その合間に、既に現地に到着したなのはと定時報告がてら軽口を交わす。
こちらへの労いを含んだなのはの返事に、はやての口がわずかに弧を形作った。
「そう言ってくれると助かるわ。あ、後な、現場でちょっと人に会ってもらってもええかな?」
『構わないけど、私でいいの?』
「もちろん。なのはちゃんでないとあかん」
きょとんとした顔で問いかけてくるなのはに、はやてが笑みを浮かべて首肯する。さっきまでの微笑ではない。頭の上に狸の耳でも生えていそうなニンマリとした笑みだった。
『……ほ、ほんとに私じゃないといけないのかな?』
その笑みに何か不吉なものでも感じたのか、なのはが身を引き気味にして問いかける。
「ふっふっふっ、もちろんや。理由は会えばすぐわかるって。あ、向こうさんはこっちのこと知っとるから、なのはちゃんのほうから探さんでもええよ。ほんなら、会場警備よろしくな~」
『え、ちょ、ちょっと待ってはやてちゃ……』
それだけ言い捨てて、通信を切る。
一体誰と会えばいいのか、相手の情報をまったく持っていないなのはが慌てていたようだが、気にする必要はない。はやてはニヤリとほくそ笑んだ。
「ふ、計画通りや」
『はやてちゃんネタが古いです』
そんな彼女の脇に、ディスプレイが突然表示される。
通信を繋げてきたリィンフォースⅡは、開口一番はやてに突っ込みを入れた。
「なんや、リィン聞いとったんか。仕方ないやろ、日本のテレビ番組なんてDVDとかでしか見れへんのやから、しかも管理外世界やからそれすら手に入りにくいし、次にすずかちゃんらに会ったときジェネレーションギャップ感じたらどうしたらええねん。このままやと私らリアル浦島太郎や」
すかさず返されたボケに突っ込むべきか、スルーするべきか、一瞬リィンは悩んだ。はやては止まらない。
「そもそもやな、あの二人はこれくらいのサプライズがないと関係が進んでくれへん。十年、十年やで、出会ってそんだけ時間がたってるのに、しかも私らがあんだけ応援したのに未だお友達なんて一体、どういうことやねん」
椅子を蹴って立ち上がり、炎を背負って天に吼える夜天の王。付き合ってると職務がこなせそうにないので、リィンはさっさと報告を行うことにした。
『そのユーノさんからさっき連絡があったです。例の調べ物の件についてだそうですよ』
「データは六課に送ってくれるよう言うといて、書類のほうは高町一等空尉が担当者やから、ホテル・アグスタで受け渡しよろしくって」
付き合い悪いな。などと内心思いつつ、一瞬にして指揮官の顔に戻ったはやてはリィンに指示を出す。
『了解です。調べ物ってあれですよね。士郎さんの言ってた魔術師の件」
「そや、無限書庫なら何かわかるかもしれへんしな。ユーノ君も仕事が忙しいみたいやから時間がかかってしもたけど」
軽い溜め息が漏れる。本当なら、フェイトたちが出発する前に結果が知りたかった。
『魔術師……先に士郎さんの家によってから調査に入るんですよね?』
リィンの問いにはやては頷く。
「一応、挨拶とかしといたほうがええやろ。人様の庭先で余所者が無断でうろついたら、ちょっと問題あるからな」
『はいです。でも、地球の魔術師の家ってやっぱり、映画に出てくるような古めかしい洋館みたいな感じでしょうか?』
顎に手を当て、小首をかしげるリィンに、はやては人差し指を振りながら返答する。
「甘いな、私は一般人に溶け込むようにして、近代的なマンションなんかに表の顔を持って住みついとると見た。ま、フェイトちゃんから報告上がってくれば答えはわかるよ」
からからと笑うはやて。リィンもそれに同意するように頷いた。
『そうですね。地球の魔術師、どんなお家に住んでるんでしょうか』
廃屋と形容するしか他にない。
それが冬木市深山町の、閑静な住宅街の一角に建てられた武家屋敷の門前に立った者達の共通の見解だった。
予想だにしていなかった光景を目の当たりにして、冬木市調査チームの面々は困惑に言葉を失った。
視線を横にそらしてみれば、そこにあるのはひび割れ、汚れの張り付いた漆喰塀。
長年補修もされず風雨にさらされ、さらには苔と雑草の繁殖を許した屋根瓦は元は規則正しかった並びを出鱈目なものへと変えていた。
門扉は固く閉ざされ、掛けられた年代物の錠前に浮いた錆は、もう何年も中に人を入れたことがないことを窺わせる。
シンと静まり返った門の向こうに人の気配などあるはずがない。狐狸妖怪の類が在宅している見込みのほうがまだ高いだろう。
こんなところが魔術師の家宅なのかとフェイトは思わず息を呑み、傍らに立つ士郎に視線を向ける。
だがそこにあったのは、彼女以上の驚愕を顔に浮かべた男の姿だった。
「一体、どういうこと…なんだ」
目の前の光景が信じられないといった風情で士郎は歩を進め、門の前に立つ。
愕然とした表情はそのままに、ゆらりと持ち上げた右手で士郎は木造の扉に触れた。
埃が手に付着する。ささくれ立った木材の感触が手のひらをつつく。七日前、イリヤと共にくぐったこの門はこれほど荒れ果ててはいなかった。
こんな僅かの時間のうちに、我が家はここまで荒廃したとでも言うのだろうか。
だが、だとすれば、イリヤは一体どこに行ってしまったのか。
士郎は何かを探すように一度首を巡らせて門扉を眺めると、そのまま目を閉じた。
「同調開始(トレース・オン)」
「衛宮さん?」
いきなり魔術を行使した士郎に、フェイトが驚きの声を上げる。
「基本骨子、解明」
問いかけるフェイトには目もくれず、淡々と詠唱を続ける士郎のただならぬ雰囲気を察したのか、フェイトとシャマルは緊張の入り混じった表情で顔を見合わせる。
そして、どれくらい時間が経っただろうか、扉から手を離し、士郎は一歩後ずさった。
力なく下げられた両腕は、だが拳のみは固く握り締められ、小刻みに震えている。
亡羊とした眼差しは宙を泳ぐようにしてふらふらとさ迷い、最後にフェイトのところへと向けられた。
褐色の肌の上からでもわかるほど、顔色が悪い。何か、迷うような素振りを見せていた士郎は意を決した様子で口を開いた。
「……なあ、ここが、この世界が、本当に地球で間違いないんだよな」
「え?」
言わずもがなの大前提を今更ながら確認され、フェイトは面食らう。
「答えてくれ」
先ほど行使した魔術で一体何を知ったのか、そんな思考が頭の片隅をよぎったが、迫る士郎の気迫に押されて、フェイトは首を縦に振った。
「……そう…か」
途切れ途切れに言葉を搾り出し、士郎は後ろを振り向いた。
荒屋を見つめるその横顔に浮かんでいるのは一体どんな感情なのか、フェイトにはわからなかった。
その表情が不意に引き締まる。再びフェイトに向き直った士郎は、ただ一言だけ告げた。
「街を見てくる。後で合流しよう。」
そしていきなり駆け出した。
後ろから、驚き、呼び止める声が聞こえてきたが、士郎は振り返らない。
彼女達を振り切って、わき目も振らず深山町の路地を駆け抜ける彼の心中は、穏やかなものではなかった。
先の魔術で士郎は門に蓄積された年月、来歴を読み取っていた。
あるいは、何かの手がかりを得られるかも知れないと、藁をも掴む思いだったのだが、掴んだのは藁どころではなかった。
遡って約二十年の間、あの門は補修をされたことがない。
ありえない話である。彼の記憶が正しければ、あの屋敷は十八年前、養父切嗣が名義を買い取り、その後人が住めるように手を加えたはずなのだ。
切嗣の没後も何度か屋敷の修繕を行っているし、簡単なものならば、士郎自身が直している。
それが一切読み取れない。それどころか、近年人が踏み入ってすらない。
万が一にも読み違いがあってはならないと、念を入れて読み取りを行ったが結果は同じだった。
彼の屋敷に一体何が起ったのか、とにかく、誰か事情の知っていそうな人物に会う必要がある。
走る士郎の目指す先は、遠坂邸。今現在、セカンドオーナーである遠坂凛は時計塔に在籍中で留守だろうが、管理者代理を務める間桐桜がいるだろう。
ちりちりと焦慮が胸を焦がす中、士郎は坂を駆け上がる。向かう道すがら、ふと思った。七日前に見た、彼の記憶の中にある街並みと、今目にしているものが一致していない気がする。
新都から深山町に来るまでの間にも何か違和感を感じてはいたが、新都は発展著しく、また自分も仔細眺めたわけではなかったから、記憶違いなのだろうと思っていた。
だがそれが士郎の勘違いなどではなく、紛れも無い事実であるならば、それは……
坂を駆けあがったところで士郎は足を止めた。駆け詰めの足を休め、乱れた息を整える。しかし、いくら体の調子を整えようとも、眼前に広がる光景によって、逆に彼の心は動揺が深まるばかりだった。
「……遠坂邸が…無い…」
そう、小高い丘の上に建っているはずの、冬木のセカンドオーナーの住居であった古めかしい洋館は、影も形も存在していなかった。
冬木第二位の霊脈、そこに建てられていたのは、あの館とは似ても似つかない、歴史は感じ取れても魔術的な要素など皆無の洋風建築だった。
「そんな、馬鹿な……」
これが改築の類でないことなど明白。移転など論外。
しばし、呆然と立ちすくんだ士郎は、やがて踵を返すと坂を駆け下りていった。事情を知っていなくてもいい。魔術に関わりの無い者で構わない。もう、自分と知己のある人物なら誰でもいいから顔を見たかった。
休息もせず、深山町をひた走る士郎の願いは、しかし叶えられることは無かった。
間桐邸がなかった。藤村組が存在しなかった。
まるで士郎と関わりのある人物と場所だけがそっくりとくり貫かれ代わりのものがはめ込まれているようだった。
半ば意地となって、ついには深山町の外れ、円蔵山に敷かれた石段まで駆け上った。
彼の記憶と同じく、御山の中腹に柳洞寺は存在こそしていたが、大聖杯が設置されていた大洞窟『龍洞』は観光名所として一般公開されていた。
出入り口付近には堂々と看板と受付が設けられ、小さいながらも売店まで置かれている。
観光客の集団がガイドに連れられ、談笑しながら和気藹々と洞窟の中に入っていくその光景は、もはや質の悪い冗談としか思えなかった。
いっそこれが悪夢か、あるいは何者かによって掛けられた幻術の類であったならどんなにましであったことか。
だが、これは覆しようの無い現実であった。
ついに足を動かす気力すら萎え果て、士郎は近くに置かれていた椅子に座り込んだ。
体が重い。肉体ではなく、精神面での疲弊が大きい。
胸のうちに蓄積され、とぐろを巻いていた疑念と苛立ちを士郎は吐息に変えて吐き出した。
本当に、これは一体どういうことなのか? 先に自分にかかわる部分だけが無くなっていると評したが、見方を変えれば、それは神秘にかかわる部分だけが、そっくりと取り除かれていると言ってもいい。
そんな馬鹿げた話があるものか。秘匿されているのではなく、そもそも存在しないなど、
-地球に魔法文明は存在しません-
不意に、その言葉が思い出された。高町なのはの話を聞いてから今に至るまで、喉に刺さった小骨のように、思考の片隅に常に存在していた言葉。
何度仮説立てても、どんな考察を練ろうとも、高町なのはの語った地球と、衛宮士郎の知る地球とが、どうしても完全に重なり合わなかったその理由。今の今まで思い至りもしなかったそれは…
「ああ、そうゆうことなのか」
どれだけ試行錯誤を繰り返しても、はまり切る事の無かったパズルのピース。今にして、それはようやく収まるべきところに収まった。
大きく息を吐き出し、一人得心が言ったように力無く頷き立ち上がると、士郎は柳洞寺に背を向けて黙々と御山を下り始めた。
既に、彼の胸中に柳洞寺への関心は無かった。わざわざ入場料を払ってまで龍洞の中を確認する必要など無い、そこに大聖杯が存在しているはずがないのだから。
もうほとんど、答えは決まったようなものだが、最後の念押しにと、未遠川に架けられた冬木大橋を渡って新都に向かう。
向かう先は衛宮士郎の始まりの場所。
死を受け入れた自分を、衛宮切嗣が助け出したあの焼け野原の跡地。
彼の考えが正しければ、そこにはきっと、あるはずのものが無く、無いはずのものが存在しているだろう。
新都の街並みを抜け、目的地が近づくにつれて、自身の仮説が正しいのだと確信する。
霊脈の存在が察知できない。そして、彼の記憶と比較しても、空気が澄みすぎている。
当然の話である。彼の地は冬木に存在していた三ヶ所の霊脈が魔術的な加工を施されたことによって発生した後発の霊地。
よって、それがなければ、誕生するはずが無いということである。
彼とて、曲がりなりにも魔術師、遠坂邸――この世界では洋風建築が建っていたが―― と柳洞寺を訪れたとき、霊脈の流れは調べていた。
二つの霊脈には、人の手が加えられた形跡がまったくない。それが意味するところはつまり、この冬木市には魔術に関わるものなど、最初から存在していなかったということであり…
思考に沈む士郎の顔が上げられる。ついに、その建造物が士郎の前に姿を現した。
-冬木市民会館-
公共施設というよりは、まるで古代の神殿を復元させたと言ったほうが良さそうなその施設こそ、第4次聖杯戦争最後の決戦の地となった場所であった。
かつて聖杯降臨の地に選ばれ、その代償としてついに落成を果たすことなく、泥と炎に飲まれて燃え尽きた館。
市の記録には冬木大火災と記されたその大火事で焼け落ちた一帯の跡地は、市民公園に姿を変えたまま現在に至る。
もはや、冬木市民の記憶の中にしか存在せず、それを知る者も大半が忌まわしい記憶として忘却の彼方へと押しやった幻の地。
それが今、士郎の目の前に建っている。夢幻ではない、紛れも無く現実の、市の施設の一つとして、ここは機能している。
まるで、もしもの世界に入り込んだような気分だった。
この世界には、もしかしたら衛宮の性を持たない士郎が存在しているのだろうか。
そんな感慨を抱けるほどには、士郎も動揺から立ち直っていた。
つと、市民会館の全貌を眺めていた士郎だったが、不意にその表情を顰めた。
この冬木市に、お前の居場所など何処にも無いと、まるでそう宣告を下された気がしたからだ。
軽く頭を振る。確かにこの冬木市は自分の帰る場所ではない。
「……いた」
もう立ち去ろうと思った士郎の背後から、唐突に言葉がかけられる。振り向けばそこにいたのは、息を整えながらこちらに近づいてくる金髪の女性。
あれから自分を探して方々を駆け回ったのだろうか、だとすれば悪いことをしてしまった。独断専行を内心詫びる一方で、自分も彼女達もとんだ無駄足を踏んだという皮肉な想いもまた、士郎の胸の中をよぎっていた。
地球。思えばその言葉こそが最大のミスリードだった。
なまじ日本語で語り合ってしまったからこそ、自分達の出身地が同一であると思い込み、それ以外の可能性を検討することすらしなかったのだ。
もとより、第97管理外世界『地球』と時空管理局の有り様こそが、彼の知る地球とは余りにも噛み合わないものだった。
トリックにさえ気づいてしまえば、種々の要因から導き出される答えなど一つしかない。
つまりこの世界、第97管理外世界『地球』と、衛宮士郎の故郷である「地球」は、良く似ているだけの、まったく別の世界だということだった。
ホテルのロビーに設置された自動販売機に硬貨を放り込むと、それは当たり前のように受け入れられた。
そのまま商品サンプルの下に設置されたボタンを押すと、これまた当然のように受け取り口にペットボトルが落ちてくる。
蓋を開け、中身を一気にあおる。口内に広がるのは、自分にとって馴染み深い市販品のお茶の味だった。
こんなところだけはそっくりなんだな。と、衛宮士郎はいささか複雑な面持ちを浮かべる。先ほど使った硬貨は、自身の世界の物。そしてそれで買った飲料の味は、彼の記憶の中にあるものとまったく同じだった。
口中のお茶を嚥下すると、士郎は首を横に向けた。一夜の宿としたホテルの、窓ガラスの向こうに広がっているのは冬木市新都の夜景だった。
その光景に既視感を覚え、溜め息を一つ吐く。この世界は、どうしてここまで己の世界と似通っているのかと、そんな想いがこめられた吐息だった。
そんな憂鬱な感情諸共に、ペットボトルに残っていたお茶を一息に飲み干す。内心の苛立ちをぶつけるように、空になった容器を乱暴にくずかごへ投げ込んだ。
実は、士郎が一人で飲み物を買ってくると言った時も、あまり良い顔はされなかった。
昼間の独断行動が原因であることくらいはわかる。謝罪して許してもらったが、それだけでは割り切れないものもあるだろう。今夜くらいは部屋で大人しくしているべきだと自分でも思う。
ただ、どうしても一人で考える時間が欲しかったのだ。これからどうするべきなんだろう。と、士郎は顔を曇らせた。
彼女達が士郎の世界について何も知らないのは確実だろう。時空管理局が捕捉していないとなると、何とか自力で戻る手立てを考えなければならない。
しかし、どうしたものか。剣製に特化した魔術師である衛宮士郎でも実行可能な、異世界を渡る方法。
そんなもの、とても思いつかない。飛ばされたのが遠坂あたりだったら、なにかいい案を思いつくかもしれないが、あいにく巻き込まれたのは自分である。
いっそ、己の知っていることを洗いざらいぶちまけてしまうのも、一つの選択肢かと思ったが、それも躊躇われた。
彼女達がこちらの身を案じてくれている事はわかっている。わかってはいるのだが、それとこれとは話が別だ。
士郎の弁護をするならば、彼とても彼女たちのことを信用していないわけではないのだ。
短い期間ではあったが、その中で知った彼女達の人となりは、神秘の世界に関わってきた身としては心地よいものであったと言える。
問題なのは士郎の世界のほうであった。魔術協会や、聖堂教会にこの事が知られたらどうなるか。そして、連中の所業を時空管理局が知ったらどうするか。
何処をどう考えても、かの二大組織が彼女達とにこやかに握手するような展開など想像できなかった。
むしろ、流血の惨事を引き起こすだろう。
そしてその時に、無関係な一般人にも被害が及ぶであろう事など想像に難くない。
そんなこんなで、士郎としてはとても真実を明かす気になれず、何とか誤魔化して事を穏便に済ませたいという思いがあった。
とは言ったもののどうするか、これ以上、こちらの情報を隠したままで彼女達の協力を得られるというのは、流石に虫が良すぎる考えか、やはりもっと腹を割るべきか、しかしそれでは……
ゴトリ、と、不意にロビーに響いた音で、士郎は我に帰った。隣の自販機で誰かが飲み物を買ったようだ。
いけない、思考が堂々巡りに陥りかけている。こういう時に無理に頭を働かせても、いい考えは浮かばない。とりあえず、一度休むべきか。
自分の状態を自覚した士郎は、軽く頭を振って踵を返し、エレベーターホールに向けて歩き出した。その背中に、
「元の世界に戻れなくて、困っているようだな」
そんな言葉が、かけられた。
まるで冷水を浴びせられたように、士郎の意識が覚醒した。半身を開き即座に身構える。後ろに佇んでいたのは、一人の少女だった。
「七日振りだな。お互い元気そうで何よりだ」
脳裏に記憶が蘇る。柳洞寺地下の大洞窟『龍洞』で遭遇した時とは違い、あのコートを除いて、今は年相応の衣服を着込んでいるが見間違えようがない。
自分が異世界に来ることになる切欠となった、銀色の髪の少女がいた。
「そう、警戒しないでくれ。私は話をしに来たんだ。衛宮士郎」
それにしても一体いつの間に現れたのか、そんなこちらの考えなど気にする素振りも見せず、少女は小さく一つ頷くと、敵意が無いことを証明するように、無防備にこちらに歩み寄ってくる。
「あの時は名乗る事が出来る状況ではなかったな。改めて挨拶せてもらう。私の名はチンクという」
チンクと名乗った少女は、相手の狙いを見極めようとしている士郎の目の前まで来ると、ピタリと立ち止まり、士郎の顔を見上げてきた。
「私がここにいることが一つの証拠になるだろうが、どうだろう。お互いのためになることなんだが、少し話をしないか?」
身長差およそ40センチ、それに臆することなく、少女はじっとこちらを見上げてくる。
思案のしどころであった。こちらはもう手詰まりに近い。彼女の話とやらの中に、この状況を打破できるような手がかりがあるのならば、それだけでも話を聞く価値はある。
真摯な、と言ってもいい少女の顔を静かに見返していた士郎は、フム、と一度頷いた。
それを了承の返事と受け取ったのか、チンクは右手を持ち上げて、ロビーの一角を指し示す。
そこにあるのは、ホテル内に設けられた喫茶店。そこで話をしようということか。
スタスタと先に歩いていってしまった少女の後姿を見て、士郎はふと、引き締めていた表情を緩めた。
うん、まあ、これがすごく真面目な場面で、油断しちゃいけないのは十分わかっているんだけど、
……どう見ても、背伸びをしてる小学生にしか見えないなぁ。と、不覚にも士郎はそんなことを考えてしまった。
剣と魔導-6 終
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第6話
チンク姉がやっと士郎と会えました。