孫文台にとっての誤算。ひとつは、荊州の戦力が調査段階と現状で大きく違っていたこと。今彼女が攻めている江夏は、永らく太守が不在で、戦力とて有志の集まりによる義勇軍五千がいるだけのはずだった。だが、実際に到達してみれば、そこには三万の兵が展開し、自分たちを迎え撃って来た。
そしてもうひとつの誤算は、その荊州軍を率いる将。その人物の顔を見たとき、孫堅は複雑な気分になった。
「まさか生きておいでだったとは驚きました。しかも、荊州軍の幕下に加わっておられるとは、思いもよりませんでしたよ。……董相国」
そう、孫堅軍と対峙する荊州軍を率いるのは、元漢の相国である董卓その人だった。
「ご無沙汰してます、孫堅さん。ですが、相国の位はとっくに捨てました。ここにいるのは徐州の牧・劉北辰の配下である、ただの董卓仲頴です」
馬上で孫堅を見据え、そう答える董卓。
「なるほど。……ならば、あなたの後ろに人たちも、同じ立場ということでいいのかしら?」
孫堅は董卓の後ろに控える、三人の将を指し示す。
「……私はまだ、一刀に直接会って、幕下に入ることを認めてもらっていないがな」
白馬にまたがった人物がぽつりという。
「心配するな白蓮。一刀ならお前が無事だったのを知ったら、大喜びで迎えてくれるさ」
「そ、そうか?」
自身を慰めてくれた華雄に、喜色の顔を向ける、白蓮こと、公孫賛。
幽州で袁紹に敗れた後、妹の公孫越とともに一旦は徐州へと向かった公孫賛だったが、一刀が徐州を追われたことを知り、その足で荊州へと向かった。そして、ここ江夏にたどりついたき、ある一件から長老に気に入られ、ここの義勇軍をまとめる事となった。そして、新野に一刀たちが居ることを知ると、すぐに会いに行こうとしたのだが、孫堅が江夏に攻めて来たため、援軍の使者だけを出した。その援軍としてやってきたのが董卓たちだったわけである。
「桃香がどう思うかは知らないけどね」
「あう」
賈駆がそんなことをぽつりと言うと、喜色から一転、引きつり顔で固まる公孫賛。
「詠ちゃん、あんまり白蓮さんをからかっちゃ駄目だよ」
「はいはい」
董卓にたしなめられ、そっぽを向く賈駆。
「こほん。……では、私から質問させてもらいます、孫堅さん。なぜ江夏、いえ、荊州を欲するのですか?すでに孫家は揚州の全土を、その支配下に置き、その国力は中原の曹操さんにも劣らないはず。なぜ、更なる領土を求めるのですか?」
孫堅をそう詰問する董卓。
「……。大陸に平和をとか、漢には最早威光はないからとか、そんな建前は言わない。私が望むのは孫家百年の安泰。そのために、荊州という肥沃な地が欲しい。それだけよ」
孫堅が董卓に向かってはっきりと言う。
「つまり、孫家が安泰ならそれでいいと、そうおっしゃるんですか?」
「それの何が悪い?こんな世の中ですもの。自分の家と家族を守るのが悪いこと?」
「……わかりました。なら、話すことはもうありません。……詠ちゃん」
「……いいのね?」
「うん」
悲痛な面持ちで賈駆にうなずく董卓。
さ、と。賈駆がその右手を掲げると、それを合図に「董」の旗が左右に大きく振られる。
「何?何の合図?……?!伏兵?!」
きょろきょろと辺りを見回す孫堅たち。だが、それらしき姿は見えてこない。
「……陸と水上、あわせて五万の兵を動員してきたのはすごいわね。でも、同じ攻めて来るなら、陸兵だけにすべきだったわね」
「どういうこと?」
賈駆の言葉に首をかしげる孫策。そのとき、
じゃーーーん、じゃーーーん、じゃーーーん!!
銅鑼の音が突如として響き、上流の山陰から、十隻ほどの船が姿を現す。そして、すさまじい速度で孫家の水軍へと突撃する。
「水軍!?荊州の?!……ってちょっと待って!!あの船たち、船足が速すぎない!?」
そう。突如現れた船たちは、通常の倍ほどの速度で水面を疾駆していた。
「走舸よりも早い船などあるわけがない!!それに、あの大きさでは大した人数も乗れぬではないか!!」
「あれは走舸ではない。それをさらに小型・軽量化した”駿舸”(しゅんか)という船だ」
動揺する孫堅たちにそう説明する、華雄。
駿舸。
従来の走舸と呼ばれる小型船を、さらに軽量・小型にし、そして、風をしっかりと受け止められる新しい帆を付けた、荊州軍の新型船である。ただし、その分かなりもろくなり、搭乗できる人数も最大で三人まで。それゆえ、普段は伝令用にしか使い道がないのだが、今回のような水上での奇襲にはうってつけであった。
「まずい!!冥琳!船の者たちにすぐ迎撃させよ!!」
「ぎょ、御意!!」
慌てて水上に居る船団に指示を出させる孫堅。だが、すでに遅かった。
十隻の駿舸は、瞬く間に孫家の船団の真ん中に突っ込んだ。そして、”油壺”と”火矢”を同時に放つ。その油壺のひとつに、火矢が一本当たった瞬間、全ては決した。
孫家の船団は、あっという間に炎に包まれた。折からの風にあおられ、火は次々と僚船に燃え移り、長江を赤く染め上げる。兵士たちは次々と河に飛び込んで逃亡し、孫家の誇る船団は長江へと沈んでいく。その中には、大量の糧食を積んだ船もあった。
「そ、そんな……」
地に膝を着き、愕然とする孫策。天を仰いで歯噛みする周瑜。
わずか十隻の船。それが投入されただけで、孫家の敗北は決定的なものとなった。なぜなら、孫家の主力は水兵であり、陸兵はわずかに二万。しかも、糧食は万が一のためにと、船にそのほとんどを積んであった。それは全て長江の藻屑と消え、自分たちに残された糧食はわずか一日分のみ。さらに、目の前に展開する三万の兵は、異民族との戦いを永年繰り広げてきた涼州の騎馬兵。……勝てる道理は、最早目に見えて、無かった。
「……孫堅さん。降伏か、それとも撤退か。どちらかを選んでください。降伏するならば、手厚く迎えます。撤退するのなら、私たちは追撃しません」
董卓の言葉に、驚く孫家の面々。
「追撃しないですって?それを信じろと?」
当然のように、疑念の目を董卓に向ける孫堅。
「……詠ちゃん、全軍に撤退の命を」
「わかったわ」
董卓に促され、兵たちに指示を出す賈駆。
それを見た孫策が、
「あなたたち!!一体何を考えてるの!?ほぼ完勝した戦で、敵の首も取らず、しかも見逃すなんて!!」
そう疑問をぶつける。
「……一刀さんの目的のため、です」
そう答える董卓。
「劉翔の目的だと?それは一体なんだ?漢の復興か?大陸全土の制圧か?!」
今度は周瑜が董卓を問いただす。
「……大陸に平穏を。誰もが笑って暮らせる国を。それを阻むものはけして許さない。それがたとえ、自分を否定することになっても。……だそうです。それでは」
それだけ言って背を向ける董卓。
「……ふ、ふふふ」
不意に笑い出す孫堅。
「母様?」
「あっはっはっは!!聞いたかいお前たち!!今の台詞を!!」
「……はい」
周瑜が、自身の眼鏡を直しながら、孫堅に頷く。
「民が笑顔で暮らせれば、それでいいか。つまり、為政者すら誰でも言いというわけだ。自身が血を引く漢室ですら、民をおびやかすなら要らないって言うのかい!!」
はっはっは!!と、大声で笑う孫堅。
「自分たちの家を第一義に考える。それが普通だ。特に乱世という今は。なのに、それすら民のためなら捨てるか。……あたしらの完全な負けだね。……参った参った」
そう言いながらも、晴れやかな顔の孫堅。
(母様が負けを認める男、か。……うふ、いいこと思いついちゃった)
「ね、母様。ちょっとした提案があるんだけど」
「?なんだい」
「あのね。柴桑に戻ったら蓮華に……」
何事かを孫堅に耳打ちする孫策。
「……。雪蓮、あんた、良いこと思いつくじゃないか!!よし!!そうと決まればすぐ柴桑に帰るよ!!」
なぜか大慌てで、撤退を始める孫家軍。その急ぎっぷりは凄まじく、二日後にはもう柴桑にたどり着いていた。
そして、柴桑ではまたひと悶着あるのだが、それはまた後の機会に語る。
ところ変わって江陵。
その城壁の上で、蔡瑁は茫然自失としていた。それはそうだ。自身の援軍としてきたと思っていた荊南軍が、襄陽軍とともに城を取り囲んでいるのだから。
その数、五万。
旗は、三つの劉に、関、張、黄、袁、陳、徐、趙、龐。
しかも、包囲が始まってわずか三日で、江陵の兵たちは次々と逃亡、もしくは襄陽軍に投降し、城内に残っているのはわずか二千。自身の子飼いの兵千五百と、仲達から借りた五百の虎豹騎。将といえば、自身と弟の蔡勳に、従兄弟の蔡和・蔡中だけ。人質に使おうと思って捕らえていた、伊籍と韓嵩も、脱走した兵たちの手引きで逃亡。
もはや残された手はただ一つ。敵中の強行突破。そして、仲達に保護してもらうしか、蔡瑁には道が残されていなかった。
だが。
「待て、蔡瑁!!逃げられると思うな!!」
「弟はすでに捕らえた!!貴様もおとなしく降れ!!」
「従兄弟の二人は死んだぞ!!貴様も同じ道を辿るか!?」
夜陰に乗じて蔡瑁たちは城を抜け出し、一目散に北を目指した。しかし、一刀たちもそれは予測していた事だった。次々と群がる襄陽軍の兵士たち。蔡瑁とて、将軍を務めるだけの実力持ちだ。彼らをなぎ払い、時には避け、必死に逃げた。弟や従兄弟たちがどうなろうと知ったことではなかった。自分が生きていればそれで良い。自分さえ無事なら、いくらでもやり直しが効くと、蔡瑁はそう思っていた。そして、包囲を破ったと安堵した、その時だった。
「……いい加減に観念してください」
一人の少女が蔡瑁の前に立ちふさがった。
「……琦君か。病気を押してわざわざの出陣とは、ご苦労なことですな」
荊州の牧、劉琦。その人である。
「蔡叔父御。何故、私を認めてくださらぬ?父のやり方に反発していたのは聞いているし、私も父上の方針は間違っていたと思う。ならばこそ、私に代替わりした今、私の元で存分にあなたの力を発揮すればよかったではありませんか」
悲しげな目で、そう蔡瑁に語りかける劉琦。
「……ふふ。確かにそうかもしれませんな。しかし、全てはもう遅いのですよ。仲達さまに出会う前であれば、あなたの言に心動かされたかもしれませんが、仲達さまという絶対の存在を知った今となっては、全ては耳障りな雑音にしか聞こえませぬ」
それだけ言うと、剣を構える蔡瑁。
「叔父御!!どうか考え直して……!!」
「もはや問答無用!!……死ね!劉琦!!」
劉琦に向かって突っ込む蔡瑁。
「叔父御!!」
すれ違う両者。そして。
ドス!!
蔡瑁の胸に突き刺さる、劉琦の剣。
「……叔父御」
「く、くく、くくく、くくくくくくかかかかかか!!!!!!」
「!?」
剣が胸に突き刺さった状態のまま、大声で狂気の笑い声を上げる蔡瑁。
「私を殺して、悲しいか?そうか、カナシイカ。カナ・シ・イ、イ、イ、イイノノ、カカカカ」
がくがくと震えだす蔡瑁の身体。
「ワワワ、ワタ、ワタ、ワタシ、ワタシィィィヲ、コココ、コロシシテ、コ、コロシ、コロシテ、コ、コロシテ、クレ、キ、クン。タ、タノ、ム。ワタシガ、ワタシデアルウチニ……!!」
目から血の涙を流し、かろうじて正気を保とうしながら、そう懇願する蔡瑁。
「沙耶。……君が、楽にしてやれ」
劉琦の隣に立つ一刀が、そう促す。
「……はい。一刀叔父さま」
「ハ、ハハハヤク、シテク、クレレレ!!!!」
「……さよなら、蔡叔父さま」
ざくっ!!
ごろん、と。蔡瑁の首が地に落ちる。
こうして、荊州の騒乱は幕を閉じた。
そして、それから一月後。
ある知らせがもたらされる。
河北の袁紹が、曹操に決戦を挑むも返り討ちにあい、その生死が不明となった、と。
曹操は河北を瞬く間に制圧し、残党がりを大々的に行っているらしい。そして、それを行っているのが虎豹騎であり、その指揮官が、司馬仲達という女であると。
最後に、一刀たちを真に驚愕させる報せが、飛び込んできた。
曹操孟徳、魏王に封じられ、国号を魏と定める。
さらに、
南征を宣言し、すでに宛県が魏の手で陥落。
太守丁原らの消息は不明。
近々、五十万の本隊が許を出立する。
と。
新たな、そしてさらに大きな嵐が、荊州に襲いかかろうとしていた。
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刀香譚第二十六話です。
ついに荊州編が決着します。
楽しんでいただけたら幸いです。
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