No.157998

『Westermarck effect』-my little Darling5- 前編

エヴァンゲリオンのキャラクターを使った二次創作。
本編のスピンオフではなく、いわゆるパラレルワールドものです。
ある日、高校教師のアスカは教え子で幼馴染みのシンジに恋をしていることに気付いてしまった。

hikaru名義でどこかのサイトにアップしたものを加筆修正しました。

2010-07-15 23:04:50 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:2817   閲覧ユーザー数:2757

 『Westermarck effect』-my little Darling5- 前編

 

 《ウェスターマーク効果》という学説がある。

 幼いころに近しい環境で育った男女は恋愛感情を抱きにくく結婚にいたる可能性が低い、というもので、インプリンティングの一種らしい。

 もっとも、否定的な意見も多く、確立したものではないということだ。

 高校教師、惣流アスカは就寝前のベッドで読んでいた小説のなかにその言葉を見つけていた。これは、ストーリーを盛り上げるための創作設定なのだろうとその場では決めつけたが、とはいえ幼馴染みで結婚しているというカップルを作り話のなかくらいでしか聞かないな、というのも脳裡に引っかかってはいた。

 父親ゆずりの赤みのかかったブロンドをナイトキャップで覆い、母親譲りのサファイアカラーの瞳を閉じると、明日になれば忘れるようなことだと思いながらアスカは眠りについていた。

 

 

 日本全国的に夏休みの後半である。

 全国の児童生徒が残りの宿題を気にするなか、その宿題の調べものがあるという教え子の碇シンジにくっついて、アスカは市の図書館にやってきていた。

 図書館は思いのほか混んでいて、暑いさなかでクーラー目当てにきている者もあからさまにいたが、声を発すのは憚られるような空気ではあった。

 

 シンジはひとりで忙しそうにしていて相手にしてくれそうになかったから、てもちぶさたでアスカは目にとまった月刊の科学雑誌を手に取る。と、そこにかすかに記憶に残る《ウェスターマーク効果》という言葉が載っていた。

 おもわず声をあげてしまうのをどうにか呑みこむ。しばらく前に目にした単語だったが、覚えていたことにもかすかな狼狽をした。

 小説に書かれていたことは間違いではなかった。まるでこの雑誌から引用されたかのようで愕然とした。

 しかし、専門で学者が研究したからといって、間違っていることはある。

 そもそも、多くに認められた説ではなく否定的な意見もあるのだ。

 美容健康法がとなえられては、後に否定されることがこれまでにどれだけあったことか。

 地球寒冷化の原因、バランスのいい食事の比率など、なんど二転三転したことか。

 そして物事には例外というものがある。

 一種の心理学でもあるこういったものには、あてはまらないことだってあるはずだ。

 吊り橋で告白すれば必ず成功するというものではないということだし、近しい環境で育った男女、という定義が明確ではないとも思えた。

 『五ついじょうの歳の差があれば関係がないとか?』

 高校三年生のシンジとは、歳が五つはなれている幼馴染みである。

 生家が近所であったし、おたがいの両親がともに同じ職場であるということで、ふたりがいっしょにいることは多かった。留守がちな親のかわりにシンジの世話をするのは、小学生のときからの日課のようなものだったし、シンジの母親が死んでしまってからは、自然とその頻度も増していた。

 いつ頃のことかははっきりはしないが、この気持ちに気付いてしまったのはごく最近だ。教員となって初の赴任先がシンジの就学している高校だとわかり、それに狂喜したその瞬間のことである。

 『あたしは、碇シンジが好きなんだ?』

 恋愛というのは常に不意うちのかたちをとる。

 かすかな驚愕はあったが、同時につよく得心もしていた。報酬もないのに受験勉強のための家庭教師をしたり、友達との約束をキャンセルしてまで家族旅行に同行するようなことを、恋愛感情もなしにするようなことのほうがおかしいと思える。これまで、何度か異性と付き合うチャンスがありはしたものの、それをなんとなく断っていたことも、無意識下にシンジのことがあったのではないかと思えた。

 それまでのあいだ気付かなかった鈍感さに、自身あきれかえってしまったものだ。

 自分のほうが年上だとか年齢の差というのは、些細なことだった。

 いまさらこの気持ちをどう伝えたらいいのか、シンジの気持ちはどうなのだろうか、ということのほうが重要な問題だった。

 恋愛においては、相手をあまり好きにならないことが好きにならせる確実な方法である。

 そういう意味で、この恋愛はでだしから失敗しているのかもしれないと思う。碇シンジのどこを好きになったのかさえわからないくらい夢中になっているのなら、あまり好きにならずにいることは既に不可能だからである。

 《ウェスターマーク効果》などというものを識ってしまってひどく弱気になっているのは、これまでの自分からは想像もできないことだった。

 

 ほお杖をついたままのアスカは、テーブルをはさんで反対側に坐っているシンジを一瞥する。

 シンジは天体関係の本を読みながら、ノートをとっている。

 人の気も知らないで、とちぢに乱れている自分の心境を露ほどにも感じていない様子のシンジに理不尽な怒りがわきあがってきていた。

 「……なんか、つまんない」

 ケンのある口調ではあるが、アスカは周りを気づかい口の中でそう言った。

 子供じみたその口調は、その年齢にはそぐわないひかえめなツインテールがゆれるのになじんではいた。

 拗ねたところでまともにとりあってもらえるわけでもない。だからといってなにも言わないのは癪だったのである。

 「そりゃあ、そうでしょう。教師が宿題を手伝うわけにはいかないじゃないですか。担当教科と違ったって」

 案の定、まともに相手をしてくれてはいない。同居人とはいえ教え子の宿題の調べ物についてきてなにができるというものでもない。なにを今さらと呆れているのである。

 どうにか捻出した休日だというのに、いざ休暇ともなるとなにもやることもないというのはいささか情けないことではある。が、ただ漠然と、シンジとの時間がほしかっただけなのである。

 アスカにある懸案のひとつは、このシンジの敬語である。

 惣流先生としかよんでくれなくなってしまった事だ。学校であればそれも仕方がないこと、むしろそうすべきことなのだが、私生活でもそうなのだ。心理的距離をおこうとしているのではないかと思えてしまう。以前のようにアスカとよんでくれと催促をしたこともあるのだが、学校でそう言ってしまいそうだから習慣づけるためにしない、と断られてしまっていた。世間体という意味では学校に私生活を持ち込むことをすべきではないということを承知してはいるが、ゆえに、学校を私生活に持ち込むべきではないとアスカは思う。そのことにもシンジは耳をかしてくれなかった。

 

 こんなことならば、別の学校に赴任するべきだったと後悔までしていた。

 むろん、赴任先を自由に決められるわけではない。教育委員会以下、どの学校に赴任になるのかはくじ引きのようなものなのだ。特殊な技能をもっていたり、特に当人が強く希望をすれば考慮はされることはあるのだが。

 たまりかねたアスカは、図書館の空気をよんだぎりぎりの声で拗ねはじめた。

 テーブルに細いあごをのせた姿勢で、スキニーデニムの似合う脚をばたつかせる。

 「つまんない。伊東に行きたいよ〜」

 「府内なんて。温泉なら、わが街の箱根温泉があるじゃないですか。チケット、あるんでしょ」

 芝居がかった言いようをシンジはした。毎月、箱根区民に配布される無料入浴券のことである。

 「温泉もいいけど、そうじゃなくって旅行がしたいんだもん」

 「行って来てくださいよ。赤木先生とか伊吹先生、……加持先生とか誘えばいいじゃないですか。ニ〜三日くらい、心配することはないですよ。ミサトさんだっているんだし」

 シンジのこの態度がますますアスカを苛立たせる。

 伊東というのは南関東道足柄府伊東市のことで、歴史ある温泉街のことだ。

 同府内では、アスカたちが住んでいる第参新東京市箱根区と人気を二分するともくされている。

 たしかに風呂好きのアスカではあるが、べつに温泉である必要はない。ただ、新婚旅行の候補地全国一位の街にシンジといっしょに行ってみたいのである。本当の新婚旅行には、また別の場所にすればいい。東海道筑摩県の下呂あたりなんかひなびた感じに風情があっていいかもしれない。

 しかしそれを言う勇気があるわけでもない。

ただアスカは「じゃあそうする」とだけ言って、シンジを挑発したつもりにだけなっていた。

 シンジはまるで意に介していないようすで、ページをめくりつづけている。

 これまでに非常に多くの心配事を抱いたが、それらの多くは決して現実にはならなかった。

 それでも、今回のこの懸念が現実にならないなどという保証がどこにあるというのか。

 周りからにらまれるような声をあげ、アスカはもういちど言った。

 「本当に行っちゃうからね。あとになってとめたって遅いんだからね!」

 

 

 正午すぎに調べものが片付いたところで、外で食事をしようとアスカとシンジは図書館を出た。

 図書館の近くに新しくできた蕎麦屋に行くことを、すこし前から決めていたのである。

 

 アスカが第参新東京市立第壱高等学校への赴任したこの四月である。

 彼女の両親はシンジの父親と共に海外出張になっていた。

 社会的、経済的にも独立できる成人のアスカはいいとして、シンジの処遇は問題となった。仕送りがあれば経済的には問題はない。だが、未成年がひとりで生活をするということじたいが問題だと彼の父親は考え、息子を現地の日本人学校に転校させることを言いだしたのである。しかし友達と別れることや受験を控えているというのを理由に、シンジは猛烈に反対した。あわや強制処置というのもありえたのだが、そこで、父親の部下の葛城ミサトという女性がなのりをあげた。

 葛城ミサトも、シンジやアスカとは付き合いが古い。アスカが幼いシンジの面倒をみたように、ミサトは幼いアスカの面倒をみた、そんな関係である。そんなミサトだから、二人との同居になのりをあげたのは不自然なことでもないといえた。

 アスカが両親からシンジのこのことを伝え聞いた時には、すでに葛城宅に世話になることが決まってしまっていた。

 もっと早くにはなしをふっていてくれれば自分こそが申し出たと、アスカは両親を恨んだ。

 ただ、ここで幸運も舞い降りてきた。

 アスカも葛城宅に住むようにとはなしをつけた、と母親が言うのである。

 掃除はともかく、炊事や洗濯をやらないアスカのずぼらを母親は指摘した。外食ばかりでは健康面が心配だと言うのである。そこまで言われると、さすがにアスカも腹が立った。とはいえ、どういう口実をもうけて葛城宅に居着いてやろうかと考えていたところでもあったから、まさに渡りに舟だった。

 こうして不承ぶしょうを仄めかしつつ、アスカはシンジとの同居に成功していた。

 

 同居には成功したが、第壱高等学校の教員でシンジの副担任にまでなってしまったことで距離が広がってしまう。

 そして、それいがいにも問題はあった。

 「綾波じゃないか」

 シンジは、すれ違いそうになった少女との邂逅に感激しているように声をあげていた。

 図書館の玄関で、アスカ担当クラスの生徒とでくわしたのだ。もちろんシンジのクラスメイトということである。

 綾波レイ。

 女子出席番号一番。

 学年成績一番。

 肌の白さも一番。

 女の子に見えるぎりぎりの長さの髪の毛も、クラス女子で一番短い。

 の、ファーストづくしである。

 綾波レイもシンジの名前を口にしたようだが、アスカには聞こえなかった。この風に溶け込んでしまいそうな声が、学年トップの成績であるにもかかわらず彼女をクラスで目立たなくさせている一因であることは明白だった。発育も決してよいとは言えず、まさに風が吹けば飛ばされそうである。社交的、という言葉も彼女のどこを押してもでてくることはないだろう。クラスメイトから声をかけられることも、声をかけることもほぼないに違いない。

 

 綾波レイの副担任になって夏休みまでの数ヶ月、面倒でもなければ扱いやすいわけでもない生徒、というのがアスカの印象だった。夏休みだというのに、学校指定のブレザーを着ているところが象徴的である。たしかに校則では休日の外出にも義務付け、そのようにオリエンテーリング・レクチャーをするが、守っている者などいはしない。注意指導をしたという教員がいるときいたこともなかった。

 扱いにくかろうとそうでなかろうと、アスカにとっての問題はそこにはない。

 どうやら、シンジとこの綾波レイが接近しているようなのである。

 悋気を掻きたてるとはまさにこのことで、アスカはレイを疎ましくさえ思っていた。

 相手は教え子である。自分だってどうにかしていると思う。まさか担任教師から嫉妬の対象にされてるなどとレイは夢にも思っていないだろう。そう思うと心がいたむこともないわけではないが、この気持ちばかりはどうしようもなかった。

 

 そうだというのに、シンジがレイを昼食に誘ったからアスカは思わず抗議の声をあげそうになる。

 「先生、いいでしょ」

 シンジにそう言って微笑まれてしまったことで出端を挫かれてしまい、アスカは拒否することができなくなってしまった。その実そんなわけはないのだが、この微笑みの前に誰が彼を拒否することができるであろうか。アスカは、サッカーワールドカップで応援チームの反則プレーを目の当たりにした気分になっていた。

 綾波レイの存在が問題なだけでなく、この状況だったら自分が彼女の分まで食事代を払わなければならないというのもアスカには問題だった。シンジの分を出すのは予定していたことだし、やぶさかではない。が、公務員、特に危険手当などのない教員は薄給なのである。

 

 

 それなりに混んでいる蕎麦屋ではあったが、待つことはなくテーブル席につくことができた。

 シンジを正面に、テーブルをはさんでアスカとレイがならんで坐る。

 店内のクーラーのききようは少し異常といえるほどで、冷蔵庫の中に入ったようだとアスカは少しふるえた。

 

 レイはシンジの事情を知らないはずだから、図書館前でアスカとの組み合わせに違和感を感じてはいるのではないか。その事をきりだされるのではないかと、アスカは身を潜めたい気分だった。

 シンジのおかれた家庭環境を理解している学校側が、アスカとシンジの同居にあからさまに難色を示すことはなかった。アスカの気持ちを察っていれば葛城ミサトの存在を理由に大反対をされることになったのだろうが、幸いにもそれはない。しかし、徹底した隠匿を要求しないが積極的な言明を避けるようにも要求されていた。どうとでも勘ぐる者は勘ぐって大袈裟にしてしまうものだからである。恋愛事情だけではない。はからずも、アスカの担当教科である外国語はシンジの得意教科である。不正を疑われても、弁解できるものではないからである。

 それでも、ここに来てからもここに来るまでも、綾波レイはアスカとシンジがいっしょに図書館にいた経緯を訊いてくることはなかった。アスカはレイの物事に拘泥しない性格に感謝していた。訊かれればこたえないわけにはいかないし、嘘を言うわけにもいかない。

 「綾波は、なんの調べものなの?」

 注文をすませると、シンジの関心ごとは案の定そこに向いた。アスカの懸念どおりにである。食事に誘ったこともそうなのだが、もう少し状況というものを察知してほしい。こちらが詮索すればむこうも詮索をしたくなるというものではないか。

 嫌な汗をかいてしまう。

 そんなアスカの危機感をよそにレイはシンジの質問にこたえただけで、あとはただ口許に笑みを浮かべているだけだった。

 この微笑みが曲者なのである。

 レイがクラスの中で埋没してしまっているのは、彼女が感情をあらわにしないからである。そのレイが、シンジにだけは微笑みを向けるのだ。期末考査最終日の最終教科終了後、答案用紙を揃えている時にシンジの諧謔に対してレイが微かに笑っているのを目の当たりにしたのが初めてだった。

 なかなかクラスにうちとけない生徒のよい変化だと歓迎するのが本当の担任というものなのだが、素直にそんな気持ちにはなれなかった。その時の相手がシンジでさえなければ、その吉兆を諸手をあげて喜んでいただろうとは自分でもわかる。いや、たとえシンジだとしても、彼が惣流先生とよぶようにさえならなければこんなに心がざわめくことなどなかった。

 本当のところ、レイがシンジをどう思っているのかまではわからない。

 シンジがレイをどれほどに異性として意識しているのかもわからない。

 夏休みになればそのあたりのことを考えずにすむかと持っ思っていた。にもかかわらずのこの事態に、アスカはげんなりとすらしていた。

 

 

 注文した品がそれぞれに出てきた。

 早く食べてしまってここを引き上げればレイと離れられる理由もできるとアスカはせわしく箸を取った。

 「!」

 今日の昼食は蕎麦だと決めてた時には完全に忘れていたのだが、アスカは箸がうまくつかえないのだった。

 風貌は碧眼金髪ゲルマン系のアスカではあるが、産まれたのは日本である。とはいえ、家庭ではおのずと両親の欧米の習慣に倣っていた。一軒家とはいえ借家だから、構造じょうと大家のてまえ玄関で靴を脱ぐくらいのことはするが、その程度である。クリスマスのお祝いは、近所が目をむくほどに派手におこなうし、何よりも、ツリーを正月あけてもだしたままにしている。湯船に肩までゆっくりとつかる習慣があるというのは、シンジの家にはじめてお泊まりした十二歳の時まで識らないことだった。

 二十歳の時には帰化して法的には日本人ではあるのだが、帰化したからといって自動的に生活習慣が一般的な日本人のようになるわけがない。

 この四月に葛城ミサトの家に下宿をはじめるまで、箸を使うことなどなかった。

 外食で箸を使わずにいることはそんなに難しいことでもない。もちろん過去に幾度かの挑戦はしたのだが、楽しみのはずの食事にフラストレーションがたまる理不尽さに、いつしか諦めていた。四月からでも、シンジやミサトが箸を使うのを尻目に、スプーンとフォークで食事をしている。

 

 フォークを頼もうかといっしゅんひらめくも、よもやこの店でも用意はしてないだろうとも思う。ナイフ、フォークがあたりまえの料理を出すお店で箸をサービスで出してくれる店は逆にあっても、だ。

 アスカが箸を握り締めたまま難しい顔をしていたので、みかねたようにシンジがやってきて、掌をアスカの手元に添えた。

 突然のことで、「きゃっ」とアスカは思わず箸をテーブルの上に落としてしまう。

 「惣流先生って、ずっと日本にいるっていうのに、箸の使い方が下手なんですよね」

 アスカがなぜ掌を慌てて引っ込め箸を落としてしまったのか、そんなことの理由などまるで意に介さないそぶりで、シンジは箸を拾い上げた。食器を落とすのは日本でもマナー違反ですよと、アスカにちゃんと持たせようとした。

 シンジの指が自分の掌に触れて導いている。シンジの吐息を掌に感じる。少し体勢を崩せばこの唇が触れてしまうところにシンジの頬がある、という認識がアスカを舞い上がらせた。

 鼓動がシンジに聞こえてしまうのではないか、恥ずかしいという思いだけがアスカの脳裡を駆け巡ってしまっていた。箸の扱い方とか、十回も我慢すればこのほうが使いやすくなるなどということを言っているようだったが、まるできこえてはいなかった。

 

 シンジの掌が離れたタイミングで、我にかえったアスカは口を尖らせてみせた。

 「なによ。目上だ教師だってのに対して、言い方ってものがあるのよ」

 躾箸を買ってくるといいかもしれないとまで言われてしまえば、怒るのも当然だ。とはいえその口調は教師の生徒に対するものではなく、怒っているというのともあきらかにちがっていた。そういえばいくらか昔、シンジにナイフとフォークの使い方を教えたことがあることをアスカは思い出した。シンジが家に遊びに来ていたときの夕食の席のことである。食べやすければどんな食べ方をしてもいいけれど、でもステーキを箸で食べるほうが難しいはずだ、と不満をならすシンジをさとしたものだ。

 『たしかに箸だけはつかいにくいけど、どんぶりの蕎麦をフォークで食べるほうがもっと難しい気がする』

 自分がかつてシンジに言ったことがそのまま自分に反ってきたことにアスカはすこし驚く。

 ふと、綾波レイと視線が交わったアスカは、我にかえる。

 彼女はちゃんと箸を使っていた。

 レイにしてみればどうということはない普通のことなのだが、アスカに言わせればずいぶん上手に箸を使っているという感覚になる。

 こんなところでも優等生なのだ。

 彼女のように箸を使えてしまったら、今みたいにシンジに手を触ってもらえることはなかった。箸を上手に使えないことがむしろ幸運でレイは損をしているのだと、まるで小学生のようにアスカは躍り上がっていた。

 そして、きっと今度こそ一週間くらいで上手に使えるようになってみせて誉めてもらおうとアスカは心に誓っていた。

 

 とはいえ、なれない箸を使うというのはなかなかに大変である。

 さらにこのどんぶりという器もなかなか扱いにくい。皿と違って深く作られているから、料理が冷めににくくその面では合理的だと関心はする。しかし、食器といえば平らな皿のようなものしか扱ったことがないアスカにしてみれば、深く箸を差し込むようにする感覚で勝手がちがった。今回はないが、茶碗は手で持ち上げて使うのがマナーだというのだから、器を持ち上げたり傾けたりしてはならないという習慣のアスカにはまさにカルチャーショックだったのである。

 さらに発覚したのは、麺を啜り上げられないことであった。ツルツルツルッ……と、シンジやレイはたくみに啜り上げてゆくのだが、アスカにはそれができない。唇を細めて息を吸い込めばいい、という理屈はわかるのだが、なんで日本人はこうも面倒な食べ方をするのか、アスカには不思議でならなかった。

 

 日本には三年前に帰化したばかりだ。

 外見は日本人ぽくはないけれど、みんなと同じ日本人だからそのあたりはよろしく、と新学期の最初のホームルームで挨拶はした。が、なかなかどうして、シンジと同じ日本人になるにはまだまだ道は遠いように思えた。

 

 

 

 日本食文化との格闘を済ませて店を出ると、まるで申し合わせたように葛城ミサトとでくわした。言うまでもなく、アスカとシンジが住んでいるマンションの家主である。

 アスカが会計をしているあいだ、先に店を出ていたシンジとレイにミサトが声をかけてきたようだった。

 ミサトの勤めている人工進化研究所の体勢はひじょうに不規則で、こんな時間に帰宅することもあれば夕方に出勤したりもするということまである。実はシンジの面倒をみるとミサトがもうしでたとき、同時にアスカの同居も希望していた。このような勤務体勢では、保護者の責任をまっとうできないおそれがあるというのがその理由である。

 シンジの父親とミサトに勤務体勢に差異がない現状、片親になって久しいシンジにしてみれば二人が入れ替わったというだけでのことで保護者の義務という意味においてかわるところはない。ただ、ミサトとしては前からシンジの状況を憂えていたということである。それはアスカの両親も同じ思いだったから、娘を葛城宅に居候させるのに積極的だったのだ。その生活力の低さを引き合いにとるというスタンスをとったのは、それじたいも本当であったし、シンジに気を使わせないためでもある。

 

 「ア〜ラ、シンちゃん真ん中に置いちゃうわよ。彼女?」

 好奇のまなざしでシンジとレイをみくらべるようにするミサト。

 背もシンジより高いくらいだしスタイルもいい、肌がしょうしょう黒めなのを考慮しても、濡れ羽色の髪やその顔立ちから言い寄ってくる男も多いはずだろうに、折に触れて大人の品性を欠く行動をするのがこの葛城ミサトである。今も、シンジに擦り寄って脇を肘でつつくようにした。

 シンジはミサトのひやかしを否定も肯定もしなかった。

 アスカこそ、ちがうわよ、と否定してしまいそうになって、慌てて口をおさえた。

 沈黙は肯定だ、というのはよく聞く。心配になってレイのリアクションに留意したが、まったくの無反応でアスカの胸中はいららいだ。教師を前に露見することを嫌ってのポーカーフェイスを疑うが、レイがそこまで器用にたちまわれるという印象がアスカにはない。

 実際のところどうなのか推し量ることもできず、アスカは発狂したくなっていた。

 

 そんなタイミングで、さらにアスカを暗然とさせることをシンジが言い出した。

 「先生、ご馳走様でした。綾波といっしょに調べものの続きに図書館行きますね」

 アスカは、めをみはる。昼に図書館を出るとき、調べものはすんだとシンジは言っていた。食事を済ませた後はマンションに帰るはずだったのである。わがままを言って、いっしょにどこかで買い物をしていこうと考えていたくらいなのだ。シンジの予定が変わったのは、あきらかに綾波レイがいるからである。

 シンジとの同居を明るみにしたくないアスカにしてみれば、待てと言うわけにはいかない。それでも、シンジをレイと二人きりにするなどということをこのまま許すことだってできるわけがない。

 踵を反したシンジとレイを、アスカは思わず追いかけようとしてしまった。

 その衿首を、後ろからミサトがつかまえる。

 「なによ」

 猫のような体制になったアスカはケンのある声をミサトにぶつける。しかし、その手をはらっても、視線は未練たらしくシンジの背中をおいかけたままだった。

 教師でも校則がどうでも見逃してやれ、とミサトは呵々と笑った。

 「ああいうのを邪魔するのって、馬に蹴られろって言うでしょ」

 自分の気持ちを察っていてこう言えてしまうのは悋気を煽って楽しんでいるのだ、と嫌悪すらした。

 同居をはじめてすぐにアスカの恋心はミサトにばれてしまったのだが、そのときにミサトは応援すると言ってくれたはずだった。それは嘘だったのかと、この背信行動に怒りを感じていた。

 馬に蹴られるのはあんたのほうだと、振り返ってミサトをにらみつけた。

 「冗談じゃないわ。……馬なんて」

 「落ち着きなさいよ。あの娘が不思議に思って、同居がばれるほうがこわいでしょ」

 アスカの剣幕を、静かにだがつよくミサトは遮った。

 アスカとシンジがいっしょに図書館にいたことにレイは疑問を感じなかったのではないか。せっかくおおごとにならずにすませられる状況だというのに、ここでつきまとってボロをだすことはないと言うのだろう。一緒に住めなくなることの方が避けたいことにきまっているはずなのだから。

 アスカがここで口篭もったのは、冷静になれたからである。

 今の同居にやましいことはないはずだった。学校の同意を得てはいるのだし、なによりも教師としての立場をわきまえている。それでも、ミサトの言うようにことをあらだてないように努めるべきだ。

 それでも、アスカは奥歯にものが挟まったような顔をしていた。

 不安に思っている人間を冷静な他者がいろいろ観察してみたってなんにもなりはしない。慰めてみたところで意味はない。健康な人間が病人の枕辺に立っても、体力のほんの少しでも注ぎ込んでやれないことと同じだ。

 忖度したミサトは、アスカの頭を脇に抱え込むとこめかみに拳をグリグリとやった。

 

 

 今週の食事当番はアスカである。

 まさに昼食の意趣はらしとばかりに、アスカはスパゲティをメインにした。とくにフォークに絡みにくいようにボンゴレ系スープスパゲティだ。

 昼食の時とは逆にフォークの使い方をシンジにレクチャーしてやろう。と、アスカはその光景を想像して目尻をさげていた。

 

 アスカが台所に立つようになったのは、ミサトのマンションで生活をするようになってからである。調理のことは義務教育の段階でひととおりの手順だけは知識としているから全くの八方ふさがりというわけではない。とはいえあまり得意とはしていなかったから、これまでアスカはさけてきていたのである。

 しかし、三人での同居生活がはじまってしまうとそれを余儀なくされることになった。

 同居初日の夕食の場で、家賃の代わりに炊事や洗濯、掃除の分業をすることをミサトが提案したのである。

 その中で、シンジが洗濯を担当するのをアスカは断固拒否した。異性が自分の下着を手にとることに抵抗を感じたのである。

 そして、その場に出ていたミサトの手料理から、ミサトが食事の担当をするということも自動的に却下されていた。あり合わせのインスタントにひと工夫、しただけで食べ物でない臭いを放つようにしてしまうミサトの調理センス、その上達を期待するのはいささか無謀だと判断されたからである。

 ミサトは掃除と洗濯、

 アスカは炊事と洗濯、

 シンジは炊事と掃除、

 それぞれを、一週間おきにローテーションすることになった。

 もちろん個室の掃除は掃除の範疇外である。

 料理のセンスには目をつむれたとしても、勤務体制がかなり不規則なミサトが食事の担当をするのは現実的でないのもたしかだった。数日のやりおきが可能な掃除や洗濯しかできないのはどうしようもないことである。

 ミサトを瞠目させたのはシンジが意外に器用だったということで、料理本、材料と道具さえ与えれば、それなりの料理をつくってしまうことだった。とくに母親の家庭不在がそれをなさしめたということではある。当の本人は、自分が食べるだけならまずくないていどの料理で問題がなかったけれど、そうも言っていられなくなったのが面倒だとは言っていた。

 母親がいるとはいえども同じような家庭環境でシンジよりも達者に炊事がこなせなければ立つ瀬がない、とアスカはその日の晩から料理本を睨みつけるようになった。高校教師の激務をこなしつつではあるが、同僚教師などに教えてもらったりしてシンジのレベルにまで達するのに二ヶ月とはかからなかった。

 アスカに炊事を教えたのは本や同僚ばかりではなく、シンジもだった。

 ゼロからホワイトソースをつくろうすることをシンジに驚き呆れられながらも、調理を習得しようとするアスカの表情をみて、ミサトはその恋心に気付いてしまっていた。

 その晩の食事を終え、シンジが個室に引き上げたタイミングで女性ふたりは晩酌をはじめることとなった。

 ひとりで暮らしていたにしては大きすぎる冷蔵庫から、缶ビール三五○ccを取り出す。

 今でこそ缶ビールのエリアは縮小されて、冷蔵庫の一廓となっているが、その当時は八割を占めている状態だった。

 その晩酌の席で、ふいに、それまでの会話の脈絡を無視し、まるで呟くようにミサトは言った。

 「まさかショタコンだとはねぇ。まいったわぁ」

 それは挑発するようでもあった。

 「シンジとは、そんなに歳ははなれてない……!」

 と、叫んでいる途中で我にかえり、アスカは顔を真っ赤にして俯いた。ビールの所為で赤くなったのではない。

 まさに語るに落ちたアスカを、ミサトはしたり顔で見た。

 こうしてミサトに恋心がバレていたことをアスカも意識することになる。

 そしてミサトの応援を取り付けることはできたが、恋愛などというのは外野がなにをしたところでどうなるものでもない。そのくせ相手があることだから、当人だけの問題でもない。せいぜい邪魔をしないというていどのことでしかないのだ。

 アスカは、この四ヶ月になる生活の中でそれを実感していた。

 仕事で留守がちのミサトだから、このマンションで二人きりになることなどなんどでもあった。しかし、シンジが個室にこもってしまったらなにができるというものでもない。せいぜい夜食を持っていってみるくらいしかできるわけではなかった。もちろん勉強を教えることもしたが、そこまでである。一問、二問を教えて十五分ほど、それいじょうにながく部屋にいる理由をアスカはいつも見つけられなかった。

 そして今でも見つけられずにいる。

 大好きになった人の胸に、裸になってとびこんでいけばいい。

 昔のアスカは、そうすることに決めていた。はずだった。うまくいってもいかなくても、そうしなければならない。それが女の義務なのだと思っていた。

 それが、実際にシンジを意識してしまった時にできない自分に失望もしていた。

 「湯上がりとかに迫っちゃえばいいのよ。バスローブなんかちょっとはだけてさぁ」

 応援をするというミサトは、冗談めかして無責任にアスカを煽ってみせる。

 あのころくらいの男の子ならそうすればいちころだというが、そういった経緯で女性恐怖症になった少年がいるという事例を耳にしていればできるわけもない。もっとも、それを言い訳にしているということも否定はしない。

 

 それにしても、今日に限ってシンジの帰りが遅い。

 午後八時をすぎている。たいていなら帰ってきているはずだった。もちろんこれよりも遅く帰ってくることはあるが、連絡は必ずしてくるのである。

 昼食後、綾波レイと一緒に図書館にいっているという状況を目の当たりにしているだけに、心が乱れてしまっていた。同居の露呈をおそれてついていくのを断念したのだが、今になってみればどうとでも理由をつけることはできたのではないかという悔恨があった。

 『ミサトのいうことなんかきくんじゃなかった!』

 夏休みとはいえ、図書館での勉強をみるくらいはやったってよかったはずなのだ。むしろそうすることで、昼前に碇君といっしょに図書館にいたのは偶然だったのだという印象をもたせることだってできたのではないか。そう思えてしまうと、再びミサトに対して腹が立ってきた。

 アスカは出来上がったボンゴレスパゲティを、既にテーブルについていたミサトのまえにつきだす。

 「シンジの帰りが遅いって、心配にならないわけ?」

 さきに食事をしようとするミサトに、アスカは抗議した。たしかに連絡の電話の一本もしてこないシンジに非があるが、少しくらい待つべきではないのかということだ。言うまでもなく、綾波レイの存在がなければアスカだってミサトと同じように考えた。ふたりで遅くまで、というシチュエーションがアスカを苛立たせているのである。携帯電話をコールしても、圏外なのかバッテリーぎれなのかまったくの応答をしないこともアスカがいららぐ要因になっていた。

 「なに怒ってるのよ。皺がふえるわよ」

 「……!」

 茶化すミサトにさらに怒りを感じ、アスカは絶句した。殺意を抱かないのが不思議なくらいだと、自分では思った。あのときに邪魔さえしなければ、今ごろ引っ張ってでもシンジと帰ってきていたのだ。そうすればこんな気持ちになることなどなかったというのに。

 怒り心頭のアスカをよそに、箸を持ち出したミサトは、ボンゴレを皿うどんのように啜りはじめた。

 なんどもまのあたりにし見慣れたはずの色気のなさにも閉口したアスカは、フォークをそのボンゴレの中央につきたてた。アサリがはじけて床に転がる。憎い坊主の袈裟と同じで、もうミサトがなにをやっても気に入らないのだろうと、アスカじしん思った。鳩が豆鉄砲を食らったような表情で、鬼の形相のアスカを見上げるミサト。その何者にも頓着していなさそうな目つきが、さらにアスカの怒りの火に油をそそぐが、そのとき玄関からシンジの声がした。

 かえってきたのだ。

 刹那、アスカの顔に花が咲く。

 「お〜そ〜いっ!」

 と、フォークを投げ出して玄関へと駆け出した。

 

 

 ごめんなさいとは言ったが、シンジはたいして悪びれてもいなかった。

 電話のバッテリーがあがってしまったのだとかるく笑う。

 恋しさ余って憎さ百倍、とはこういうことを言うのか、アスカの怒りが今度はシンジに向いた。公衆電話ででも連絡はできたはずだと、びんたをしていたのである。

 『人の気も知らないで。こんな気持ちにさせておいて!』

 理不尽な怒りだということがアスカにはわかっていなかった。

 なにがおこったのかいっしゅん解からないような表情をしていたが、シンジにも怒りがわきあがってきたようだった。たしかに、連絡をしなかったことはいけないことだし、公衆電話のことに気付かなかったことが仕方がないと言ってしまうのは、あまりに子供じみている。でも、なにも殴られるほどのことをしたつもりはない、といったところだろう。

 「なんだよっ。なにも殴らなくたって……!」

 シンジはアスカをにらみかえしたが、次に言葉を失ったようだった。おそらくは、アスカの眼に涙が湛えられているのをみとめた所為である。

 「なによ。アタシが悪いって言う……」

 シンジは微かな狼狽を隠せない様子だったが、今のアスカにはそれを洞察する余裕もなくなっていた。

 涙が頬を伝うのを感じて自分が泣いていることに今になって気付いたアスカは、慌てて踵を反していた。

 

 

 翌朝、シンジはアスカとの幼い日のことを夢にみた。

 昼食にオムレツを作ったから食べろ、とアスカがそれを差し出したところだった。

 塩を入れすぎのうえに砂糖までも多かったためか、焦げようが尋常ではなく、辛いやらにがいやらで幼いシンジは顔をしかめていた。まずいとか食べたくないと言うのがこわくて、他のおかずやご飯と一緒にむりやり胃袋の中に押し込みつづける。

 と、少し分けてくれとアスカはオムレツにフォークを当てた。

 制止するまもなくオムレツはアスカの口の中に消え、刹那、彼女は台所に走った。

 

 ダイニングにかえってきたアスカは、ものすごい形相だった。オムレツの味そのものが原因でないことは明白で、ただ次の瞬間におこるのでないかという惨劇に理不尽さを感じながらも、シンジは、頭の上に掌を置いた。

 「なんで、まずいって言わないのよ」

 次の瞬間、シンジは温かさといい匂いに包まれ、やわらかいものが頬に押さえつけられた。

 想像もつかなかった、それも未知の状況に薄目を開けると、シンジの目の前に白い鎖骨があった。

 なにも識らないことではない、アスカがお母さんと同じようにしてくれているのだとわかって安心する。どうやら予想していたこととは正反対の事態のようだ。香水をつけているわけでもないはずなのに、いい匂いがするんだなと思いはじめたが、次の瞬間には猛烈に恥ずかしくなってシンジは四肢をばたつかせた。

 いっしゅん状況が把握できなかったのは、逆の展開を信じて疑わなかったからだし、母親よりもアスカのほうが小さかったからである。

 

 いい匂いがしたのは、いったいなんだったんだろう?

 『フェロモンって、確か自覚できない匂いだったよ、ネ』

 目覚めたシンジは、忘れもしない過去を夢に見たことに苦笑していた。

 このあと、お姉ちゃんではなくアスカと洗礼名でよぶように言われたのだった。年上の人間を呼び捨てにすることを周りから奇異がられたし、自分でも抵抗を感じていて、慣れるまでにずいぶんとかかったから忘れもしない。

 しかし、このことでアスカとの距離がいっそう近づいたような気がした。アスカの友達の大半はファーストネームのラングレーちゃんとよんでいたのであり、ミドルネームでよんでいたのは、家族だけだったからである。日本に帰化したこんにち、ラングレーを捨ててアスカをファーストネームにしてしまったので差別化されなくなったが、アスカとの周囲の関係でシンジが誇れることのひとつだった。

 

 

 いつまでも寝ていたら目の玉が腐ってしまうと思い、シンジは個室を出た。

 

 朝の七時、

 ダイニングではタンクトップにホットパンツ姿のミサトが、いすに胡坐をかきテーブルに片肘を突いてテレビのニュース番組を観ていた。それだけでも充分に眉を顰めたくなる姿だが、このうえトーストを食んでいるというのは、ルックスがいいだけに損をしているのではないのかとよけいな諫言をしたくなる。

 女子校の内側、なんてことを流言飛語にききはするが、……まあ、自分が男として見られていないというだけのことなのかもしれない。と、シンジはいろいろな意味で嘆息をした。

 今、いちばん顔を合わせたくないのはアスカである。

 そして、実はミサトと顔をあわせるのにも抵抗があった。

 ゆうべ玄関でアスカがヒステリックに叫んで個室に駆け込んだあと、ミサトが入れ替わるようにシンジを出迎えた。スパゲティの皿を手にしたまま、さらに麺を口からたらしたすがたで、シンジより頭ひとつ高いミサトは冷ややかな眼で睥睨した。ズルズルッとスパゲティを啜りあげたあと、あからさまに軽蔑するようにミサトは言い放った。

 「女の子を泣かせるなんて、サイテーね」

 予想だにしないミサトの言葉に、シンジは言葉を詰まらせてしまう。つぎには振り返っていたミサトの背中に抗議もできなかった。

 年上の、それも二十歳をこえたアスカに女の子もなにもないように思う。

 それでも涙のこともあいまって、シンジのアスカへの怒りは、困惑へと変わってしまっていた。

 

 ミサトと眼をあわせたくなくても個室にこもりきりでいられるはずもないと思っているから、シンジはあい向かいについた。

 朝食はちゃんと摂らなくてはいけない。

 休日であっても、時間になったら起きて家族に挨拶をしなくてはいけない。

 どのような心境であっても、それらを実践してしまうのはシンジが真面目であるからというよりは、そのようにすべきだと周りから言われているから、唯々諾々と従っているという側面をもつ。まるで、マイペースにすごそうとするアスカの対極にいた。

 

 テーブルの中央には、ボールに盛られているレタスとブロッコリを主体にしたサラダ、それと山積みにされたトーストがあった。今週の食事当番はアスカだから、起きてきてはいるということになるがその姿が見えない。キッチンも後片付けをした形跡があるばかりだった。

 アスカこそ自分と顔が合わせられないばかりに部屋にこもっているのかとも思う。

 シンジが朝の挨拶をしてトーストに掌をのばすと、軽く挨拶を反してからミサトは言葉を続けた。

 「シンちゃんてさぁ、なんでアスカのこと惣流先生ってよぶようになったの?」

 矢庭だがいまさらのような問いに、シンジはミサトの真意を探りはじめてしまう。同居をはじめて数日後のある晩、そのことについてアスカとやりあっていたのを聞いていたはずだ。今になって自分からなにをひきだそうというのか。

 「先生だから、僕が生徒ってだけです。他意はありません」

 その言いようでは得心がいっていない、といったふうにミサトは「ふーん」と鼻をならした。今の呼びかたが気にいらないようにすら聞こえてくる。

 気に入らないとするのならばはなはだ心外だ。本来ならば、今までアスカを呼び捨てにしていたことのほうが異常なのである。それを、極端に言えばアスカのほうから強要されていただけなのだ。本来のカタチにしただけだというのに、なにがいけないと言うのか。

 思考をめぐらすが、けっきょくミサトの腹の一物をよみとれないシンジはかすかな怒りだけをあらわにするにとどめることにした。そうやって牽制でもしないことには、なにもかもを見透かされているような気がしておちつかないのだ。

 

 とはいえそれいじょうの追及をうけることもなく、シンジは拍子抜けしてしまうことになる。

 ズズッとかるくコーヒーを啜ったあとカップを置き、ミサトは立ち上がった。

 「会社に出かけるから、かたづけお願いね。アスカ、もうでかけちゃったのよ」

 そのアスカが出かけている理由というのが、温泉旅行のうちあわせと聞いてシンジは少し驚いた。食事当番でもないのにあとかたづけをする必要はないと、ミサトに対する些細で子供じみた反撃をするタイミングを逸していた。

 温泉のはなしなど、昨日の今日である。行動派のアスカらしいといえばアスカらしいが、性急であるというのには違いない。

 教師の休暇というのはカレンダーじょうは生徒のそれとほぼ一致するが、その実、残務やら講習、講演の視聴、それらから派生する業務などに追われてしまって一般公務員とかわらない。昨日の図書館に行ったことでも、仕事の合間という感覚なのである。長期休みを謳歌できる、などというのは学生の特権のようなのだ。今日も昼からは仕事であるというのは聞いているし、打ち合わせの後そのまま仕事、ということなのだろう。

 個室に引き上げていくミサトの細い背中を目で追いながら、サラダボールと皿の数枚くらい早く片つけてしまおうとシンジは思った。

 「だったら、僕は綾波に会いに行けばいいんだ」

 それから、わざわざシンジは言葉にしていた。

 躬らの内で決心を固めるようにでもあるし、意趣晴らしであるかのような口調でもあった。

 来週末に親族で旅行に行くいがいは夏休みに大きな用事はない、というのを昨日の段階で綾波レイに確認をとれていた。連絡がとれさえすれば会えるに違いないと思う。

 問題があるとすれば綾波が携帯電話を所持していないということなのだが、家に電話をかければきっとどうにかなるだろう。もしかしたら、本好きの彼女ならばまた図書館にいるのではないだろうか。

 まず、好きな女が落としたハンカチを拾うことからはじめるしかない。

 どうしたらよいかわからなくてもかまなわないから。

 

 

 綾波レイは、本当に図書館にいた。

 ただ本を読みにきているだけで、宿題とはまったく関係ないようではある。

 読書家だから学校の成績が優秀であるとはかぎらないのだろうが、少なくとも彼女の成績が学年でトップクラスであることの要因は読書好きであるということにつきるだろうと思う。活字が好きであるということは、教科書や参考書を読むうえで邪魔になるはずもない。

 シンジは、テーブルを挟んでレイの向いに坐っていた。

 話しかけることがまるで犯罪のように思えたから、声をかけるのはやめておいた。

 適当な本を見繕って読んでいるそぶりをしながら、その実レイをうかがうようにしていた。

 

 彼女の名前に他の字を充てるとすると、冷だろう。でも冷艶というのではなく、冷静であるとか波のない湖のイメージだ。玲という字もいい。あまりしゃべらないから誰も識らないのだろうが、彼女の声は空気に溶けいりそうだと評されるもいっぽう透き通っていてじつに耳障りがいい。まさに玲という文字に遜色がないと思う。

 ふと、アスカには飛鳥しかありえないと思った。

 アスカの母親は日独のハーフで日本びいきである。娘のカソリック洗礼のさいに聖人の名前をつかうという前例を無視してASUKAとすることを希望したのは、まさに“飛鳥”に対する確信だったのではないかと思えてしまう。こんど訊いてみようと思う。誰からも何者に対しても自由に、重力さえ振り切って空高く飛翔する鳥の姿は、まさにアスカに相応しい。さしずめ尊大な鷲か、いや小うるさい雀といったところだろうか。

 でも、あんがい鳳凰かもしれない。

 そんなことを脳裡にめぐらせていると、シンジは喉を鳴らして笑いたくなった。なんだかおかしくなってきたのである。

 

 綾波レイの物腰は、アスカの対極にある。

 主張は、控えめというよりも皆無で表にでてくることはない。一〜二年生の時の成績から考えれば、クラス委員長や生徒会長に推されていても不思議ではないだろう。しかし、そうならなかったことが端的にそれがあらわれていた。ただ、こうして話してみるとわかるのだが、故意に目立たないようにしているわけでもないようだ。

 そんなレイではあるが、クラスの一部の男子にはうけがよかった。

 目立たないとはいえ、ルックスがいいということはおおきい。細いあごに繋がるすなおな頬のラインは触れるだけで壊れてしまいそうなほどにはかなく見える。そして無口であること、誰にも近づこうとしない様がミステリアスな雰囲気をかもしだしているからに違いなかった。

 

 シンジも綾波レイに惹かれているひとりではある。

 異性に対して臆病だという自覚はある。にもかかわらず、綾波に声をかけることができてしまえる要因に心当たりがあっても、なんだか不思議な気がした。アスカの正反対の位置にいるからこうして綾波を追いかける気持ちになれるのだろうか。

 『これを恋と言ってはいけないのかな』

 本を読みつづけている綾波の顔を窺うようにしながら、そして自身に確認するようにシンジは口の内で言葉にもしてみた。

 生きてゆくことは汚れてゆくことだというのならば、駆け引きをして汚い恋をしてもそれは当然のことなのではないかと思えた。図書館に来て正面に坐るくらいの偶然を演じて、なにがいけないというのだろう。けがれていけないものはたしかにあるが、それは綾波との恋路ではないはずだ。

 

 昼食に、と立ちあがったところで視界に入ったということだろう。レイは、正午になってはじめて正面に坐ったシンジの存在に気付いたらしかった。

 しょうしょう驚いているようではある。昨日もあって今日もあれば、運命のように感じてくれればしめたものだとシンジは思いつつも、すなおに言う。

 「綾波に会えたから幸運なんだよ」

 それでも、気のきいた言葉が口から発たことにシンジは自分でも驚いた。こういった台詞が流暢に誰にでも言えるようなら女誑しというのだろうなと思う。

 ただ、会心の台詞だと悦に入っているシンジを裏腹に、レイはノーリアクションだった。それでも、へこたれたりはしない。なんといっても、自分は綾波レイに恋をしているのだから。

 

 「食事、行きましょうか」

 「!?」

 シンジが驚いたのは、レイの方から食事に誘ってもらえるとは思いもよらなかったからである。

 「飲食禁止なのよ。ここ」

 たいていの図書館の閲覧室がそうであろう。ここで食事をすることを碇君が考えている、と勘違いしたようだ。自分の言動に碇君がとまどいを感じているということがレイには洞察できていないようだった。

 自分がいい女だって気付けば、こんな冴えない男が右往左往しているのを笑いながら手玉にとれるのにな、と思いつつ、だから綾波レイなんだとシンジは思った。

 「それはわかるよ。どこへ行こうか?」

 昨日の今日で蕎麦はないだろう。ファミレスあたりが無難だなと脳裡でめぐらせつつ、図書館でひんしゅくをかわないていどにシンジは声を弾ませた。

 「つくってきたから」

 「え?」

 ふたたび意表にでられた。

 碇君が来るような気がしたから二人分を用意してきた、というのならもう望外の幸せだと言うべきである。シンジは内心で躍り上がっていた。

 どんどん綾波の虜にされている、ということにだけは気付いていた。

 「サンドイッチなんだけど、ダメ?」

 ダメなわけがない。あらん限りの力でシンジは首を横に振っていた。

 どこか上目づかいの物腰に、シンジの心拍数が急激に跳ね上がってしまう。

 綾波の手料理なら嬉しいに決まっている。

 シンジは、レイの掌をとっていた。

 

 

 食堂は、相変わらず閑散としていた。

 インスタントの自動販売機があるだけだから、昼食後も続けて図書館を利用する算段があったり外の酷暑に少しでもかかわりたくない人が利用するていどだからであろう。

 レイのように手作りでないまでも、コンビニ弁当の持参という者もいくぶん見受けられた。

 

 レイのつくったサンドイッチは、ほんの少しだけ失敗していた。

 具の水分がパン生地に染み込んで食感を損ねてしまっていたのである。また、挟んですぐにバスケットにつめたようで、生地と具の密着度があさくてぽろぽろと崩れるようになってしまった。

 食べにくそうにしているシンジを見、そして自分でひとつ食べてみてレイは落ち込んでしまったようだった。

 食べるのを断っていればとうぜんレイを傷つけることになっただろうし、食べてもこうやって彼女が所在無さげになってしまうとなると、シンジとしてもこまってしまう。

 ただ、たまたま知識があるからアドバイスをすれば少しくらいは空気を和ませることができるかもしれないと思い至った。

 

 「綾波、バター塗るの忘れたでしょ」

 サンドイッチを作るさいに内側にバターを塗るという工程があることを識らなかったようだが、頭の回転が速いのかレイはすぐに得心したようだった。

 サンドイッチのラインナップを見てうすうすと感じていたことだが、レイはベジタリアンだというのである。動物性油脂であるバターなどというのは思いもよらない材料のはずだ。

 植物由来のマーガリンならベジタリアンにも大丈夫だから、今度からそうすればいいとシンジは思う。

 「やり直すわ」

 やおら立ち上がったが、その様はどこか性急な印象があった。

 今すぐに帰宅して新たにつくろうとしているのがわかったので、シンジは慌てて制止する。なにもやり直すというほどのことではない。今のこれを捨てるということにもなるのだろうから、もったいない。

 「いまから、僕の家で作り直さない?」

 具とパンをここではなしておけば、家につくころには少しはましになっているはずだ。なにより、綾波を家につれていく大義名分ができる。シンジは躬らのアイデアに悦にいっていた。

 家に行くことはさすがに断るのではないか、そしてこれから気まずくなってしまうのではないかといった危惧はなぜかなかった。そんなことは留意すべきことだという認識すらなかった。

 

 すこしも思案に暮れることもなく、レイはシンジの提案を承諾していた。

 異性の家に行くことを即決するさまはいささか無防備だと思うが、誘ったシンジが言えたことではない。物事に頓着しないイメージのあるレイらしいといえばレイらしいと思っていた。

 

 

 ベジタリアンというのはあんがい厄介なものだ、とシンジは感動すらした。

 とうの本人たちがどう思っているのかはわからないが、その食生活を想像すると昨今の食糧事情では大変なのではないかと思う。

 レイが作ってきたサンドイッチの中身は、

 キュウリの小口切りとレタス、

 キャベツの乱切りとトマトの輪切り、

 トウモロコシと短冊切りのポテト炒め、

 グリーンピース入りのパンプキンペースト、

 である。

 動物性食材を使わないで、これだけのものを用意するのはなかなかのものである。ベジタリアンが厄介だ、大変だとシンジが思うのはここだ。

 自分ならゆで卵か薄焼き卵、冷凍のトンカツか魚のフライを使うと思った。そこそこの卵焼きなら簡単なものだし、冷凍食品なら電子レンジで簡単に食べられるようにできる。

 サンドイッチのソースにドレッシングはむかないというのに、マヨネーズが使えないというのも煩雑にさせる。味付けはサラダスパイスだと思われた。ひょっとしたら、ありものを使っているのではなく、食塩、コショウ、ナツメグ、タマネギやニンニクなどの粉末を調合しているのかもしれない。

 『他人に食べさせるのならともかく、自分で食べるのにカボチャのペーストは作らないな』

 シンジはそう思いつつ、綾波は二人分のサンドイッチを作ってきてくれたのだと思い出して嬉しかった。

 

 「遅い昼食になったけどね」

 午後二時過ぎ、ふたりは向かい合ってテーブルについた。

 目の前には、すこし追加して作りすぎたサンドイッチがバスケットに盛られている。

 「碇君が、こんなに料理ができるなんて知らなかったわ」

 母親がずいぶん前から不在で父親も料理を作れるような状況にいなければ、雑にでもなにかしらできるようになるものだ。それに、小遣いをうまくやりくりしようと思えば外食を控えもする。自分の料理はそのていどのものでしかないという認識があるから、そんなふうに持ち上げられてシンジはすこし恐縮してしまった。

 もごもごと食べているレイの口もと見ながら、最初にここの冷蔵庫を開けたときの表情を思い出してしまったシンジはかるく吹きだした。

 レイがなんのことだという表情をしたので、シンジはサンドイッチを飲みこんだ。

 「まさか、鯵をみて失神しかけるなんて思わないじゃないか」

 レイがマーガリンをとろうと冷蔵庫の扉を開けた刹那、その細い身体を硬直させたのである。

 気付いたシンジがまわりこむと、こわばらせた顔には汗も浮かんでいた。もうすこしで悲鳴、いや、すでに悲鳴をあげられないまでに追い詰められてしまったようであった。

 ゴキブリを見つけてしまったときのアスカもあんな表情をする。

 減ってきているとはいってもミサト愛飲のビールの量は多いから、そのことに驚いているのかとシンジは思ったがそうではなかった。

 「だって、魚と眼が合ったのよ」

 弁解ではあるが、レイの物言いはあいかわらずつぶやくようだった。

 一家でベジタリアンだというのだから、レイの家の冷蔵庫には切り身ですら入ってないだろう。見慣れないものがあれば、あるとは思えないものがそこにあれば、動揺するものだ。とはいえ、ひきつけをおこしそうなほどというのは極端ではある。

 スーパーでも市場でも、動物性食材が死体に見えてしまうのだそうだ。切り身であっても、死肉の一部だと想像できてしまえば食べられなくなるのもわからないでもない。卵とて動物の一部には違いないし、牛乳も体液だから気持ちが悪いということだろう。シンジとて、ホビロンやザザムシ、ハチノコを食べろと言われればさすがに抵抗がある。イナゴを食べるのに抵抗があっても、エビは食べられるというほうが矛盾していて、レイのような心裡のほうがよほど合理的だと言われればたしかにそうなのかもしれない。

 『魚を食べるような口ではキスもさせてもらえないかな』

 ふと、そんな淋しい思惟に衝突する。

 とはいえ、今朝はイチゴジャムのトーストとサラダ、コーヒーである。何世紀にもわたってベジタリアンが滅んでいないなら、健康的に問題というわけでもあるまい。父親が帰ってきてミサトさんや惣流先生との同居が終わったら自分の食生活を変えてみてもいいかな、と漠然と脳裡にめぐらせていた。

 

 ミサトが帰宅した時、玄関に知らないローファーがあった。

 刹那、ミサトはかすかに血の気が引くのを感じた。過度の焦燥感から短く叫んでしまい、口をおさえる。口をおさえたこともそうなのだが、なぜか足音をしのばせて廊下をぬけ、ダイニングをゆっくりと覗き込んでいた。

 にらんだとおり、ローファーの主は蕎麦屋の前で会った昨日の女の子である。

 と、そのレイと視線が合ってしまい、いっしゅんミサトは呼吸が止まった。無言ではあるが会釈で挨拶をされ、隠れていられなくなる。

 出入り口に背中を向けていたシンジも気付き、振り返る。

 おかえりなさいと言ってから、

 「材料持ち込みの食事会です。残りものですけど、どうですか?」

 とのんきなことを言う。

 コソコソしていた気まずさを吹き飛ばそうと、ミサトは胸を張ってダイニングに踏み込み、その勢いのままシンジの手をとると奥のリビングに引っ張り込んだ。

 「なにしてんのよ!」

 つぎの呵責は、それでも喉で押し殺していた。

 食事をしていたのだとさらにとぼけるから、ついにミサトは窓ガラスが震えるような罵声を浴びせた。

 学校は、シンジとアスカの同居のことを積極的に公表することを嫌っている。無用のトラブルは避けるべきだから、そのあたりは考えて行動するようにシンジには言い聞かせてあった。しょうしょう酷ではあるが、友達をここに招待するなということだ。

 未成年の下宿やひとり暮らしなどよくあることだが、今になって別居させるのもはばかられるし、アスカを追い出すのもしのびないのである。

 ミサトをなだめようとするように、シンジは声のトーンを落とせというゼスチャーをした。こにくらしい仕種がミサトの神経を逆撫でる。が、視線を反らしたり合わせたりしながらだから、それなりにうしろめたさは感じているようではある。それを洞察できたことで、ミサトはなんとか平静をたもつことができた。

 「好きな娘と一緒に食事くらいさせてくださいよ」

 シンジの言いようは、ふて腐れてひらきなおっているようだった。

 ミサトは半ば呆れてしまう。好きな女の子だというのなら守ってみせればいいのだ。それを放棄するような態度をとりながらそれを言うのは、男の不誠実さそのものである。

 ひとつ嘆息して、ミサトはシンジの細い肩に両掌をおいた。

 「お父様から貴方をあずかっていて、アスカのこともそうなのよ。ここに来た時、言ったでしょう?」

 子供に大人の都合などわかりはしないように、大人には子供の都合がわからないものだ。そして人生経験のあるぶんだけ斟酌はできるが、そのことと聞き入れられるということは同義ではない。そういったことはわかってほしいとミサトは思った。

 また、ミサトが気になるのは、シンジはアスカとの同居を白日の下にさらそうとしているのではないかとみうけられることである。ミサトの見立てが間違いでなければ、シンジのここでの下宿にはたいしたメリットなどはない。ここに下宿することで、彼は父親の赴任についていくことを免れはした。とはいっても、別に下宿せねばならないことになったからといって、新学期になった今になってあらためて連れていかれることなどはないとふんでいるのではないのだろうか。

 シンジにしてみれば自分やアスカをして、両手に花だ、などと単純に思えるような年齢ではないということもわかる。異性のなかに自分ひとりだけ、という環境は男女かかわりなくプレッシャーをうけるものだ。そのうえ、減滅させるような所業を自分は繰り返してもいる。父親の赴任先についていかなくてもよくなった、という最大の目的を達した今、でていきたくなったとしてもなんの不思議もないのではないか。

 いかに付き合いが古くとも、血縁どうしでないものが一緒に生活するむずかしさを感じ、ミサトは嘆息していた。

 

 「わかりました。綾波には帰ってもらいますし、これから会うときは外にします」

 柔順なように言ってみせてはいるが、シンジの目が『貴女は横暴だ』と言っているのがミサトにはわかった。それに対して、怒りよりも胃をしめつけるようなストレスを感じて、いっしゅんミサトは目を伏せていた。

 

 

 伊東温泉への旅行プランは思いのほかすんなりと決まったので、アスカは機嫌がよかった。

 どうせなら学年担任の全員で行こうとアスカは思っていた。とはいえ、六人のタイミングが合うとは思えなかったのだが、意外にも全員がそろい、さらに養護教諭も来ることになった。プライベートとの兼ね合いがあるから七人もの空き日がかさなったのを奇跡と言っても過言ではないだろう。教員一年目、まったく知り合いのいない現場に勤めはじめて二ヵ月半しか経ってはいないが、アスカに人気がある証拠でもある。

 

 温泉意外にも行く場所を決めていたので、あとは宿を予約するだけだ。

 仕事にもめぼしはつけてきたし、夕方からは読みかけの本を読みきってしまおうとアスカは思っていた。

 マンションに帰ってきたアスカは、上機嫌で玄関を開けようとドアノブに手をのばす。

 と、ドアノブがむこうから迫ってきた?

 ドアの向こうに見えたのは、綾波レイ!

 ミサトに挨拶をしているらしく、こちらにはまだ背中を向けていた。

 ドアを開けたのはシンジで、レイを外まで送り出そうとしているということだろう。

 シンジ、ミサトとは視線が合った。

 レイが振り返るところで、間一髪ドアの影にアスカは隠れた。

 ミサトの様子はわからないが、シンジは言葉を失っているようである。

 アスカも息を呑んだ。

 

 玄関から外に出ると、レイはもういちど頭を下げ、蚊の鳴くような声で挨拶をした。

 マンション棟のロビーは、アスカが隠れたのとは反対方向だ。欧米とは玄関ドアの開閉方向が反対でよかったとアスカは思う。外開きだからドアに隠れることができたが、逆だったら見つかっていた。それにしても心臓に悪い。まさか、綾波レイがマンションにまで来るとは思いもよらなかった。

 『シンジとそんな関係にまでなっているのだろうか?』

 沈鬱な気分になり、アスカは奥歯を噛みしめていた。

 

 玄関でシンジに一瞥をなげはしたが、アスカは「ただいま」とだけ言って個室に入ってしまった。

 知人をここに喚ばないという約束をしてはいたから、シンジを責めることはできた。アスカがそれをしなかったのは、ミサトが注意してくれるだろうと思ったからである。同じことで時をわけて複数の人間から叱られるというのは不条理だろう、という分別がはたらいていた。

 と、アスカは自己嫌悪に陥る。

 分別がはたらいたと言えば格好はいいが、シンジとまっすぐ向き合うのがこわくなってしまっていたということのほうが本音なのだ。それでは教育者として問題があるが、翻って、いま口を開けば、恋人の浮気を追及するような言い方になるのがめにみえていて嫌だったのである。それに対して反ってくるであろうシンジの言葉を想像すると、身も凍る思いがした。

 なんだか悲しくなって、アスカは突っ伏したベッドで泣いた。

 憎しみは積極的な不満であり嫉妬は消極的な不満である。ゆえに嫉妬が憎しみに豹変しても不思議ではない。

 抑えきれない感情にアスカは怯えた。

 シンジを好きでなくなれば、この気持ちともつきあわないですむ。己が内にある魔性を追い払うこともできる。でも、そんなことができるわけもない。

 自分は、教師であるのと同時に惣流アスカなのだから。

 たとえ絶望にとりつかれたとしても、希望を抱いているかのように振舞わなければならない。そうでなければ自殺しなければならなくなる。苦悩に権利をあたえてはならない。

 

 ふいに、ゆうべの晩酌の時の会話が思い出された。シンジが眠ったあと、ミサトが缶ビールとカキピーを抱えてアスカの個室にきたのだ。

 その席で、綾波レイはユイさんに似ているとミサトが言ったのである。蕎麦屋の前で会ったとき、その時にはわからなかったが誰かに似ていると気になっていたのだそうだ。

 シンジの亡くなった母親のことである。

 男の子の初恋の相手は母親だとか、母親似の娘を好きになるものだというのは言われてはいることだ。女の子の場合は父親がその対象だとも言う。

 言われてみれば、かすかに記憶に残っているユイさんは、レイのようだったかもしれない。所作については正直なんともいえないが、容姿についてはたしかに似ているような気がしてきた。アスカですらうろ覚えであるから、シンジが母親をまともに覚えているわけではない。しかし、シンジの好みが父親と似ていればおのずと、というものである。

 

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