参
冴子さんは、時間通りにやって来た。服は昼に『黄金堂』を訪れた時と、全く変わらない。
「お待たせしました。……それじゃあ、行きましょうか。」
定刻十分前に来ていた、僕の姿を発見すると、彼女は軽く挨拶を済まし、すぐに歩き出した。
時間はたっぷりあると思ったのだけれど、どうやら彼女はかなり焦っているみたいだった。その証拠に、頬がかなり上気している。走ってきたのだろうか?そんな疑問も持ち上がる。
しかし、そんなことは一向に構わないのか、彼女は足早に歩いていく。どうやら、このまま目的地に直行するようだ。それだけ、時間に追われているということなのだろう。
……レストランの、タイムサービスでもあるのかな?
なにはともあれ、僕は、彼女の後を、一生懸命追うのだった。
駅前の銅像の前から、僕達は真っ直ぐと続く、商店街の中へと紛れ込んでいく。
「何処に行くんですか?」
彼女を見失わないようについていきながら、僕は聞かなければならないことが数多くある中、手始めにまず、それから尋ねた。少なくとも、今から何処に向かうのかだけは、知っておきたい。
「私の家。」
彼女はあっさりと答えた。そう、いともあっさりと答えたのだ……。そのとても奇妙奇天烈な答えを。
そのため、僕にはその意を図ることは出来なかった。僕は立ち止まって、理由を聞こうと思ったが、彼女が先を歩いているので、それもままならない。
……わからない。何で、冴子さんが僕なんかを?
当然のように疑問が浮かぶ。……まさか、彼女に見初められたわけではあるまい。あくまでも、冴子さんが好きなのは……『彼』なのだから。
それからの道のりは、無言が続いた。というより、会話が成り立つ間もなかった。僕は、冴子さんが僕を誘ってくれたことについて、悩んでいたし、また、そのことを口にすることが出来ないほど、彼女の歩くスピードが速かった。何より冴子さんは、全く話す気がないように見えたから。
……。
だらだらと続く人ごみの中を、僕と冴子さんはその隙間をするすると縫っていく。喧騒の中、獣道を行くようで、……結構ハードだ。
商店街を抜け、圧倒的に人の量が減り、更に彼女の歩調は早まった。しばらくいって、横に曲がる。両側には一軒家が立ち並んでいる。どうやら、住宅街に入ったみたいだ。比較的新しいのか、壁が綺麗な家が多く、特に白さが眼に眩しかった。
程なくして、駅から七、八分ぐらいになるだろうか。彼女の歩調が、急に鈍った。そろそろ目的地に着くのかもしれない。と、
「ここが、私の家です。」
彼女は歩くのを止め、僕の方を、振り返った。昔、運動部にでも入っていたのだろうか、あれだけのペースで歩いてきたのに、彼女は息一つ乱してはいなかった。
「はあ、はあ、そう、ですか……。」
彼女とは対照的に、僕は、根っからの文化系のせいもあって、すっかり息が上がっている。自分でも情けないほどに。
「……雪村さん、大丈夫ですか?」
「ええ、まあ。」
「ごめんなさい、急いでしまって。」
「……まあ、ちょっと早かったといえば、早かったですけど、……大丈夫です。」
僕は、出来るだけゆっくり呼吸をし、肩を上下させた。そんな僕を何ともいえない顔で、彼女は見つめている。そして、何も言わず、彼女は視線を自分の家に移し、そのまま口を開いた。
「本当に、ごめんなさい……。でも、早く、真実を確かめたかったから。」
「真実?」
「……ええ。」
「どういう……。」
僕の質問を遮るかのように、彼女は再び僕に背を向け、家の外にある鉄製の門扉に手を掛けた。軋み、甲高い音が鳴る。
「……話は、……中で。」
彼女は、門を開いた。悲しみに暮れた声で、それだけを告げた冴子さんは、敷地内へと入っていく。僕には、この場を解決する手札が何もない。彼女に続くことだけしか出来なかった。
……彼女の話す真実とは一体何なのか、そして、それが僕と何の関係があるのか、それは全くわからない。しかし、僕の足は止まろうとはしなかった。
この不思議なシナリオに興味があったのも事実だが、……何よりも僕は、彼女に恋をしている。彼女の話すことが、どんな不利益になろうとも、彼女と共に時間を過ごせるなら、それだけで、僕にとっては十分に価値のあることになってしまう。
僕が門をくぐると、街灯が定刻になったのか、灯り始めた。歩いているうちに、もう日も暮れており、辺りは暗い。微かだが、秋虫の鳴き声も、聞こえてくる。
僕は、彼女と共に、……一歩、未知なる世界へと踏み出した。
彼女に導かれ、まず玄関に通される。ドアが閉まり、玄関は真っ暗になったが、彼女がすぐに電気を点けてくれた。廊下の明りも点灯し、真っ直ぐと長い一直線の木製道路が浮かび上がる。壁、天井は共に白い。その途中には、トイレかそれとも風呂場かもしくは物置か、ともかく四つほど扉が窺えた。
「さあ、あがって。」
家に着いた安心感からなのか、冴子さんの声は、幾分明るくなって、またそれに比例するように、僕の心も、オレンジ色に染まる。
彼女の雰囲気が、明るければ僕も明るくなれる。悲しくなれば、僕も悲しむ。実に単純な構造だ。
僕は、とりあえず、居間に通されるのかと思ったのだが、彼女は真っ先に僕を、廊下の途中にあった階段から二階へと上げた。何故?と尋ねると、
「そのほうが、都合いいから。」
……都合とはなんだろう?当たり前のように疑問が浮かんだが、ここは言う通りにすることにした。冴子さんにも事情があるのだろう。
螺旋状の階段を上り、また廊下へと出る。それから僕は、和室に導かれた。だが、その部屋は家具や調度品の類は一切無い。そこにあったのは、一組の布団。しかも誰かが使っていたのか、敷布団は皺が寄っていた。
まさか冴子さんの部屋ではないだろう。
「……冴子さん、ここ、誰か、使っているんですか?」
「あっ、ええ、……まあ。」
彼女は歯切れ悪く答えつつ、僕のほうを見る。何かを観察するような目だった。
「何ですか?」
「えっ、ああ、……すいません、何でもないんです。」
「……そうですか。」
彼女の行動には理由が見えなかった。彼女と二人きりで、一つ屋根の下。嬉しくないはずは無かったが、やはり、彼女の態度には釈然としないものを感じる。……しかし僕は、敢えてそのことを口にするのを躊躇った。このことを話題にすると、きっと『彼』のことになるに違いない。そう僕の勘が告げていたからである。……しかし、そこで思い直す。よく考えてみれば、どのみち、彼女が僕をここに呼んだということは、すなわち、『彼』と深く関わっているに違いないのだ。だったら、わざわざ躊躇う必要などないじゃないか。
「あの、それで、話っていうのは何ですか?冴子さん。」
決心した僕は、背後にいた冴子さんのほうを向いて、話し掛けた。すると、急に彼女の顔に影が差す。
「……あの、もう少し、いいですか。」
「えっ?」
「本当にごめんなさい。私、こんなに自分勝手で。自分で誘っておきながら……、凄い迷惑ですよね。」
「いや……別に、」
「いえ、いいんです。実際そうなんです。自分でもわかってるんです。……でも、もう少し、待ってください。……面と向かうと、……言えない。」
彼女の言葉の最後は、小さくなって途切れた。
淋しい沈黙が流れる。
彼女にかける言葉を、僕は持ち合わせていなかった。彼女が求めているものがわからない。慰めでもない。叱咤でもない。一体何を……。
「雪村さん。……ごめんなさい。」
彼女は声を潤ませ、俯いた。表情を見せないようにしてはいたが、泣いていることだけは理解できた。わずかに漏れる、彼女の嗚咽。
……それが僕を動かした。
彼女の振動が、僕に伝わってくる。
どれくらいの時が流れただろうか、僕は彼女の振るえる肩を、いつの間にか抱きしめていた。それが、何というわけでもない。……彼女の涙が止まったわけでもなければ、僕に彼女の気持ちが理解できたわけでもない。そんなことは、初めからわかっていた。彼女はとても奥が深い女性で、僕はその一面しか知らないくらい、いや、それすらも知らないほど、浅い付き合いなのだ。
だけど、なぜかそうせずにはいられなかった。これは、恋が起こす衝動的行動なのだろうか?ふと僕は、そんなことを思った。
「……ごめんなさい。雪村さん……。」
僕の胸に埋められていた、彼女から、こもった声が聞こえた。何度もつぶやかれるフレーズ。しかし、最初のときとは違い、もう泣いてはいないようだった。体の震えも小さくなりつつある。
だけれど、僕は彼女の体を放そうとはしなかった。自分の行動が衝動的であるとわかった今でさえ、放そうとしなかった。……考えられないことであった。けれども、今の僕はそれほどまでに、感情が昂ぶっているのかもしれない。
ずっと、……このまま、時が止まったらいいのに。柄にも無くそんなことを考える。
だが、そんなことも束の間。すぐに、もう一人の僕が、冷静に今の状況を分析し始めた。
彼女の艶のある黒髪が、首筋に掛かっている。ふわりと香ってくるシャンプー。さらに、涙で湿った僕のTシャツ。抱きしめた彼女の感触。……この部屋に二人きりという事実。背後には、しわくちゃになった一組の布団。
僕の妄想を駆き立てるには、十分すぎるほどの演出だった。否が応でも、脳の電気信号は、ありもしない事実を紡ぎ出していく。
僕は、彼女の肩を持ち、私の体からゆっくりと離した。理性で、ふつふつと湧き上がる欲望を押さえ込み、最大限、下半身に注意を払う。
「……もう、平気?」
僕は、必死の思いで、声を掛けた。
彼女の顔を見ると、目は赤くなっているものの、もう泣いてはいなかった。涙は、僕のTシャツに吸い込まれたのか、流れた跡は残っていない。
「うん。ありがとう。……おかげで、確信、持てた。」
「えっ?」
僕は、言葉を飲み込む。彼女は嬉しそうに表情を変え、先ほどまでとは、打って変わって、声も明るい。
「あなたは……。」
彼女の放つ言葉に、僕は耳を傾ける。だが、それに、なぜか抵抗感を覚える。それに従ってはいけないと、何かの忠告。
だが、そんな僕の小さな反抗心に、彼女が気づくはずもく、言い放った。
心臓の音。
「あなたは、雪村さん。……雪村恵吾さんです。」
「嘘だ。」
半ば予想していたのだろうか、彼女の言葉を、僕は即座に否定した。彼女を悲しませたくはなかったが、そんなことはありえないのだ。
彼女は、勘違いしている。
僕は僕だ。
『彼』じゃない。
「嘘、じゃないです。だって、あなたはやっぱり、……雪村君さんです。……その右手の甲の傷が、何よりの証拠じゃないですか。」
僕は、はっとして、自分の右手を見やった。縦に入った小豆色の傷。今日の昼、彼女が、僕に聞いた、傷痕。……そして、僕はその理由を知らなかった。思い出そうとしてみる……。記憶には無い。……だから、そう、だから僕は、小さい頃から共にあるのだと思った。この傷痕は。
「この傷痕は……、昔から。」
「嘘です。あなたは、本当は何も覚えていない。」
彼女は問い詰めるように、僕を見据えた。しかしそれはどこか楽しそうにも見えた。
「いや、覚えている。僕の記憶は、僕だけのものだ。……誰のものでもない。」
完全なる自身肯定。
僕は僕。誰でもない。
「……そうかもしれない、でも、それはあなたの作り出した仮の記憶なんだと思う。本当のあなたの記憶じゃない。」
見知ったかのように言う彼女。僕は、『彼』との接点を外そうとした。
「僕には両親がいない。」
「雪村さんもそうだった。」
「高二の時に死んだ。」
「そうだったってお姉ちゃんから聞いてる。」
絶望という名の壁が、すぐそこまで迫っているような気がした。
「僕のせいで、死んだんだ。」
「旅行中に、だったよ、ね。」
「……嘘だ、僕は……。」
彼女の紡ぐ言葉はすべて真実。
「あなたは雪村さん。それ以外の何者でもないの。」
僕は誰?
今までの自分が崩されていく。
僕は誰?
僕は、僕の人生は、全て偽りだったのか?
僕は誰?
それでも、僕は……。
僕は誰?
……僕は雪村聡志だ。
「だったら、何。」
「えっ?」
急に僕の口調が変わったのに驚いたのか、彼女は顔をきょとんとした。
「だからさ、僕が、雪村恵吾だったとするなら、僕をどうしたいわけ?」
「それは……。」
彼女の戸惑いが感じられる。
「僕はさ、確かに雪村恵吾なのかもしれない。でも、だったとしても、今の僕は雪村恵吾じゃない。雪村聡志だ。」
「……。」
「確かに、何となくだけど、冴子さんの気持ちもわからなくはないよ。……だけどね、よく考えてみて。僕にはさ、今の僕には、雪村聡志としての生活があるんだよ。……今はね。僕は、『彼』じゃないから。」
「でも……。」
「冴子さんはさ、『彼』のことが、好きなんでしょ?」
彼女は息を呑んだ。驚いたのだろうか?こんなわかりきったことを指摘されて……。ふん、馬鹿らしい。
「だから、僕のことを、何とかして、助けたいと思うんだよね。……でもさ、助けるって何なのかな?」
「……。」
彼女は答えない。
「僕は雪村聡志の人生を今、生きている。だけどね、記憶もあるんだよ。所々穴はあるみたいだけど。……でも、本来、記憶なんてそんなものだしね。」
「だけど、それじゃあ……。」
彼女は何か言おうとしたが、僕はそれを手で遮った。
「ちょっと待った。駄目だよ。よーく、考えてごらん。僕は今、何の不自由もない。君からしてみれば、雪村恵吾という存在は消えてしまったし、雪村聡志っていう変な人間が生まれてしまったわけだけど、……確かに辛いと思うよ。」
「そんなんじゃ、」
「いや、そうなんだよ。君は、雪村恵吾が好きだから、彼に恋しているから、僕よりも彼を欲しているのさ。」
「そんな……こと……。」
彼女は絶句している。
自分でも不思議だった。なぜ、自分の好きな人を、苦しめるようなことを言っているのか?明らかにこれは、彼女を傷付けている。だが、なぜかそうすることで、僕の心は澄んでいった。
認めたくないことでも、それは……事実だ。僕はそう割り切ることにした。
相も代わらず僕は軽い調子で続ける。
「ごめんね、少し、言い過ぎたみたい。だけど、自分の気持ち騙しちゃ、駄目だよ。君は『彼』が好き。そのことに間違いはないんだから。」
僕は彼の部分に、アクセントを置いた。彼女は項垂れたままだ。僕はいつの間にか、彼女の肩から手を離していた。今はそのことが、とてつもない距離に感じる。
「……私は、雪村さんと一緒にいたい?」
彼女は小さく呟いた。自分の気持ちを確かめるようなイントネーションだったが、僕の心を貫き通すには、不足なかった。
僕は、笑顔を浮かべる。彼女は、何も気付かない。………気付く余裕なんてないのだろう。
ここで告白……、できる状態じゃあないな。無理に彼女を苦しめたくもないし。
僕は心の中で苦笑した、自分で心を騙すな、なんて言っておきながら……。
「私、よく、わからないんです。」
「えっ?」
突如、彼女は僕に言った。
「私が、雪村さんのことを好きなのは……本当です。でも、彼に戻ってきて欲しいのかどうかまでは、自信がないんです。」
「……意味がわからないんだけど。」
私は、溜息をつく。
「だって、雪村さんは、お姉ちゃんのことが好きだから。」
「……そういえば、……そうだったね。」
雪村恵吾は思い出してみれば、死んだ自分の恋人を未だに好きだったと、彼女から聞いている。記憶喪失中は、それすら覚えていなかったとも。
「だから、私……、自分でも一体、どうしたいのか……。」
「わからないなら、悩む必要はないと思うよ。そのままにしておけば?どうせ、どっちをとっても後悔するんだから。」
「……。」
「それに、一つ忘れちゃ困るんだけどさ、僕は僕だからね、僕は別に『彼』であると、認めたわけじゃないから。」
「えっ、でも。」
「でも、じゃない。僕は僕。どっちにしたって、僕は彼になるつもりじゃないからね。」
「そんな……。」
悲しそうな声を上げたが、それは幾らなんでも我儘というものだろう。
「そんなじゃないよ。僕だって、僕の人生があるし。いくらなんでも、それは我儘でしょ?」
「……。」
「違う?」
僕は意地悪く彼女に問い掛けた。ここで駄々をこねるほど、彼女も子供ではないのだ。彼女は悔しそうにこっちを見ている。なぜかそれが微笑ましかった。
「……それでいいよね。」
「じゃあ、」
「えっ?」
急に彼女が、してやったりというように、笑顔を浮かべた。
「私は、あなたの記憶を引っ張り出してみせます。」
「はい?」
「私は、雪村さんのことが好きなんです。だから、そうします。」
「でもさっき、」
私は彼女が先程言っていた言葉を思い浮かべる。確か彼女は、自分が『彼』を本当に戻したいのかわからない、と言ったはずだ。
「さっきはさっき、今は今です。私は、雪村さんの事が好きですし、だから、彼に戻ってきてほしいんです。」
「でも、」
「雪村さんが、誰を想っていようと関係ありません、例え、それがお姉ちゃんであっても、です。私は私。私が、雪村さんを好きなのは、変わりありません。それに、」
「それに?」
「まだ私、雪村さんに、この気持ち伝えてませんから。」
「……そう。」
彼女の熱意は本物のようだ。僕を本当に、『彼』に変えてしまうつもりらしい。
「協力してくれますよね?」
「馬鹿言うな。」
そこで、僕達の口からは、自然と笑みがこぼれ始めた。それはだんだんと、声になって、二人で笑い転げた。何がおかしかったわけでもない。ただ嬉しかったのだ。純粋に。
それが何に対してだかは、わからない。けれど、嬉しかった。
……しかし、彼女は気付いているだろうか?僕という存在の不自然さに。……まあ、仮に彼女の言っていることが本当だとして、僕が二つの人格を持っているとしたら、僕は多重人格者というわけだ。このこと自体は、大したことじゃあない。だが、おかしいのは、少なくとも、ここ一ヶ月は僕でしかないということだ。『彼』の存在は確認されていない。すると、『彼』は今、本当に僕の中に存在しているのか?それとも、もう既にいないのか?そして、今、本体なのは『僕』なのか、それとも『彼』なのか?
他にもある。僕はただ単純に霧下耀子さんに関してだけ、記憶喪失であるという可能性が。もし、自分が、『彼』であったときの彼女に対する感情、記憶、全てを忘れているのであるとしたら、僕が元に戻ったとき、僕の感情は残るのだろうか?彼女を……、霧下冴子を好きでいられるのだろうか?
笑い転げながらも、僕の心の底では、そんな疑問が次第に渦を巻き始めていた。
僕の気持ちも、空回りのような気がしてくる。
……頭が混乱してきた。
自分の存在が揺らぐ。……僕は……。
考えるのはやめよう。未来のことなんて、そのときになってみなければ、わからないんだから。 僕は、冴子さんが好き。……今はそれだけで、十分だ。
「あの……。」
「ん?」
彼女がこちらを向いて僕を呼んだ。
「あの、これから、聡志さんって、呼んでも……。」
「ああ、そうだね。ややこしいもんね。そうしていいよ。僕もそのほうがいいし。」
「えっ?」
「まあ、こっちにもいろいろとね。」
僕は、追及を軽く逃れた。彼女も、気にしなかったようだ。
「それで、聡志さん。」
早速彼女は僕の名を呼んだ。その響きに、少し心が浮き足立つ。
「……今日、……てい……んか?」
「えっ?」
急に彼女の声のトーンが下がり、途切れ途切れにしか聞こえなくなる。
「ううん、何でもない。気にしないで。」
彼女はほんのりと赤く、頬を染めた。……よくわからない。
なにはともあれ、お腹が空いた。これから、外食というのも、なんだかな。
……ぎゅるる。
彼女のお腹が不意に鳴った。自然と目と目が合った。
「お腹空いた?」
僕は、彼女にそう尋ねた。多少の皮肉を込めつつ。
「……ええ、少し。」
恥ずかしいのか、彼女の頬はさらに赤くなる。
「じゃあ、ご飯作ってよ。」
「えっ?」
「だって、せっかく来たんだし、お客様には何かもてなしがあっても、いいんじゃない?」
「……。」
あれだけ、女性が苦手なはずだったのに、こんな軟派な言葉が飛び出してくる。彼女が何か探るような目つきで、こちらを見た。
「……何?」
「いえ、何でも。」
彼女は、残念そうに呟いた。そして、立ち上がる。
「それじゃあ、何か作ります。あまり、料理は上手じゃないんですけど。」
「いいよ、別に。一流レストランの味を期待しているわけじゃあないし。」
彼女は僕を見下ろし、
「……いいんですね。」
背筋に悪寒を覚えるような、台詞だった。
「あ、ああ。」
「それじゃあ、何か、作ってきます。……ああ、途中で、アルバム拾っていきますから、先に下に下りてください。聡志さん。」
「わかった。」
彼女が部屋を出ると、僕も立ち上がり、部屋を出た。彼女は、隣の部屋に入っていく。僕はその部屋を通り過ぎ、下の居間へ向かった。階段を下り、廊下に出て、玄関と反対方向に歩きながら、突き当りを目指し歩く。大体の感覚で、一番奥が広いことは予測できた。……で、予想通り僕はリビングに出た。
背後から、彼女が階段から降りてくる音が聞こえてくる。
「聡志さん、一回この写真見てくれますか?」
「んっ?」
振り返ると、思ったより近くの位置を、彼女は歩いていた。その右手には写真が数枚握られており、彼女はそれを胸に抱くようにしていた。
僕はそれを受け取る。彼女から渡されたのは三枚の写真であった。その写真には、一組のカップルが、映し出されていた。
長い黒髪を持った、優しそうな顔で微笑む女性。そして、確かに僕が写っていた……。少し若いが、間違いなく僕だ。
「これ、……誰?」
聞かなくてもわかっているくせに、つい口から漏れてしまう。
「それが、雪村さんです。」
「これが……。」
もう、他人の空似というレベルではなかった。双子ではないかと思わされるほど、似ている。同じ名字だから、血が繋がっていたとしても、ここまで似ることは、まず有り得ないだろう。それなら、やはり、……?
そこまで考えて僕は、それをすぐに打ち消した。
僕が『彼』であることは十中八九、間違いない。……と認めながら、それでも自分が『彼』とは、別人であることにしたのだ。往生際が悪いといわれればそれまでだが、どうしても僕は、もう一人の自分の存在を認めるわけには、いかなかったのだ。
「……そう、か。」
「ええ。」
僕も彼女もその一言だけで発言を留めた。気まずい沈黙が流れる、その上、夕食の席でも、冷ややかな食器の音ともに、薄っぺらな会話が交わされるだけだった。そして、その話題も尽きたころ、僕は、ハンバーグ最後のひとかけらを、食べ終えた。
「ご馳走様。」
僕のテンションは下がったままだった。またそれには、彼女の料理の腕が、関係していることは否めない。
「……聡志さん、ごめんなさい。」
「いや、いいんだ。冴子さんの気持ちは良くわかるから。」
彼女の謝罪が、料理に対するものだったのか、悪い雰囲気を作り出してしまったことだったのかは、わからなかったが、僕は、ともかく……その後、すぐに、彼女の家を去った。彼女に悲しい仮面をかぶせたままで。
これが、僕の作り出した罪なら、まだ、ましだった。自分を責めることができるから。……でも、これは彼女のミスだ。僕にはカバーすることなんて出来ない。
……いらない溝が出来ちゃったな。
明日、彼女は来てくれるだろうか?また、今日のように……。
……半々、かな。
暗い夜道、それは未来であり、その真っ暗な未来を照らしてくれる電灯は、彼女である。
こんな考えは、くだらないことだろうか。
「……いや、単に子供なだけだろ。」
希望を抱く少年は、そう独りごちるのだ。
私は目を覚ました。側には、一糸纏わぬ姿で、耀子が寝ていた。……その姿でいるのは、耀子だけではない、自分も同じだ。だが、全く寒いとも暑いとも感じないというのは……。
そうか、私は……夢の中にいるんだったな。いわば……。
「夢じゃないよ、雪村君。」
「ん、ああ、起きたのか。」
「はい。」
にっこり彼女は笑う。……そう、この笑顔なのだ。私が求めていたものは。
彼女はいつの間にか、服を着ていた。外の世界のことを意識してなのか、白のカーディガンにチェックのスカート。随分と秋っぽく変わっていた。
気付けば私も服を着ている。だが、なぜかそれは、私の高校時代の制服だった。こんなシステムもこの世界ならではの特徴といえるだろう。
「何でこんな服に……。」
「まあ、いいじゃない。なんか、若返ったみたいで。」
「そうか?私は、君が大人っぽく見えて、何か不公平な気がするんだが……。」
「雪村君は、いやなの?……どうせなら私も、その方がいいんだけど。」
「えっ?」
すると、途端に彼女の服が制服に変わった。……確かに、若返って見えるような気がする。
「懐かしいね……。って言っても、この頃は、私の一方的な片思いだったけどね。」
「まあな。」
だが、そのとき作らなかった想い出を―――、
「今、作っておくのも悪くない?」
「心を読むなよな。……私の台詞だぞ、そ―――」
言い終わる前に、彼女が座ったまま私の口をふさぐ。その感触は、手の平のように芯があるものではなくて、もっと弾力に富んだものだった。
……。
最初のキスは、そんなに時間を掛けず、すぐに離れた。足を崩した状態のまま、鼻先数センチの状態で見つめあう。
自然と、右手が肩に回る。……もう、傷のことなど気にする必要がない。
彼女は僕の体に体重を掛けてきた。僕は倒れないように、しっかりと彼女を受け止めた。
「……私、こんなに幸せでいいのかな。」
私が愛したことのない耀子が、胸の中で小さく呟く。悲しみではなく、本当に疑問に思ったようだ。そんな彼女の髪を、私は優しく梳く。
「……私、あなたのことを奪っちゃったんだよね。」
「……本当にそう思うのか?」
「……。」
彼女は何も答えなかった。だが、それが答でもある。迷いという名の。
「耀子。誰に罪を感じている?」
私は、柔かい口調で問い掛けた。
「……冴……じゃ、ないから、困るんだよ。誰だかわからないから。」
「そうか。」
「ねえ、雪村君。本当に―――。」
「そんなに、私と離れたいか?」
彼女の体がびくっと、なるのがわかった。そして私の制服を強く掴む。
「……。」
「ありがと、耀子。」
「……うん。」
彼女の顔が微かだが、縦に動くのが、感じられる。
「大丈夫だよ。……きっと、耀子のその罪悪感は、なかなか拭える物じゃあないと思う。だから、辛い気持ちは変わらないかもしれない。でも、それでも、私だけは、いつも耀子の味方でいるから。」
「うん。」
さっきよりも確かに、彼女は首肯を示した。
……。
ゆっくりと時は流れる。
……あるはずの無い、彼女の体熱で、自分の胸が焦がされるようだ。
「雪村君……。」
「んっ?」
「……ありがとう。私を選んでくれて。」
「それが、私の望んだことだ。……君も、そうだろ?」
私は彼女の首筋に接吻した。
「……ずるいよ、雪村君。」
私達は、靄の中へと溺れていった。微かに、ミントの香りがした。
半
彼女の家を訪れて、家族公認の仲となった私と耀子だったが、だからといって、今までの付き合い方が、特に変化することはなかった。ただ、二人が訪れる場所に、それぞれの家が加わっただけだったから。
「だんだん、寒くなってくよね。」
「そうだな。私も、そろそろ衣替えをしなきゃいけないと思っているんだが……、なかなか暇がなくて。」
「そうなの?」
「ああ。もう最近、家にいる時っていうのは、大抵、寝ている時か、耀子が来ている時だけだからな。」
「……そんなに?」
「自覚無いか?ここんところ、私達は、いつも一緒にいるぞ。学校来る時も、家帰る時も、遊びにいく時も……。サークルも、一緒だしな。」
「そうだっけ?……全然気にしたこと無かった。」
「まあな。……自分でも、こんなに長い間いっしょにいて、嫌にならないのが不思議なくらいだからな。」
大学の帰り道、こんなことを話しながら、私達はあるところへと向かっていた。二人が始めて結ばれた日に、立ち寄ったあの喫茶店である。一回行ってからというもの、あそこは、耀子のお気に入りとなってしまい、私達ちょくちょく、暇があると出掛けるようになったのだ。まあ、いわゆる常連さんというやつだ。そうなると、いろいろわかってくることも増える。例えば、面白いことに、あの店には名前が無い。そのわけを、マスターの大六野さんに聞くと、
「名前なんて無意味だからな……。要するに、それがどんな店かわかれば、いいんだろ。だから、俺の店には名前が無い。名前が無いことは立派な名前になるからな。」
などと屁理屈めいたことを言っていた。
客の数は常に増えていなかったが、というかゼロだったが、料理は常に一級品だった。マスターもこっちの顔を覚えていてくれて、いつも話が弾んだ。相変わらずその会話は、新聞や雑誌越しであったりしたけれども。
彼はいろんな話をしてくれた。自分が旅人のようなものであること。常に移転して、お店を開いていること。そこで出逢った客のこと。いつか、この土地からも去らなければいけないこと。……その話し振りは、懐古するようなものではなく、単なる世間話のような雰囲気だったが、そのことを記憶していることから、よほど思い入れの強いことだったんだなあ、と感じ取れた。
電車を乗り継ぎ、名のない喫茶店のある駅についた。初めて流れ着いた時とは違い、道はかなりすいている。時間帯が昼間であることも、影響しているだろう。
「ねえ、今日、なに頼む?」
今までしてきた会話から、そこへと話題が転換された。
「ん、ちょっと趣向を変えて、ミートソースにしようと思うんだけど。」
「趣向を変えてって……前もパスタじゃなかったっけ?」
「前は、ナポリタンだったんだ。私は思いつく限りのパスタを、あそこで食べようと思っているからな。……耀子はどうするんだ?」
「私は、コーヒーと、チーズケーキ。」
「ああ、確かに……、あそこのチーズケーキは秀逸だよな。」
私も一回食べたことのある、チーズケーキ。あの、大人っぽい甘さは、きっとあそこでしか出せない味だろうと、思う。だが、驚くべき点はそこではない。凄いことは、ケーキが、いくら時間が経っても、あの味であるということだ。どんな魔法を使っているのかは知らないが、既に作ってあるケーキを、客には出すのである。それであの味なのだ。未だに信じられない。一度尋ねたことがあったが、
「企業秘密だ。」
と、すぐに、回答拒否を受けてしまった。シニカルな笑みをこちらに浮かべながら。
そんな回顧をよそに、私達は、いつもと変わらない白い佇まい。そこに辿り着いた。
そして、その扉に掲げられた文字に絶句する。
『閉店しました』
だが、そこには無愛想な文字が並んでいた。いかにもあのマスターが書きそうな文字ではあったが、私達はそれをにわかに信じることが出来ずにいた。
「……嘘っ。」
「何でまた、……突然に。」
私達は思い思いの感想を述べた。
呆然と立ち尽くしてから、ウィンドウから中を覗く。そこにはあの時と変わらない、空間が残ったままだった。だが、あの時陳列されていたコーヒー豆も茶葉も、既にない。
……時間は動く。止まることなく、ずっと、動きつづける。
この空間自体は変わっていないけれども、やはりそのことを実感せずにはいられない。
もう大六野さんと会うこともない。……友人といえるほどの仲でもなかったが、別れというのはいつだって悲しいものである。それが心を許した人物であればあるほど。
私の側には、まだ、信じられないといった表情で店舗を眺めている、耀子がいる。
私も生きている限り、必ず彼女と別れなければいけない時が、やってくるだろう。それは、私のほうからかもしれないし、彼女のほうからかもしれない。
死にいく者の悲しみは、一瞬だ。でも、残された者の悲しみは、著しく長い……。
いとおしい自分の恋人には、そんな想いはさせたくない。残るのなら、私でいい。私は、彼女の横顔を見つつ、そんなことを考えていた。
本来ならこんなこと考えるべきでは、ないのだろう。
……人を好きになるのは簡単だが、愛するのは難しい。さらに互いが幸福であることは、それ以上だ。
このまま進んで行けば、私達はうまくいくのか、それはわからない。もう既に、取り返しのつかない状況なのかもしれない。胸中に、そんな不安が渦巻く。
不意に耀子を抱きしめたくなかった。耀子が、どんどん遠くへ、行ってしまうような気がしたから。
だが、往来で、さすがに気恥ずかしい。私は彼女の手を握るだけに留めた。彼女の瞳は、前を向いたままだったが、私の手を握り返してくれていた。
いつも、……いつまでも一緒に……。
きっと、それでいいのだろう。
「雪村君、これからどうしようか?」
「そうだな、……うちに来るか?紅茶ぐらいなら淹れられるから。」
「……うん、そうする。途中でケーキでも買ってこ。」
「ああ。」
……今だけが、全て本当のこと。だから、私が幸せであることは、……真実だ。
未来が不安になったなら、今を見ればいい。そこには、必ず、未来への指標が隠されているはずだから。
半
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どうも、みっともなくて長いけど第二章三話です。
やっぱりどんどん、読んでく人が少なくなるよぉ……。
いっそのこと一気に挙げてしまえばよかった
ではどうぞ!
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