No.149952

潭月亭日々綴 3

◆“他所で話せば胡乱に疑われそうな――” 片田舎の湯治宿「潭月亭」に長期逗留する客の日常的幻奇のつづり  ◆一話読みきり
 タイトルイラスト◆某ぎぼし様 →http://www.tinami.com/creator/profile/12751

2010-06-12 12:35:19 投稿 / 全15ページ    総閲覧数:499   閲覧ユーザー数:484

 

 

 

 

 その人物が潭月亭を訪れた時、私は丁度庭で佐馬千代に構っていた。

 庭職人だろうかと漠然と思ったが、女将が玄関で迎えて奥へ案内をして行ったので、屋根が漏ったか根太が抜けたか、職人一人なら戸の立て付けか、いずれ内の修理であるのだろうと、勝手に合点をした。

 佐馬千代に話を戻そう。

 佐馬千代は潭月亭の庭の主である。悠々と縄張りを歩き、気のまま土をつつき、またぐっと首をあげて辺りを睥睨する風貌に人間が貫禄負けするこの老鶏は、かつて潰される寸前を、女将が買いあげて来たのだそうだ。

 佐馬千代は鳴かない雄鶏だ。鳴けないわけではない。鳴く条件がある。その「条件」を、私が満たしたらしいことがある。くちなしの夜の一件の折、曙光の露払いをした鶏は佐馬千代である。

 止宿人の間の口伝では、霊的な危険を感知した時に鳴く鶏とされ、そのような鶏もいようかと疑いもせず追求もせず置いていたが、件の女〔ひと〕の名誉と少しばかり自分の弁護のために次のように改める。佐馬千代は霊感に従って鳴く鶏であるが、鳴く条件として、危機、危険が在る時に限るということは断じてない。

 過日女将に、この能力を買って佐馬千代を救ったのかと訊ねたところ、「いえ、まったく」という答えであった。

 夕飯時の湯殿には、先客が一人いた。

 入り口に背を向けた格好で、湯べりにもたれている。後客を気にする様子もないので、こちらも邪魔をせぬよう、かけ湯を終えると静かに湯船へ浸かり、先客の斜向い辺りに陣取った。

 そこで気がついた。昼間、庭にいる時に見た人物だった。湯治客であったか。先方が目を閉じているのをいいことに、様子を伺った。何某かの、腕のいい職人。そう決め付けてしまいたい顔だと思った。

 歳の頃六十余、究める人が持つ、頑固さと、誠実さと、優しさが同居している顔だ。強〔こわ〕い肌へ刻まれた皺は、一本とて、無駄に刻まれたものがあるとは思えない。それは鷲鼻の下でぐっと引き結ばれた口元に代わって、彼の人生を語るようだった。

 思い返してみれば、昼間見た男性は、背広姿に旅行鞄を持っていた。にも関わらず、客と考えもしないというのはうかつと言おうか失敬と言おうか。しかし目で何を見ても一瞬後には、この見事な顔貌が全てを忘れさせるのも事実だ。

 

 つくづくと見惚れていると、彼の肩の辺りに固まった湯けむりと目が合った。ええ? と見直すと、確かにそこに黒い双眸があり、相手もびっくりしたのだろう、男性の肩からつるりと滑って湯に落ちかけ、寸前で留まって、ててて、と肌を駆け上がり、首の後ろに隠れた後、再びそうっとこっちを伺って顔を出した。

(あ。狐)

 そう思ったのと同時に、男性がぱっと目を開き、こちらへぐっと首を捻ったので、今度はこっちが慌てる番だった。

 私が何か言い訳じみた顔をしていたのだろう、男性は私を暫時見つめると、

「兄さん、こいつが見えるかい」

 と言ってきた。野太い力強いよく通る、期待通りの声であった。

「は、あの、狐……」

 狐の姿がはっきりしているのではないが、もやもやとしたものが凝っては耳、凝っては尾、と形どり、全体を見ていると狐の形が浮かんでくるのである。ただ二つの瞳だけは、くっきり見えていた。

 

「もしや、現行さんですか」

「なに。ゲンコウ?」

 ぎょろりと睨め付けられて、慌てて説明をする。

「いえあの、この潭月亭はですね。ご承知ではありましょうが、霊の障りの病や傷……の湯治宿です。ですが、稀にここを『憑き外しの湯』と覚え違〔たが〕えた方が、その、お連れ……で、いらっしゃる。そういう方を、現行さんと呼んでいまして、いや、失敬。湯治客の多くは、憑き物は落ちたが、その痕治療で来る者なので」

「ほう」

 男性は湯をちゃぷりと揺らして、後ろへもたれさせていた身体を起すと

「すると、現行と知れると追い出されるのかい」

 と訊いた。

 

「いいえ、そんなことはしません。実は女将の受け売りですが、こうしたことは、何より本人が気を強く保つのが肝要です。“現行”も“後遺症”もありません。効くと信じて気を強く持てるなら、それも立派な効能です。事実、覚え違えをなさって来た「現行さん」の中には、ちょっと気持ちが強くなっただけで事態が好転した人だっているそうです。だから追い出すなんてありませんよ」

「うん。その考えは世の道理に適っている。いやなに、俺がこいつを“ゲン公”と呼ぶもんでね。ちょいと驚いたのさ」

 男性はそう言って、片手で肩に乗った塊を構った。

「挨拶したんか。こらゲン公」

「ゲン、ですか」

「ゲンよ。ゲンバノジョウさ」

 私はまたも驚いた。

「ゲンバノジョウ? 桔梗ヶ原の玄蕃之丞?」

「おい何だ兄さん、同郷かい」

 男性もいささかぎょっとして返す。

「いえ、いいえ違います。ですが、信州塩尻桔梗ヶ原の玄蕃之丞狐は有名でしょう」

「有名かね。故郷〔くに〕を出て何十年にもなるが、知ってるやつにはついに会わなかったが」

 そう言いながらも、嬉しげを見せて即興一節。

「渺茫たる原野を統べる大狐。銀の毛並の悪戯者。ひと声あげれば馳せ参じたる、いずれ劣らぬ剛の者――」

 思わずこちらも追従する。

「赤木山の新左ェ門、沢尻のさえん、田川の与三郎……」

「横手ヶ崎のお夏狐。それぞれ手下を引き連れて、玄蕃之丞の四天王、集えばこれより稀代の大化かしのはじまりはじまり」

 そこで二人、声をたてて笑いあった。

 

「大掛かりな化かしをしでかしたのだそうですね。そんじょそこらの狐とはわけが違う」

「派手好きでな、何よりの好物が大名行列、総出で化けて中山道を、下にィ下にと練り歩きゃ、人間はデコを地べたに擦り付けて、へへーっ、てなもんだ。それを大将、お駕籠ん中から眺めて笑いを堪えてるって寸法だな」

「その大将狐が、そちらの……?」

「ん? ああ、いや」

 ちらっと肩先を見やり

「まさか違うさ。こいつとはちょっと妙な縁でな。玄蕃之丞は俺が勝手につけた名さ」

「立派な名前をもらいましたねえ」

 そう言うと男性は急に活気を失ってまた後ろへもたれかかり、深々嘆息した。

「それがちっと拙かった」

 男性は室江と名乗った。職業は指物師と知り、私は心中大きく頷いた。

 この湯殿に使われている木が檜か欅か、何度聞いても忘れてしまうと私が言うと、枕に頭を乗せたまま「檜だ」。

「木もいい。造りもいい。見事なもんだ」

 この人のお墨付ならば、どこの御殿風呂にも負けぬだろう。

 

「俺は木を選びに行ったんだ」

 室江さんは、仕事に使う木を自分の目で選ぶため、山に入ったと話を始めた。

「いい山だったな。いい木が育っていた。俺は木しか目に入っていなかった。片足が何かに落ちて、ようやく足元に注意がいった。下を見たら膝までずぼらと埋まってやがる。穴に泥やら草やらが被ってたところを踏み抜いたらしい。足を引き抜いたら、一緒に木片が出てきた。形と、残った色とを見りゃ分かる、小祠さ。突っ込んだ足がずきんと痛んだ。別段怪我はしてねえのよ。

 

 泥を掘り返したら残骸がほとんど丸ごと出てきてな。山の持ち主にこりゃ何の祠だって聞くが、知らん解らん、なんにしろ神さまを足蹴にしちまって気持ちいいことはねえ。しかも足は妙な具合にずきずきする、俺は腹の底から手え合わせて、えらい粗相をしちまいました、早急に新しい祠を献上いたしますので、お許し願いますって言って山を下りた。

 

 その祠がいつ建てられていつ崩れたか、結論を言や、解らず終いだ。とにかく俺は大急ぎで新しい祠をこさえて山に持ってった。後から考えりゃ、神主を立ててちゃんと作法を踏むべきだった。 しかし足の痛みが日に日に増すだろう。医者に見せても首を傾げられるし、こりゃあ祟りだ間違いねえってこっちは生きた心地がしてねえんだ。傍目もふらず仕事して、出来上がったその足で一目散に山に駈け上ったさ。

 泥を掘じくり返した時、やけに綺麗に丸い石が出てきてな。それがご神体だと思ったんだな。とにかく祠を据え付けてご神体を安置して、手を合わせた。……その日から、耳元で、きゅうきゅう鳴く声が聞こえ始めた」

 

「順番通り考えりゃ、山から何か連れて来ちまったと思う。足の方は相変わらず痛み続けるし、俺は祟りに震えるぐらいだから神仏を敬う心は持ってるが、この方面はとんと不得手よ。どうしたもんかと思案してると、ある日例の山の地主が、修験者風体の男を連れて来て、室江さんの足が快〔よ〕くならねえって聞いて視てくれる人を探した、って言うんだな。先に山の祠も見てきたらしい。その男が俺を一目見て、喧しいことでしょう、一言言った。俺の足の悪いのは大勢が知ってるが、声については誰にも喋ってなかったから、兎にも角にも話を聞くことにした。

 男の話はおおよそこうだ。

 あれは山神を祀った祠だが、いつの時か崩れて埋まってそれぎりになっていた。

神は土砂に埋もれたまま放りっぱなしにされて、いたくご立腹、なんてこたあなく、埋もれ具合がいい感じに、ほどほど暗くほどほど冷たくほどほど暖かい寝所になって、気持ちよくお寝みになられていた。

 

ところでこの山神さまには御使い狐が一匹いた。その狐は神のお傍にずうっと侍り、お寝みを守っていたんだな。ある日そこをこともあろうに土足で踏み抜いた輩がいた。狐はこの狼藉者とばかり身を躍らせ、そいつの足にガブリ喰い付いた。喰い付いたまま引っこ抜かれて泥の外、何十年ぶりかのお日様を見た。仇の足に歯を食い込ませたまま目を回して、はたと気がついた時には見知らぬ場所。

 無論狼藉者が俺、見知らぬ場所とは俺の作業場だ。

 

 狐は様子を見た。

――どうやらこやつは心を改めて、神に新居を献上する気配らしい。さればよし。またぞろ悪心の起こさぬよう、足に打ち込んだ楔を疼かせてやりながら待つとしよう―― 間もなく社は出来上がった。

不埒の輩は神の御住まいを据え奉り、真摯に手を合わせたので、狐は許すことにした。

――お前の真心見届けた。我仲介となり、神よりお赦しをいただいてやろう故、安堵いたすがよい――

狐はひょいと飛んで、人間から、俺から離れようとした。

 

 ……?

 ひょい、ひょい、ひょい ……?

 おかしいぞ。離れられない。まるで膜があって他所へ飛ぶのを阻まれているようだ。

 慌てているうちにも社の扉が閉められてしまう。さあえらいことだ。

 そうこうしていると人間は山を下り始める。やい待て止まれ、我を離せ置いてゆけ

 ……と、こう、山を下りてもずっときゃあきゃあ鳴いていたわけだ」

 

「まずこれが、俺とこいつの出会いの経緯だ」

室江さんは、汗を掻き始めた顔を手でつるりと撫でた。 

「なるほど奇妙な縁なわけです。その修験者風の男にも、狐を離すことはできなかったのですか」

「さあそこよ」

「修験者風体の男、面倒臭えからもう行者でいいな、そいつが言うには、外すことはできても、山に戻してやるのは難しいかも知らん。なんでも勝手に据えた祠だが、山神さまに格別失礼はなかったようだ。しかし俺が社の扉を閉めた時、外にいる使い狐を締め出す形になっちまったんだな。そいじゃおいらがまた山に行って、あの扉を開けてやりゃいいのかといえば、事はそう単純じゃねえらしい。やっぱりああいうことぁ、素人が適当にやっちゃいけねえんだ。

 

 離した後はなんとかする、兎に角外しましょうと言うんで、祈祷をしてもらうことにした。

 祈祷の間、狐が鳴き続けるんだ。それが何とも哀れな声でさ、俺は訊いた。おいなんだか弱っているようだが、まさか死んじまうんじゃなかろうな。行者は言った。一気に引き剥がすために少々弱らせますが、死にゃしません。そうならいいが、ところでこいつ、山に帰れなかったらどうなるんだ。

 こういう答えだ。自分の使役狐になればよいが、もし言うことをきかないようなら消すしかない。いずれこのまま野に放つわけにはゆかん。そいつを聞いちまったら、まったくこいつが哀れになってな」

「ああ本当に。気の毒に聞こえます」

「それで、祈祷を止めさせちまった」

 

「行者は一体どうするつもりかと言う。どうもこうもねえ、こいつはこのまま俺のところに居りゃあいい。それじゃあ足は治りませんよ、構わねえ、無茶をいう、何が無茶だ、勢いで喧嘩腰、ろくすっぽ話も聞かねえで追い出しちまった。それからずっとこいつと一緒だ。一緒に暮らすなら名前がいろう、狐といって俺が思い出すのは、餓鬼の時分に馴染んだ、郷里の伝説の大親分だからな」

「それで、玄蕃之丞の名がついたのですね。やはり足は悪いままだったのですか」

「まあな。しかしわけが分かってみれば、辛抱ならんほどじゃねえ。あんまり痛む日は、おいちょっと加減しろやと文句言う。言ったところでどうしようもねえんだが、こいつも気分屋で、しおらしげにしてみせたり、へん、ってな風でいてみたり、まあ小憎たらしいたらねえ。その面〔つら〕見てるうちにゃ痛みも忘れる。もう二十年にもなるか、なあゲン公」

 

 形は相変わらずはっきりしないが、室江さんが呼びかけると、「身体」をひと撫で擦りよせて、またぴょん、てててと、駆け回るように見える。

「しかし先ほど、その名が拙かったとおっしゃいましたが」

「うむ。聞くかい。しかし話はまだ長げえぞ。兄さんさっきから気になってきているんだが、あんた一体大丈夫かい。そら、しんどそうだ。

……なに、湯中りだって? 馬鹿だね何を我慢してんだ。立てるんか、掴まりな。ほらそっちの…… ……

……ああいいいい、俺が持ち上げてやる。せいので立つぞ、いいか、せいのっ……」

 潭月亭において、私が不良客である所以のひとつに「烏の行水」がある。

 なにしろ肝心の湯に浸かっている時間が他人より短い。湯疲れし易い体質なのだ。

 自室の畳の上で、座布団を枕に伸びているうち、うとうと睡ったらしい。夢をみた。

 

 

 知らぬ街を歩いている。

 前から歩いてきた人物は、先からその風俗で目を引いてはいたが、よもや話しかけられるとは思わなかった。

“お久しぶりでございます”

 おや。この修験者風俗の男性は、先ほど話に出てきた行者に違いない。どうして私にそれが解るか知ら。

“あなたは”と言ったはずが、太い男らしい声が“あんたは”とおっかぶさり、“あの時の”と、続いた。

 

 ふむ。どうやらこれは室江さんだ。私にとっては夢であるようだが、室江さんにとっては記憶だろうか。

 

“いや奇遇です。その狐ですぐ分かりました。まったく当時のままは恐れいります。足はさておき、他に影響も出たでしょう”

“さあね”

 室江さんの言葉はそれだけだったが、思いは全て知ることができた。

 さあね、二十年近くの間にゃいい事も悪いこともあったが、どれがこいつの所為でお陰だか、分かるもんか。そうだろう。他所の人間だって病気も持ってれば家族の問題も抱えている。こいつが何か関わっていたところで、いずれ人間の業のうちよ。言っておくが俺が女房を亡くしたのは、山の祠を踏み抜く前だ。

 

“それにしても”と行者は続ける。

“それにしても、よくこの土地を突き止められましたな”

“何の話だ?” 

“おや。その狐のために来たのでは”

“俺は仕事よ”

“なんと。ではまったくの偶然ですか”

“おい、謎かけじみた問答はやめろ。この土地が何だって言いたいんだ”

“ふむ。親方、ここはその狐の、生まれ故郷〔さと〕ですよ”

なんと。

“……驚〔おど〕けたな”

 室江さんの「玄蕃之丞」の生まれた土地で、行者と室江さんが十数年ぶり再会した。盗み聞く私は、見えざるものに導かれたような邂逅に、慄然とした。

 しかし口では驚いたという室江さんの心中は、いたって穏やかであったのだ。驚いてはいた。しかし、室江さんの中に不思議はなかった。私の言葉でどこまで説明ができるか不安だが、言うならば、不思議というのは、まるでお膳だてがなされているようなのに、そのお膳立てで一体どんな目的が果たされるのか、解せない時に人が言うらしい。お膳立てで、何をしろと言われているのか解るひとは、不思議と感じない。

 室江さんはこの偶然の重なりを、導かれたようではなく、導かれたと悟っていた。

 

 挨拶をして去ろうとする行者の袖を、掴んでいた。

“待ってくれ”

 行者は静かにこちらを見つめ、静かに訊いた。

“何が気がかりでおいでですか”

“教えてくれ。俺はもう年だ。お迎えが来るのもそう遠くない。俺が死んだら、その後こいつは、どうなるんだ”

 

 行者は言う。

“何にも、誰にも属さないモノになります”

“それは昔、あんたが言った『野に放たれる』ことなのか。そうさせることはできんとあんたは言った。あれはどうした意味だったんだ”

“ああ、それは……”

 少し言い淀み

“どの種でも、分別足らんものが子供です。神の使役狐といえど同様で……。使役の獣は、ご用を修行に成長します。貴方のその狐は山神のもとにいましたが、のんびりした主だったので、そこで殆ど成長しないまま、貴方のところに来てしまいました。弱なりといえ力のある、無邪気な存在を、ままにしておくのはよくありません”

 

 ああ……。次を聞くのが恐ろしかった。行者は気の毒そうに言う。

“あなたの気病みは、その狐が、子供のままのことですか”

 

 そうだ。俺はただの人間だ。俺んとこじゃ行はできねえ。

 俺が死んだらゲン公は、赤ん坊も同然で、野に放られるのか。

 

 息子とも思っていた。てめえじゃそのつもりだった。何が息子だ。何が親だ。

 実の子はないが、弟子を育てた。

 俺自身、十三の歳で弟子入りした師匠が、親代わりになってくれた。

 それで何で忘れてた。親なら子供をきっちり一人前にする義務があんだろう。

 てめえの寿命を考えるようになって初めて、こいつの幼いままの姿が気がかりになったって?

 ちくしょう。間抜け。馬鹿野郎。

 

 己を責めて呪って、室江さんが呻いていた。

“行者さんよ。昔の非礼は詫びる。もしあんたなら、こいつに必要なものを与えてやれるってなら、この通りだ。助けてやってくれ。あんたについて行くように、俺がよく言って聞かすから”

 行者は浅く二三度頷いたが

“わかりました。しかしあなたはまだまだ壮健だ。そう急がずに、その前に、できることもありましょう”

 

 行者は室江さんに頭を上げさせて、説くように話す。

“私らがここで引き逢わされた理由を考えました。この土地には、その狐の一族がいるはずです。同じ野に放つのでも、一族の元へ帰してやれれば、悪い事態ではありません”

“本当の親元へ、帰すってことか”

“言うなれば、そういうことです。狐の修行のことは、狐が一番よく知るでしょう。いきなり見知らぬ人間の使役にされるより、よほどいいはずです”

 当の狐がこの話をどう思っていたかは、夢からは知りようもない。私が知りえたのは、一握の迷いを押さえつけた、室江さんの巌の決意だけだった。

 

 

 

 誰かが瞬きを刻んだように、かちりと風景が切り替わった。

 見渡す限りに芒の生うる原に立っていた。

 花穂の描く稜線が、光り、うねって、終いには渦を巻きそうな銀色の青海波、その中に立てば、茎と葉の重なる間に、異界への口もあろう。狐の棲むと言われれば、黄金色の毛皮のすらりとしたのよりは、赤い隈取した白面が覗いていそうに思うのは、俗に染まった想像だが、いっそ存分に染まっていた方が、異界の口に生えた舌の賞味に堪えず、呑み込まれるのを免れるやもしれぬ。

 

 行者は横で、心持俯いて、口中で何事か唱えている。風が渡れば葉擦れも聞くが、鳥さえ啼かぬ静けさである。

やがて行者は僅かに顔をあげ

「来ましたようです」と告げた。

「どこだ」室江さんの声は少し上ずった。

「もう周りじゅうにおりますわ。そこかしこから見ています。わかりませんか」

「わからねえ。だが、来てくれてんだな。こっちの用件は、伝わっているのか」

「はい。迎えに来てほしいのですが、何でしょうか、遠巻きにしているのですよ」

 それからまたしばらく刻が過ぎたが何ほども起こらず

「ふうむ。何やら妙ですな。問答に応じてくれるかな。ちょっとやってみましょう」

 そう言って、行者は声高に呼ばわった。

 

 瑞穂ノ原ノ国守に申し上げる。

 これなる御一族のお子、未だ行修まらずして後々漂蕩の恐れあり。

 今ひとたび血族の里へ戻り、教わり育つに如くはなし。いざ、迎えられよ。

 

 ざわりと音たてて空気が揺れた、そこへ、きゃあんと甲高い声が響き渡った。

 ざわざわと、風が揺らすのとは別な気配が周囲であり、行者は頭に手をやった。

「やあ。まいったな」

「どうした。何があった」

「ううむ。親方、その狐に名前をつけてますね」

「おう、つけてるぞ。それがどうした」

「どうもそれがいかんと言ってるようです。その名はとても霊位の高い狐のもので、それを名乗るなどけしからん、人間の言葉になおせば、仁義にもとる……いや、神をも恐れぬ行為といったところでしょうか。

そのような不敬者を、一族に戻すわけにはいかん、とこういうことらしい。つまり追放ですな」

 室江さんは、頭を横殴りにされたような衝撃を受けていた。

「待ってくれ。そいつは俺が勝手につけた名だ。い、い、言ってくれ、伝えてくれ、こいつには何の非もねえんだって、は、早く、早く!」

 気の毒そうに、行者は首を横に振った。

 

 愕然として、室江さんはよろよろと前へ出た。

「違う……。違うぞ。こいつは何も悪くねえ。全部俺のせいだ。祠を踏み抜いたのは俺の粗忽、こいつが戻れなくなったのも、名前のことも、俺の無知からだ。親の無知が分かるほど大人になれなかったのは、こいつの責任じゃあねえだろう。

 悪いのはぜえんぶ俺で、こいつの非はどこにもねえ。こいつはこの小せえ身体で、役目を果そうと、必死に俺に喰らいついたんだぜ。立派だよ。見上げたもんじゃねえか。なあ違うか? てめえの所為は何ひとつ無えのにこれはあんまりだ。なあ聞いてるか、聞こえてるんだろ、迎えに来てくれ。頼む、頼むよ……おおい…… おおーい……」

 行者が室江さんの肩を叩く。

「行ってしまいました。もう」

 がっくりと、室江さんは座り込んで、拳で自分の太腿を殴りつけた。

 その時、静寂を切り裂いて、遠吠えひとつ、哀調帯びて、長く引いた語尾が、一刷けの雲の尾のようにたなびいた。

「母御でもありましょうか」

 声の吸われていった先を追うように、行者が空を見上げて呟いた。

 

「それでは親方、どうします。こうなればやはり、私がその狐の引き取り親になりましょうか」

 室江さんは頭を上げぬままじっと俯いていたが、やがて

「そうさな……」

 ぼそりと言ってまた少し間をあけ、うん、と何事か納得したように言い切り、のそりと立ち上がった。

 

「最後は結局、そうしてもらうのかもしれねえ。行者さん、だが、こうなったら、もうひとつやってみてえ。

それがダメだったら、いよいよあんたの世話になる」

 この時私の感情は、すっかり行者に同一していた。即ち、「何をするつもりか」と問いたいと。

 まさにその問が発せられようと行者の口が開きかけた時、くいっ、と、引っ張り上げられた。

 操り人形が遥か上空の神の手で乱暴に釣り上げられたような感覚で、私は夢から覚めた。

 前と変わらぬ姿勢で、畳の上に寝そべっていた。見るともなしに天井を見ていると、電球あたりの高さのところで、くるくる回るものがある。どうやら小さな獣が自分の尾を追って戯れているらしい。

 (子供だ。本当だ)

 今更ながら私も気がついた。

 

「おおい、入るぜ」

 廊下から声がかかり、からりと襖が開いた。室江さんは入ってくると真っ先に獣を見つけ

「あっ、この野郎。こんなとこで遊んでやがる」

 そして持っていた盆を卓袱台に置いた。

「冷水〔ひや〕もらってきたぜ。しんどいかもしらんが、ちょっと無理して起きて飲みな」

「はい。ありがとうございます」

 私を部屋に置いて、室江さんが水を取りに行って帰ってくるまでの間の夢だったらしい。

 自炊部の厨房の勝手は室江さんは分からないだろうから、おそらく母屋まで行ってくれたのだろう。それでも僅かな時間だった。

 

 起き上がって見ると、盆にはコップと水差しの他、まだ青い蜜柑が三つほど載っていた。いただきます、と言って水を注いで飲む。たて続けに三杯飲んで、すっかり気分は好くなった。

 私の人心地ついた様子を見て、

「じゃあ俺はこれで退散するから、ゆっくり休みな」

 室江さんが促すように狐に目をやると、狐は空中から卓袱台へ飛び降りた。そこから室江さんの肩に跳ぶと思いきや、そこへちんと座りこんだままで、動かない。

「なにしてやがる。行くぞこら」

 室江さんが叱るが、聞き分けない。

「どうしたってんだ。こんなこたあ初めてだが。やいゲン、兄さんに言いたいことでもあるんか。え?」

 私の方は、先刻の夢が狐のみせたものとほぼ確信しているので、何か言ってやらねばならない義務を感じ

「あのう、じつは」と、切り出した。

 

「はあ。驚〔おど〕けた」

 聞き終わり、室江さんはつくづく呆れた風だった。

「まったくあんたの話のとおりだ。こいつそんな能があったのか。しかし、なんだってまあ」

 あの情景を私に見せることにどんな意味があるのだろう。真意は確かに汲みかねた。

 

「あれはいつ頃のことなのです」

「なに、ほんの半月前よ。場所もここからそう遠くねえ、汽車で山二つばか越えたとこだ。一旦家へ戻って身の回りの整理をして、またおっちら出てきたとこさ」

「では、仰っていた“もうひとつやってみたいこと”は、これからですか」

「うんそうだ。うん? なんだゲン。この後もおまえ、兄さんに聞いてほしいのか。それで夢をみてもらったのか」

「ええ?」

 室江さんが頬杖ついているのと同じ卓袱台の上で、狐は置物のようになっていて、私には微塵たりとも動いたようには見えないのに、室江さんはこともなげにそう言った。

 

「だそうだ。すまなかったな。身体えらい(※つらい)に」

「いや、僕はちっとも。あのう、僕が話を伺うだけで彼の希みが叶うなら、僕は、あ、あ、無論、差し支えがなければですが、そのう……」

 室江さんは笑う。

「そんなに気遣うような話じゃねえよ。明日ここを発ってその足で、俺とこいつは信濃に行くんだ」

「信濃ですって」

「桔梗ヶ原に行ってなあ、頭下げてこようと思う」

「そ、それは……」

「うん。玄蕃之丞の大将にな。名前の一件、頭下げて詫びいれる」

「玄蕃之丞狐は、まだ生きているんですか」

「いやあ流石に生身じゃいるまいよ。だが行者さんが、霊位の高い狐だって言ってたろう。おそらく神様みてえになってんじゃねえか。玄蕃之丞を祀る神社もある。まずそこ行ってお百度踏んで、ダメでも因縁〔ゆかり〕の場所は全部あたる。大将の免罪符がもらえれば、こいつは一族に戻れるだろう」

 狐の姿はふわふわと不定形ではあるが、しゃんと背を伸ばし前足を揃え、目を閉じているのが分かる。

 室江さんはその背を見やり、おもむろに卓袱台の天板を撫で、幕板、脚と、確かめるように順に手をやった。

 

「祠を踏み抜いた俺が粗忽なら、釣り上げられて目え回したこいつも間抜け、あの瞬間、粗忽と間抜けのホゾがぴたあっと嵌り合っちまった。俺の生涯で一番見事な仕口かもしれんよ。ははは……。

夫婦なら破れ鍋に綴じ蓋で添い遂げ合うこともできるだろうが、親子じゃそうはいかん。

親と子はいずれ別れなきゃあな。信濃でどういう目が出ても、これが最後だ」

 手を狐の後ろへ持っていき、人差し指の硬い節で狐の背を撫でるように上下する。狐はじっと動かない。

 やがて室江さんはぽつりと言った。

「そうか。俺たちの話を、誰かに知っててもらいたかったか」

 奇妙な縁で結ばれた人間と獣の物語を

「……僕などが聞いても、何の力にもなれないのに」

「何かしてもらいたいわけじゃないのさ。何の責任も負わない誰かが知っていてくれるのがいい。それがいいのさ」

 室江さんは盆の上の蜜柑をひとつ手にとった。

 

「この宿のことは行者が教えてくれてな。俺のような普通の人間が“憑けて”いるのは、傍目にゃ分からなくてもやっぱり負担らしい。信濃へ行く前にここで少し回復されるといいですよってな。あの行者は、ちゃんとここのこと理解しているのかね」

「きちんと解っておられるように思います」

「そうかね。まあ、最後にゆっくりこいつと温泉に浸かるのも悪くねえと思ってな。おかげで兄さんにも会えたし、いい旅だったよ。……食うか。剥こうかい」

「ああいえ、それには及びません。これでも自分でできるんですよ」

 私は自ら蜜柑をひとつ取り、皮を剥いてみせた。

「ほらね。以前はからきし動かなかったのが、今ではここまでよくなって、自炊もこなしているんです。生活に不自由はないんですよ」

「気を悪くしねえでほしいんだがね、さっき湯殿で、俺にはあんたの左の腕が見えなかったんだ。だが今は、多少ぎこちねえが、立派な手がある。あれは目の間違いだったかね」

「えっ、消えていましたか。そういえばすっかり忘れていた。お話に夢中だったのと湯中りとで、気が全部そっちに行ってたせいだな。いかんいかん。うっかりした」

「忘れていると消えちまうって。また難儀な腕だね」

「まったくそうなんです」

 頬張った房を奥歯で潰すと酸い汁が、さっぱりと口中を潤した。 

 

 

 

 その夜、また夢をみた。

 あの芒の原の景色を歩いているのだが、夢の中の私はそこを、桔梗ヶ原と認識していた。

 夢の柔軟さに私のいい加減な地理知識が拍車をかければ、通い路は隠亡掘と累ヶ淵とて繋げよう。

 ここは桔梗ヶ原なのだ。

 

 不案内に歩くことに躊躇を覚えないではない。ふと気がつくと、下を佐馬千代が歩調を合わせている。

 おまえが一緒か。ならば怖がるものはないな。

 佐馬千代は鶏の歩幅で私の一歩先を歩き、常に視界の左前下にいてくれた。

 

 やがて前方の小高いところへ、向こうへ越えていく人の背が見えた。

 室江さんとすぐ分かった。室江さん、と呼んでみる。振り向かず、確固たる足取りで行く。

 ふいに佐馬千代が立ち止まった。私もはっと足を止めた。そこには何かの境界があった。

 そうか、ここから向こうが真の桔梗ヶ原であるか。

 

 向こうにはどんな景色があるだろう。やはり桔梗が咲くだろうか。秋草が露を置いて光るのだろうか。昼は鳥啼き夜は虫すだき、狐の戯〔あそ〕ぶ幻みせて、月の蒼さは草に凝り、森に真桔梗色の池があらば、汀の草に鏡置き、抜ける膚〔はだえ〕の白桔梗、眉かくしの霊も出るぞよ。

 私は口もとに手をあてて呼ばわった。

 室江さん。室江さん。室江さん。

 夢とは思えぬほど伸びやかに声が出た。彼の人の厚い肩、太い首、やがて頭の頂が、稜線の向こうへ沈んでいった。

 

 室江さんは、夜も明けやらぬ刻、宿を発ったと後で聞いた。

 

 

 

 

 半年ばかりが過ぎたある日、いつものように人の少ない頃を狙って、湯をつかいに行った。

 湯殿の扉を開けた途端、

「ああっ、失敬」

 大声を出してしまった。

 

「なんですねえ。こちらは女人禁制でござんしたか」

 ちゃぷりと湯を揺らして、先客が。

「いえ、けして。失礼」

 おどおどと。湯に入る際は先客も後客もお互いに、なんとはなしの気遣い合いがある。いかに昏い湯殿といえ、先方が婦人なら尚更で、視線を外しつつも自然に振舞うのが礼儀である。それを初っ端大声上げるなど、かえってバツが悪くなり、掛け湯するより逃げたそうな私を見て湯の中から

「旦那、帰らないで下さいましよ。私は旦那に会いに来たんですから」

「なんですって」

「ここで旦那がお逃げになると、この姿〔なり〕のまま、私お部屋まで追っかけて行くんですよ」

「滅相もない」

 負けて湯船へ失礼した。

 

 女客は、島田の鬢の艶やかな、色白く、眦のきりっとした、粋筋とも見える婀娜っぽさ。ここが盛り賑わう温泉街なら、座敷が引けた芸妓が寛ぐようである。ふと妙なことを思い出した。

 上がり場に、脱いだ着物があっただろうか。それを見ていれば、そもそも無作法に扉を開けたりしなかった。

 細い肩が湯の上を滑り、音もなく近寄られ、身構える。白粉の香がほのかにした。

 

「明日お客がありますよ」

「えっ」

「秋草の名の原へ、かわゆいお子づれでいらしった、おっきな暖〔あった〕かい手の親仁どのですよ」

「……室江さん?」

 美人がにっと口角を上げた。

「願、見事成就されました」

「ほ、本当に」

 思わず肩が触れるほど寄ってしまい、はっと離れる。

 

「お子は、玄蕃之丞の大将の預かりになりました。本当にかわゆい。子供が戯ぶのはいいものですねえ。なのに大将は強面で頑張って。“許してやらなけりゃ、たかが名前ごときで俺が臍曲げたことになる。冗談じゃねえ”などと仰って、なに、絆されたんですよ。親仁どのの徳でござんす。手前どもの大将は昔っから照れ屋でねえ。おほほほほ」

 私は婦人の顔を不躾にまじまじ視た。もしや。

「横手ヶ崎…… お夏……親分?」

「ほほほ。親分よりも姐御がよござんす。あれそんなに見ては、髭が出て口が尖ります。堪忍してくださいな」

「し、失礼」

 見るなといったくせに、正面にずいっと迫る。

「潭月亭の知己が、もしや忘れていたら薄情だから、一足飛んで報せてこいと、玄蕃之丞が命。それでこうして参りました」

「忘れるものですか。ええ、忘れるものですか。しかし嬉しい、ありがたい報せです。旨い酒があるんです。それを用意して待ちましょう。そうだ、お夏の姐さまもご一緒に。朗報の御使者はもてなさなければいけません」

「嬉しいお引止めではございますが、そちらの大将と約束した刻限です。そろそろお暇」

「うちの大将?」

「はい、お庭にいらっしゃる。気苦労の絶えないご様子ですから、これ以上はお気の毒。旦那もたいがいになさいませ」

「え、え、」

「では」

 電灯がすうっと消え、またすうっと灯る。私は湯の中に独りいた。

 私と一緒に残されたのは、湯けむりに溶けたほのかな白粉の香であった。

 

 

 

 

 

【湯狐騒動/終】

 

 

 
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