No.149951

潭月亭日々綴 2

◆“他所で話せば胡乱に疑われそうな――” 片田舎の湯治宿「潭月亭」に長期逗留する客の日常的幻奇のつづり  ◆一話読みきり
 タイトルイラスト◆某ぎぼし様 →http://www.tinami.com/creator/profile/12751

2010-06-12 12:27:27 投稿 / 全10ページ    総閲覧数:374   閲覧ユーザー数:368

 

 

 

「廣さん。桜がすごいです。見に行きましょう」

 由地の次男坊の郁哉君が、潭月亭の私の部屋へやって来て言った。

 こちらは炬燵をどっぷり抱いて茶を啜っている最中だった。

「懲りないんですねえ。郁哉君は」

 湯のみを放さずに、炬燵へいっそう寄りついた様子から察してもらいたかったのだが、年若い郁哉君には無理だったようで、そこへ立ったまま、動かない私をもどかしそうに眺めている。

「さあ、行きましょう」

 ぐずぐずしていればきっと次には腕を取って引っ張ってくるだろう。涙を呑んで、行くなと縋る炬燵を捨てねばなるまい。

「廣さんその格好でいいんですか」

「ええ、そうか、足袋は厚手のものがいいかもしれんですね」

「それだけじゃなくって」

 セーターの上に綿入れ羽織った格好でそこいら出歩くくらい、皆していることだというのに、他人事ながら気になるのは洒落ッ気が出てきた証だろう。

「いいんですよ。これが一番暖かい」

 足袋を履き替え、毛玉だらけのマフラーを引っ張り出して首に巻いた。

「では行きましょうか」

 

 

 由地の家は代々酒屋を営んでおり、郁哉君と知り合ったきっかけも酒であった。

 ある日晩飯の支度をしていると、顔見知りの女中が来て、その折自炊客用の共同炊事場には私しか居なかったのだが、藤生〔フジイ〕様、母屋の厨房の余り物ですけれども、お夕食時に一本おつけできます、如何ですかと言ってくれ、おそらく女将の厚意だろう、無論喜んで恩恵に与った。

 この酒が旨くって。後で訊けば、土地の酒だと言う。銘を教えてもらって、翌日ほくほくと酒屋を訪れた。

 目的のものは、目ン玉の抜けるほど、ではないが、これを堪えれば他に何が買えるかと、つい頭勘定を始めてしまう値であった。

 棚の前で唸っているのを見かねてか、店主が傍へ来て、あいすみません、こんな辺鄙な土地の酒の値かと思われるでしょう、味の評判はいいもので、地産の売りにしたいと酒造方も努力しているんですが、なかなかこれ以下にはなりませんで。

 いやこれだけ旨い酒ですから、と、逆に慰める形になった。無理に安くして質を落としちゃ面白くない、このまま大事にするのが手です、皆が求めるようになると、不思議に高価な方が有難がられる、と、そんな話から懇意になり、我が懐具合までこぼせるほど気安くなった。

 

 この土地で簡単な仕事があればいいんだがと、そんな話になった時、店主から、下の息子の勉強を見てもらえまいかと持ちかけられた。現在中学生だが、どうも学業にムラがある、兄がいるのでそれに見させてもいいんだが、身内ってのはなあなあになりやすい、アレの将来のことだから、今ちゃんとしといた方がいいと考えてね。

 

 それが郁哉君だった。 

 会ってみると、利発な少年で、しかし少々癇性のきらいがあった。これは早まったと正直思った。

 中学生を侮れるほど、己の学力の蓄えに自信があったわけではないが、何とかなるだろうと見切りの発車、実際教えるだけなら何とかなろう、しかしこの頭の良さそうな子が成績のとれない科目とは、頭脳ではなく、教師に問題があるのだ。いや撤回する。たとえ教師に問題はなくても、この少年が渠〔かれ〕を好かないという理由で、その教科が無視されるのだ。

 

 私は昔の記憶を探り探り、たどたどしい授業を展開するのである。好かれる道理がない。せっかく取り立ててくれた酒屋の主には面目ないが、子息の一声で馘首となるつもりでいた。

 しかしどうした間違いか、郁哉君は私を気に入ってくれた。解答ひとつ出すのに、一緒に頭を捻り、ああだこうだと論じ合って、いちいち時間のかかる授業さえ面白がる。そうなれば元来が頭の良い子である。俄か教師として、こんなに楽なことはない。私達はこうして仲良くなった。

先生と呼ばれるのは勘弁してもらった。藤生さん、廣介さんと呼び変わって、廣さんで落ち着いた。

 教室は主に潭月亭の私の部屋の卓袱台だった。家では気が散るという郁哉君の希望で、後で思えば、この潭月亭への興味が、郁哉君が私に教師を続けさせてくれた一因、いや、大きな要因だっただろう。

 

 その郁哉君の話である。

 彼は、今春、桜に中〔あた〕ったと言った。

「中った?」

「ええ、一週間、寝込みました」

「それは何かい、桜餅の、傷んでいるのを喰ったのかい」

「いいえ桜は桜ですよ。あの、外で立ってる、樹の桜です」

 どうも話が呑み込めない。休憩時間を延長して、彼の話を聞いた。

 それは不思議な情熱の話であった。熱と、幼らしい賛美で彼が語る間、私は相槌ほどの邪魔もできなかった。

「ふうむ。僕はそんな風に、桜を見たことはありませんでした」

「じゃあ廣さん、もし来年の季節まで廣さんがここに居てくれたなら、一緒に見ましょう。僕の言うことがきっと解ります」

 確約はしなかった。来春のこともわからないが、何より、面白がって煽る類でない気がしたからだ。少年の弱々と細っこい輪郭が、無性に不安をそそった。

 

 そうして今日である。桜を郁哉君と見るために、黄昏迫る戸外へ出た。

 弥生の風はまだ冷たい。懐炉を置いて来たのが悔やまれた。

「こっちから見るのがいいですよ」

 ここ近辺でてっとり早く桜といえば、川沿いの土手に植樹した並木である。花の時期は見事であった。だが今花は無い。やがて蒼穹へたなびく春霞は、皆いまだ夢のうち、固い蕾の殻の中。

 その並木を横から一望する、田圃の畦へ二人で立った。

「うう……む」

 思わず唸り声が漏れた。

「ね。どうですか」

 壮絶な眺めだった。

 枝を矯〔いじ〕めていない樹はどれも、伸び伸びと、思うさま、存分に、上左右、届く限りの空間を占拠せんとて枝を張り、小枝一本とて余さず、細末まで神経通い、尺取虫が離れた枝に移ろうとしている時のように、目いっぱい、体震わせ、さらに先へ行こう行こうとしているのだ。

そのひりひりとした様が、背景の黄昏に、黒々と、くっきりと焼きついて、影だけ見れば裸木である、しかし

「この時期だけです。この気が見えるのは」

 郁哉君が言う、その通りだ。なんなのだ。この湧き上がる物理量は。

 

「あれだけの、花が咲こうというんです。幹が大地から養分を汲み上げて、枝の隅々にまで行き渡らせる。それを蕾が喰う。熱に変わる。蕾の食欲は底無しだ。あれだけの花が、咲きたがっている今が一番激しい。さあ咲くぞ、さあ咲くぞ、その熱量であの中は一杯で、針一突きで破裂しそうです。ああ、凄い。凄いなあ」

 樹身に溜めきれずに漏れている熱量が、樹を覆って発光しているらしい。錯覚か。あれは黄昏の名残の光〔ひ〕が焼く空だ。陽炎たって、向こうが揺らいで見えるのも、錯覚だ。

(あれだけの花が咲こうというんです)

 春爛漫、無限なす花天井を思い出し、眩暈がした。

 

「郁哉君。これはいかん。いかんですよ」

 訴えるが、郁哉君は掌をつきだし、向こうの樹影に重ね、

「僕もああなってたんだのに」

 悔しそうに吐いて言う。

 一見裸木と見える影は、しかし冬木のそれではない。数多の蕾、その枝についてぶつぶつしたのが、ここからでも見える。

樹はざわざわと燃え、その影は、全身に疱瘡を纏った妖しが悶えるよう、もはや奇ッ怪。

 郁哉君は昨春まさしくこの気に中り、この姿さながら全身に発疹して、一週間、熱にうかされたのだ。

「あのまま僕も、桜になれるんだと思ったのに」

 樹影をぐっと拳に握りこむ。 

「ああ、つまらない!」

 郁哉君の肩を抱いて、彼の視界から桜を遮る側に立ち、畦を戻るため、大急ぎで歩き出した。

「郁哉君。あれは毒です。あれじゃあ中りもします。いかんですよ、あんなものに気がついちゃあいかん」

「僕が教えなかったら廣さんもあれを知らなかった。見えるのに、なんでそんな歳まで知らなかったのさ。桜は毎年見てたのでしょう」

 そうだろうか。教えられて、横に郁哉君がいなくても見えたろうか。そうではない。郁哉君が居たから見えたのだ。

「解るでしょう廣さん。あれだけの事が起こってて、誰もそれが分らない。あれが分らないくせに、花が咲けば浮かれ踊って、まったく馬鹿に見えます。僕はねえ、人間の、そういう、暗鈍で、凡愚なとこが大嫌いなんだ。廣さんもこれからきっとそう思います。桜の本当の美しさを理解するのは、あれを知った、僕達のような人間なんです」

「いや、郁哉君、ね、落ち着きましょう。また熱を出します」

「ええ、そうして、僕は今度こそ桜になるんです。廣さんに会えてよかった。桜の真の美を解する人を見つけてから、僕は桜になりたかった。僕の桜は廣さんが判るようにします。きっとします。廣さんきっと、僕に逢いに来てください」

 郁哉君は私の手をすり抜けて、一人畦を先へ駈けていった。

 途中で立ち止まり、こっちを向いて、両手をあげて大きく、何度も振った。

「さようなら廣さん。さようなら!」

 そしてくるりと向きを変え、二度と振り返らず走っていった。

 翌日は授業の約束の日だったが、郁哉君は現れなかった。

 本当に熱に苦しんでいるのではなかろうか。自分自身、朝方に、諸手を挙げて迫り来る桜樹の夢を見て、押し潰される寸前で飛び起きた。汗をびっしょりかいていたのである。

 郁哉君をあんな状態で帰してしまったことを後悔した。

(僕は桜になるんです。さようなら)

 朝一番の湯で汗は落としたが、湯冷めのようにぞっとした。

 

 日が少し高くなってから、由地の家へ向かった。歩いていると、背後から女性の声で呼び止められた。

「藤生様ではありませんか」

 はっと振り向くと、スーツにコート、小洒落た帽子の都会的な婦人が、旅行鞄と風呂敷包を持ち立っていた。

「やっぱりそうでした、ご無沙汰しております、廣先生」

 見覚えがある。それに先生とは。

「や、弓美子さん」

 由地の兄弟、克一・郁哉の間になる、長女の弓美子さんだった。他県に嫁いでいて、里帰りしていたのに一度会った事がある。

 どきりとした。郁哉君に急事あり、嫁いだ姉に連絡が走った図が瞬時に浮んだ。

「郁哉がまだお世話になっていますそうで。素直に勉強してると、父がすっかり喜んで。ありがたいですわ」

 弓美子さんは快活に笑い、軽く頭を下げる。ひとまずほっとした。

「先生、もし今がお散歩で、ちょっとお時間ありましたら、実家〔いえ〕へお寄りくださいな。お土産もあるんです。先生に是非お一つ。

お急ぎでしたら、ここでお渡しもできるんですが、かえってご迷惑のような。缶詰で……。持ち重りのするんですのね。

 向こうで珍しいのが手に入るので、ご近所にご挨拶に配ろうと、精出して運んで来ましたの。

 先生は、今からどちらまで行かれるところでしたか」

「あの、実は、お宅へ」

「あら、では奇遇でしたのね。ご一緒に参りましょう。郁哉の授業なんでしょうか」

「いえあの、ああ、では、それは僕が持ちましょう」

「どちら。重いつづらと軽いつづら」

「強欲ですので、重い方を」

「ほゝゝ」

 風呂敷包を渡してもらった。

 

「郁哉の勉強でないならお店でしょうか。毎度ありがとうございます。欲深の罰は、お酒が進んで仕方ないのをそん中から選って、背負〔しょ〕わせてお帰しするんでしょう」

「ええ? 弱ったな。あのう、やっぱり郁哉君に会いに行くんです。昨日様子が……その、具合が悪そうだったのを、一人で帰してしまったので」

 弓美子さんは歩調も緩めずに

「また桜に中ったんでしょうよ。寝ついてたって、先生のせいじゃあありませんから、お気になさらなくていいんですよ」

 とさらり言ってのける。ぎょっとして

「ご存知なのですか」

「そりゃ、女だっても由地の人間でしたもの。あれは放っといて平気なんです」

「放っとくですって。あんなに危なっかしいものを」

「ええ。由地の男はみんなやるんです。桜に祟られている血ですから」

「なんと、祟りと言ったんですか」

「はい。由地の男は桜にとり憑かれて、みんなあれをやるんです。兄の克一もやりました。父も覚えがある素振りで、祖父も必ずやったはずです」

「ご隠居が」

 

 

「私が知ったのは兄の時ですわ。急に様子がおかしくなって、そわそわしたり、沈んだり、いきなり怒ったり。私ら家族のことなんかまるで他人のように振舞うようになって、桜ばかりに執着する。さあ兄さんがおかしくなってしまった、私は怖くって父に訴えるんですけれど、父は放っておくように言うだけ。納得しませんよ。

 しつこく纏わったら、一喝されて、泣きましたの。

 父はあれで娘に甘かったので、おろついて、少し教えてくれました。兄さんには今桜がとり憑いているが、心配いらない。すぐ元に戻る。由地の男が通る程〔みち〕だから、お前や母さんは、どうか知らぬ顔でいてくれ、と。

 

 桜が終わると、兄は少しよくなるんです。少しというのは、愛想を失くしたのはそのままだったので。次の桜の頃にまた悪くなって、治まって、何回繰り返したか定かに憶えていませんが、いつの間にか気がついたら、そんな癖は消えていたんです。

 父も、祖父も、当の兄も何も触れません。こっちはそうはいかない。女だてら不思議な話、怪奇な話なんかが大好きで、こんな奇妙を目の当たりにして、穏やかじゃいられません。

 

 きっと何代か前の爺さまが、桜の精に悪さして祟られたんですわ。悪さって言っても、残虐非道の話ばかりじゃありませんよ。見目麗しき桜児姫との、悲恋かもしれない。夢見がちな少女の妄想は無限大です。

 知りたくて知りたくて、父や祖父に鎌をかけたり、蔵へ行って、昔の残し書きが無いか探したり。無駄でした。

 家人は何も言いたがらないし、それに纏わる書きつけの一行もありゃしない。

 

 不可解です。こんなにしっかりと確実に、祟りは顕現するのにすっかり秘められている。

 私それを、とてもロマンチックに考えていました。

 桜の祟り、それは由地の男だけに与えられる酔の夢。生涯秘めて、言にも漏らさぬ、妖美の甘。

 

 ……どうもねえ。そういうんじゃないようですよ。

 同じ家に住んで、見ているからこそわかるんです。男達が、あれから目を逸らしている様子が。

 秘めているのは確かですが、私が思うような美〔うるわ〕しいものとは違うようです。

かといって、祟りの家系を悲嘆するとか、そういったものともまた別な。

 桜の話になると祖父も父も兄も、年齢の差なんか無くなって同じ顔になるんです。

 気まずいあの様子と、これまで一切の記録がされなかったのは、根が同じだと思うんです。そういう気がします。

いずれにしろ、」

 コンっと弓美子さんは足もとの小石を向こうへ蹴飛ばした。

「先生うちの爺さまをご存知でしょう。あの歳で今もぴんしゃんしてる。呪いの中身が何だって、命にゃ別状ないんです。だから郁哉も大丈夫だって言うんですわ」

 しかし、と私は、ここまで聞いてなお、食下がった。

「郁哉君は男家族の中でも、なんだか、特別繊細な感じではないですか。いや、こう申しては失礼ですが。

 桜になりたいと願ったら叶ってしまいそうで、僕は恐ろしかったです。これまでご家族が無事であったのは何より。

ですがそれで、郁哉君も必ず大事ないと言ってしまっていいのでしょうか」

 弓美子さんはふふっと楽しそうに笑った。

「郁が繊細。それは先生、ご同性の欲目。ご自分のその頃が重なるんですわ」

 何を言うか。この女性〔ひと〕は。

「そんな馬鹿な。僕のあの年頃は……」

「桜になりたいと言いましたか。郁は。

一年前なんか、全身花をつけたように発疹して、それが一週間ほどで綺麗さっぱり、痕も残さずなくなって、ほどほど桜の態だったのですけれど、本人知りようもありませんか。いつかあの子が嫌がる頃に、話してやりましょうかねえ。

 ……あれ先生。お疲れになってしまいましたか」

 歩調が落ちて、弓美子さんと距離が開いていた。潔く立ち止まる。ちょこちょこと戻って来た弓美子さんに

「ちょっと所用を思い出しました。これをお返しして、大丈夫でしょうか」

「左様ですか。ええ、問題ありません。ありがとうございました。先生、あとできっと寄ってくださいね」

「伺います」

 そうして別れた。

 

 何かが腑に落ち、何かが解せない。とぼとぼとあてど無く歩く。歩きながら、己のかの年頃に思いを馳せた。

 どう思い出に粉飾をこらしても、郁哉君と重ねようもない、面皰〔にきび〕面の瓢箪学生しか出てこない。弓美子さんはどういうつもりでああ言うのか。

 如何ともしがたい容姿はさて置き、あの頃がどうであったか、思おうとすると何処からか、置いとけやいと声がする。

 はて何だこの、蓋のようなものは。

 

 気がつけば、昨日の畦道まで来ていた。眺めやる桜の群れは、郁哉君のいない今、ただの木に見える。

 妖気立つ恐ろしいあの様を記憶から追い出したい一心で、満開の花を思い重ねた。

 想像は巧くいった。今自分は、花の下を歩いている。

 鈍でよい。凡で構わん。花にはただ浮かれたい。春の陽を浴び、延々また延々在る花を、美しいと凡庸に賛美する。

 ふいに想像の中の花陰を、乙女が横切っていったのだ。心臓が高鳴った。まるで賛美は、乙女に贈られたようだった。

甘酸いものが胸にこぼれ、それに確かに、覚えがあった。春の、絢爛たる桜模様に熾されたが、春ばかりではなかったはずだ。

 川面の照り返しが肌を灼くにつけ、鰯雲に空の高さを知るにつけ、寒椿の赤いのが雪の真白に染みているのを目撃するにつけ、幾度となく去来して、全身を震わせた。

 

 そうだ、まさに思いだそうとしていた、その頃ではないか。彼〔か〕は、胸中の宝でありながら、同時に河口を求める奔流であった。おみなごよりもたらされる淡い疼きも、世界から与えられる指令も、同一の流れにあった。

 個と他の境を頑なに愛しみながら、他は全であり、全はまた個であった。

 はたと思いつき、もう一度、あるがままの桜の木を見た。

 

 あれは、かつてのその姿だ。 

 樹幹は、世界の宣託を汲み上げる肉体だ。咲くぞ開くぞと息巻くが、時期尚早。身の内に飼う奔流を御するには、ああして諸手を挙げて身悶えるしかない。

 

 あの枝の一本一本が表しているのは、遣り場のない激情だ。

 使命感。万能感。開放感。閉塞感。破壊衝動。背徳感。劣等感。変身願望。厭世。潔癖性。無為無能への嫌悪。

 肥大し、収縮する自意識。依存、反目、信頼、不信。方向の無い怒り。絶望の二文字の容易さ。

 

 ああ……そうか。

 桜の<所為>なのだ。郁哉君に、由地の男らにとって、あの季節は。

 持て余す我と我が身の熱病の、狂おしい、獰猛で、幼稚ささえ玉を砕いたように眩い、あの季節、貶めるのではない、望めど焦がれど誰の手にも、二度と還る能わざる春なれば。

 そう断言した上で、あえてこの言葉を用いて続ける。

 あの一切を祟りの所為にできる。羨ましさを感じるのは自分だけではあるまい……

 羨ましい。それは例え胸中で呟くだけにしても後ろめたい。潭月亭を必要とする傷病……を負う者が仮でも比喩でも言うべきではない。しかも比喩でも仮でもないのだ。

 今の顔を誰にも見られたくない気分になり、背を丸め、潭月亭への帰路についた。その日以降も、由地の家には赴かずにいた。

 

 

 

 

一週間も過ぎた頃だったろうか。

部屋の窓から外を見ると、門柱の陰に隠れるように立つ人がいる。

私は窓を開けた。その音を聞きつけて、門柱の脇へ、郁哉君が現れた。こちらをちらと見上げ、また顔を伏せてしまう。

そのまま逃げ戻ってしまいそうな風情に慌て、私は大きく手を振り、歓迎の意を叫んだ。また顔を上げてくれた彼は、きまり悪そうな照れ笑いをたどたどしく浮かべ、こめかみを掻き、頭を下げた。瑞々しい含羞を見て、不覚にも泣きかけた。

あんな様に美しい頃は限られて、その前では、やはり他は凡である。不思議なことに、極限まで高めた自意識を持ってしても、自らの、刹那の美を知ることは無い。凡だけが識り得る美なのである。

郁哉君は、おそらく缶詰の数個も入っているだろう形態の風呂敷包を掲げて見せて、また照れ臭そうに笑った。

お上がんなさい、と私が言うのを聞いて、嬉しそうに玄関へ駈け出した彼の後、薄紅の儚げなものが幾ひらか、陽光に舞って溶けて消えた。

 

 

 

 

 

【桜病/終】

 


 
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