宿の一室ではリウヒが熟睡している。キャラが覗くと、老医師のナカツと真剣な顔をして話をしていたリンが気付き、にっこりと笑った。
「あの、大丈夫なんでしょうか?」
「少し疲れがたまっていたのかもしれませんね」
ここ最近、リウヒはよく寝る。夜はともかく、昼餉あとに後睡をとるくらいだ。
「心配しなくても大丈夫ですよ、ナカツさまもいらっしゃいますから」
「あ、はい…」
素直に退散する。と、後ろにシラギが立っていた。
「どうしたの、シラギさん」
「いや、その…陛下は無事だろうか」
「うん、リンさんが、疲れがたまっていたんじゃないかって」
リウヒが目を覚まさないようにと、外に出た。風がだいぶ冷たい。もう秋も終わるな。
「旅を中止した方が良いのでは…」
「そんな、大げさな。リウヒだって楽しんでいるのに」
横に立つ男を見上げながら、キャラが笑った。
この人は、心底リウヒが好きなんだな。
昔はそんな気配、全くなかったのに。いや、あの戦前日。宿の裏での二人を、キャラたちは目撃した。というより覗き見した。色気のいの字もないリウヒの口づけに、大の大人、シラギはただ硬直し、いきなりリウヒを抱え込んだ。
まるで恥ずかしがり屋の乙女のようじゃないか、とキャラは思う。外見はカッコいいおっさんなのに。
「リウヒは…そうでもない時はブウブウ文句を言うくせに、本当につらい時は、何も言わないから…」
「そうだな」
あの海賊船に乗っていた出来事も。
無理に話してほしいとは思わない。全てを報告し合うのが友情じゃない。
だけど辛い時はなるたけ傍にいてあげたい。あたしに出来ることがあれば何でもするよ。
今も海賊船に乗っていた、橙頭の男を想っているのだろうか。
「シラギさんが、もっとガツガツいけばいいのに」
驚いたように男が振り返った。
キャラは今、幸せいっぱいだ。なんたって十三年ごしの恋が実った。宿の裏で、こっそりトモキといちゃつくのが楽しくて仕方がない。この幸せを分けてあげたい。
「リウヒは結構、鈍感だから、押して押して引くくらいの勢いじゃないと、気が付かないよ」
「なあ、キャラ。それはどこで知ったのだ、その、わたしが…」
「リウヒを好きだってこと?そんなの、見ていれば分かるよ」
「と、ということは、この旅に参加しているもの全員…」
「リウヒ以外は知っているよ」
なんてことだ。愕然とする男を、これから応援してやろう、とキャラは笑った。
****
北の山間にある出湯は男女混浴だった。
湯治に来る客は老人が多く、のんびりと鄙びた風情が漂っている。事前に連絡がいっていたらしく、宿泊した宿は貸し切りだった。辺りには人だかりがしていたが。
窓の外から見えるけぶる緑と、微かに聞こえる鳥の鳴き声を満喫した後
「みんなでお風呂に入ろうか」
笑顔で提案したリウヒにみなは驚き、首を横に振った。
リウヒは恥という概念が薄い。物心ついた時から育った後宮では、風呂は三人娘がかしづいて体を洗ったし、着替えも全てやってもらっていた。ただ裸で立っていれば良かったのである。肌に触れられるのを嫌がる為、細心の注意がはらわれていたものの、自分で自分のことをするという発想がなかった。そして、それが当たり前だと思っていた。初めて外に出るまでは。
「あたし、糠袋見るたびに思い出すんだよね」
野外に湯が張られている物珍しさに散々はしゃいだ後、キャラが言った。
結局女三人で入ることになった。マイムはヘリの岩に肘をついて顔を預けている。
「初めてさあ、リウヒとカガミさんとシシの村をでて、宿に泊まった時」
なんかあったっけ?
リウヒは泳ぐ練習を止めて、顔を上げた。
「宿のお風呂なんて、初めてじゃない?そりゃ戸惑ったよ。それ以上に戸惑ったのがリウヒにだよ」
「わたし?」
「そう、リウヒ」
個別になっている風呂で、キャラは盥の中で体を洗っていた。と、いきなり掛け布が開いて、裸のリウヒがやってきたのである。
「え、え、えっ!どうしたの!」
仰天し、体を隠すキャラに、リウヒは無言で糠袋を渡した。つい素直に受け取ってしまったキャラはそのまま固まっていたが、首をかしげて両腕を広げたリウヒを見て全て理解した。
「なんであたしがあんたを洗わなきゃいけないのよっ!」
「じゃあ、誰がやるのだ?」
「自分でやりなさいよ!」
「どうして?」
「なに?なにさまなのよ、あんた!」
まさか王女さまとは思ってもなかったからねー。
「ごめんー」
リウヒが顔を半分沈めながら謝った。
「夜もそうだよ、衣を脱がせてくれーだもん。なんて常識のない子だって思ったもんよ」
「じゃあ、あたしが合流した時は、まだマシな方だったのね」
クスクス笑いながらマイムがリウヒの頭を撫でた。
「そうですよ、マイムさん。あたし、すごく苦労したんだから」
「だって、友達なんていなかったから」
それまでリウヒの周りにいたのは、全て臣下だった。三人娘にしろ、トモキにしろ、シラギにしろ、教師たちにしろ。なにもかもやってもらって当然の世界だったのだ。
「だから初めての友達ができたのが、すごく嬉しかった」
辛い過去の話をした時、泣いてくれたキャラの涙は今でも忘れない。一生忘れない。
「リウヒ…」
感極まったキャラが飛び付いてきた。
「わあ!」
そのままひっくり返ってしまった。水飛沫があがる。
「リウヒー。あたしたち、ずっと友達でいようねー。がんばって陛下付きの女官になるからねー!」
「ぎゃー!キャラ!おぼれ…ちょっと!うげげぼっ」
「あーもう、あんたらうっとおしい」
湯を撒き散らして騒ぐリウヒとキャラに、マイムが心底嫌そうに、手を振った。
****
「キャラがリウヒを襲っています」
カグラが至極真面目に実況中継した。シラギとトモキは同時に酒を吹き、慌てて銀髪の男を窓辺から引き離そうとした。
「なに見ているんですか!」
「この角度からは丁度いい具合に外湯が見えるんですよ」
「見えるんですよ、ではない、見るな!」
なにをするんだ、お返しだー!きゃー!ザパーン。
騒ぐ少女たちの声が聞こえる。
思わずシラギとトモキも身を乗り出してしまった。
藍色の髪と白い体が見える。シラギは鼻から血を噴き出しそうになった。
「マ、マイムさんの胸ってやっぱり大きいですね…」
トモキが唾を飲み込んだ。
「見るべき所はそこですか。まずは自分の恋人を見てあげなさいよ」
カグラが呆れたように言う。
「リウヒは見事に真っ平だな…」
「そうですか?以前に比べて少しは膨らんだかと思いますが」
シラギは仰天した。
「いっ…いつ見た!」
「別に衣の上からでも分かるでしょうに」
分からないぞ!ちっとも全然分からないぞ、それは!
「なんのお話をされいるのですか」
静かな声が聞こえて、男二人は身をすくませた。一人は平然と微笑んでいた。
「野鳥の観察を少々。小鳥二羽が元気に水浴びをしておりまして」
「まあ。お目がよろしいこと。鳥も衣を纏っているのですね」
「ええ、様々に美しい色の衣を」
リンの皮肉もカグラには通用しなかった。さすが白将軍。
しばらくして、リウヒたちが戻ってきた。
「もう酒をのんでいるのか」
「楽しかったー。外にお風呂があるのって最高!」
「あんたたち、暴れすぎ。湯が減ったじゃないのよ」
男たちが去った後、リンがにっこり笑った。
「後で、そこの窓から野鳥が水浴びする姿が見えますよ」
****
「なるほど、野鳥ねー」
その野鳥三匹をとっくりと鑑賞しながら、マイムは酒を啜った。リウヒとキャラは、顔を真っ赤にさせて辞退した。
「あいつらも見ていた訳?」
「はい」
「えええっ!」
キャラが素っ頓狂な声を上げた。
「いいじゃないか、別に見られても。減るもんでもないし」
「そういう問題じゃない!」
後ろでキャイキャイ言い合いをしている二人をよそ目に肘をつく。
あいつら、自分たちは見ていたくせに、見られている事に気が付いてないのかしら。ああ、カグラは分かっているのね。その銀髪の男と目があって、マイムはにっこりと笑った。
「トモキって、意外といい体しているのねえ」
「ぎゃー!マイムさん!どこみているんですか!」
「そうなのか?」
「ちょっとー!リウヒまで!」
ほとんど泣きそうな顔で、キャラが二人を窓辺から引き離した。
「もう…マイムさんたら、ひどい。どうせならカグラさまを見ればいいのに」
「それは散々みているから」
からかうように言うと、赤い顔をさらに真っ赤にさせた。
「いつからマイムとカグラは付き合うようになったのだ?」
「宮廷に帰ってからかしらねー」
多分。自分にもよく分からない。
外の世界に出ている時から、体は重ねていた。宿の裏や部屋の中で。虫の音や少女たちの寝息を聞きながら。年頃の男女がずっと行動を共にしていれば、そういう風になるのは自然だったし、同類意識もあった。心には興味がない、でも寂しいから誰かの肌で温まりたい。
今も昔もそう言う関係だと思っていた。
ところがカグラは、天性の女たらしは自分以外に女を作っていない。まあ、相変わらず浮ついた台詞はよく吐いているが。
あたしは愛を信じていない。裏切られるのが怖い臆病者だからだ。
だけど、どうして何かを期待してしまうのだろう。何を期待しているのだろう。
眼下、湯気の向こうに見えた黒髪。
そしてその期待は一体誰に抱いているのだろう。
****
夜空に浮かぶぽっかりとした月を見上げて、モクレンは酒を啜った。
たまにシラギがこうして一人で酒を飲むと左将軍に聞いた。
「月を肴に飲むのも風流ですが、美しい女性の方が酒もうまくなるというものですがね」
艶然と微笑んだ男は、横にいた美女に抓られて顔を顰めた。
好きな人のすることは、真似をしたくなるものだ。ちびちびと飲んでいる内に、横にシラギがいるような錯覚に陥ってしまう。
あの男の低い声が好きだ。自分の名を呼ぶときの、あの声が。
あの男の目付きが好きだ。剣を振るう時に見せる狩りをする獣のような獰猛な目。
あの男の笑った顔が好きだ。滅多に拝めるものではないが、二年ほど前から表情が出るようになった。
特に小娘陛下といる時はクルクルと変わる。
その情景が出てきて、切なく甘やかな気持ちは吹っ飛んだ。
酒を机上において、その横に突っ伏す。頬をつけるとひんやりした。
なぜ人は人を恋しいと想うのだろう。こんな厄介で愛おしいような感情は、邪魔で仕方がない。しかも想い人は違う女を見ている。親子ほども年の違う少女を。
わたしのほうが、あの男を好いている。この想いは誰にも負けないのに。
そしてこんなことをグチグチと考える自分を嫌悪してしまう。
その時、扉が叩かれた。
「どなたか」
「マツバです」
モクレンの部下だ。二つ下で、隊長を務めている。ヘラヘラした外観と言動の割に、剣をもたせると顔つきが変わる、そんな男だった。
「おっ。月見酒っすか。オツですねー」
「どうした。火急の用か」
「まあ、火急っちゃあ火急なんすけど」
その割に緊張感がない。ニコニコしながらモクレンを見ている。
「わたしの顔に何かついているのか」
「涙が一滴」
はっとして顔に手をやると、確かに濡れていた。顔が赤らむ。
「タカトオさまにいじめられましたか?それとも失恋でもされましたか?」
なんだとう!
「お前はわたしを侮辱しにきたのか。それともからかいにきたのか!」
「いいえ。想いを打ち明けにきたんっす」
呑気な返事に憤りはころりと消えた。
「はい?」
かわりに間抜けな声が出た。
「おれは、宮廷軍副将軍モクレンさまをお慕いしております」
その時の自分の顔は、さぞかし見ものだったろうと思う。真っ赤な顔して、口を開けたり閉じたりするしかなかった。
「凛としたお声も、剣を振る時の舞のような美しさも、緋色の御髪も、意外と初で可愛らしいところも、全てひっくるめて愛しております」
堂々とマツバは言い放つと、にっこり笑った。モクレンはただ動揺するだけである。
「わ、わたしは…」
「あ、いいんです。お返事は戴かなくて」
それを言いに来ただけですから、と笑顔のまま言う。
「まあ、あわよくばーなんて、ちらりと思ったんすけどねー」
あわよくば何をする気だったんだ!
「では、お休みなさいませ。モクレンさま。また明日」
マツバはにこやかに退出した。モクレンは呆けたように扉を眺めていたが、気が付けば酒を一気飲みしていた。そしてむせた。
顔に血が昇る。いや、これは酒のせいだけではない。先程のマツバの声がグルグル廻る。目すらも回ってきた。
今まで、剣術や美貌を褒められる事はあっても、ここまで真っ直ぐに言われることはなかった。しかも良く知る男だ。
だからといってシラギへの想いが揺らぐことはない。が、とてつもなく嬉しかった。
一人の男に、自分が女として好かれていた、見ていてくれた。
いい気分だ。もう一杯飲もう。
モクレンは杯に酒を注ぐ。月明かりを受けてそれは銀色に光った。
****
川が晩秋の暖かい日差しを受けてキラキラと輝いていた。
水深は多分キャラの腰ほどにあるのではないか。
「海とはまた違うな」
「本当だね」
リウヒと一緒に覗きこむ。川の背後はうっそうとした森が茂っており、その後ろはもう山だ。秋も終わり、赤や黄色に染まっている。川を挟むように両側から低い木々が囲んでおり、その間から木漏れ日が差していた。
三艘の小舟が用意されており、トモキが船頭と話している。
「二、四、四と別れましょう」
ちらりとこちらを見られた。
分かった、とキャラ、マイム、カグラが頷いた。老医師と三人娘は笑いをかみ殺している。
「リウヒはシラギさまとね」
「あたしたちは四人で乗るから」
「リンさんたちも、まとめて四人で乗ってくださいね」
リウヒとシラギを残して、全員さっさと乗り込む。
「あ…う、うん」
しばし呆然とした二人は顔を見合わせた。
シラギの顔がほんのり赤い。
おそるおそるリウヒが、船に足を延ばすと、シラギがその体を抱え上げた。
「シラギ!船くらい自分で乗れる!」
「大切な国王陛下になにかあっては一大事ですから。…陛下、そんなに暴れるものではありません、船頭が笑っているではないですか」
光の中、緑あふれる木々の下で、肩幅の広い長身の黒衣と、抱きかかえられている茜色の衣を纏う小さな少女はまるで一枚の絵のようだ。
「微笑ましいこと」
船の縁に肘をついて、マイムがクスクス笑う。
キャラは川下りを満喫することにした。
上を見ると木々の間から光の筋がいくつも差し込んでいる。
静けさの間に、船頭の操る櫓の音、船先が水面を切る音が響く。
この空間はまるごと美しい、とキャラは思った。
手を浸してみる。
「冷た」
****
「冷えるな」
言ってからリウヒはしまった、と後悔した。
シラギの腕の中に閉じ込められたからである。どうもここ最近、この男は過保護だ、とリウヒは鼻を鳴らした。子供じゃないんだから、と拗ねつつもこの場所はとても温かい。
上着代わりにちょっと失敬することにした。
「シラギ」
「どうされました」
「水に手を付けてみたい」
「お気を付けて」
縁から身を乗り出すと、そっと手を差し入れる。水面は線を描いてリウヒの手の後へ流れていった。
「シラギ」
「どうされました」
「川底に草がたくさん生えている」
藻と共に地上で生えているような草が、ゆらゆらとそよいでいた。
「その草は夏になれば」
船頭は老人独特の、少ししわがれた声で、しかし得意げに言った。
「白い小さな花を咲かせるのです。透き通った川底に」
見たい、とリウヒが声を上げた。
「夏になったら、またこちらに来ればよいでしょう」
シラギが小さく笑いながら同じく川底を覗きこんだ。
「ここはあなたの国なのですから」
「うん」
情景が目に浮かぶ。
夏の日に反射して光る水面、ピルピルと流れる澄んだ川、その下に咲く白い花々。
「ああ、わたしの国は本当に美しい」
船を降りた先は、シシの村の近くだった。
「久しぶりに母さんに会いませんか」
「行く行く、勿論行く!」
キャラも四年ぶりに実家に帰るという。その他の面々は宿に入った。きっと、リンを中心にして、また酒盛りをするに違いない。
母は家で夕餉の支度をしていた。
「トモキ!リウヒ!」
「かあさん!」
その体に飛び込んで抱きしめると、あまりの細さに驚いた。記憶の中ではもっとふくよかだったはずだ。
「もう、体に触れても大丈夫になったのね」
嬉しそうにリウヒの顔や頭を撫でる。
「かあさん、ひどい。いくら誘っても、こっちに来てくれないし」
甘えるように言うと、少し考えていたところなのよ、と笑った。
結局、そのまま泊まることになった。それを伝えに宿に行ったトモキが、苦笑しながら帰ってきた。
「みな、さっそく出来上がっていましたよ。リンさん以外は」
夕餉の支度を手伝ったリウヒは、母に笑われた。
「リウヒも料理が苦手だったのね。本当にあの子とそっくり」
「あの子って?」
飯を食べながら母は語り出した。
「リウヒたちが出て行って…二年ほど経った時かしら」
一人の娘がこの村にやってきた。母は仰天した。リウヒにそっくりだった娘の名も、リウヒと言った。
「ただ、あなたより年上で、背も大分と高かったわ」
どうせわたしはチビですよ。ひそかにリウヒはむくれた。
「不思議な子だったの。ハヅキを知っていたわ。とても優しくていい子だって言ってくれた」
「ねえ、母さん」
黙って聞いていたトモキが声を上げる。
「その子とぼく、話したことがあるかもしれない」
「えっ」
「宮廷の様子を探りに行った時、リウヒと間違えて声をかけたことがある」
確かに、リウヒより年上で、背が高かった。でも、話していたのはここの国の言葉じゃなかったし、向こうもぼくを誰かと勘違いしていたみたいだった。
「まああ…。本当に、とことんこの家と縁のある子だったのね」
「その人は、今どこにいるんだ?」
少し見てみたい気がした。
「迎えにきた恋人と、ここを出ていったわ。今頃どこで何をしているのかしら」
それがね、と母は嬉しそうな表情になった。まるで年頃の娘のようだ。
「その男の人がやってきた時ね。道の真ん中に二人で駆けよって…きゃー」
恥ずかしそうに顔を赤らめる。リウヒとトモキは顔を見合わせた。母はこんな性格ではなかったはずだ。
「恋人も中々に素敵な人だったのよ。ちょっと目付きが悪かったけどね。橙色の頭で、三白眼で…」
心臓がドンと鳴った。箸を持つ手が震える。もしかして
「痩せぎすで、そばかすがあって、若干猫背じゃなかった…?」
「あら、リウヒ。知っている人だったの?」
しっているもなにも。
「その男の名前は分かる?」
慌てたようにトモキが言う。自分はよほどひどい顔をしているに違いない。
「えっと、…シギだったかしら」
「あっ!」
一瞬で記憶が蘇った。
雨の檻、店番、不思議な客、一度も振り返らずに去っていった男の後ろ姿。
あの頃。まだ体験したことのない恋というものに、リウヒは憧れていた。
好きな女がいる、と男は言った。自分と飯の事しか考えていない、我儘な女だ。しかも天然で鈍感ときている。おれは振り回されっぱなしだ。
だけどな、そいつのことを考えると、胸が勝手にときめくんだ。厄介なもん背負っちまったって思う反面、そいつを見ると温かい気持ちになるんだ。
その顔はとても幸せそうだった。
シギに想われているその人が、少しうらやましい。
リウヒも笑った。
わたしもいつか、そんな想いを抱くようになるのだろうか。
なるよ。必ずなる。
男は何故か、痛々しい顔でそう答えた。
なったよ。シギ。あなたとよく似た男に、わたしは初めて恋をした。
「リウヒ?どうしたの、リウヒ…?」
ボロボロと涙を流すリウヒに、トモキと母が心配そうに覗きこんだが何も言えなかった。
「そうだったんだ…」
久しぶりの子供部屋のトモキの寝台の上で、二人は並んで壁に凭れていた。
「ねえ、にいちゃん」
「なに?」
国王でもなく、そのお付きでもない、兄と妹として。
「もう一人のリウヒは、不思議な人だったんだね」
トモキやかあさん、そしてハヅキとも会っていた。そしてシギの想い人だった。その事が堪らなく嬉しかった。
「もしかしたら、シギとわたしじゃないリウヒは、わたしの願望をかなえてくれたのかな」
だって、わたしはどうあがいても、キジの横に行けない。
「そうだね」
慰めるように、トモキの手がリウヒの頭を撫でた。
「会ってみたかったな。ハヅキにいちゃんはその人のこと、覚えているかな?」
「一緒に仕事をしていたから覚えているだろう。でも、ハヅキの奴、そんなことしなくても十分な金はあっただろうに…」
もう一人の兄は、曖昧な記憶しかない。顔もぼやけている。騒ぎの後、支払われていた金が止まり、退学した後旅に出ているらしい。
「かあさんも、ハヅキを待ってここに留まっている節もあるし…」
「ハヅキにいちゃんが帰ってきたら、二人で宮廷にくればいいのにね」
「そうだね」
さあ、寝ようか、と言ってトモキはリウヒを離し、その額に口を付けた。
東宮の寝殿でやってくれるように。
男でも女でもなく、兄と妹として。
それから数日間、シシの村で過ごした。
かあさんと一緒に、キャラの実家にも遊びに行った。国王陛下に家のものは驚き慌てたが、普段通り接してくれればいいというと、真っ先に砕けたのはキャラの母だった。
「まあー。あの赤ちゃんがこんなに大きくなって。おばちゃんを覚えていない?覚えていないわよね。このお乳をあげたのよ」
「ええっ!」
じゃあ、わたしとキャラは乳姉妹だったのか!
「だって、トモキちゃんのところにいた女の子でしょう?あの時はよく泣いてねえ、真っ赤な顔してねぇ」
かあさんやキャラの母から、自分の幼い頃の話を聞くのは楽しかった。
「とにかく、やんちゃでね。ものすごくトモキに懐いていたわね」
「ハイハイができるようになったときは、よく頭をぶつけておお泣きしていたわ」
キャラとも話をした。
「昔っからトモキさんが好きだったの」
裏庭の畑の柵に肘をついて、ティエンランの都を眺めながらキャラは言った。
「だから兄さんにずっとくっついて回って、トモキさんを見るのが当たり前だった。小学までくっついていった。だけど、トモキさんはある日いきなりおかしくなっちゃって…。ずっと心あらずで、ぼうっとしている感じ。リウヒがいなくなったからだったんだね。それから、トモキさんは宮廷にいっちゃって、絶望するくらい悲しかった」
「だから、わたしは最初、キャラに嫌われていたのか」
「うーん。多分嫉妬していたんだよ。色んなことに」
子供だったんだねー。キャラは頬をついた。
「わたしはキャラが羨ましい」
リウヒは柵を掴んで肘を伸ばした。
「小さな頃から好きだった人と結ばれて。…キジは…今、何をしているのかなあ」
「リウヒは今でも、キジさんが好きなんだね」
「好き。出会わなきゃよかったって思うくらい」
キャラは黙った。二人はしばらくそのまま風に吹かれていた。
「あのさ」
しばらくの沈黙の後、キャラがぽつりと言った。
「人生は道なんだって」
「道」
「そう。一本道じゃなくて色々な分岐点があるんだって。それを選択するのはその人自身と運命で、歩いて行くことによって他の人の道と様々に交差するんだって。聞いた時はふうんとしか思わなかったけど、今は何となく分かる気がする」
もし、あの時謀反が起きなかったら、リウヒがここにこなかったら、あたしが二人についていかなかったら、あたしとリウヒは他人のままだった。
「あたしとリウヒが全く知らない他人同士って、すごく変な感じがするけど、もしかしたらそうなっていたかもしれないんだよ」
そう言ってキャラは笑った。
「リウヒの道と、キジさんの道も必然的に交差したんじゃないかな。辛い気持ちはわかるけど、出会わなきゃよかったなんていったら駄目だよ」
「うん…」
涙が出てきた。キャラは何も言わずに頭を引き寄せた。
慰めるようにゆっくり叩いてくれる手を感じながらリウヒは思った。
もう一人のリウヒとシギが一緒になってくれただけで、まだ救いだと。
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ティエンランシリーズ第四巻。
新米女王リウヒと黒将軍シラギが結婚するまでの物語。
「あのさ。人生は道なんだって」
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