翌日、頭領が船を降りた隙に、迷った末、キジは体を屈めて頭領の部屋へ侵入した。
ちょっとリウヒが心配なだけだ、ただそれだけだと思いながら。念のためハルさんに、見張りをお願いする。
「酒一本でいいかな」
「酒も金もいらんよ。おいらも嬢ちゃんが心配だ、無償で協力してやるさ」
「わりいな、ありがとう」
勿論、鍵がかかっていたが、お茶の子さいさい、針金で鍵を開ける。
「リウヒ。返事しろ」
声をかけながら部屋に入る。寝台で少女が横たわっていた。緋の衣から伸びている白い手足には、青や紫の痣が所々にあった。藍色の長い髪が寝台に散っている。
「キジ」
自分をみても、まるで人形のようにぼんやりしている。唇の端が切れていた。
「お前…大丈夫か?」
「キジこそ大丈夫なの?」
白い手が伸びて、寝台の前に跪いたキジの頬を撫でる。ゆっくりと愛おしそうに。
「おれは、口を切っただけだから。でもクロエが熱をだして、お前の名前を呼んでるんだ。そうだ、大部屋に来てくれないか、ちょっとだけでいいから」
クロエもリウヒに会えば、少しは元気になるかもしれない。
細い体を抱き起こそうとすると、身をよじって嫌がった。
「この部屋から、わたしを連れださないで。兄さまに知られたら足を切られる」
頭領、どこまで狂ってんだよ。
「そうか」
体を離すとリウヒの顔が歪んだ。
「ごめんね」
「なんでお前が謝るんだよ」
「キジとクロエに迷惑かけた。クロエに伝えて。かばってくれて、ありがとうって」
「おれもクロエも、迷惑なんて思っちゃいねえよ」
頬にかかっていたその手を取ると自分の指と絡ませた。リウヒの白い手は、華奢で小さく、日に焼けてゴツゴツしたキジの手とは対照的だった。
「キジもここを出て行って。わたしは狂っているもの。キジを襲ってしまうかもしれない」
「本当に狂っている奴は、自分の事狂っているなんて、いわねえぞ。お前が襲ってきたら、その時はおれがまた頭をはたいてやるさ」
リウヒが笑う。
「ねえ、キジ」
リウヒはうつ伏せになって、髪の隙間から絡まる手を眺めている。
「ん?」
白い指は、日に焼けた手を愛撫するようにいじっている。
「どうして、あの時来てくれたの」
兄さまが普通の状態じゃないって分かっていたでしょう。
「決まってるじゃねえか、馬鹿」
キジが微笑んだ。
「泣き叫んでいる女をほっとく訳にいかねえだろう」
「本当にキジは優しい人」
あのね、キジ。
「キジがいなかったら、わたしはとっくに狂っていたと思う」
まるで踊るように小さな手は絡まってゆく。
「キジがいて、すごく楽しかった」
クズハの客室での拳骨、嵐の夜、船の先端から叫んだこと、台所の掃除、クロエと一緒に甲板でしゃべったこと、いろんな雑用、ハルさんの衣、水かけ合戦。
「迷惑かけてごめんね」
そのまま、キジの手を引きよせる。そしてごつごつした手に唇を落とした。
「ありがとう、キジ」
「お前、まさか、まさか…」
手を振り払って、立ち上がる。
「死ぬ気じゃねえだろうな!」
リウヒは無言でキジを見上げたが、黒い瞳は肯定していた。
「馬鹿っ!」
キジの拳が藍色の頭に落ちる。ゴッと音がした。
あまりの痛みにリウヒが頭を押さえて体を折った。
「痛い…」
「痛いじゃねえ!この…この大馬鹿者!いいか、自殺なんて、最っ低の卑怯者がすることだぞ!世の中には、散々苦しんでいる奴がいっぱいいるんだ。絶望に喘いで、それでも必死に生きている奴がよ!己の不幸を嘆く前に、打開策を考えろ!」
「そんなの、わたしだって散々考えた!」
痛みと怒りにリウヒが涙目になって、勢いよく起き上がった。
「でも、兄さまには全く敵わなかった、もがけばもがくほど締め付けられる!」
「それで流されて大人しくいいなりかよ!弱っちい女だな。挙句の果てに命を断とうとする。どこぞの旅芸人の芝居みたいだ」
吐き捨てるようにキジも応ずる。
「陳腐で臭くて吐き気がするぜ」
人間、図星を突かれると逆上するらしい。リウヒの髪が逆立った。
「バカバカバカバカ、キジの馬鹿――!」
泣きながら、物をやたら滅多らに投げつける。
「おい、こら、それは反則…ぶふっ!」
枕の直撃を受けた。
「どうしたんだ、キジ…うぉう!」
心配して扉から顔をだしたハルさんの横の壁に、小刀が突き刺さった。
「ちょっと、今…忙しい、後で声かけて!」
物理飛行攻撃にいっぱいいっぱいのキジが怒鳴ると、ハルさんは慌てて引っ込んだ。
「落ち着け、リウヒ」
「わたしは落ち着いている」
肩で息をしながら、血走った目は室内を見渡している。投げられるものを探しているのだろう。何かを見つけて走り寄ろうとした瞬間、音をたてて蹴躓いた。
「ああ、ほらもう、いわんこっちゃない…」
「離せ、馬鹿!馬鹿キジ!」
抱え上げるとジタジタと暴れたが、すぐに力尽きて大人しくなった。
「おれはな、リウヒ」
寝台に連れ戻し、自分もその端に腰を下ろす。
「今回は言いすぎたとは謝らねえぞ。もう一度言う、自殺は最低の卑怯者がやることだ」
リウヒはふてくされたように横を向いていた。
「残されたものを考えてみろよ。おれ、クロエ、頭領、お前の仲間、宮の人間、いやティエンランの国民全員が、悲しみと失望のどん底に叩き落とされるんだぞ。お前、王さまだろう」
キジの言葉と共にリウヒが目を見開いてゆく。
「おれは、親友が…」
「キジ、キジ!」
リウヒが勢いよく抱きつき、不意を突かれてキジはひっくり返った。
「ちょっとまてこら、ここからがいいところ…ぎゃー!おれ、襲われてる!貞操の危機、貞操の危機、ダレカタスケテー!」
リウヒはわめくキジに構わず、頬に口づけをすると、その体を思い切り抱きしめた。
「痛え!おま、結構馬鹿力…!」
「ありがとう、キジ。目が覚めた」
キジはわめくのをやめて、横に張り付いているリウヒを見る。
リウヒが顔をあげてキジを覗きこんだ。その黒い瞳がキラキラ光っている。
「キジが、わたしの人生の中にいてくれて、よかった。本当によかった…」
「それ、すごい殺し文句…」
至近距離で見つめあう。キジの手がリウヒの頭に回った。ゆっくりと自分の方に引き寄せる、リウヒも真っ直ぐそこに向かってくる。お互いが目を閉じ、唇が触れた。
その瞬間。
「キジ!頭領が帰ってくるぞ!」
扉が慌しく叩かれた。二人は弾かれたように離れ、リウヒは勢い余って寝台から転げた。
「やべ!」
キジが慌てふためいて起き上がる。うろたえている男を見て、寝台に頭を持たせかけながら、リウヒが呑気に言った。
「なんだか、間男を見送る気分だ」
「なに寝言いってんだよ。どうすんだよ、この部屋」
先ほどリウヒが怒りにまかせて投げつけたものが散乱している。
「キジが片づけて、わたしは動けない」
「馬鹿。自分で散らかしたものは、自分で片付けろ」
ぽすんと藍色の頭をはたく。
「じゃあな、リウヒ。元気になってよかった」
「ありがとう、キジ。大好き」
笑顔を一つ残して、キジは部屋を出、部屋の前に立っていたハルさんに声をかけた。
「頭領はどれぐらいで帰ってくんだ?」
「もうすぐ着く。なあ、譲ちゃんは…」
「いや、なんだか滅茶苦茶に元気になってしまった」
針金で鍵をかけながら、苦笑した。
「ありかとな、ハルさん」
「いいってことよ」
「さて、と。おれ、ちょっと舳先で一眠りしてくるわ」
呑気に手を振って舳先へふらふらと向かう。
いつもリウヒが座っている場所へ、崩れるようにへたり込むと、頭を抱えてもだえ始めた。
うおおう、やべえ。あの時声がかからなかったら、そのままいっちゃってたぞ、おれ。
…。いや、いっちゃいたかったな、むしろ。
いやいやいやいや、何を考えてるんだ、おれは!
両手で頭をかきまわし、唸り声を上げる。
キジが、わたしの人生の中にいてくれて、よかった。
ありがとう、キジ。大好き。
畜生、可愛い声で頭ん中、クルクルまわるんじゃねえ。両足をばたつかせて、多々良をふんだ。近くの小樽を思い切り蹴飛ばす。
ああああ、もう。どうしたおれの心臓!静まれおれの心臓!
キジの奇っ怪な行動を、空を飛ぶ鳥たちが無関心に眺めていた。
****
海と空の見える窓まで這ってゆき、窓枠に手をかけて力を入れて立ち上がったリウヒは遠い海原を眺めている。
最近、体に力が入らず、歩くことも難しかった。筋肉が衰えているのだろう。体の節々や痣が痛む。
キジのお陰で目が覚めた。ああ、本当にわたしは馬鹿者だ。
すべてを放棄していた。国のことも、宮廷へ帰る願望も、考えることも。キジ、クロエや海賊たちと過ごした楽しい時間でさえ、取り上げられてしまった。
それからは、生きることさえ投げ出していた。
自分さえ死ねば、世界はきちんと機能しはじめる、そんな気がしていた。
兄は正気に戻るだろうし、海賊たちもそんな兄におびえることもなくなるだろうし、クロエやキジにも迷惑がかからなくなる。
アナンに報復する気持ちもあった。この苦しみを、わたしの死によって思い知るがいいと。
ティエンランの国民全員が、悲しみと失望のどん底に叩き落とされるんだぞ。
お前、王さまだろう。
キジの声が響く。
ああ、本当にわたしは馬鹿者だ。大切な責任を、楽になりたいあまりに忘れるなんて。
大切な民を悲しませることなんて、できない。三百年続いた王家をわたしで途絶えさすことなんて、できない。ティエンランを、わたしの国を不幸にさせることなんて、できない。
わたしは王なんだから。
上意の礼をした時、わたしは国民になんと誓ったか。
生きなくては。生きて宮に帰らなくては。汚れきった体でも、わたしは宮に帰らなくては。
みんなのもとへ。
アナンなんかに負けるものか。
****
アナンは室内に入って驚いた。部屋のいたるところに物が散乱し、いつも寝台にいる妹は窓辺に立っている。
「おかえりなさい、兄さま」
こちらを向いて、ゆっくりと微笑んだ。
死んだような人形の表情はなく、光を受けてキラキラと生命力にあふれている。
「どうしたんだい、リウヒ。そんな所に立って。それにこの有様は…」
思わずうろたえた声が出る。扉の横には小刀が刺さっていた。
「まさか、誰かが侵入したんじゃないだろうね」
「癇癪をおこして、物にあたり散らしてしまいました」
妹に手を伸ばそうとすると、すいと逃げる。
「だって、淋しかったんだもの」
詰るように黒い瞳で睨みつける。
「すまなかった、一人にして」
「いいえ」
ふいと目線を逸らせた。窓の外をじっと見ている。
「ここはどこの近くなの?」
「ジンだ」
「行きたいな」
「陸地についても、お前を下ろさないよ」
後ろからゆっくり抱きしめると、その体が僅かに硬直した。
「お前はこの部屋から出てはいけないのだからね」
「分かっています、兄さま」
妹は微笑んで、身をよじると兄に口づけた。
****
兄が呆然としたように、自分を見ている。
「本当にどうしたんだい」
「どうもしていません」
リウヒは咀嚼をしながら、茶碗を差し出した。
「おかわり」
「これで四杯目だよ…」
体力をつけないと。歩くのが困難であれば、いざというとき動けない。時期が目の前にきている時に、指をくわえて見送るのは嫌だった。
幼少期、どんなに絶望していても、食事だけはきちんと食べた。いざ逃げる為に。機会を逃さない為に。
母さんが言ってたもの、ご飯は大切だって。ちゃんと栄養をとらなければ、肉体は衰えて闇に囚われたままになってしまう。幼いころは本能で分かっていたことが、今は全然分かっていなかった。本当にわたしは馬鹿者だ。
「もうやめておきなさい」
「どうして?わたしがふくよかになっても、兄さまは、愛してくれるでしょう?」
アナンは一瞬詰まったが、もちろんだよ、とほほ笑んだ。
「ああ、でもそうなったら、キジにもてちゃう」
笑ったら、さっさと食器を下げられてしまった。
ごちそうさま、と手を合わせて立ち上がる。それでも真っ直ぐに歩けなかった。ふらついて倒れてしまう。
体力をつけないと。ちゃんと食べて、歩く練習をして、走れるようにならないと。
わたしは宮に帰るのだ。
一点を睨みつけるリウヒの目は、燃えるような決意に溢れていた。
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ティエンランシリーズ第二巻。
兄に浚われた国王リウヒと海賊の青年の恋物語。
「キジが、わたしの人生の中にいてくれて、よかった。本当によかった…」
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