暗い船内の大部屋の隅っこで、男たちが車座になって座っていた。中心には蝋燭が一本、頼りなげに灯りが揺れている。その中に夕餉を下げに来たリウヒもいて目を爛々と輝かせていた。ちょっとだけ、と座った少女の横にはちゃっかりクロエが陣取っている。
「そんな訳ないんだよ、おれ一人だけだったから」
男の低い声がする。
「その時だ」
みなは固唾をのんで続きを待った。
「後ろから、ぺたっ、ぺたっ、ぺたっ…と足音が…」
ぺたっ、ぺたっ、ぺたっ…。
本当に足音が聞こえた。全員、固まった。
「なにしてんの」
「ぎゃーっ!」
暗闇に浮かぶキジの顔を見てリウヒが悲鳴を上げた。
男たちはその声に、仰天して飛び上がった。
「じ、嬢ちゃん、驚かすなや!」
「うおー、びびったー」
リウヒはよほど恐怖だったのだろう、アワアワと震えている。クロエがその体を抱きしめると、縋ってきた。
ああ、駄目だ。おれ幸せ…。
「嬢ちゃん、もーう大丈夫だよー」
「ほーら、灯りもつけたしさー」
大部屋の灯りがついて、男たちがあやすように声をかけてもなおも震えている。
「お前がくるからだろう!」
「えぇえ、おれー?」
キジが責められていた。その恐怖をなだめようと、男たちはなぜか赤ちゃん言葉でリウヒに声をかける。安心させようと手を伸ばすものはクロエの防御に阻まれた。
ようやく落ち着いたらしい。
「あの、ごめん。もう大丈夫だから…」
そう言って必死に自分から離れようとする。
「まだ、震えている」
誰が離すものか。
その時、部屋の扉が大きな音をたてて開いた。
「リウヒ!」
腕の中の少女が、弾かれたように立ちあがる。
「に、兄さま」
アナンに向かって駆けていく。
「ごめんなさい。今、みんなで怪談を…あっ!」
髪を掴まれ声を上げたリウヒは、そのまま扉の向こうに消えてしまった。
みな、呆然とそれをみおくり、ため息をついた。
「頭領、どうしちゃったのかな…」
「昔はあんなんじゃなかったのに」
もっと男の中の男って感じだったのに。
「嬢ちゃんは妹なんだろう」
酒が回っても誰も以前のように歌ったり踊ったりしない。
「一国の王さまなんだろう」
陽気に騒げなくなってしまった。
クロエは自分の手をじっと見る。
助け出してあげたい。アナンの元から。そして、そのまま二人で…。
いきなり頭をはたかれた。
「痛え!何すんだよ」
「別に。何となく」
キジは鼻を鳴らすと横に座った。
「おれさ、あの子を逃がそうと思うんだ」
酒に口をつけながら、一点を睨みつけるように言う。
「今は無理だけど、今度、陸に上がった時に…」
「なんでそんなこというんだよ」
この男はリウヒに興味がなかったはずだ。情にほだされたのか。それともまさか惚れたのか。
「そんなんじゃねえよ」
その時、上から何かが壊れる音が聞こえた。頭領の部屋だ。
クロエが立ちあがると上を睨みつけて走っていこうとする。その腕をキジが掴んだ。
「離せよ!」
「お前が行ってどうなるんだよ」
もがくクロエを引き寄せる。
「今行っても、火に油を注ぐだけ…」
痛々しい顔でクロエを諭していたキジは、少女の悲鳴が聞こえた瞬間、クロエを放り出して一目散に扉へ駆けて行った。
「キ、キジ?」
クロエも慌てて後を追う。
「おいらたちもあいつらに協力しよう、嬢ちゃんを逃がしてやろう」
ハルさんが声を上げた。全員が頷く。
「嬢ちゃんは帰るべき所がある」
「頭領も正気に戻るかもしれない」
今度は、何かが壁にぶち当たる音。男たちは、沈痛な顔をして上を見上げた。
****
髪を勢いよく引っ張られ、痛みの余りリウヒは悲鳴を上げた。分からない、どうして兄はここまで暴力を振るうのだ。わたしはクロエから離れようとしたのに、ほんの少しだけ、あの輪の中に入っただけなのに。
「兄さま。やめて」
首をゆっくり締め上げられる。
「やめ…」
「あの男たちに二度と近づかないと約束したらね」
その声は、不気味なほど優しかった。夢中で首を振る。
兄の手はそのまま下に降りて、衣の襟をつかみ思い切り両横に広げた。衣が音をたてて裂かれる。
「これからは部屋を出てはいけないよ」
舌が這ってゆく。恐ろしくて堪らない。
「勝手に出たら」
肩を思い切り噛まれた。思わず悲鳴を上げる。
「二度と逃げ出せないように、足を切ってしまおう」
リウヒは戦慄した。この人は本気だ。ここから逃げ出したら本当に足を切られてしまう。
兄は狂っている。その事に下の人たちは、怯えて怖がっている。わたしがいるから。
「お前はただわたしの横にいるだけでいい」
では、わたしがいなくなればいいのかもしれない。自分の存在が消えれば、全ては正常になるのかもしれない。キジにも迷惑がかからなくなる。
「兄さ…」
いきなり扉がけたたましい音をたてて開いた。リウヒは驚き身をすくませる。鍵は開いていたのか。
「頭領!」
「その子を離せ!」
キジとクロエの声だった。兄に飛びかかろうとする。
「うるさいね、君たちは」
兄は振り向きざま渾身の一撃をクロエに浴びせた。クロエの体が壁に勢いよくぶつかりそのままぐったりと動かなくなった。
「クロエ!」
キジの手をかわしたアナンはその胸倉を掴んで、スタスタと扉を出てゆく。キジはもがいたが手は緩まなかった。リウヒは慌てて後を追う。そして息を呑んだ。
兄が手すりから両腕を伸ばしている。その先にはあがいているキジがいた。
「二度と妹に近づくな。それともこのまま海に落ちるかい」
「兄さま、やめて、その人を殺さないで!」
衣がはだけているにも関わらず、リウヒが転がるように甲板にでると兄に縋った。
「お前はこの男を庇うのか」
手を振り払われて尻持ちをつく。
「リウヒ…!」
キジが苦しそうな声を出した。
「お願い、兄さま。何でも言う事を聞きます。一生あなたの横にいるから!」
リウヒはもう必死だった。兄の足にしがみついて懇願する。
「何でもするから、その人だけは殺さないで…」
「わたしの妹はなんていじらしい」
歌うようにアナンは言うと、腕を巡らせてキジを甲板に思い切り叩きつけた。
「ぐっ…!」
「キジ!」
駆けよろうとするリウヒを抱き上げ、アナンは低い声を出す。
「今回は、妹に免じて許してやるが、次は躊躇なく海に叩きこむからね」
あの苦しそうに体を折っている男の元に駆け寄りたい。それでも自分はこの腕の中から抜け出すことができない。
兄には何もかもが敵わない。リウヒは遠ざかるキジを見ながら絶望した。
****
リウヒはあれから、全く姿を現さなくなった。きっと部屋に閉じ込められているのだろう。つい、いつもいた舳先に目をむけてしまう。が無人だった。
頭領はいつもと変わらない。普段通り朗らかで爽やかだ。それが余計に怖かった。クロエは打撲による高熱をだした。うわごとのようにリウヒの名を呼ぶ男に胸が引き攣れた。自分は口を切っただけだ。お互い骨を折らないだけでも、海に叩きこまれなかっただけでもよかったじゃないか、と思う反面、リウヒの自由を奪ってしまった後悔が残る。
結局は、火に油を注いだだけだったのだ。分かっていたのになぜ自分はあんなことをしてしまったのだろう。
ある日、頭領に呼ばれた。
「左舷の切りの調子がおかしいから見ておいてくれないか」
「分かりました。…あの、リ…嬢ちゃんは元気ですか」
おそるおそる聞いたキジに頭領は笑顔で答えた。
「もちろん元気だよ。毎晩可愛い声で鳴いてくれる」
爽やかな笑顔のまま言う。
「わたしの下でね」
寒気がした。改めてこの兄妹関係のおぞましさに。
言いつけられた仕事をしながら、ふと思う。
あの時の顔が頭から離れない、頭領はどんどん狂っていっている。どんなんになっても、あの男はおれたちの頭領だ、それはゆるぎない。だがリウヒがいるかぎり、どこまで狂ってしまうのか分からない。
キジはふと上を見上げた。海鳥がのんびりと空を旋回している。
やっぱり、あの子はここから出してやらなきゃ。
****
「わたしは明日用事があって出るが、大人しくしているんだよ」
「はい。兄さま」
「いい子だ」
妹の髪を梳きながら、口づけるとリウヒは目を閉じた。
あれから、妹は意思を無くしたように静かになった。従順になった。まるで人形のようだ。右を向けと言えば、いつまでも右を向いているような。
これが自分の望んだことなのに、なぜ不安は去ってくれないのだろうか。どころかますます大きく巨大になってゆく。その苛立ちは、リウヒに向かう。どんなことをされても、妹はもう泣いたり怯えたりしなくなった。ぼんやりと受けているだけだ。それが余計にアナンを苛立出せた。
白く華奢な体には痣があちらこちらに残り、口の中は常に鉄の味がした。
「兄さま」
リウヒが体を持たせかけながら言う。
「舳先から遠い海原が見たい」
「駄目だ」
緋色の衣が大層、似合っている。商船から奪った極上の衣だ。藍色の髪にも、白い肌にも。
その裾からのぞく細い足は、白く頼りなくて本能をそそられる。
足を取って指を含む。一本一本、丁寧に舐めてゆく。
「あ…」
目を閉じて、快楽を味わうように歪む顔がさらに欲情を煽る。
「二度と部屋から出てはいけない」
「はい、兄さま」
ゆっくりと白い両足を広げると、うるんだ目でこちらを見つめている。
ああ、その瞳に映るのは、わたしだけでいい。
身を沈めると妹の声が上がった。体が溶けるような、高く甘い声だった。
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ティエンランシリーズ第二巻。
兄に浚われた国王リウヒと海賊の青年の恋物語。
兄には何もかもが敵わない。
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