No.111997

テラス・コード 第三話

早村友裕さん

 それは、少女に残された唯一の言葉だった。
 太陽を忘れた街で一人生きる少女が、自らに刻まれたコードを知る。

 古事記をモチーフにした、ファンタジックSFです。

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2009-12-13 14:15:40 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:848   閲覧ユーザー数:830

第三話 ミコト

 

 

 

 

 

 結局ヨミは何もせずに部屋から出て行ったのだが。

 あたしは、気がつけばあの地下を出て、ウズメの元へ足を向けていた。

 

「ツヌミ、もうすぐだよ、頑張って」

 

 暗闇に続く道を、暗視スコープもないまま歩くのがどれだけ危険かは分かっていたけれど、カノを疑い、ヨミを拒絶したあたしは、もうあの場所にはいられなかった。

 壁にメッセージを刻んできたから、もうすぐカノが見つけるだろう。

 確かカノは、ウズメの区域と反対側に担当区域を持っていると言っていたはず。だから、タカマハラタワーを越えて歩いていれば、いつかは見慣れた景色に出会えるはずだった。

 そう思い先ほどからずっと歩き続けているのだが、鉄骨の飛び出したコンクリートが転がる地帯は、全く変化がない。あちらこちらに半球状の穴がいているのは、誰かが大型の異形(オズ)を退治した時のものだろう。

 来た事のない場所で、これほど特徴のない地形が続くというのはそれだけで体力も気力も削られる。

 

「ウズメの担当区域ならすぐ分かるのに……!」

 

 ウズメはすでにあたしの事を見放しただろうか。それとも、異形にやられたものとして処理してしまっただろうか。

 でも、あたしが存在できる場所はウズメのところ以外に残されていない。

 歩行補助器具をつけた右足を引きずりながら、あたしは、ただ、逃げていった。

 

 

 

 随分歩いて、歩き疲れたあたしは、その場に座り込んだ。ツヌミも肩にとまって休憩する。

 ツヌミはあたしの最後の味方だった。

 

「ありがとう、一緒にいてくれて」

 

 補助具を長くつけすぎたせいで、右足の皮膚がすれ、血が滲んでいる。ここで少し休んでいくべきだろう。まだ先は長そうだ。

 

「あたし、本当に何も知らなかったのよね。自分の事も、異形の事も、それ以前に、この街がどうやってできたのかだって……」

 

 ツヌミの喉を撫でながら、あたしは小さく呟いた。

 

「これまで当たり前だと思ってたけど、どうしてこの街は防御壁で覆われたのかな。いったい、外にある何から街を守ってるのかな……?」

 

 喉を鳴らすツヌミが答えてくれるはずもないのだが。

 なぜか思い出すのは、金色の瞳。『一緒に来い』と言った強い目の光と、頬に触れた温かい手――あいつなら教えてくれたかな? 初対面であたしの心の奥底の不安を抉り出した、あいつ。

 ああ、どうしてあんなやつのこと、思い出してしまうんだろう。

 

「どうしたらいいの……ナギ……!」

 

 育て親の名を呻くように絞り出し、あたしは膝に顔を埋めた。

 そうすると、また頭の中で声が響く。

 

――生きなさい

 

 ああ、そうだ、思い出した。

 これは――育て親だったナギの声。ナギが死の間際、あたしに残した言葉。

 ねえナギ、あたし、どうやって生きていけばいいの? あたしは、何を信じたらいいの?

 

「ナギ……会いたいよ、ナギ……!」

 

 育て親の名を安易に口に出すのはあたしの中で禁忌だった。

 なぜかって言うと、ほら、こんな風に……

 

「ナギ……ナギ……!」

 

 止まらなくなってしまうから。涙も、言葉も、感情さえも――すべてが、堰を壊されて溢れ出してしまうから。

 そっと寄り添ってくれるツヌミの気配だけを感じながら、あたしは心ゆくまで泣く事にした。

 今だけは、何もかもを忘れて。

 そう、これから先、どれほどの危険が待っているかなんていう事に気付きもせず。

 

 

 

 

 

 泣き疲れ、もう歩く気力なんて残ってない。歩くどころか、すべての気力を失っていた。

 もし異形に襲われたら、抵抗する間もなく殺されてしまうだろう。5年前にナギがそうなったように。

 当時の記憶はひどく曖昧だ。10を過ぎたばかりだったあたしは、いつものようにナギの帰りを待っていた。あの部屋で、一人で。

 ところがいくら待ってもナギは帰ってこない。

 代わりに帰ってきたのは、全身を異形の粘液に蝕まれ、もう動く事も出来ないナギの変わり果てた姿だった。

 当時のあたしにとって育て親の死は相当ショックな出来事だった。そのためか、その辺りの記憶は定かではない。ウズメと異形狩りとしての契約を交わしたのもナギの目の前だった気がするのだが。そう言えば、ツヌミと出会ったのもちょうどその頃。

 それからいつしかウズメにクロスボウを仕込まれ、一人前の異形狩りとして一人で生きてきたのだ。

 

「ナギ……」

 

 暗闇に向かって呟く。いったい何度目だろう?

 もう、いい? 言いつけ、破ってもいい? 楽になりたいよ……

 

――生きなさい

 

 諦めようとするあたしの頭の中には、ナギの声がリフレインする。

 このまま、この声の中に溺れてしまいたい。あたしなんていうちっぽけな存在、頭の中浸食されてぐちゃぐちゃになって最後は何も残さず消えればいい。

 そう思ったのに。

 

「あれー? テラスー?」

 

「ほんとだ。テラスじゃん」

 

 一番聞きたくなかった声が鼓膜を揺らす。

 ツヌミは声に驚いてあたしの肩を離れた。

 

「死んじゃったかと思ってたよ」

 

「そうそう、ずいぶん見なかったからねー」

 

 ああ、こいつらに会うくらいなら異形に遭った方がまだマシだった。

 

「返事しなよ、テラス」

 

「無視すんじゃねーよ」

 

 視線をあげると、絶対に会いたくなかった同僚の姿があった。

 ウズメの下で働く異形狩りの、タツとカラ。右眼帯がタツで左眼帯がカラ。特に血のつながりはないらしく、容姿に共通性は見られない。身長は一緒くらいで髪型もお揃いになっているけれど、タツはこげ茶の髪に吊り目の黒瞳だし、カラはたれ目の紫瞳に黒髪だ。

 常に一緒に行動するせいで性格も似通ってきてしまうんだろう。すらりと引き締まった肉体も、そこから生み出されるのらりくらりとした動きもそっくりだった。

 口の悪いこのコンビは、あたしの天敵。

 襲われかけた事だって一度や二度じゃないのだ。

 

「あーあ、怪我しちゃって。それも歩行補助具? いったいどこでそんなもん手に入れたわけ?」

 

「ほら見てよタツ、こっちにも痕残ってるぜー。これ、異形にやられた痕だろ」

 

 二人はあたしの敵意など全くお構いなしに歩み寄り、あたしの手足を物色し始める。

 こいつらは、マジでやばい。

 

「もったいねぇー。テラスの肌は真っ白ですべすべですんげー手触りいいのに」

 

 タツは当たり前のように歩行補助具を外している。

 

「ちょっ……何するの!」

 

「何って? 分かってるくせにぃ」

 

 抵抗する間もなく、カラがあたしを後ろ手に縛り上げる。

 しまった!

 何とか逃れようと左足でタツの顔を狙うが……

 

「無駄だよ、テラス」

 

 軽々とあたしの足を受け止めたタツは、もう一方の手で怪我をしている右足を思いきり抑えつけた。

 

「痛っ……!」

 

 治りきっていない傷が悲鳴をあげる。

 

「その顔、最高」

 

 真正面に、タツのにやけた顔。

 後ろからはカラの手がのびてきて、あたしの首筋を指でなぞり、顔を正面に固定する。縛られた手も彼の膝で完全に抑え込まれてしまった。

 だめだ、逃げられない。

 

 

 

「この……ドSっ……!」

 

「テラスのそういうとこ、好きだぜ? その、強気な目とかな」

 

 息がかかるほど近い距離。カラに抑え込まれていて、顔を背けることすらできない。

 

「近寄らないでよっ……色魔」

 

「うわあ、相変わらずつれないねえ、テラスは。でも、そんな事言うと、タツが喜ぶよー。ね、タツ?」

 

「当たり前だろ」

 

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。

 触らないで!

 

「ああ、でも、口が悪いヤツにはお仕置きしないとな」

 

「一番口が悪いのはタツ、あんたでしょ!」

 

「言うねえ」

 

 にやりと笑ったタツ。

 やばい、と思った時には遅かった。

 

「もう言えないようにしてやろうかー?」

 

 タツの手があたしの首にかかる。

 締上げられて、息が出来なくなる。

 タツの性癖は破綻している。筋金入りのサディストの上、あたしのことを人形か何かと勘違いしている節があるのだ。相手を苦しめる手加減が分からず死に至らしめてしまった過去があるらしい――というのは、ウズメに聞いたことだ。

 まさか、自分がその証明をする事になるなんて。

 カラは何に関しても無関心だから、あたしが死のうが目の前でタツに犯されようがどうでもいいと思っているだろう。

 自分の身は自分で守らなくちゃいけないって、もう一度心に刻みつけたばっかりだったのに、こんなにもすぐにその誓いが破られてしまうなんて。

 悔しくて涙が滲んできた。

 

「ああ、苦しそうだね、テラス」

 

 嬉しそうなタツの声が遠ざかっていく。

 息もできない。意識が沈んでいく。

 このまま、死ぬのかな。

 諦めかけたあたしの頭の中で、もう一度あの声が響く。

 

――生きなさい

 

 ナギ。ナギ。もう無理だよ。もう十分頑張ったよ……!

 全身の感覚が麻痺していく。

 死んだら、ナギに会えるかな……?

 最後の途切れそうな意識がわずか、震えた時。

 鋭い鳴き声と共に、首にかけられた手が一瞬緩んだ。

 

「こんの……クソガラスっ!」

 

 ツヌミの声がする。けたたましく警戒音を発しながら、あたしの首に体重をかけるタツに襲いかかっているようだ。

 そうだ。あたしは一人じゃない。何であたしは、こんな簡単に諦めようとしていたんだろう。これまでだって、この位のピンチは一人で乗り越えてきたというのに!

 かっと胸の中心が熱くなる。

 きっと、カノを疑い、ヨミに襲われそうになって心が弱っていたに違いない。

 ありがとう、ツヌミ。

 あたしは最後の力を振り絞って右足を振り上げた。凄まじく痛んだが、今はそんな場合ではない。怪我とか、痛いとかそんなことは後でどうにでもなる。

 だってあたしは、生きなくちゃいけないんだから。

 容赦なく振り下ろした踵は、完璧にタツの眉間を捕えた。

 が、あたしの方にも気を失いそうな痛みが反動で帰ってくる。

 

「あっ、何すんだよ!」

 

 痛みに耐えてそのまま左足を引き抜き、後ろにいたカラにも下から顎をつきあげるドロップキックをお見舞いしてやる。

 二人にダメージを与え、拘束が緩んだ隙に、あたしは横に転がって脱出。

 同時に後ろ手に縛られたままリストバンドに分子分解で収納されたクロスボウを召喚する。その勢いであたしを縛っていた紐は弾け飛んだ。

 よし、いける!

 とっさに上体を起こして弓を構える。

 迷うな。殺らなきゃ、殺られる。

 が、その瞬間、あたしの脳裏に分断された異形の姿が舞い戻った。

 

「くっ……」

 

 その一瞬の迷いが狙いを狂わせた。

 一本目の矢はカラのふくらはぎ辺りに突き刺さったものの、次の矢は狙いを外れてテツ近くの地面に突き刺さっただけだった。

 しまった!

 タツの血走った眼がこちらに向けられる。

 

「っ痛―っ! ひどくね? 攻撃したよ、俺達に!」

 

「ああ、そうだな」

 

 続いて第二波を放つが、躊躇せず胸を狙った矢は右腕で防がれ、左目を狙った矢は素手で受け止められた――握った拳とあの刺さった右腕からは、つぅ、と真紅の血が流れ落ちる。

 タツの空気が変わる。これまではどこか愉しんでいたものが、一気に殺気へと塗り替えられる。

 本気で、あたしを殺す気だ。

 さあ、考えろ。どうやったらあたしは生き延びられる?

 相手を人間だと思わなければいい。タツを異形だと思えばいい。すでに人間の形を失ったモノなら、きっと――

 心臓がどくりと一つ、脈を打つ。

 

 アレダッテ 元ハ ヒト ダッタノニ

 

 大丈夫。落ち着いて。タツは格闘を専門にする徒手空拳、つまり武器を持たない戦闘スタイルだ。速度なら、あたしの弓矢の方が数段早い。

 

 助ケテ ヤレタカモ シレナイノニ

 

 追いすがるように伸ばされた手。残された白骨。

 狙いを定めるの。足を先に打ってしまえば……

 

 マタ 殺スノ?

 

 殺さない。ただ、動けなくするだけ。

 

「いつの間に俺に武器を向けるようになった? テラス……調教が、必要らしいな」

 

「こっちに来るな、変態!」

 

 きりり、と引き絞った矢は、タツの大腿を狙っていた。が、あたしは――

 

「撃たないのか?」

 

 撃てなかった。あの時断末魔をあげた人型 異形の姿が脳裏をちらついて、どうしても矢を放つことができなかったのだ。

 

「それとも、撃てないのか?」

 

 タツの挑発的なセリフに、かっと頭に血が上る。

 思わず打ち出した矢は、狙いを大きくそれていた。

 だめだ。こんなにも精神が乱れた状態での狙撃は不可能だ。

 落ち着け、あたし。落ち着きなさい!

 そんなあたしの心のうちなんて全部お見通しなんだろう。タツは腕に刺さっていた矢を躊躇なく抜くと、ついていた自分の血をべろりと舐めた。

 その矢を投げ捨てると、タツは一気に間合いを詰めた。

 

「!」

 

 新たな矢を撃つ間もなく、あたしの左手は抑え込まれてしまう。

 

「お仕置きだ、テラス」

 

 耳元に囁かれたタツの声に、全身が総毛立つ。

 今度こそ、もうだめ――?!

 いや、あきらめちゃ駄目だ。何か方法を考えるんだ。どうにかして、この状況を打開しないと……!

 耳をがり、と噛まれて鋭い痛みが背筋を貫いた。

 

「このまま噛み切ってやろうか?」

 

「やれるもんなら……っ!」

 

 もう一度、胸に闘志の火が灯る――だって、あたしは一人じゃない。

 

「……ツヌミ」

 

 ごめんね、ツヌミ。小さな体であの子があんなにも頑張ってくれたって言うのに、あたしが諦めるわけにはいかないよね。

 決意して唇を噛みしめた時、甲高いツヌミの声がした。

 そして、それに続く声。

 

「テラスっ!」

 

 タツの頭越しに聞こえた声に心臓が跳ね上がる。

 それに引き続いて、カラの切羽詰まった声が響き渡った。

 

「タツ、逃げるぞ、タカマハラだ!」

 

「何っ?!」

 

 ところが、ぱっとあたしから顔を離したタツが一瞬で視界から消え失せる。

 いったい、今何が起きたの?

 

「……テラス」

 

 代わりに佇んでいたのは、金色の瞳をした剣士だった。

 蒼白な顔をした彼は、手にしていた剣をすぐに納めて、あたしのもとに跪いた。少し遅れて、ツヌミがあたしの肩に舞い戻ってくる。

 

「ツヌミ……ミコトを連れて来てくれたの?」

 

 返事の代わりにすり寄ったツヌミの喉を撫でる。

 まるで怒っているかのように険しい顔をしたミコトは、そんなあたしを軽々と抱き上げた。予想していたよりずっと逞しい腕に、あたしはすっぽりと収まった。

 ふっと見ると、タツもカラも地面に伸びていた。きっと、ミコトがやったに違いない。

 その二人には目もくれず、ミコトは黙ったままその場を後にした。

 

 

 

 

 闇の中でも目立つ黄金の瞳を見上げ、あたしはまだ迷っていた。

 カノの言う事が本当なら、この人はタカマハラの人間らしい。育て親のナギはひどくタカマハラを嫌っていた。それも、この人は先ほどヨミと交戦したばかり――とても、あたしの味方とは思えない。

 何より、この世に信じられるものなんてない、自分の身は自分で守るって決めたはずだったのに。

 それなのに、どうして、心はこんなにも歓喜を叫ぶの?

 あたしを支える大きくて温かな手に、どうしてこんなに安堵するの?

 

「……どうしてあなたがここにいるの?」

 

 助けてもらったお礼を言わなくては、と思ったのに、出てきたのはそんな言葉だった。

 そして、それに対する答えは、あたしの言葉に負けず劣らず抑揚のないものだった。

 

「カラスが呼びに来た」

 

 やっぱりツヌミが……ありがとう、ツヌミ。

 上空を旋回する漆黒の翼を見上げ、心の中で感謝する。ツヌミがいなかったら、今頃あたしはタツに殺されていたかもしれない。

 

「なぜ、ヨミの元を離れたんだ?」

 

 どこか怒りを含んだその問いに、あたしはむっとした。

 

「あなたに関係ないでしょう」

 

 まさかそのヨミに襲われそうになったから、とは言えない。

 

「少なくともあの場所にいれば、安全だったはずだ」

 

「……安全なんかじゃないわよ」

 

 ぼそりと呟いてから、しまった、と思った。

 案の定ミコトは、眉間にたっぷり皺を寄せ、恐ろしい形相であたしを見下ろした。整った顔立ちなだけに、すごい迫力。

 

「ヨミか」

 

 声に余裕がない。

 未遂なんだからいいじゃないか。何故、この人がこんなに怒る必要が?

 

「何でもいいでしょう?! あなたには関係ない」

 

 第一、この人だっていつ豹変するか分からないのだ。

 

「ミコト、あなたの事だって信用したわけじゃない。あなただってそうじゃない保証は、どこにもない」

 

「何だと?」

 

 ますます眉間に皺が寄った。

 が、あたしは構わず続けた。

 

「下ろして」

 

「は?」

 

「下ろしてって言ってるの」

 

「何を……お前はまだ足が」

 

「大丈夫よ、たいした事ないわ」

 

 だって、信頼も出来ない奴に運んでもらうなんて、そんな恐ろしい事できない。

 何より、あたしは一人で生きるって決めた。ツヌミだけを信じて、人を信頼する事は無く、自分の身を自分で守ると誓った。

 だから、こうやってこの人が助けてくれて、あたしを支えている事に安堵しているだなんて、絶対に認めない。

 

「放してよ、あたしは帰るんだからほっといて!」

 

 無理やり暴れて、ミコトの腕から脱出する。

 着地の時に右足がはじけ飛びそうなくらいに痛かったけど、それを悟られたくなかった。

 

「もうあたしに構わないでよ。あたしは……これまでと同じ、一人で生きて行く。ナギの言うとおり、タカマハラにも、そこに属してるあなたにも関わらない!」

 

「テラス!」

 

「行こう、ツヌミ」

 

 あたしは漆黒の翼に向かって手を差し出した。

 が、ツヌミが降りてくる気配はない。

 

「ツヌミ? どうしたの、ツヌミ」

 

 声をあげるわけではない。ただ、あたしとミコトの頭上を旋回するだけ。

 ツヌミが呼んでも来ないのは初めてだ。

 

「待て、テラス……誰か来る」

 

 その前に、ミコトがあたしの手を引いて戻した。必然的に抱き寄せられる形になって、逃れよう

としたが叶わなかった。

 ゆっくりと、闇の向こうから人影が現れる。

 その影には、見覚えがあった。

 

「ナギ」

 

 いや、違う。ナギとは違うこの禍々しい雰囲気は……

 

「ナミ……!」

 

 思わず声が震えたのは仕方がないだろう。

 闇のなかに金色の髪が長く靡いていた。

 

 

 

 カノの言葉を信じるなら、あたしはこの場を逃げなくちゃいけない。ミコトに関しては警告されなかったけれど、ナミには近寄るな、と言われたのだ――その理由は分からないけれど。

 現に今、あたしはこの人を前にして恐怖を感じている。

 

「ようやく会えたな、テラス。待ち侘びた」

 

「ナミ、何故ここが……?」

 

 ミコトが呆然とした声を出した。

 

「黙っていろ、ミコト。お前がタカマハラを捨て、テラスの元へ走ることなど予想済みだ」

 

 ナミの目が細められる。

 

「テラスを渡してもらおう。それは、ずいぶん前から私の監視下にある」

 

「監視……?!」

 

 ミコトが大きく目を見開き、そしてはっと見上げた。

 翻る、漆黒の翼。

 

「ツヌミ……?」

 

「彼は、私の忠実な僕だ。戻れ」

 

 そんな、バカな。

 漆黒の翼は迷う事なくナミの肩へと降り立った。

 やめて。そこは、あたしの肩じゃない。

 

「嘘でしょう、ツヌミ……?」

 

「彼は非常によく働いたよ。逐次報告する密偵、そして時には君の身を守る騎士(ナイト)として」

 

 ツヌミが、ナミの密偵――?!

 あたしは言葉を失った。

 やばい、頭の中が麻痺している。何も考えられない。

 

「5年だ、5年間、いつでも手に入るものを自由にしてやっていたのだ。ここではカノの邪魔も入らない。そろそろ私の元へ戻れ、テラス」

 

 あたしの頬を、一筋の涙が伝った。

 さっきあんなに泣いたのに。

 ただ、背から伝わるミコトの体温だけが、辛うじてあたしを現実に繋ぎ止めていた。

 ナミは酷薄な笑みを湛え、あたしに向かって手を伸ばす。

 

「さあ行こう、テラス。タカマハラへ――」

 

 

 

 

 

 

 タカマハラ。

 街の中央に佇む塔の事、また、その中に住む人間たちの事を指す言葉でもある。

 いつから閉ざされたか知れない、太陽を忘れた街の中心に聳え立つその塔は、どれほどの高さがあるのか確かめた者はない。そして、その中に何が存在するのかを確認した者もいない。

 ただ、分かるのは、タカマハラには食糧や水を得る術があり、街の人々は異形(オズ)と共存する見返りに施しを受け、生かされているのだという事実のみ。

 カノの話が本当なら、あたしは一時期ここにいた事になる。

 あたしとミコトは、見た事のない素材でできた黒い球体の中に入れられた。中は薄暗い立方形の空間だ。あたしは大丈夫だけれど、ミコトは腰を折らないと入れないくらいの高さしかなかった。

 ミコトはさっきから何も言わない。

 暗い顔をして金の瞳を床に伏せている。

 あたしは反対側の壁にもたれかかって、ずるずると座り込んだ。

 ツヌミが、タカマハラの放った密偵だった。あたしの行動を監視するために遣わされただけだった。助けてくれたのも、そういう命令を受けていたから。

 馬鹿みたいだ、あたし。

 最後に残った信頼できる相手が、よりにもよって――

 また涙が滲みだしてきた。どうして、ツヌミが。

 

「もう……やだよ……!」

 

 気がつけば弱音が口から零れ出していた。

 

「カノもヨミも……あたしは裏切っちゃって……タツやカラはあんなだし……ウズメはあたしの事、きっと死んだと思ってる」

 

 あたしの世界にはもう誰も残っていなかった。

 さっき、最初で最後の仲間を失ってしまったから。

 

「それなのに、ツヌミまで……!」

 

 悲しい。寂しい。辛い――悔しい。

 やっぱりあたしは、世界中で一人だった。

 それでもナギはあたしに語りかける。全身の細胞が叫ぶ。

 

――生きなさい

 

 その先に求めるものは何? あたしは生きて、生きて、その後どうしたらいいの?

 

「あたしは、どうして生きなくちゃいけないの……?」

 

 心の奥底から絞り出された叫び。悲鳴のような声に、向い側に座っていたミコトがふいに顔をあげた。

 

「テラス……」

 

 金色の瞳。頬に触れる、優しい手。

 その瞳の中に眠るのは、悲しみ? それとも怒り……?

 ゆっくりと、ミコトが体を寄せる。大きな肢体を覆いかぶせるように、ミコトはあたしを抱きしめた。

 

「な、何よ、何するのよ!」

 

 慌てて逃れようとしたが、この狭い空間では逃れる場所もない。

 

「同情でもしてるの?」

 

 問うと、しばらく間があって、ミコトはぽつりと返事をした。

 

「……ああ」

 

「同情なんて……最低ね。あたし、そんなもの望んでないわ」

 

 強がった言葉に力はなかった。

 ああ、だめだ。このぬくもりがあたしを狂わせる。

 

「あなただって一緒よ。あたし、あなたのこと信用したわけじゃないもの」

 

「でも、俺はお前を信じている」

 

 信じている。

 そんな言葉、今はいらない。

 何もいらない。最も信頼していたツヌミさえあたしの元を去った。ヨミもカノも、もう誰も信じらない。

 

「あたしは一人で生きるの。だから、もう近寄らないで!」

 

「駄目だ。お前は一人にするとすぐ危険な目に遭うからな」

 

「でも何度も切り抜けてきたわ!」

 

「嘘をつけ。さっき殺られそうになっていたのはどこの誰だ」

 

「助けてくれなくたってあたしは逃げられたわ!」

 

 それはウソだ。その前に、ツヌミがいなかったらあたしはとっくに死んでいた。きっとミコトが現れなくても同じ結果になっていただろう。

 それでも、こんな気持ちを味わうくらいなら仲間なんていらない。

 あたしは一人でも生きていける。

 

「馬鹿やろう!」

 

 ミコトの一喝に、あたしはびくりとなった。

 その厳しい声と裏腹に優しい手が髪を撫でていて、妙に泣きたくなった。

 

「何故そんな事を言うんだ? 今さら何故……!」

 

 ミコトも震えていた。顔は見えなかったけれど、もしかすると泣いていたのかもしれない。

 

「俺とお前とヨミは、ナギが残した最後の希望だ。人間が再び太陽を思い出す為の指標なんだ。俺達は運命共同体なんだよ!」

 

 

 

 

 

「何……? 太陽を、どうするって?」

 

「だから……そんな寂しい事を言うな、テラス。一人だなどと言うな。そんな事をしたら俺達は全員、孤独(ひとり)になる」

 

「ミコト?」

 

「俺がお前の人生を知らないように、お前も俺達を知らない。いったい何があったか、俺達に植え付けられたものが何か、全然知らないだろう?」

 

 荒っぽい口調で吐き捨てたミコトは、震えていた。

 

「どれだけお前の存在で救われたか、知らないだろう……? 俺がどんな思いでタカマハラを出ようとしたのか……」

 

 ミコトの苦しみが、触れたところから直接流れ込んでくる。悲痛な叫びは驚くほどすんなりとあたしの心に入り込んできた。

 心地よい鼓動と包まれた温かさがあたしを落ち着けていく。

 だめだ。こんなものを知ってしまったら、あたしはもう一人には戻れない。

 生きなくちゃいけないのに、そのためには、人を信じたりしちゃいけないのに。

 

「生きろ、テラス。俺にはお前が必要なんだ」

 

 静かな声が体の隅々まで沁み渡っていく。引き裂かれた心の隙間を埋めていく。

 ミコトは、卑怯だ。あたしの気も知らないで。

 あたしが遠ざけようとしていたものを全部無自覚に与えてくるんだ。初めて会った時にあたしの現状を一瞬で抉り出してしまった時みたいに、無自覚であたしの心の奥底まで察してしまうんだ。

 

――生きなさい

 

 あたしは、もう少しだけ頑張れるのかもしれない。

 そのために一瞬だけ、この腕の中の心地よさを存分に味わう事にする。力を抜いてミコトに体重を預け、一人でない事を実感する。

 

「お前は知らなくてはいけない。この街がどうして出来たのか、俺達に刻まれたコードが何をするためのものなのか」

 

 ミコトの言葉に、どくり、と心臓が大きく脈打った。

 ようやくあたしは、核心に触れようとしているんだ。

 でも、その前に――

 

「離して、色魔」

 

「し……?!」

 

 愕然となったミコトの胸を、どん、と突き放す。

 

「あなたの事だって信じてないって言ったでしょ?」

 

 驚いた顔をしたミコトの頬は、少しだけ赤かった。

 

 

 

 

 ミコトは元通り反対側の壁に戻り、また目を伏せた。

 あたしたちが載せられたこの奇妙な物体は、どうやら移動しているらしく、時々浮遊したり加速したりするのが感じられた。転送装置の一種と見て間違いないだろう。

 おそらく、タカマハラに向かっているんだろう。それとも、もうここはタカマハラの中なのかもしれない。

 ミコトは金の目を床に向けたまま、静かに話し出した。

 

「異形(オズ)がどこから来るか知っているか?」

 

「……街の外じゃないの?」

 

「いや、違う。この街は防御壁によって完全に外界と隔離されている。門が開く事はまずない」

 

「それじゃ、異形はどこから?」

 

 あたしが聞くと、ミコトはいったん口を噤んだ。

 

「実は、異形はタカマハラで生み出されている」

 

「?!」

 

 絶句したあたしを尻目に、ミコトは淡々と説明を続ける。

 

「生み出される、という言い方はおかしいな。タカマハラは、異形化した人間や動物を、街に捨てているんだ」

 

「異形化……?」

 

「お前も見ただろう。異形は、もともと人間だったものだ。獣型はもと家畜であったものが多い。タカマハラ最上階、通称カグヤ。異形は今もそこで生まれ続けている――」

 

 嘘だ、と思いたかった。タカマハラが異形を作っている? しかも、それを街に捨て、見返りを盾にあたしたちに退治させている?

 どういうこと、と聞こうとした時、小さな電子音がして空間に四角い穴があいた。

 

「さあ降りろ、テラス。ミコトもだ」

 

 金の髪を妖艶に垂らしたナミが覗き込んでいた。

 

 

 

 

 

 あたしたちを取り込んでいた球状の転送装置は、降りると同時にふっと消失した。

 ここはいったい、どこだろう? 先ほどまでいた空間をちょうど何倍かしたようなただの四角い空間だ。

 床も壁も天井も見た事のない素材でできている。コンクリートでも金属でもない不思議なベージュの色合いは、迫ってくるような圧迫感があった。目の前には壁と同色の扉と思われるものが一つだけあったが、それは固く閉ざされていた。

 先程の転送装置もそうだったが、壁も床も全体がぼんやりと灯りを帯びているおかげで、周囲を確認するのに支障はない。

 ミコトはまるであたしをナミから守るかのようにぴったりと後ろにくっついていた。

 

「さて、岩戸プログラムが発動した君はおそらく覚えていないと思うが――これから向かうのは、このタカマハラタワーの最上階だ」

 

「最上階……カグヤ?」

 

「ん? 覚えているのか?」

 

 ナミは眉を寄せたが、あたしの背後にいるミコトに目を移し、唇の端で妖艶に微笑んだ。

 

「ああ、そこの彼のお陰か。では、カグヤがいったい何か、聞いたかな?」

 

「……いいえ」

 

 ねっとりとからみつくようなナミの視線は気色悪い。育て親のナギに似た容姿がその違いを浮き彫りにし、さらに嫌悪感をもたらしていた。

 ナミはどこからか暗視スコープのようなものを取り出してあたしとミコトに渡した。いや、暗視スコープというよりはメガネのレンズを黒く塗ったようなものだ。

 ミコトに習ってあたしはそのメガネをかけた。

 と、途端に目に入ってくる光量が減る。

 同時に、これまで固く閉じていた扉が開いた。

 目の前に眩い光が溢れ出す。

 

「カグヤはこの街唯一の生産場。『太陽を持つ場所』それがここカグヤ、だ」

 

 とても目を開けていられない凄まじい光の洪水。この眼鏡がなければ、一瞬で目をつぶされていたかもしれない。

 おそるおそる目を開く。

 まだ視界は白っぽいが、何とか目を開ける事が出来た。

 そして、目の前に広がっていたのは――

 

「緑――?!」

 

 これまで見た事もないような光溢れるなかに並ぶ、一面の緑だった。

 果てが見えないほどに続いたそれは、天井から溢れる光を全身に浴びてきらきらと輝いている。ふわりと頬を撫でた風は、優しかった。

 嗅いだ事のない匂いが全身を満たす。

 

「タカマハラを含めた街の食糧は、すべてこのカグヤで作られている。無論、お前がずっと口にしてきたものもすべて」

 

「……すごい」

 

 一瞬、何もかもを忘れて心震わせた。

 こんな光景、見たことなどないはずなのに心の底から懐かしさを感じている。あの緑の中を転げ回りたいと、全身が震えだす。

 なんだろう? この懐かしさは。

 

「さあ見ろ、テラス。あれが――」

 

 ナミの言葉で思わず示された方を向く。

 緑の対になる反対側。天井に当たるはずのその場所は、コンクリートでも、先ほど見た天井の素材でも、ましてこれまで見た事のある何物とも違っていた。

 抜けるような青。そして、一点だけ光を放つ点がある。

 

「『太陽』だ」

 

 太陽という概念は知っている。地上に光と熱をもたらす天体のことだ。

 この街は、防御壁で覆ったがために太陽の光が届かず、暗闇に沈む街と化してしまったのだと言う。

 が、なぜここには太陽が?

 

「何なの? これは何? ここは街の中なの? 最上階って? 防御壁って何なの……?」

 

 頭の中が混乱する。

 いったいこれはなに? タカマハラって、何?

 

「そうだな、どこから話そうか。いや、その前に……」

 

 あたしが動転する姿を嬉しそうに見ながら、ナミはあたしの手を引いた。

 あっという間もなく、先ほどの扉の向こうに引き込まれる。

 驚いたミコトの顔。

 風に揺れた緑。

 無情にも目の前の扉が閉じた。

 

 

 


 
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