酒場や港の賑わいの声が、大分遠くなった。リウヒは死に物狂いで駆けていた。当てもない。方向も分からない。しかし、とにかく港から離れなければ。
通りを走れば目立ってしまうかもしれない、と考えて脇の林に入ったのが間違いだった。
「あっ!」
木の根に蹴躓いて、すっ転んだ。
急いで身を起こすと重いような痛みが、足首に走った。どうやら捻ったようである。
痛みを堪えて走ろうとしても、足は思うように動いてくれない。
「もう…」
情けない。本当に自分が情けない。
やっと巡った機会だったのに、わたしはここで何をしているのだ。早くしないと、兄に見つかってしまう。そうなれば、どんな仕打ちが待っているのか、想像するもの恐ろしい。
その時、ガサガサという音が近くに聞こえた。焦りのあまり、冷汗が伝う。追手が来たのか。それとも物盗りか。どちらでもなかった。薄汚い野犬だった。
「なんだ」
ホッとしたものつかの間、野犬は獣の目でリウヒを見据えながら唸っている。飛びかかりそうな体制で、獲物を狙うかのように距離を測っていた。
「や…」
周りを見渡しても、武器になりそうなものはない。恐怖のあまり後ずさると、野犬は調子に乗ったように牙を剥いた。その口から流れる涎がやけに目をつく。
わたしを食う気なのか、こいつは!
バネのように獣が飛びかかる、リウヒは思わず身を縮め、目をつむった。
その瞬間、痛々しい声が聞こえた。
目を開けると野犬が転がって悶えている。そこに彼方から石が飛んできて、再び犬の身体が跳ねた。
「おい、大丈夫か!」
橙色の頭をした男が、草木をかき分けながらやってきた。そして痙攣している野犬を思い切り蹴り上げた。犬はギャンと鳴いて動かなくなってしまった。
「あ…」
木にしがみ付いていたリウヒは、そのままズルズルとへたり込んだ。
「勝手にチョロチョロすんじゃねえよ。頭領にばれたら、おれたちだってタダじゃおかないんだぞ」
ああ、駄目だ。見つかってしまった。悔しさのあまり、涙が出てくる。
睨みつけるように見上げると、男はため息をついて手を差し伸べた。
「いくぞ。ほら」
首をふって拒む。男は舌打ちをすると、無理やりリウヒを抱き上げた。
「離せ、離せったら…痛!」
捻った足首が熱を帯びたように痛む。
「何だよ、足、捻ったのか。後で手当てしてやるから…。ああ、もう暴れるなよ。骨が折れているかもしれないんだぞ」
突っぱねようとしても、どれだけ暴れてみても、男の手は緩まない。早くこの腕から逃れて遠くへ行かないと、兄に知られたら…。
「逃げたこと、頭領には内緒にしておくから。おれたちと帰った時に、捻ったって言えばいいさ」
リウヒの心を読んだように声がした。顔を上げると、橙頭は笑った。
「おれ、キジ。お前の名前はリウヒっていうんだろ」
なんだろう、この男。どこかで見たことがある、知っている顔だ。好意さえ寄せていた。どこか、昔に…。
「キジ!」
駆けるような足音がして、クロエがやってきた。
****
足首に木板を当てて固定し、濡れた布を当てると、チビは痛むのか僅かに顔を歪めた。
「しばらく冷やしておけ。逃げるんじゃねえぞ、無理すると変形する可能性だってあるんだからな」
一軒家の客室で、寝台に座ったリウヒは不貞腐れたように、ゴニョゴニョと何かを呟いた。
「何だよ」
「…ありがとうといった」
そのままプイと横を向いた。
礼を言う態度かよ、それが。こっちはアイカちゃんとの蜜月時間をうっちゃってまで探し回り、野犬に襲われていた所を助けてやったというのに。
「わたしがお傍についていますから」
気取ったようなクロエの言は、「いらない」呆気なく一蹴された。
可愛くねえチビだな。さすが王さまだぜ。
「お前たち、下がってよい。一人にしてくれ」
偉そうな言い方にむっとしたものの、心ふんだんに残ってそうなクロエを引きずって部屋を出る。
「なんであんなチビでガリガリの小娘に惚れるんだよ。おれはさっぱり分からねえ」
大部屋で約束の酒二本を、ほとんど自棄飲みしながらキジが文句を言った。
性格は可愛くないし、不思議でならない。頭領にしろ、クロエにしろ。
女は、もっとプリッとしていて年上に限る。細い女なんて、骨が痛いだけじゃないか。
「おれも不思議なんだ。もしかしたら、前世で繋がっていたのかもしれない」
うっとりと語る親友に、ケッと鼻を鳴らす。
ティエンランの人間のこういう所が、キジは嫌いだった。前世だろうが、現世だろうが、来世だろうが、生きるのは本人ではないか。運命なんて勝手に決められてたまるかと思う。
魂が何度もグルグルと転生するなんて、所詮は苦行ではないか。
死んだら魂は西の果てへゆくそうだ。先に死んだ自分と深く関係のあった人の魂が、待ってくれているという。胡散臭い。第一、そんな事誰が言い始めた?死んで生き返った人間でもいるのか?
どちらにしても、宗教の話は相容れないことを、今までの経験上分かっている。
「ちょっと厠にいってくる」
「おう」
が、クロエは中々帰ってこない。まさかと思って客室を覗いてみると、眠るリウヒの髪を愛おしそうに梳いていた。さらに口づけまでしようとする黒い頭をはたいて、大部屋に連行した。
「馬鹿か。お前は」
****
アナンが目を覚ますと、前に汚い女の寝顔があった。驚き飛び起きると、激しい頭痛がする。寝台から降りて、ふらふらと歩きだす。気が付けば、自分も寝台の女も全裸だった。いそいで衣をまとい、宿を出た。
妹はどこだ。どこへいった。
昨夜の記憶がほとんどない。あれしきの酒で、記憶が飛ぶなんて。
まさか、自分がいない間に誰かに抱かれていたのでは、記憶がない間に逃げたのではと思うと、足がすくむほど恐怖だった。
なぜ、妹とはいえ娘一人にこんなに執着するのか、自分でも分からない。狂っていてもいい、あの家にいてさえくれれば。無事でさえいてくれれば。
駆けるようにして、いや、ほとんど駆けながら一軒家へ急いだ。途中、部下たちがアナンに気が付き声をかけたが、応える余裕すらなかった。
リウヒは、客室に寝ていた。きちんと衣をきて、すやすやと。何故か足に木板が巻き付かれている。思わずその場に座り込み、安堵の深いため息をついた。
音に反応して妹が目を開けた。
「兄さま」
身を回転させてこちらを見た。寝ぼけたように目をこすっている。
「おはよう。昨日は宿に泊っていたの?」
頭痛も吹き飛んだ。リウヒの手を取って口を付ける。
「どこにも行かないと言ってくれ」
手を引き寄せるとリウヒが倒れこんできた。その体を抱きしめる。
「ずっとわたしの傍にいると」
「兄さまは、変なことを言う」
笑いを含んだ声がした。
「そんな女の人の匂いをプンプンさせて」
「違うんだ、これは、その」
アナンは生まれて初めて、言い訳をいうものを必死で行った。
****
なんだかんだと一生懸命、兄が紡いでいる言葉を右から左に通過させながら、リウヒは昨日見た夢を反芻していた。
シラギが迎えに来てくれた。自分は何故か船に一人で、海賊たちは誰もいなかった。
さあ、いこう。みなが待っている。
うん。はやく会いたい。あの愛おしい人たちに。
スザクの宿に入るとみんながいた。キャラがもうどこ行ってたの、と腰に手をあてて口を尖らせ、マイムが仕事があるんだから、早く手伝いなさいと刺繍用の針と糸を持ってきた。
カグラはその後ろで、もう刺繍は勘弁と酒を飲んでいて、カガミは横でつまみを食べながら笑っている。トモキはカガミに食べすぎですよと注意をして、リウヒにおかえりなさい、遅かったですね、心配していたんですよ。と柔らかく睨みつけた。
シラギはひっそりと笑っている。
ごめんね、遅くなって。ただいま。
リウヒがそう言うと、みんなが笑って早くおいでという風に腕を伸ばす。
ああ、わたしの居場所。光に包まれて、温かい空気の流れるわたしの大切な居場所。
夢ならば、このまま覚めなければ良かったのに。
ずっと夢の中で暮らせればいいのに、と切実に思った。
****
アナンは窓の外を見ながら思案していた。これから西の賊と取引がある。しかし、妹を一人にさせておくわけにはいかない。酒場の女はリウヒと合わない。部下たちは危険な者だらけだ。
ああ、そうだ。キジなら安全だ。あの男の好む女はなぜか、みな一様に太っていて、年上だった。部屋の外にいる男の一人に、キジを呼ぶよう言ってから妹に向き直る。
「これからわたしは、用があって出かけるが」
寝台に腰かけて、その顔を慈しむように撫でる。
「一人、話し相手をよこすからね」
「ほっておいてくれていいのに。兄さま」
「心配なんだよ」
深く口付ける。
「すんません、呼びました?」
キジが来た。
「この子の話し相手をしてくれないか。君にしか頼むことができなくてね」
驚いたような三白眼を見つめながら笑顔で言う。
「だが万一、妹に手を出したら」
橙色の頭を引き寄せて、
「殺すぞ」
低い声をだした。キジの肩が、びくりと跳ね上がる。
「じゃあ、いってくるよ」
リウヒに口づける。何度も、何度も。今生の別れのようだった。
離しがたい兄に、妹は小さく笑うと身を引く。
「いってらっしゃい、兄さま。気を付けて」
アナンはやっと離れた。
「頼む」
とキジに一言告げると部屋から出て行った。
****
キジは目のやり場に困って頭をかいていたが、リウヒと二人きりになってさらに困った。
可愛げのないチビでも、一応は王さまだった。それ相当の言葉使いがあるだろう。
「えーと、そのー。本日はお日柄もよくー」
そこで終わってしまった。
目を泳がせて、進退極まったように頭をガリガリかく。
リウヒが小さく笑った。
「いつもどおりの話し方でよい。悪かったな、昨日は。足は大分マシになった」
「それはよかった。どれ、見せてみろ」
布を取りながら、チビの足は、やっぱり小さいものなんだなと思った。まるで子供のようだ。足首は痣があるものの、腫れは幾分引いていた。ゆっくりと曲げる。
「痛いか」
「痛…。あ、でも昨日ほどじゃない」
「そうか」
再び木板に布を巻きつきながら、勝手に動かすんじゃねえぞと念を押した。リウヒは黙って頷いただけだった。
「まさか、お前のお守り役を押し付けられるとは思わなかったよ」
冗談めかして言うと、チビは小さく笑った。
「心配性だから。兄さまは」
違う。頭領は話し相手といったが、大方、この少女が逃げ出さないように、と、他の男たちが手を出さないように見はれという意味なのだろう。彼らがそうするはずないのに。唯一人、クロエを除いて。
「あの」
目をあげるとリウヒが自分をじっと見つめていた。
「お前、どこかで会ったことないか。どこかで…昔…」
もしかして、おれは口説かれているのだろうか。
やめてくれ、頭領に殺される!
殺すぞ。ドスが効いた声が蘇って、キジは白目をむきそうになった。
「セイリュウヶ原で、おれ、ほとんど先頭を走っていたから…」
そうか、だからかな、と娘は首をかしげる。
そのまま沈黙が続いた。キジは話すこともなくなって
「昼、持ってくるから」
と部屋を出た。
****
小さな食堂にクロエがいた。
「どこ行ってたんだよ」
「譲ちゃんの子守りを押し付けられた」
「何でキジが」
こちらを睨む眼差しに、嫉妬が含まれている。勘弁してくれよ、もう。
キジがため息をついた時、仲間の一人が、声をかけてきた。そのまま横に座って、何故か小声で続ける。
「酒場で、とんだ噂をきいた。知っているか」
二人は首を振る。
「ティエンランが、嬢ちゃんに金をかけた。金三十」
「ええっ!」
藍色の髪、黒い瞳、十七歳の娘を探している。本人を連れてきた場合は金三十を出す。情報のみの場合はその信憑性によって金額が変わる。
「頭領は知ってんですか?」
「いや、多分まだ知らないだろう。おれも今聞いたところだ」
「金三十なんて、一生遊んで暮らせるじゃねえか…」
男は、違う仲間を見つけそのまま席を立って行った。
ティエンランは血眼になって国王を探している。リウヒが船に乗って約三か月。クズハまでこの噂が流れるなんて、相当なものだ。
「でも、帰してやらなきゃいけないよなぁ…」
王さまだもんなぁ。
「なんでいきなり、そんなこと言うんだよ」
「んー?うん…」
チビはチビながらに、宮に帰りたくて堪らないのだろう。右も左も分からない土地で逃げだすほどだ。蹴躓いて足を捻る辺りが鈍くさいが。
「嬢ちゃんに、昼持っていく」
腰を上げると、おれもいく、と目の前の親友も立ち上がった。
「くんな」
「なんでだよ」
「お前、今ちょっと面倒くさい」
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ティエンランシリーズ第二巻。
兄に浚われた国王リウヒと海賊の青年の恋物語。
どこかで見たことがある、知っている顔だ。好意さえ寄せていた。どこか、昔に…。
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