深夜、自室の戸が建物中に響き渡るような音で叩かれ慌てて扉を開ければ、黒づくめに色眼鏡をかけた大男に「ちょっとツラ貸せや」と外出届もないままに連れ出され、はたしてこれで命の危機を感じない人間などいるのだろうか。探偵小説を愛しているからといって、自らがそれに巻き込まれるのは御免被りたい、と、一歩半ぶん前を歩く坂口のひろい背中を眺めながら、江戸川はため息をついた。
冬の冷たい空気に星の光が美しい夜だ。ここに血しぶきのひとつでもあげてみせれば小説の一場面としては美しい光景になるかもしれないが、目の前をただ無口に歩く坂口がそんなことをするような人間でないのは、十二分にわかっている。
「それで、ワタクシどちらに連れていかれるので?」
ぷらぷらと歩くのに合わせて揺られていた手のひらを捕まえて、ぐいと引っ張る。外へ出てからいちども振り向かなかった顔がようやく見えた。と、思えば困惑一色で、
「言わなかったか?」
と言い放つものだから、普段からエンターテイナーを自称し、胡散臭かろうと笑みを絶やさない江戸川も呆れかえって二度目のため息をつくよりほかになかった。
「言われておりませんねえ」
「そりゃ悪かったな」
「あ、ちょっと」
こちらが捕まえたはずの手のひらをそのまま力強く握り返されて、そのまま街灯の少ない道をずんずんと歩いていく。
「坂口さん」
「コンビニだよコンビニ。なんか肉まん食いたくてさ」
「……それ、ワタクシを連れ出す必要ありました?」
「別にいいだろ。アンタだって行き詰ってたじゃねえか」
「む、」
痛い所をつつかれて思わず口ごもる。それから、自室に置き去りにしてきた原稿用紙のことを考えた。埋まらない升目に苛立ちと自己嫌悪ばかりを募らせていたのは事実なので、ここは素直に坂口に感謝しておいた方が良いのだろうが、いかんせん連れ出すまでのあれやこれやが頭をよぎってしまって感謝に踏み切れない。
「ほれ着いたぞ」
明かりといえば月ばかりで、あちこちに影のわだかまる道を歩いてきた二人の目には、建物そのものが発光しているようなコンビニの様子は少しばかり眩しすぎる。つよく握られたままの手をやんわりと離して、肩をならべて自動ドアをくぐった。入店を知らせる間抜けな電子音に返事をする声はなく、ごうん、とドアの開閉する音に迎え入れられた。
白くつるりと磨かれた床に蛍光灯、一面白で揃えられた清潔な店内に一瞬立ちすくんだ江戸川を置いて、坂口はずんずんと店内へ入り込んでいく。そうして迷いなく足を運んだ先は酒類コーナーである。食べたかったのは肉まんじゃないんですか、という江戸川の言葉は、どうせ坂口得意の屁理屈的な理屈でもって煙に巻かれるに決まっているので胸の内へしまい込んでしまった。
いつまでもひとり入口で立ち止まっている訳にはいかないから、仕方なく棚と棚の間に体を滑り込ませた。甘い香り、目に痛いほどの極彩色のパッケージの数々。菓子類を並べ立てた一角で折角なら何か買って帰ろうか、と考えてしまうのは甘党の性だ。自分が生きていたころより随分と種類が増えたものだから、つい迷ってしまう。
そうやって吟味しているうちに、いつの間にか棚の隅の方まで来てしまっていた。サテ、と悩んだ江戸川の目をひいたのは、棚の隅に鎮座している、小ぶりな菓子だ。色とりどりのラッピングは、どうやら味の違いを示すためのものらしい。可愛らしくて、しかもコレクター心をくすぐる。
そういえば。
執筆にかまけてすっかり失くしていた日付の感覚を、江戸川がこのタイミングで取り戻せたのは偶然だった。レジの向こう側にかけられた時計は、もうじき日付が変わることを知らせている。これにしよう、と二つ三つ手の上に乗せて、未だ酒類の棚の前であれやこれやと悩んでいる坂口を後目に、ひと箱の煙草と共に会計を済ませた。
心底やる気のないありがとうございましたァー、という声を背に自動ドアをくぐる。途端、突き刺す寒さに頬が痛んで、吐く息が白くぼお、と空気中に溶けた。坂口はまだレジに並んですらいないようだから、慌てて引っかけてきたコートから煙草を取り出し、火をつける。煙はしろく、細く、夜の空に吸い込まれるように高く高く上がっていく。
喫煙者に厳しい時代だが、コンビニには大抵灰皿が設置してある。それはここも例外ではなく、たっぷりと時間をかけて吸い終わった一本を、江戸川はぐいと灰皿に押し付けた。
「わり、待たせた」
ごうん、と自動ドアの開閉する低い音。ようやく会計を終えた坂口が、灰皿の脇に立った江戸川の隣に並んでがさがさと白い包みを剥がし始めた。
「何買ったんです?」
「ピザまん」
「肉まんではない」
「蒸しあがってないんだってよ」
世知辛いよなあァ、とわざとらしい嘆きを投げて、坂口はそのままはぐりと薄黄色の生地にかぶりついた。
「うめえ」
「それはよかったですね」
「なんか機嫌悪くね……?」
「なんで深夜に連れ出されて機嫌悪くならないと思ってるんですか」
「アンタいっつもニコニコしてるから」
「坂口サンの前では割と素直ですよ」
「おお……」
あぐ、と大き目にかぶりついたのは、照れ隠しか否か。丁度チーズの部分に当たったのか、あっちい、と騒ぎ出す坂口を横目に、江戸川はもう一本煙草を咥えた。前の生では随分と本数を減らしたこともあったが、今生では間違いなくヘビースモーカーの枠に入るだろうと自覚している。
「ごちそーさまでした」
三口ほどであっという間にピザまんを食べ終わった坂口が、ぱん、と手を払って、丸めた包み紙をゴミ箱に投げ込んだ。どこに引っかかることもなくいびつな丸が吸い込まれていくのは、流石の運動神経である。それからまだ火をつけたばかりの江戸川の煙草を一瞥して、右手に下げたビニール袋の中をがさごそとやり始めた。
「わあ」
「なんだよ」
ぱき、と軽い音を立てて開けたのは、いわゆるカップ酒だ。深夜のコンビニに屯し、カップ酒を飲み始めるでかい男と煙草を吸うまあまあでかい男。傍から見た時の絵面があまりにも悪すぎる。
「散々悩んでそれですか……」
「いーだろ。意外とうまいぞ」
「お酒はあまり得意ではないので」
いるか?と差し出された酒に遠慮しておきます、とお断りを述べてようやく、江戸川は自身のビニール袋の中身を思い出すに至った。時計を確認すると、日付が変わってから長針はいくつかその位置を動かしている。丁度良い頃合だ。
「坂口サン」
「なん、むぐ」
カップ酒から口を離した隙を見計らって、坂口のがら空きの口に包装を剥いだ菓子を突っ込む。見開いた目とは裏腹に素直に菓子を咀嚼する辺り、根は大変良い子である。
「なん、え、なんだこれ」
「チョコです」
「なんかもちみたいなの入ってんぞ」
「チョコです」
「えっ……香ばしい……きな粉か……?」
「ですから、チョコです」
きなこもち味の、と続けた声に、坂口は心底嫌そうな表情で返事をした。器用な芸当だ。
「何が楽しくてこれ選んだんだよ……」
「イエ、最初はごく普通のチョコレートにしようかと思ったのですが」
「じゃあそうしろよ」
「エンターテイナーの名が廃るかと」
「そんなんで廃るような名なら廃業しちまえ」
もご、と妙に歯に張り付くもちのようなものを舌で剥がして、なんとか嚥下する。まずい、まずくない、で言えばまずくはないのだが、不意打ちで口に突っ込まれた際の驚きが強すぎて、味にまでコメントをする余裕は無かった。
「あとカレーパン味としるこ味があるんですがどちらがよろしいですか?」
「どちらもよろしくねえよ」
「オヤつれない」
残り半分を切った酒で口の中に残る甘さを洗い流す。大体なんでチョコ。何の脈絡も、とそこまで考えた坂口ははた、と動きを止めた。背中を凝視しても、吸い終わった二本目の煙草を灰皿に押し付けている男は気が付きもしない。そうして、ようやく向き直ると同時に江戸川は思わず目を見開くことになった。
「どうかされましたか?」
「ア、ンタさあ」
頭を抱えた坂口が、カップ酒を地面に置いて、頭を抱えてうずくまっていた。頭痛でもするのかと思ったがそうではないらしい。その証拠に、坂口の顔も耳も、寒さだけではない何かに真っ赤に染まり切っている。
「はい」
ああこれはようやく気が付いたのか、とわざとらしくにこりと笑って続きを促す。
「もうちょっと、それっぽいの渡すとか、ねえの」
「ワタクシにとっても馴染みのないイベントでしたので、スッカリ忘れておりました」
「それでこれって、……もっとなんか、あるだろ」
「普通ではつまらないではないですか」
普段は見下ろされる側だからか、こうして坂口のつむじを眺めるのは中々楽しい。ふわふわとあちこちに跳ね回る元気のよい藍色の髪を、ついつい撫でまわしたくなってしまう。
「それで、坂口サン」
「なんだよ」
「カレーパン味としるこ味のどちらがよろしいですか」
「んぐ、」
いらねえ、とも言い切れずに奇妙な唸り声を上げる坂口は、江戸川の目にひどく愛らしく映る。ぶっきらぼうな態度をとって見せるくせに、いざ江戸川が執筆に行き詰っているとみるやさっさと外に連れ出して気分転換をさせ、こうして悪戯まじりの好意すら断り切れずにいる姿には、どうしたって愛しさばかりが募ってしまう。
「人に究極の選択迫っておいてのうのうと煙草に火ィ着けてんなよ」
「むむ」
殆ど無意識に火をつけた煙草が、笑みをかたどった唇にくわえられる前に攫われていく。
「これ吸ったら帰るか」
「人の煙草巻き上げておいてなんという言い草でしょう」
「まあまあ、ほら酒やるよ」
「ですからワタクシお酒は得意ではないので」
坂口が吐き出した煙が、いよいよ凍るように冷たい夜の空気に溶けていく。ほら、と差し出されたカップを丁重に押し返して、置いてきた原稿用紙に思いを馳せる。今夜はもう打ち止めだ。それに江戸川の隣に立つこの男は多分、そのまま部屋に押し掛ける予定でいる。
「よっし」
半ばまでしか吸われることのなかった煙草が、力任せに灰皿に押し付けられる。坂口はまだ三分の一は残っていたはずの酒を飲み干しぽいとカップを捨て、そのついでのような勢いで江戸川の手をとった。
「オヤ」
「なんだよ」
「いえいえ、手が寒かったので。ありがとうございます」
「手袋ぐらいしてこいよ」
「では今後は手袋着けるぐらいの暇をいただけると」
「あー、……善処するわ」
善処するというのは要するに体のいいお断りではないか、と思うのだがどうなのだろうか。なんにせよ次回があるならば、どちらにとっても喜ばしいことだ。
つなぐ、というほど明確でもなくただ指先をぼんやりと絡ませたまま、暗い道を二人、靴音を響かせながらゆっくりと歩く。手提げの部分を腕に通して吊り下げたビニール袋が、歩くたびにがさがさと鳴き声を上げる。
「新作出来たら読ませろよ」
「エエ勿論」
無言のまま指先の感覚だけを感じながら歩いていると、いつのまにか図書館近くまで帰ってきていた。すっかり電気の落とされた建物は、それでも夜の中に荘厳な雰囲気で構えているのがよくわかる。宿舎はここからだと建物の影に隠れて見えないが、恐らく談話室辺りはまだ明かりが灯っているのだろう。大抵の文士は宵っ張りだから、明かりを灯していないだけで起きて執筆に励んでいる者も居るはずだ。
「乱歩、」
「なんです?」
「アンタの部屋、邪魔してもいいか」
「どうぞ。深夜ですのでお静かにお願いいたします」
「そんな騒がしくしねえよ」
「あんな勢いで扉を叩いておいて、信憑性がありませんね」
「それはそれ」
二人とも、正面から入るのは気が引けたので、わざと裏を通って宿舎に入った。静まり返った廊下の中で、潜ませた靴音とビニールの擦れる音ばかりが耳につく。ちら、と江戸川が目線を落とした先、坂口の持つ袋に透けるパッケージは、菓子類の棚に並んでいたような気もするが、見ていないふりをするべきか否か。
「ふむ」
「なんだよ」
「……イエ、何でもありませんよ」
にっこりと微笑んだ顔は、きっと坂口の目にさぞかし胡散臭く映っているだろう。予想通り思い切りしかめられた顔に、なんだか鼻歌でも歌いだしたい気分になった。
「どうぞ、坂口サン」
「どーも」
手入れの行き届いた江戸川の自室の扉は音もたてずにするりと開く。ほんの少し扉を開いただけの隙間に二人の体が順番に滑り込み、それからゆっくりと閉じられた。がちゃん、と音を立てて鍵をかけて、それからあとはもう、誰にも知られることのない二人の時間だ。
二月の十四日、深夜零時三十二分の話である。
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※2019/02/13にPixivへ投稿した作品をTINAMIへ移行したものです
できてる二人の深夜の外出二月十四日編