年明けの慌ただしさも過ぎ去った国定図書館の敷地内。宿舎に住まうものが煮炊きを行うようにと設置された炊事場のガスコンロの前で、俺は鍋の中身をじっと睨みつけていた。
火にかけられた土鍋は買ってきてからそれほど経っていないが、中古のためかそれなりに使い込まれた気配がある。散々酒だ煙草だと使い込んでしまった懐は寂しく、新品には手が届かなかったのだ。
まだ具材は一つも入れていない。わざわざ水を張って、切れ端でない昆布を放り込んだところだ。本当は水につけてから煮出すのだとかなんとか小難しい手順があった気がするが、そういうのは丸ごと無視した。むしろいつもなら、闇鍋式に投げ入れた具材から出る旨味とも渋味ともつかない味を出汁と称しているのだから、今日はかなり手をかけている方だ。
じわじわ温めるのがよいと聞いたから、火は弱火だ。鍋の中に張られた水はまだうんともすんとも言わない。はやく沸騰してくれればいいのに、と考えだす面倒くさがりな自分と、一生このままうんともすんとも言わない鍋を覗きこみながら考え事をしていたい臆病な自分とが混ざり合って、水に映る自分の顔は随分と奇妙な表情をしていた。
そもそもなぜこんな風にして自分の部屋のカセットコンロでなく、宿舎共用の台所を使っているのか、もっと言えばわざわざ鍋のために出汁などとっているのかと言えば、それはひとえに江戸川乱歩のせいだった。
江戸川乱歩。探偵小説の大家で、変人で、常識人で、そしてなぜか、今生での俺の恋人である。
こいびと、というむず痒い言葉で関係をくくれるようになったのはそれなりに前のことだ。多分、俺がこの図書館に転生を果たして三ヶ月経つか経たないかだったように思う。初日から紆余曲折ありはしたものの、なんとか収まるところに収まり、それから今日にいたるまで、俺は一度たりとも乱歩といわゆる性的な接触というものをしていなかった。
言い訳をさせてもらえるのならば、彼に対してそういった気持ちを抱かないわけじゃあない。むしろ、なまじ若い体で転生したもんだからそれなりの頻度で何かこう、むらっとしたものは湧き上がってくる。
けれど、彼と夜、探偵小説談義なんかをして、抱きしめて、口付けたりなんかしているうちに満足してしまって、そのまま彼を部屋まで送り届けてさようなら、というのがいつものパターンだった。
それでよかったのだ。少なくとも、俺としては
それまずいんちゃう?とオダサクが言い出したのが、一週間前の、いつもの三人で集まってだらだらと鍋をつついているときだった。太宰はありえない無理安吾不能なの?と顔を青ざめさせていたので、酒の勢いに任せてしばいておいた。
「まずくはねえだろ。あ、鍋の話か?」
「いやまずいやろ。あと鍋もまずい」
「鍋に関しては俺も認める」
「なら食わすなや」
ばちん、といい音を立てて、オダサクが俺の額にデコピンを決めた。
「あいつだってなんか不満があるなら言ってくるだろ」
「そんなに性的魅力に欠けますかー、てぇ?言わへんやろ。ていうか、それ言わせたらあかんのとちゃう、男として」
「欠けてはねえよ、むしろ有り余ってる」
「知らんわ。ていうか有り余っとるなら手ェ出したらええやん」
「それは……駄目だろ」
「なにがあ」
なにが、と言われても、駄目なものは駄目なのだ。決して相手を神聖視しているわけではないけれど、綺麗なものに手を伸ばすのをためらってしまうのは、持って生まれた俺の性だ。心底から惚れている相手ともなれば尚の事。
「安吾からしてみたらまあ、だいたい満足してるかもしらんけど、それかて江戸川センセには伝えてへんのやろ?」
ずず、と行儀悪く音を立てて、ちょっと形容しがたいにおいを立てる汁を吸い込んオダサクが、うわまず、と眉をひそめた。
「ていうか俺にはぜんっぜん理解できないんだけど。なに?どういうこと?」
「あきらめた方がええで太宰クン。安吾はロマンチストなんや」
ロマンチスト!と太宰が腹を抱えてげらげらと笑いだしだ。どう見たって酔っ払いだ。腹立たしいことこの上ないが、とりあえず苛立ちごと温いビールを飲み干す。文士なんかみんな、大なり小なりロマンチストだろうが。というかお前なんかその筆頭だろうが。
「別にヒト様のお付き合いにどうこう言うつもりはないんやけど、」
「おう」
「やっぱりそこんとこ、話すくらいはしてもええと思うで」
「……おう」
オダサクの骨ばったほそい指が、斜め前からにゅっと伸びてくる。またデコピンでもされるのかと身構えた俺の予想を裏切って、その指はむにむにと眉間に寄ったしわを伸ばしてもとの場所へ戻っていった。随分お人よしに転生したなあ、とぼんやり眺めていれば、酒と熱気で潤んだ瞳がにっこりと弧を描く。眼福だ。太宰は相変わらず馬鹿笑いをしていたので、とりあえずもう一発しばいておいた。
そうして、そんな酒の席での一幕を経た俺は悶々と考えて、考えて、今日に至る。明日は非番で、それは乱歩も同じだ。いつもは明確な約束もないままにふらりと俺の部屋を訪れるけれど、今日に限ってはしっかりと約束をしたのだ。たまには酒でも飲まないかと。
いつの間にか目の前の水は湯に変わっていて、頼りない湯気をたてながらふつふつと泡立っていた。ゆっくり昆布を引き上げて、準備していた具材を投げ込む。順番は特に決めていない。なんとなく、触ってみて硬そうなやつから入れていけばおおよそ何とかなるものだ。
にんじん、白菜の芯のところ。こんなもんだろと思ったところでキノコやら、白菜の葉のところやら、本日のメインの鶏肉やらを入れる。味は適当にポン酢でも醤油でも垂らしてもらおう。出汁を取った意味があったのかどうかは考えない。
「坂口さん」
「おあっ、」
悶々と繰り返していた考え事の、その当人がいきなり背後に現れたのだから驚かないはずが無かった。普段はそうやらないほど機敏に振り向いてしまって、驚かせに来たはずの乱歩までもが目をぱちくりとさせていた。風呂上がりだからか、いつもの胡散臭い白装束ではなくこざっぱりとした浴衣姿だ。そういう格好で、そういう動きをされると、どうかすると自分より幼く見えてしまう。
「お部屋に向かったのですがもぬけの殻でしたので」
「ああ、鍋作ってた」
「ほほう、それは楽しみですねえ」
そわ、と興味津々に中を覗きこもうとするのを、蓋をして遮る。どこから見ていたのかは知らないが、一応、部屋に戻ってからのお楽しみという体である。大方火は通ったし、あとは温めがてら部屋でカセットコンロにかければいいだろう。
「ほら移動すんぞ」
「はい」
土鍋を持った俺の後をひょこひょことついてくる姿は、風呂上がりのいつもよりふわふわとした髪の毛も相まって、正直大変可愛らしい。喉元までせり上がってきた何とも言えぬ感情を飲み下すのに難儀しながら、人気の無い廊下をぺたぺた進んだ。
*
「しかしあれですね」
「どれだよ」
「覚悟していたんですが、意外と美味しかったです」
「そりゃどうも」
最後の一杯だ、とよそってやった器から、乱歩は白菜をもそもそと咀嚼している。別に小さくもない図体をしているくせにやけに小動物じみた食い方だ。鍋の方はすっかり空になっているけれど、二人で食べるには少し量が多かったかもしれない。
「食べるの初めてだったか?」
「はい、いつもは無頼派のお二方とばかりでしたので」
ことん、と小さな音を立てて器が置かれる。
「実は結構喜んでいるのですよ」
「なら、よかった」
ふ、と緩んだように微笑みかけられて勝手に笑みの形になりそうな口元を誤魔化すために、グラスに注いだ日本酒をぐいと呷る。ちらりと確認すれば、乱歩の方に注いだ酒はまだまだ残っていた。下戸だと言っていたから、加減して飲んでいるのだろう。警戒心無く酔ったところもいつかは見てみたいところだ。
「それで、」
「んー?」
「なにか話したいことでも?」
モノクル越しでない青い目が光った気がした。途端、そう気まずい話でもないのに妙に部屋の温度が下がったような気がする。真剣な態度を見せなければいけないかと、手に持ったグラスを置いて、それから乱歩に向き直った。
「何でそう思ったんだよ」
「改まって話がしたい、なんて言いだされたら、そりゃあ何かあるかと思うに決まってるじゃないですか」
「……確かに」
「それで、なんでしょう」
よいしょ、と爺臭い掛け声とともに、乱歩が姿勢を正す。長い足を折りたたんだ正座の姿勢は、文士らしからぬしゃんと伸びた背筋が美しい。
その美しさにつられてついつい俺まで正座になってしまったものだから、二人の間に横たわる空気はいよいよ深刻なものになってきた。
「ええとだな」
「はい」
「……五分くれるか?」
「五分でよいので?」
「じゃあ、十分」
「ちょっと言葉を省略しすぎましたね。ここ数日悩んでいた何事か、結局本日この時に至るまで全く言葉にならなかったのに、今ワタクシが五分や十分差し上げたところでどうにかなるのですか?」
「何で知ってんだあんた」
「わかりやすいんですよ、坂口さん」
にこ、と擬音がつきそうなほどきれいに、お手本のような首の角度でほほ笑む乱歩は自分の容姿が俺にもたらす効果をよく分かっている。俺にしか見せない顔、だなんて言えば聞こえはいいが、要するにさっさと喋れという圧力だ。
「別に、その、別れ話とかではないぞ」
「オヤ、そうなのですか。ワタクシてっきり」
「は?」
「ちょっとした冗談です」
ひとつため息をついて、とりあえず胸の中に積もった焦りを吐き出す。どうも今日は、完全に乱歩の手のひらで転がされているようだ。
「オダサクにな」
「はい」
「……いやなんていうか」
「なんですか」
「もうちょっと、話し合ったらどうだと」
「話し合う、とは」
「まあその、俺たちの付き合い方について?」
具体的には口に出さずとも、彼の方ではなんとなく察しがついたようだった。ああ、とひとつ頷いて、それからおもむろにまだ中身の入った器に手を伸ばした。短冊に切った人参を、器用に拾い上げて口の中へ運んでいく。咀嚼して、飲み込んで、グラスに注いだ日本酒を一口。
「それで、坂口さんはどうしたいんですか」
「いやどうしたいっていうか」
俺としては、別に今のままだって全然、一向にかまわないのだ。その先への興味が無いわけでは無いが、探偵小説談義をして、抱きしめて、口付けて。夜が深まったところで彼を部屋まで送り届けてさようならで、充分に満たされている。
「いまの、ままでいいんじゃねえかと思ってるけど」
「じゃあ良いのではないですか」
いっそ素っ気ないほどの返事。目線は、すっかり鍋の方へ奪われてしまっている。
次に乱歩の箸がつまみ上げたのは鶏肉だ。わずかに睨み付けるようにしてから、これも一口で食べてしまった。咀嚼して、飲み込んで、グラスに注いだ日本酒を一口。そこでようやく酒が無くなったので、手酌でグラスに注ぎ足していく。
「あんたはさあ、どうなんだよ」
アルコールに潤み始めた瞳が俺の声に反応して、一瞬だけこちらに向けられる。
「それを聞きますか」
「それが聞きたくてこうして向かい合ってるんだろ」
「まあ、そうですね」
人参、鶏肉と食べ進めた乱歩は、とうとう器を机の上に戻した。やっぱり二人分にしては量が多かったらしい。普段は三人前からしか作らないので、どうしたって感覚は狂う。
「ワタクシもですね、まあどちらでもいいとは思うのですよ」
「おお、」
「ただ、まあ」
興味が無いと言えば、嘘にはなります。
そう続けられた言葉に、ついつい俺は正座のまま前のめりになってしまった。
「まあ、何と申しましょうか」
「おう」
「坂口さんがしたい、と一言仰って下されば、やぶさかではない、と申しますか」
じわ、じわ、と向かい合った白い顔が、ほの赤く染まっていく。酒のせいでも、鍋の熱気のせいでもない、羞恥の色だ。つられるようにして、俺の顔もだんだんと火照っていく。正座のままで上体だけを前のめりにした妙な恰好のまま、いつのまにか膝の上で力いっぱい握りしめていた手を恐る恐る乱歩の頬へ伸ばした。
もう少し、あとほんの数ミリでも伸ばしたらそのやわらかな輪郭線に触れられるという、その瞬間。乱歩は急にふい、と顔を背けてしまった。
「でも、まあ、坂口さんが興味が無いと仰るのなら、話は別です」
「いや無いとは言ってねえだろ」
「でも今のままでいいのでしょう?」
「ぐ、」
それも確かに、本音だ。本音ではあるのだが。
「……仕方ねえだろ。あんたと、どうにかなるなんて、想像もしてなかったんだから」
言い訳じみていることは承知の上だが、そもそもこうして生まれ変わる前の生では干支一回り程も上の大作家だったのだ。どうにかなろうと考えることすらおこがましい。その大作家に対してやらかした諸々は都合よく忘れたことにしておくにしても、だ。
けれど、今目の前でこうして、期待していますと言わんばかりの態度を取られてみればどうだ。頭の中は、もうそのことばかりがぐるぐると巡ってしまって、これでは思春期真っ只中の男子諸君の方がまだましかもしれない。
「想像、ねェ」
とん、と乱歩の白くて長い指が、自身の顎のあたりに添えられる。考えています、というポーズだ。こんな時までいちいち芝居がかった動作がでてくるあたりすっかり道化が染みついているらしくて、それが妙に腹立たしい。腹立たしいから、手元にあったグラスをぐいと傾けた。
「じゃあまあとりあえず」
考えています、というポーズを止めた乱歩が、すっかり冷めてしまった器を手に取った。
「ちょっとずつ、試してみますか」
「ちょっとずつ」
「そうしたらまあ、どうなりたいのか分かるのではないですか」
行儀よくひらいた口の中に、白菜の切れ端が消えていく。咀嚼して、飲み込んで、グラスに注いだ日本酒を一口。
「坂口さん、」
「おう」
「人が食べるところばかり見てないで、ご自分のものを減らす努力をしてください」
ちらと視線を送られたのは、大盛に盛られた鍋の最後の一杯だ。そういえば、考え事に夢中で一口だって手をつけてなかったことに、俺はこの時ようやく思い至った。
「量が多いんですよ」
「次は気を付ける」
「……エエ、そうですね。次は、もう少し少なめにお願いいたします」
それきり黙り込んで、二人して目の前の肉やら野菜やらを消費する作業に戻った。乱歩はもうすっかり腹がいっぱいになってしまったのか、大層難しい顔をしなが、どこか小動物じみた食い方で少しずつ器の中身を減らしている。
俺はといえばすっかりその気にさせられて、ちょっとずつ試していくというのは今日この後からということだろうか、とそんなことばかりを悶々と頭の中でこねくり回していた。名プロデューサーたる大乱歩は、こんなところまでやる気を出させるのがうまいらしい。もしくは、俺が調子に乗りやすいだけか。
兎にも角にも、目の前の器を空にしない事には始まらないのだ。わざわざ出汁を取ったこともすっかりと忘れ、ろくに味わいもせずに流し込むように器を傾ける。
全く、綺麗なものに手を伸ばすのはためらわれるとか何とか屁理屈を抜かしていた過去の自分をぶん殴ってやりたい。今は、冷めてしまった鍋よりもかすかに赤く染まったあの白い耳の方が、はるかに美味そうに見えている。
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※2019/01/16にPixivへ投稿した作品をTINAMIへ移行したものです
安乱