知識欲は湧いて出るものである。
どんなにない様に見える人でも知識欲は湧くのである。
知識欲は財産だからである。どんな人にも財産はある。それが活字であった場合である。
知識とは、活字であり、情報である。政治の事、宗教の事。色々な事を知りたがるものなのである。
人間は知識欲ゆえに、本を読む。
本は色々なものをくれる。たとえば、ファンタジー、たとえば、ミステリー。色々な知識が飛び交っている中で、聖書は極上のものである。
聖書は色々な神秘を内包している。たとえば、「神は私を母の胎の中にて組み立てられた。」である。
聖書はいいものだ。ヘブライ語は特に聖なる言語だけあって、落ち着くものである。
それで、知識欲とは、どんな人にも存在するのだが、学問が主な目標となるだろう。
他にもクイズ、ゲーム、漫画、小説等、知識欲を満たしてくれるものが数多くある。
それなので、知識欲はどんなにあっても足らないものなのである。
ある意味で、「少年老い易く学成り難し」を素でいってしまうのが、知識欲の有限性の欠点と言える。
知識欲は有限であり、成り立たせる為には、どんなに本を読んでも足らないぐらいである。
知識欲とは、成り立たせるものなのである。
知識欲が立たなければ、人間そのもの、キャラクターは立ち得ないのである。
いくら知識欲を満たしても、足りない部分があるのである。
知識欲はいくらあっても足らないし、立たなければならないのである。
要するに、知識欲が立つというのは、自分自身の神を立たせるという事である。
命令ではない。自然の成り行きで、自分自身の神を立たせるものである。
知識欲、やはり、これが立たなければ、己の願望を満たせないものなのである。
キャラクターも立たせ、知識欲も立たせる。
小説執筆というものは、難しいという事である。
エッセイ等は、知識欲を満たしながらも、自分で自分を納得させる小説なのである。
つまり、人間が人間である為に、知識を取り入れながら、自分を助くのは、自分であると表明するのである。
食べるという事、飲むという事は、知識欲の塊(かたまり)である。
見る。知識欲である。
食べる/飲む。知識欲である。
つまり、味わう。知識欲である。
という訳で、食とは、知識欲の連鎖なのである。
という事で、人間の知識欲は果てしない。ただし、有限ではあるが、数え切れるものでもないのである。
「天の星を見てみよ。あなたは数え切れるだろうか。あなたの子孫はこの様になる。」
アブラハムに告げられた言葉の様に、数々の知識欲に囲われて、私達は生きているのである。
見よ。自分の心を。これが知識欲である。知ったという事実を楽しむ事が知識欲そのものなのである。
それに満足して、やっと、知識欲が満たされたのである。
知識欲は果てしないが有限である。無限の存在ではないのである。
その点において、神なる愛は無限である。つまり、知識欲をも内包するものが愛なのであるから、それは無限なのである。有限を無限が内包する。それが心の基本形なのである。
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人間は本を読む。なぜなら知識欲があるからだ。それは、人間の中に湧いて出た宝なのである。それを売って知識(金)を得る事が出来る。