まず、律法を正しく理解する事。
律法を正しく理解し、それなりに現実に通じている事を納得する事。
次に、律法をまとめる理解力を手に入れる事。
律法をまとめ上げ、モーセ十戒とその他の律法を了承し、まずは、頭の中でまとめると良い。
つまり、人間社会において、言行に貫通する能力を律法は有しているのである。
結局は、言行は人間本意なのだから、それをも超越する事。
これが律法である。
キリスト者の極意として、福音も挙げられる。
「人にしてもらいたい事を何でも人にしなさい。」
黄金律や。
「「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」としなさい。それ以上出る事は悪からのものである。」
ただ、「はい」からそれ以上の問答をせず、「はい」は「はい」として、「いいえ」から言い訳せず、「いいえ」は「いいえ」とする。それがキリスト者の極意と言える。
つまりは、人間から出るものはすべて、善から出るもの悪から出るものと定められているのである。
そこで指標として、それ未満の言葉は「はい、主よ。」等イエスが肯定的な人物から出ているのだから、それはそれとして、善なる者から出ている訳である。
だから、「はい、分かりました。」等、日本語として完成しているものは無理に抑えなくても良い。
それはそれ未満なのだから。
だから、こう言いなさい。
「はい、私がそうです。」
「いいえ、私は違います。」
という風に。
キリスト者の極意とは、心がけである。
つまりは、人間本意として、善なる者になる為に、使うべきもの、律法・福音を使うべき所で使うべきなのである。
人間は自己を本意としているのだから、やはり、律法で律し、福音で補うべきである。
だからこそ、律法書(トーラー)と福音書があるのである。
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キリスト者に必要なものをサラッと書いていく。