「中野センセ、何読んではるんですか?」
休日の午後、重治が談話室で原稿用紙をめくっていると、織田が声をかけてきた。
「ああ、これは犀さんの原稿だよ」
「犀星先生の!」
大きな声を出した織田は、すぐにハッとして口をおさえた。
「すみません、大きな声出して」
「全然かまわないよ」
鷹揚に答えて、重治は原稿を織田のほうへ差し出した。
「君も読んでみるかい?」
「え!!」
織田は一瞬手を出しかけたが、すぐ引っ込めて、
「いや、勝手に読むわけにはいかんから」
と言った。
「犀さんは気にしないと思うけど」
「いや、そういう訳にはいきません。わしのことは気にせんでください」
織田はそう言うと、コーヒー片手に斜め前のソファに座って新聞を読みはじめた。が、ちらちらと重治の方を見ている。思わず重治は苦笑した。
「犀さんに、織田君にも原稿を見せていいか、聞いてこようか?」
「いや! そんな!」
織田は慌てて手を振った。
「ただちょっとだけ気になって。その、その原稿って、詩ですよね? 小説じゃなくて」
と聞いてきたのは、この詩が散文詩だったので、遠目では判断がつかなかったのだろう。
「ああ、詩だよ」
重治が答えると、作之助は少し落胆したように見えた。
「織田君は犀さんの小説のほうが好きなのかい?」
「いや、犀星先生の詩も好きですよ。ただ、先生はもう、小説は書かはれへんのやろか」
「うーん、どうだろうな。別に小説を書きたくないということもなさそうだけど。織田君は、犀さんの小説、どんなものを読んだんだい?」
「えっと……、ほとんど全部」
「全部!?」
重治は驚いた。
「でも、君。この図書館に来るまで読んだことのなかった犀さんの小説もたくさんあったでしょう?」
織田はずいぶん早くに亡くなったので、彼の死後発表された犀星の作品も数多い。それをこの短期間で全部読んだというのだろうか。
「図書館にある分は全部読みました」
「……へえ! それは本当にほとんど全部だね」
重治は、この図書館内で一番犀星作品に詳しいという自信があった。早世した堀は犀星の晩年の作品を知らないし、朔太郎は犀星の小説について語ることがないからだ。しかしこれは、うかうかしていたらその地位も危ういかもしれない。
「君は本当に犀さんが好きなんだね」
「いえ、そんな……わしなんか全然、」
重治のことばに織田はひどく恐縮した。彼は犀星の話になるといつもこうだった。織田が犀星を好きなのは間違いないのに、彼は常に犀星と距離を置こうとする。
「織田君は、どうして犀さんとあまり話さないんだい?」
「先生はわしのことお嫌いでしょう。先生には……、最初の挨拶で失敗してしもうたから」
そう言って織田は、はじめて犀星に会った日のことを語りはじめた。
室生犀星がこの図書館に転生したとき、織田はうれしいと同時に、不安に駆られた。
室生犀星は、織田にとって特別な作家である。犀星の市井の生活を赤裸々に書いた作品を織田は愛していたし、何よりも室生犀星はいち早く小説家「織田作之助」を認めてくれた人だ。当時、東京の文壇にほとんど認められていなかった織田の作品を高く評価し、芥川賞の選考委員の中でただ一人、強く賞に推してくれた人。
犀星先生に、嫌われたらどないしよう。
それが織田の心配事だった。犀星はきっと、織田のような自堕落な人間は嫌いだろうと思う。
「でも、これから同じ図書館で暮らすわけやし、挨拶はしとかなあかんからな」
それこそ挨拶もしない礼儀知らずとして、嫌われてしまうかもしれない。今日はとりあえず挨拶して、できれば顔と名前を覚えてもらう。いかに嫌われずに付き合っていくかは、これからゆっくり考えればいい。
犀星が食事に行ったと聞いて、織田は食堂の前まで来た。大きく深呼吸。大丈夫。とりあえず今日は挨拶するだけや。当たり前のことや。いやな顔をされたりはしないはずだ。大丈夫。大丈夫。
意を決して、織田は食堂に足を踏み入れた。
食堂には犀星と重治がいた。二人はまだ織田には気づかず、カニクリームコロッケを食べながら北陸の蟹談義に花を咲かせている。犀星は織田に背を向けていた。
それは随分小さな背中に見えた。腕も細く、華奢にも見えるが、大きく張り出した肩が彼の肉体の力強さを物語っていた。織田が犀星の後ろ姿を観察しながらゆっくりと近づいていくと、重治が気付いて、「織田君」と声を掛けてきた。
「紹介するよ。こちら室生犀星先生。犀さん、こちらは織田作之助さん。大正生まれの小説家ですよ」
重治は犀星が「織田作之助」を知らない前提で紹介した。つまり生前、犀星と重治の間で「織田作之助」について話題にのぼったことはないということだ。とても親しい師弟の間で話題にものぼらないということは、犀星にとって「織田作之助」がとりたてて記憶に残るような特別な小説家ではなかったということだろう。織田はほんの少しだけ落胆した。
(でもまあ、そらそうやろな)
犀星は織田の作品を芥川賞に推薦してくれた。織田と犀星の接点は唯一この点だけ。織田が死んだ後も、犀星は長く芥川賞の選考委員をしていたらしい。数多あった候補作の一つ、しかも受賞を逃した作品の作者のことなんて覚えてはいないだろう。織田にとって犀星がどんなに特別でも、向こうからしたら織田は完全な他人だ。
「やあ、織田君、はじめまして。俺は室生犀星だ」
犀星は立ち上がって織田のほうを向いた。思っていたよりも犀星が小柄だったので織田は驚いた。驚いたのはそれだけじゃない。
「先生。えらいお若いですね」
まろやかな輪郭に大きな瞳を持つ犀星の顔はずいぶんあどけなく、どう見ても少年にしか見えなかった。思わず口にしたその織田の言葉に、犀星はむっとした。
「言っておくけど、これでも成人しているからな!」
「まあ、犀さん。いいじゃないですか若く見えるんだから」
重治が笑いながらとりなしてくれて、織田も慌てた。
「すんません先生。あんまりお顔がかわいらしかったから」
言ってから織田はしまったと思った。しかし言葉は取り消せない。犀星は気分を害したのを隠そうともせず、むっと黙り込んでしまった。
「そうだ、犀さん。庭を見に行きましょう。なかなか立派な庭があるんですよ」
「……ああ、そうだな。じゃあ、失礼するよ、織田くん」
重治に誘われて、犀星は庭に出てしまった。
最悪や。
織田は落ち込んだ。ずっと憧れていた室生犀星にやっと会えたというのに、いきなり悪い印象を与えてしまった。
「それだけ!? たったそれだけで犀さんが君のこと嫌いになったと思ったの?」
織田の話を聞いて、重治はあきれてしまった。
「そやけど、先生怒ってはったでしょう?」
「怒ってたかなあ? ちょっと不機嫌になっただけでしょう。たぶんもうなんとも思ってないよ」
重治がそう言っても織田は納得できないようだった。
まあ、しかし織田の気持ちも全く分からないわけでもない。年若い織田からすれば、犀星は文壇の重鎮で、怖いもの知らずの学生時代に気軽に押しかけて弟子になった自分とは受け止め方が違うのだろう。難儀なものだな、と重治は思った。
「シゲは織田君と仲がいいんだな」
次の日、犀星の部屋でお茶を飲んでいたら、突然犀星がそんなことを言い出したので、重治は驚いた。
「……そうですね。まぁ仲はいいほうだと思いますけど」
「織田君は、また小説を書いているんだろう。シゲは読んだかい」
「いや、そこまでは」
「そうか。今はどんなものを書いているんだろうな」
そう言った犀星は柔らかい笑みを浮かべていて、とても織田作之助が嫌いな人間には見えなかった。この表情で織田君に話しかけてあげればいいのに。
「気になるなら、読ませてくれって本人に言えばいいじゃないですか」
重治がそう言うと、犀星は眉根を寄せた。
「そんなこと言ったら、変に思われるだろ」
何が? と思ったが、さすがに師にそのまま言うのは憚られた。
「犀さんは何で織田君にあまり話しかけないんですか?」
そう、犀星もこうやって本人のいないところでは頻繁に織田の話をするが、織田とは距離を置いているように見えた。
「彼は俺みたいな古臭い人間は嫌いだろう」
「どこが?」
今度は声に出てしまった。
「織田君、犀さんに話しかけれらたら喜ぶと思いますけど」
まったく、シゲは分かってないな、と犀星は腰に手を当ててため息をついた。
「シゲには若い人の気持ちが分からないんだよ」
さっき「自分は古臭い人間だ」と語った男に年寄り扱いされて、重治はどうにも納得できなかった。
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室織が、図書館で出会って、ちょっとずつ距離を縮めていく様子を書きたかったのですが、息切れしたのでまだ途中ですが上げます。HPが貯まったら続きを上げます。まだ距離は全然縮まっていない。
pixivにも同じものを投稿しています。