「安吾~~!」
ノックもせずに勢いよくドアを開けた太宰は、床に散乱した本につまづきながら安吾の横まで来ると、
「ほんと信じらんない! 聞いてよ!」
と半泣きで訴えた。
「あー、どうした? また中也にでもいじめられたか」
「違う! オダサクが!!」
興奮して要領を得ない太宰の話をまとめればこうだった。
織田作之助は一週間ほど前、高熱を出して倒れた。過労で風邪をこじらせたのだが、もともと体が弱いこともあり、なかなか回復しなかった。太宰は心配でたまらず、一日二回見舞いに通った。その甲斐あって、やっと織田の高熱は下がり、今日太宰が見舞いに行くと織田はベッドの上に起き上がって本を読んでいた。
「起きてて大丈夫なのかオダサク」
太宰が聞くと、
「もう全然大丈夫やで。そう言うてるのに、先生が外出させてくれへんねん」
と織田は不満げに答えた。この先生というのは織田の恋人、室生犀星のことである。犀星は織田が倒れてから、ほぼ付きっきりで看病していたが、たまたまこの時は席をはずしていた。
「太宰くん、煙草くれへん? もう一週間も吸ってへん」
そう言った織田は病気とは違った意味で辛そうだった。太宰は大いに同情した。同時にうれしくも思った。倒れた直後の織田は煙草はおろか、おかゆすら喉を通らなかったのに、煙草が喫みたくなるまで回復したのだ。
太宰はとりあえず持っていた煙草の箱を織田に渡した。五本ほどしか入っていなかった。
「すぐ買ってきてやるからな。とりあえずそれ吸ってろよ」
「太宰くん、おおきに!」
織田が喜んで煙草に火をつけたのを見てから、太宰は売店に走った。
数分後、太宰が煙草のカートンを抱えて織田の部屋まで戻ると、扉の前には仁王立ちした室生犀星がいた。
「君、病人に煙草を与えるなんてどういうつもりだい」
怒気を放つ室生に圧倒されて、太宰はどもりながら答えた。
「ど、どういうって……、オダサクが煙草喫みたいって言うから」
「織田君は医者に煙草を止められている。勝手なことをされては困る」
威圧的にそう言い放った室生に、太宰は腹を立てた。勝手なこととは何事か。織田と太宰は分かちがたい盟友であり、太宰が織田にすることを室生にとやかく言われる筋合いはない。そもそもこの男は、いったい何の権利があって織田の喫煙したいという自由意志を妨げるのか。許しがたい。
許しがたいと思ったが、反論は太宰の喉に詰まって出てこなかった。なぜならこの室生犀星という男、背丈こそ低いが腕力は強いのである。意外と短気ですぐ手が出るという噂も聞いたことがあった。
太宰は怖かった、とは言わなかった。ただ「仲間内で喧嘩になったら問題だし」と言い訳した。要するに太宰はこの時点で萎縮したのである。
「ともかく君は、織田君が完治するまでもう来ないでくれ」
室生はそう言って、自分だけ織田の部屋に入るとドアの鍵を閉めた。
太宰は激怒した。必ず、この邪智暴虐の「人士」を除かなければならぬと決意した。しかし反論すら喉に詰まるほどなので、直接対決しても勝ち目はない。そこで、太宰はジャーナリズムの力に訴えることを思いついたのである。田山花袋であれば、病床の友人から遠ざけられる太宰の心痛を理解し、室生の横暴を弾劾してくれるはずだ。 そこで、今から田山にこれを記事にしてくれるよう頼みに行くので、安吾も一緒に来て、室生の横暴を訴えてほしい。これがだいたいの太宰の話だった。
安吾は途中何度か口を挟みたくなったが、面白かったので最後まで黙って聞いていた。そして最後に言った。
「太宰、お前は馬鹿だ」
まず、室生にとやかく言われる筋合いはないと思ったのなら、相手が何と言おうと従うべきではなかったし、さらに自分の喧嘩に関係のない田山を巻き込もうとするのは愚の骨頂である。
「ま、お前はそういう馬鹿なヤツだよ」
と言ってふと見ると、太宰は泣いていた。
「ひどい。安吾はひどい奴だ」
「当たり前のことを言っただけだろ。室生さんが怖いんなら、室生さんがいない時にオダサクの見舞いに行けばいいじゃねえか。新聞なんかに書いて大事になったら、後悔するのは結局お前の方だぞ」
「安吾はなーんも分かってない! これはそういう問題じゃないの!」
「要はお前が室生さんにビビってるだけだろ? 今から俺はオダサクの見舞いに行ってくるぞ。お前も一緒に来るか?」
そう誘ったのは安吾なりの優しさだったのだが、太宰はごにょごにょ言って、結局ついてこなかった。
意気地のない奴め。安吾はまず三好の部屋へ行き、朔太郎の動向を聞き出した。室生はほとんどつきっきりで織田を看病していたが、それでも毎日数時間は朔太郎のために割いていた。今日は二人でオムライスのおいしい店へ行くらしい。安吾はちょうど二人が出かける時間帯を狙って織田の部屋へ行った。
ノックをして、返事を待たずに扉を開けると、ビクッと震えて織田が振り返った。織田は机の前に座り、手には万年筆を握っていた。
「なんや、安吾か。犀星先生かと思うて、びっくりしたわ」
「いや、びっくりしたのはこっちだぜ。あんた、何やってんだ。寝てなくていいのか?」
「もう、みんな大げさやねん。もう治った言うてるのに……」
ぶつぶつ言う織田の顔は疲労の色が濃く、本人が言うほど大丈夫そうには見えなかった。
「せやけど安吾、ちょうどええとこに来てくれたわ。煙草持ってへん? 今日太宰クンに貰てんけど、犀星先生に没収されてもうてん」
そう言うなり、織田は軽く咳き込んだ。
「咳き込みながら言うことがそれかよ」
安吾は苦笑した。
「煙草吸うと臭いつくからな。結局室生御大にバレて没収されるぞ。しかもあんたに煙草やると出禁になるし」
「出禁?」
不思議そうに織田が言ったので、太宰が出禁になったことを知らないのだと知れた。
「あんた、過保護にされてんだな」
「はあ? 何の話やねん?」
「いや、いいよ。俺もあんまり室生さんと揉めたくはないからな」
「え、なに? 先生がどうしたん?」
安吾は返事しなかった。
「もう、なんやねん」
拗ねたように言って、織田はまた机に向かった。
「ベッド抜け出してそんなことやってたら、過保護なセンセイに怒られるんじゃあないのかあ?」
安吾がふざけて織田の背中に体重を掛けると、織田の体は容易に傾いだ。
「そら怒られるけど、日がな一日ベッドにおるから暇で暇で。先生がおらん時しか書かれへんからこっちも必死やで」
「室生さんがいない時ってのはつまり、今みたいな時と室生さんが帰ったあとの深夜ってことか」
「……」
織田は一瞬黙った。
「おい、オダサク、お前まさか寝てないんじゃ……」
「大丈夫やって、昼間はずっとベッドで寝てるし。昼間寝て、夜起きてるだけや」
安吾のことばにかぶせるように織田は言い訳した。安吾は深くため息をついた。
「まあ、そんなこったろうと思ったよ。お前が大人しく養生してるわけがねえよな。全く、室生さんも苦労するなぁ」
「なにがやねん。苦労してんのはこっちやっちゅうねん。もう、安吾も煙草くれへんのやったら邪魔やし帰って!」
「おいおい、随分つれないじゃないか。せっかくいいもの持って来てやったのによぉ」
「いいもの?」
「どうせお前は無茶してるだろうと思ったし、止めたって言うこと聞きゃしないんだから、陣中見舞い持って来たんだよ」
そう言って安吾は革ジャンのポケットからアンプルを取り出した。
「元気の出るお薬だ」
どうせお前は書かなきゃいられないんだから、しんどい身体でだらだら書くより、疲労をポンッと取ってさっさと書き上げ、残りの時間でゆっくり養生すればいい。滔々と語る安吾の病気療養法を、織田は怪訝な顔をして聞いていたが、その陣中見舞いはありがたく受け取った。室生に見つかればややこしいことになるのは分かっていたので、キャビネットの引き出し奥に注意深くしまって鍵も掛けた。微熱からくるダルさがあったので、一本だけすぐ使用して、くず入れの奥に新聞紙にくるんで捨てた。しかし帰って来た室生はくず入れの中の大きな新聞紙のかたまりにすぐ目をつけ、使用済みアンプルを発見した。
その日のうちに安吾も出禁になった。
「織田君、今日は森さんに診てもらう日だぞ。そろそろ行こう」
室生に声を掛けられても、織田は枕に顔を埋めて、ぴくりとも動かなかった。
あの日以来、太宰も安吾も見舞いに来ない。最後の安吾との会話から、織田もさすがに気づいていた。この人、ワシが煙草や薬をねだった人間を、片っ端から出禁にしとるんや。
「まったく、何をすねてるんだい?」
優しく織田の肩を揺さぶって室生が問いかけると、織田は目線だけでそちらを向いた。
「先生、なんで誰も見舞いに来んようになったん?」
室生はちょっとまごついたが、何食わぬ顔で、
「何を言ってるんだい。今日だって徳田さんが見舞いに来たじゃないか」
と答えた。そう、徳田は見舞いに来てくれる。仲は良いが大先輩すぎて織田が煙草をねだれないからだ。
「先生。煙草吸いたい」
「ダメだって言われたろう? 治るまでは我慢しなさい」
もう何度も繰り返してきたやり取りを、また繰り返す。しかし今日の織田は諦めが悪かった。この人を攻略しなければ到底煙草は手に入らないということを理解したからだ。
「もう良うなったから煙草吸わしてください」
「朝熱を計ったら、まだ微熱だっただろう」
「あんなん、熱のうちに入らん。これくらい放っておいても直るけど、ワシは煙草吸わんと死んでしまうんや」
「ニコチン中毒で人は死なないそうだよ」
織田は絞りだすような声で言った。
「他の人は死なんでもワシは死ぬんや・・・・・・」
「全く大げさだな君は。治るまでの間だけだ、我慢しなさい。俺も禁煙したことがあるが、慣れればなんとかなるものだよ」
「そりゃ、先生は出来るか知りませんけど、先生とワシでは精神力が違う。先生が出来てもワシには出来ません」
「まったく、ああ言えばこう言う・・・・・・」
そんなに煙草が吸いたいかと、室生は呆れた。
「この話は終わりだ。ほら、補修室まで行くから服を着替えなさい」
どんなに訴えても取り合ってもらえず、織田は拗ねた。こうなったらボイコットだ。煙草を寄越さない限り、こちらもあらゆる要求を呑まない。
「先生、ワシ医者嫌いやねん。行きたない」
「今度は何を言いだすんだい。好きとか嫌いの問題じゃないだろ。病気を治すには医者にみてもらわねばならんぞ」
織田はだんまりを決め込んで、再度枕に顔を埋めた。
今日は随分愚図るな、と室生は思った。織田は室生を困らせるつもりでやっているのだが、普段あまり甘えてこない織田が子供っぽい駄々をこねるので、室生はむしろうれしくなってきた。
「ほら、脱がせてやるから起きなさい」
室生がそう言いながら掛け布団をはがして上着をめくると、さすがに織田は焦ったようで、
「やぁ、ちょっと先生、やめて」
と乙女のように恥じらった。
「森さんを待たせてるんだから、観念して着替えなさい」
「先生はひどい……。煙草没収したり、無理やり医者に連れていこうとしたり、ちっともワシの意思を尊重してくれへん」
はあ。室生に大きなため息を吐かれて、織田はちょっと不安になった。困らせようとは思ったが、やりすぎてしもたやろか。恐る恐る室生の顔を見ると、予想に反して困ったような、しかし優しい表情で織田を見ていた。
「確かに、君の友人たちを出禁にしてしまったのはやりすぎだったと思うが、」
あ、それ認めるんや、と織田は思った。
「君たちは無茶をするから見てられないんだよ。治りかけているこの時期が一番危ないんだ。無理をしてぶり返したら元も子もない。本当はペンと原稿用紙も取り上げたいくらいなんだが、」
「えっ」
バレていたのかと、織田は首をすくめた。
「それはさすがに俺の文士としての良心が痛むからしない。だが、毎日不安で仕方がないよ。無理が祟って、万が一君を失ったりしては悔やんでも悔やみきれん。頼むからちゃんと医者の言うことを聞いて、煙草は我慢して、変な薬は使わず、ちゃんと睡眠を取ってくれ。治るまでの間だけでいい。これでもかなり、俺は妥協してるんだぞ」
真剣な顔でそう言われて、織田はうれしいのと、少し恥ずかしいので思わずうつむいた。なんだか駄々をこねているのが恥ずかしくなって、織田はもぞもぞとベッドから出た。
「……しゃあないから、着替えて補修室行きますわ」
「お、養生する気になってくれたかい?」
「犀星先生の言うとおり、ちゃんと森先生に診てもろて、処方された薬だけ飲んで、ベッドで大人しゅうしますから、先生、一個だけお願い聞いてくれへん?」
織田は小首をかしげて、下から室生を覗きこんだ。こうやってお願いするとたいていのことを許してくれるのを経験上知っていた。
「なんだい?」
案の定、室生はご機嫌の顔で聞き返してくれた。
「いい子にしてるご褒美に、これから煙草を毎日五本だけ……」
「ダメだ」
「せんせぇ……」
「それだけはダメだ」
室生の鋼鉄の意志によって、織田は完治するまで人生初の二週間もの禁煙を成し遂げたのだった。
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風邪を引いたニコチン中毒患者織田くんと、完治するまで絶対禁煙させる看病の鬼犀星先生の攻防、独特の看病プランを持つbriの二人を添えて
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