生暖かい春の夜。
せっかく過ごしやすい季節になってきたというのに、最近は満足に体を動かすこともままならない。
このままでは梅雨が訪れる前に頭の上からキノコでも生えてくるかもしれない。
そんな馬鹿馬鹿しい比喩が出てくるのは、退屈により精神が不衛生になっている証である。
悶々とした気分で何度も読み返した本の頁をめくっていると、部屋の外から凛とした声が響いた。
「夜分失礼いたします、オガミ様」
「んー?」
「おさきです。良いお酒が手に入ったのでお持ちしました」
「何だと?」
本を放り投げて大股に戸板に近付きそっと開くと、宵闇をも弾く金色の狐が微笑んでいるではないか。
盆の上には酒器一式と、酒瓶が乗っている。
「…………」
「あの、どうかされましたか?」
夢でも見ているのか。そう錯覚する程にタイミングが良かったので、俺は馬鹿みたいに口を開けて佇んでいた。
おさきの言葉でようやく我に返る。
「あ、あぁ、いや……とりあえずその辺に置いてくれるか」
「かしこまりました。失礼致します」
ペコリと頭を下げて、ゆったりとした足取りでおさきが部屋の中央へ。
その後ろ姿を目で追っているうちに、もふもふと動く尻尾につい手を伸ばしたい衝動に駆られた。
「こちらに置いておきますので、ごゆっくりどうぞ」
再び主に一礼し、部屋を出ていこうとするが
「ちょっと待て。お猪口が一つ足りないんじゃないか?」
「あら、他に誰かいらっしゃるのでしょうか?」
「察しが悪いなぁ。付き合えと言っておるのだ」
「でも……よろしいのでしょうか?」
「じゃあこうしよう。主命により毒見をせよ」
「そういう事でしたら、ご相伴に預かりましょう。もう一つご用意致します」
なんだかんだで主命を断れないのがおさきの利点であり、弱点でもあった。
「どうぞ、オガミ様」
「ありがとう」
酒を注ぎ終わった後、互いに目線を合わせ、示し合わせたように杯をかち合わせる。
めでたい気分ではないので、乾杯などと口にする雰囲気ではなかった。
「良い飲みっぷりだな」
「ふふ、少し恥ずかしいです」
物腰の柔らかい所は普段と変わらないが、普段より喜んでいる事は俺にも分かる。
「ほら、もっと飲め飲め」
「すみません。では、いただきます」
主に請われるまま二口三口と酒を口に運んでいくおさき。
その綺麗な顔が朱に染まるのに、さほど時間はかからなかった。
「…………」
「…………」
二人とも良い感じに酔いが回ってきたが、特に会話が弾むわけではない。
かといって居心地が悪いわけでもない。お互い、時に視線を交えてただ微笑むだけである。
「ふう」
「美味かったか?」
「はい、とても美味しゅうございました。オガミ様はどうでしたか?」
「この顔を見れば分かるだろう。何と書いてある?」
「ええ、目と鼻と……あら、すみません私ったら」
「はっはっは、面白い奴だな」
会話が殆どない為、必然的に酒が進むのも早かった。
「私、片付けてきますので」
と、おさきが立ち上がったが、足取りが危なっかしい。
「おい、そんなにすぐに片付けなくても――おっと」
引き留めようとした俺の元に、ふらりとおさきがもたれてくる。
俺は慌てて体を抱き寄せて支えた。
「ほら、言わんこっちゃない」
「すみません、少し……酔ってしまったようで」
桜色に染まったおさきの頬、濡れた唇、少し潤んだような金色の瞳。
日常ではありえない艶っぽさを間近に感じ、ドクンドクンと心臓が高鳴る。
い、いや違う。これは酔っているだけであって……。
「オガミ様……」
その呟きは、果たして懇願か拒絶か。
逡巡の末、おさきを支えたまま布団へ連れていく。
「少し休め。片付けなら俺がしてやっから」
「…………」
おさきが口を開いたが、結局何も言わずにそのまま口を閉じた。
「馳走になった礼に、しばらく俺の布団を使わせてやるよ」
こくりと頷くおさきの頭を優しく撫でる。
その瞳が閉じられるまで――。
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自粛中の主の元へ、お酒を持って訪れるおさきさんのお話です。