虚脱してその場にへたり込んだ漁師の親父を、それまで酔いつぶれていた老爺が、ろれつの回らない口で嘲笑った。
「なんじゃいだらしねぇ、どうせ酔っ払いの千鳥足で、その辺回ってただけじゃろがよ」
見とれ、と言いざまに、老爺が走り出す。
「あ、おい爺い、勘定!」
店主の怒声を背中に流して駆けだした、痩せこけた老爺が雨の帳の向こうに消える。
「あの干物、存外活きが良いな」
店主のぼやきに思わず吹き出した童子切だが、直ぐに表情を改めて、傍らに立てかけてあった、自身の分身たる大業物を、手早く腰に佩いた。
緊張した目を戸外に向ける。
童子切の鋭い目に、雨の帳を幾重にも隔てた向うに、人影がぼんやり映る。
やはり、ね。
悪い方の予感という奴は、大体当たる物だ。
バシャバシャという水を跳ね散らかす足音が次第に近くなる、それを店内から見つめる複数の目に、怯えに似た光が凝る。
雨の帳を割って、ずぶ濡れの老爺が、店内に駆け込んで来た。
「……な」
何じゃ、とすら言えず、老爺もまた店内をきょろきょろと、罠にかかったネズミのように見渡してから、蒼白な顔で漁師の隣にへたり込む。
「……爺さん、あんたも?」
漁師が、老爺の目の中に、自分と同じ光を見て、かすれた声を掛ける。
「……あ、ああ」
それに一つ頷いた老爺が、痩せて大きく浮き上がる喉仏を大きく動かしながら、ぐびりと生唾を呑み込んだ。
「わしぁ、真っ直ぐ走ったんじゃ、港の方にな……だけんどもよ、海も船も何も見えねぇウチに……」
ここに、駆け込んでいた。
そう呟いて、老爺は頭を抱えてうずくまった。
「ど、どういう事なんです、一体何が起こってるんですかぁ」
泣きそうな声を上げて、商人も椅子に座り込み、虚脱した様子で天井を見上げた。
そんな三人の様子に、ふんと鼻を鳴らした酒場の親父が、面白がるような目を童子切と、彼女が腰に佩いた大業物に向けた。
「姐さんは落ち着いてらっしゃるね」
「惑神(まどわしがみ)に出会うのは、旅の中では珍しくもありませんのでねー」
言葉少なな童子切の言葉だけで、親爺が了解したように頷いたのは、同じような経験があっての事だろう。
山中で迷わされ、堂々巡りをするなど、旅人には珍しい経験でも無い、それを為しているのが、狸か狐か貉か蟒蛇(うわばみ、大蛇)か……それとも大いなる山神かで、その先辿る運命は様々ではあるが。
多くは煙草でも一服付けるか、酒とするめでもお供えして、その場で一休みして歩き出せば、程なく里への道に辿り着く。
その辺りの認識もあるのか、親爺が腕組みしてウムと唸った。
「こう、金にならねぇ客が帰らんとは困ったな、勿体ねぇが塩でも撒くか」
「どうでしょう、正直期待薄だと思いますねー」
そう呟く童子切に、店主の親父は僅かに眉間に皺を寄せる。
その顔を見ながら、彼女はその秀麗な表情に、微かな憂いを浮かべた。
「似てるけど違うんですよ……少なくとも、私たちは神々や魑魅魍魎の住処に足を踏み込んだ訳では無いですから」
縄張りを荒らしたというので無ければ、この怪異には別の理由や別の存在の仕業と考えた方が自然。
そう語る童子切に親爺は一つ頷いた。
「尤もだ」
「まぁ、手元に持っていて悪いって事は無いと思いますよ、いざともなればツマミに舐めても乙な物です」
「ふ、姐さんも言いなさる」
苦笑しながら、親爺は塩壺でも取りに向かったのか、厨(くりや)に足を向けた。
様々な怪異とやり合って来た童子切にしても、今起きている事は正直、掴みあぐねている。
そもそも、彼女にすら、『何かおかしな事が起きている』、以上の感覚が無いのだ。
何やら障礙(しょうげ)なす妖魅や神の気配が、どうしても感じられない。
親爺にも語ったが、状況こそ、山中の怪異に似ているが、ここに座って酒を呑んでいた彼女らが、何処かの神の結界を犯した訳では無い。
さりとて何やら怪しのモノが訪(おと)なった気配も無い。
ここに眠る土地神や祟り神を起こしてしまったという事態でもあるまい。
(参りましたねー)
見える、感じ取れる脅威なら鬼でも神でも斬ってみせようが、こういうもやっとした状況は、彼女も不得手。
こうなったら、実際に自分もこの怪異を体感して、そこに何かを見出すか。
(あんまり髪の毛濡らしたくないんですけどね)
雨中を駆けだす類の行為は好むところでは無いが、他に仕方もあるまい。
ふ、と軽く息を吐いて、童子切は、何らか異常が無いか、もう一度店内を見回した。
(おや?)
なんだろう、何かがおかしい。
この違和感は、何か妖しの物が居るそれでは無い。
逆だ。
何かが足りない。
ほんの些細な、取るに足らない程度の事なのだろう、だが、それは確かに彼女の意識の隅に、棘のように刺さり、彼女に違和感の存在を訴え続けている。
へたり込む猟師と老爺、行李を抱えてぼんやりする商人、塩壺を抱えて厨から出て来た店主の親爺。
何が。
「へぇん」
想いに沈む童子切の耳に、何やら情けない声が聞こえる。
「何でぇ、今度は何だ!」
店主が苛立ったようにその声を上げた商人の元に駆け寄る。
「な、何かが私の首筋を、ひんやりした手で触ったんです」
「何だと?」
「はて?」
首を捻りながら童子切も商人の傍らに歩み寄る。
別段幽霊やそういった存在の気配は相変わらず感じない。
ならば。
すっと翳した童子切の手に雫が跳ねる。
ぴちょん。
「……幽霊の正体見たり」
「け、雨漏りかよ」
情けねぇ、それでも男かと蔑む店主に、非難がましい目を商人が向ける。
「まぁ、この異常な状況では、枯れ尾花も已むを得ませんよ……ん?」
雫を拭おうとした童子切は、それが微妙に手にべとつく感触に眉をひそめた。
それに、雫が跳ねた時に、空気中に微かに漂ったこの香り。
同じところに手を翳し、再度雫をその手に受け、彼女はその形の良い鼻を寄せた。
これは?!
「お酒……」
そんな馬鹿な。
さしもの童子切が、どこか茫然とした顔を天井に向け、次いで、同じような顔で雫を受けて、それを舐めた店主の顔を見やる。
「お酒を天井で保管してます?」
その童子切の言葉に、店主は首を横に振った。
「酒樽が乗るような、結構な屋根裏に見えなさるかね?」
上で鼠の家族が浮かれ踊れば落ちてしまいそうな細い梁を見て、童子切は肩を竦めた。
「……確かに」
そう呟いた童子切の頬にも、同じ雫が跳ねる。
つっと、口元に漂って来たその雫を、童子切の舌がぺろりと舐めた。
舌先に感じた甘露は、確かにこの店の安酒では無い。
いや、そもそも、これは……。
「やれやれ、天が酒を降らしてくれましたか、誰です、こんな奇瑞を呼ぶような善果を積んだ有徳の人は」
あっはっはと笑う童子切の目が、鋭く細められる。
これは確かに酒呑みの夢の一つの到達点だ。
酒の滴の間隔が徐々に短く、さながら、細く絹糸を引く様に、後から後から落ちて来るのを見ながら、童子切は刀の束に手を置いた。
悪夢か吉夢かは、終わってみないと判らないでしょうけど……ね。
「養老の滝ならぬ……天から酒か」
左様な事が起きたら、わっちらなんぞは、商売あがったりじゃな。
ふふっと笑いながら、仙狸は魚の焼きをちらりと見た。
……そろそろか。
「あの時は、清く正しく生きている私への、天からのご褒美かとも思ったんですがねー」
「清く正しく生きとる奴は、酒が降って来て喜びはせんじゃろ」
人が悪そうな顔でにやりと笑う仙狸に、童子切が苦笑を返す。
「仰せご尤も」
「天の酒など期待せずに、店で呑んで、ちゃんと金を遣うが良民の生きる道じゃよ」
天の酒は、こんな事はしてくれんじゃろうしな。
ひょいと出された片口から、ほわりと強めに付けた燗特有の香りが立つ。
その香りの中に混じる、香ばしいような、不思議な匂い。
「これは……」
片口を覗き込んだ童子切の顔が、にこりと笑う。
「成程、こう使いましたか?」
燗酒の中に泳ぐ一尾の岩魚。
「岩魚の皮や鰭を強めに炙って燗酒を注ぐ、これがまた、殊の外旨い」
骨酒。
常ならば骨や尾や皮や鰭など、身を食した後にやる楽しみだが、これは一尾が丸と入っている。
「解しながらちょいちょいとつついて、合間合間に酒をやると味が染み出して良いもんじゃよ」
「ふふ、判りました」
淡白な身に、少し強めに振った塩が溶けだした酒が絡み、品の良い薄味の吸い物のような味わいが童子切の口中に拡がる。
「これはまた、酔い覚ましのようでいて、酔いを誘う……」
絶妙というべきか、少し食べたいと、もう少し呑みたいという欲を同時に満たす。
「酒の合間に挟むには、こんなのも楽しかろうと思ってな」
仙狸の言葉に頷きながら、岩魚の身を箸で摘まみ口に含む。
成程、酒に漬け込むと、かくも面白い味になるか。
成程……ね。
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式姫の庭の二次創作小説です。
前話:http://www.tinami.com/view/997898