「東京湾でサクラマスが獲れるらしい」
唐突に三好達治が言い出したのは、食堂で焼き鮭を食べているときだった。
「は?」
坂口安吾が聞き返すと、
「サクラマス食べたくないッスか」
と妙に据わった目で鮭をつつきながら三好は言った。
「何なん、三好クンこの鮭に不満があんの?」
織田作之助が聞くと、三好はしみじみ答えた。
「新鮮な魚が食べたい」
別にこの食堂で出る鮭がまずいということではない。むしろ美味しかった。しかし三好は、なまじ海の幸豊富な福井に住んだ経験があり、この鮭が美味しければ美味しいほど、新鮮なサクラマスの美味しさが思い出されるのだった。
「サクラマスを釣りに行くぞ」
三好は安吾の目を見据えて言った。
「東京湾に?」
「荒川に遡上するらしい」
「ホントかよ」
東京湾でサクラマスが獲れるなんて、安吾にはどうにも信用ならない話に思えたが、三好の決意は固いようだった。
「どうする? オダサク」
「え、ワシも誘われてんのコレ」
作之助は口にご飯を放り込み、咀嚼する間だけ考えた。
「嫌やな。メンドくさいし」
そして真面目な顔で安吾を見つめた。
「でも釣ってきてくれたら食べるで」
「はぁ。お前はそういうヤツだよ」
「なんや安吾~。ワシに滋養のあるもの食べさせたいて言うてくれたやん。あの言葉は嘘やったんか?」
「全くあんたはしょうがねえな」
滋養のあるものを食べさせたいのは本当だし、三好の軍隊式アウトドアに体の弱い作之助を付き合わせるのは不安もあった。
「じゃあ、二人で行くかあ」
と安吾が間延びした声で言うと、三好は間髪入れず答えた。
「じゃあ、明日な」
「決断早っ! どんだけマス食べたいねん三好クン」
二人がおいしいお魚釣ってくるの待ってるからなー、とにこにこ笑う作之助を見て、まあ、サクラマスは無理でも、なんか食えるモノを釣って帰ってやりたいな、と安吾は優しい気持ちで考えていた。
翌朝、安吾と三好は早くから荒川へ出かけたが、釣れるのはブラックバスばかりだった。安吾はもともとサクラマスなんか釣れやしないと思っていたので、適当なところで切り上げるつもりだったのだが、あきらめない三好に延々と付き合わされ、図書館に帰り着いた時には既に日が暮れていた。
二人が図書館の門をくぐると、ちょうどどこからか帰ってきた室生犀星と織田作之助に行き合った。疲れきって喋るのも億劫な安吾たちとは違い、作之助たちは随分と仲睦まじく、笑顔で談笑していた。そして作之助たちもなぜか釣り道具を持っていた。
どういうことかよく理解できなくて、彼らの持っている釣り道具を安吾がぼうっと眺めていると、作之助はきまり悪そうに体を揺すって、ぎこちない笑みを浮かべた。
「お帰りお二人さん。サクラマスは釣れたん?」
「やあ、君たちも釣りに行ってたんだな」
犀星が笑顔で言ったので、やっとこの二人は釣りに行っていたのだということを安吾は理解した。
「おい、どういうことだオダサク。俺たちと釣りに行くのは面倒くさいが、室生さんとなら行けるのか」
安吾が詰め寄ると、作之助は両手を挙げて降参のポーズを取った。
「違うねん安吾。これにはいろいろと事情があって」
「ああん?」
あんたもなんか言ってやれよ、と三好の方を見るが、室生犀星の前で途端におとなしくなる詩人は、だんまりを決め込んでいた。しかし作之助を見る顔はなかなか不機嫌そうではある。
「もしかして織田君と約束があったのかい? すまなかったな、俺が強引に連れ出してしまったから」
なんとなく作之助が責められていることを察した犀星が作之助をかばった。
「違うねん、犀星先生のせいやないんです」
「いや、俺がウグイを食べたいなんて言い出したから……」
お互いに自分が悪いと言い合う二人を安吾はジトっとした目で眺めた。
「ウグイ……」
三好が魚の名前に反応したので、犀星が説明した。
「ちょうど桜ウグイが獲れる季節だから、釣りに行きたくてな。たくさん釣れたから、お詫びといってはなんだが、よかったら二人も食べていかないか?」
結局サクラマスは釣れず、新鮮な魚に飢えていた三好は食いついた。
「食べます」
じゃあ、食堂に行くか、と言った犀星の後にぞろぞろとついて歩く。作之助は三好と安吾の横に来て、そっと顔を覗き込んだ。
「ごめんやで、二人とも。犀星先生な、釣りに行きたいけど一緒に行く人がおらん言うから。三好クンには安吾がおるやろ。せやけど二人には悪いことしてしもうた」
こう言われると安吾は弱い。作之助に殊勝な態度を取られると、もう強くは出られないのだった。
「まあ、いいけどよ。でも、オダサクはちょっと室生さんに甘すぎじゃあないか?」
犀星に釣り仲間がいないというのはにわかには信じがたい話で、作之助を断りにくくする口実としか思えなかった。
「ええ? そんなことないけど」
むしろ先生がワシに甘いっていうか、とごにょごにょ言う作之助の頬はほんのり赤い。なんだその反応は。これはちょっと、まずいのではないか。安吾は危機感を募らせた。
安吾がこの図書館に転生した時、すでに織田作之助は室生犀星の弟子のような立場に収まっていた。安吾は戸惑った。安吾が認めた偉大なる落伍者・織田作之助は、室生犀星の前ではおとなしく真面目な優等生だった。あの俗悪を極めた織田作之助は、室生犀星に徐々に牙を抜かれて、最後には優しく殺されてしまうのではないか? ゆゆしき事態だった。
しかし坂口安吾は憧れの作家に目を掛けられて喜んでいる友人の気持ちに、水を差せるような男ではなかった。心の中では二人の関係をよく思っていなくても、表面上は物分りのよい友人を演じてきた。
あっと言う間に終わってしまった生前の交流に後悔があった。今度こそ自由に生きてほしいという気持ちもあった。兄貴分ぶりたいのもあった。端的に言うと、坂口安吾は織田作之助に甘いのであった。
しかし、最近の犀星と作之助の関係は目に余る。やたらと二人きりで買い物に出かけたり、庭を散歩したり。なによりしゃべっている時の距離が近い。今だって、犀星が愛用している古風な魚籠を二人でのぞき込んでいる。ほとんど頬がくっつくくらいの距離だ。これはもはや師弟の距離ではない。犀星は作之助によこしまな気持ちを抱いているにちがいない。もし室生に迫られたら、彼に心酔している作之助は流されて、そのまま関係を持ってしまうのではないか。
「いや、やっぱりダメだ!」
安吾は叫んだ。
「おい、あんたからもなんか言ってやってくれ。このままではオダサクのやつ、また俺たちをないがしろにして、室生さんとあれやこれや、そんなことまでやっちまうぞ!」
安吾の剣幕に三好は怪訝そうに眉を上げた。
「いや、今回は仕方ないだろう。室生犀星とウグイを釣りにいけることになったら、たとえ友人と約束があっても反故にして行くのは当然のことだ」
そう言う三好を見て、そういえば彼もこじらせてはいるが、結構な室生犀星信者だったことを安吾は思い出した。誰も安吾の焦燥を分かってくれない。
「洗いにしよう。織田君、氷を持ってきてくれるかい」
「はぁい」
犀星の指示にかわいらしく返事した作之助は、バケツを持って冷蔵庫に行き、豪快に氷と水を流し入れると、片手でひょいっと重いバケツを持ち上げた。受け答えのかわいさと、男前な行動のギャップがすごい。
「きれいな桜ウグイっスね」
犀星が魚籠から取り出したウグイを見て、三好がうれしそうに言った。
「そうだろう。やはり俺はこの季節のヒレまで赤いウグイが美しくて好きだな。子どもの頃、よく釣って食べたよ。懐かしいなあ」
犀星はウグイの鱗を取りながら言った。
「犀川にはたくさんウグイがいてね。今でもいるのか分からないが。犀川は今、どうなっているのかなあ。たまには兼六への遠征も考えてくれればいいのに」
犀星のことばを聞いて、作之助は一瞬なんとも言えない顔をした。安吾以外は誰も気づかなかっただろう。
「先生、やっぱり金沢がお懐かしいんですねえ」
そう言った作之助は、もういつもの人好きのする笑顔を浮かべていた。
「そうだなあ。もちろん懐かしいけれど、故郷ってのは離れてこそ良さがわかるものだ。それに故郷を思い出させるものは、ここにもたくさんあるから寂しくはないぞ。このウグイもそうだし、他にはたとえば織田君とか」
「え? ワシ?」
目をまんまるにして驚く作之助の目をじっと見て、室生は言った。
「君の柔らかい西の言葉は故郷のなまりに似て、郷愁をかき立てる。この図書館で最も愛すべきものの一つだ」
「せ、先生・・・・・・」
見つめ合う二人の邪魔にならないよう、三好は完全に気配を絶っていた。もしかすると呼吸も止めていたかもしれない。
しかし安吾は空気を読んではやらない。むしろ一刻も早くこの空気をぶち破ってやらねばなるまいと思った。
「室生さん、俺も魚おろすの手伝いますよ。早くしないと氷が解けちまう」
わざわざ見つめ合う二人の間を通って包丁を取りに行く。
「あ、ああ。そうだな」
犀星は夢から醒めたようにまたたいた。
「あ、そうだ。朔を呼んでこねえと。ウグイを食べさせてやるって約束したんだ」
「あ、それなら自分もいくッス」
息を吹き返した三好が遠慮がちに言って、二人はバタバタと食堂を出て行った。後には安吾と作之助の二人だけが残った。
作之助はざるを用意して安吾がおろした魚を並べていく。安吾がダンッ、と勢いよく包丁を振り下ろしたので、作之助は苦笑を浮かべた。
「どないしたん。えらい機嫌悪いやん。まだワシに怒ってんの?」
「そうじゃねえ。あの詩人だよ!」
「三好クン?」
小首をかしげる作之助に舌打ちしたくなった。
「室生犀星だよ。あいつ、あんたに失礼すぎる」
「へ?」
作之助は、全く思いもしないことを言われたという顔をした。
「あいつ、あんたに勝手に自分の故郷を重ね合わせて、随分勝手じゃねえか。俺はあいつと違って、ちゃんとあんたの大阪を愛しているぞ」
「安吾は大阪の女も好きやもんな」
「いや違う」
いや、違わないけど今はそういう話じゃない。
「あんた、本当は気になってるんじゃないのか?」
それこそ室生犀星が故郷を見たいと望む何倍もの気持ちで、大阪を見たいと思っているんじゃないのか。
「大阪に行きたくはないのか」
「ん~、そやなあ」
作之助はちょっと困ったような笑顔を浮かべた。
「正直大阪がどうなってるんかめっちゃ気になるけど、住めるわけでもないし」
それを聞いた瞬間、安吾は腹の底から熱くなった。なぜこんな当たり前のことに気づかなかったのだろう。織田作之助にとって、「ふるさとは遠きにありて思ふもの」ではないのだ。なぜなら、彼の文学上の問題は全て、大阪という町を基軸に打ち立てられたものなのだから。織田作之助と大阪は不可分であるはずだ。大阪から隔てられた織田作之助のつむぐ文章は、果たして坂口安吾の愛した織田作之助の文学たり得るのだろうか。
「あんた、大阪に住むべきだ」
「無理やろ」
けったいなこと言うなあ、と言いながら作之助は魚を氷水に漬けた。目は合わない。
「無理なんかじゃあない。このままじゃ、あんた」
室生の望むような、いい生徒になっちまうんじゃないのか。喉まで出かけたその言葉をかろうじて飲み込む。
「あんなあ、安吾。ワシかて別に東京が舞台の作品書かれへんってわけやないんやで」
「それは分かっている」
しかし庶民とも交わらず、箱庭みたいなこの場所で、本当にあんたは、あんたの文学を思うがままに書けるのか。
「安吾は優しいなあ」
作之助は穏やかに笑って言った。
「ありがとう、大丈夫やで」
「犀は本当にウグイが好きだねえ」
そこに萩原朔太郎が二人に連れられて食堂に入ってきた。
「なんだよ。朔も食べたいって言ったじゃないか」
「そりゃ食べたいよ。室生犀星のウグイだもの。わあ、美味しそうだね」
作之助が氷水から上げたウグイの切り身をのぞき込んで、朔太郎が手づかみで食べようとした。
「こら、朔。ちゃんと手を洗ってからだぞ」
犀星が朔太郎の肩を優しく押して、蛇口の前まで連れていく。
「あのねえ、犀。白秋先生がお手紙の返事をくれたんだよ」
「そうか。良かったな」
「でも手紙より詩を送ってきなさいって」
「うん」
「だから今日はずっと詩を考えていたんだ・・・・・・」
「あ、朔! 袖が濡れてるぞ」
犀星は慌てて朔太郎の裾を捲り上げる。
「ありがとう」
「ほら、手を拭いて」
犀星は甲斐甲斐しく朔太郎の面倒を見ていた。さっきまで作之助にべったりだったのが嘘のようだ。犀星をにらみつけている安吾の隣でウグイを食べる作之助は、いつもより少しおとなしかった。
「室生さん」
ウグイを食べ終えた後、三好が朔太郎を連れて帰り、作之助がゴミ捨てに出て行ったタイミングで、安吾は犀星に声を掛けた。
「なんだい?」
「あんた、もうちょっとオダサクのこと考えてやってくれねえか」
安吾がそう言うと、すっと室生の目が細まった。
「どういう意味だ?」
「あいつはすっかり騙されているが、あんたはオダサクに優しい振りをして、本当はあいつのことを何にも考えていない。あんたは、ただあいつに自分の理想を押し付けてるだけだ。もっとちゃんと、織田作之助という男を見るべきだ」
犀星が一瞬こぶしに力を入れたのを見てとって安吾は身構えた。しかし、犀星はすぐにふっと力を抜いて、深く息を吐いた。
「なるほど。俺は織田くんのことをよく分かっていない。それは認めよう。だが、俺は彼の理解者になれないということをわきまえているんだよ。君と違って」
「なんだと?」
安吾は声を荒げた。
「君や織田君と違って俺は学が無いから、君たちの文学の根幹は理解していないのかもしれない。俺の知る織田君は、結局俺の目を通して見た織田君でしかない。だがそれは、確かに織田作之助の一つの側面ではあるはずだよ。坂口君、人はそう簡単に他人の全てを理解できるものじゃない。ましてや文学者なんてものはとても複雑で、理解したつもりでいたら、大切なものを取りこぼしてしまうぞ」
そう言った室生はその幼い容貌に似合わない、どこか老成した表情を浮かべていて、安吾は言葉を失った。
「あ、猫にやるために分けておいた魚のアラまで織田君が持っていってしまったな。追いかけて取り返してこなくちゃ」
室生はそう言うと、食堂の出口へ向かったが「ああ、そうだ。坂口君」と振り返った。
「一つだけ俺の目を通した見た織田君を教えておくよ。織田君ときみはおそらく同じ道を歩いているんだろうが、目指している地点は違うんじゃないかい。そして、俺と織田君は違う道を歩みながら、同じ到達点を目指していると思っているよ」
それも俺と君との違いかな。
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室織(付き合う寸前)であん→おだ、安吾目線です。三好クンがめっちゃ出てくるが、恋愛には無関係。
作者がいろいろこじらせているので、なんでも許せる人向けです。
pixivに同じものを投稿しています。