No.990139

夜摩天料理始末 58

野良さん

式姫の庭の二次創作小説です。

前話:http://www.tinami.com/view/989474

2019-04-14 21:43:33 投稿 / 全2ページ    総閲覧数:680   閲覧ユーザー数:671

 とくん。

 微かな波動が、冥府の廷内に静かに響いた。

 そこに居た、全ての存在が、それを感じた。

 

 その波動が何を意味するか、それを悟った夜摩天の頬を伝い、頤から落ちた雫が、法廷の床で弾けた。

 言葉にならなかった。

 ただただ、嬉しい。

 私の、あの料理を食べてくれた人が、生きていた。

 心が歓喜に震える。

 暖かくこみ上げる感情が、彼女の目から、涙になって零れ、床を濡らしていた。

 

「……くっく……はは」

 苦労を背負こみに、わざわざ帰って来たか、大馬鹿者め。

 陰陽師が、それ以上笑う力も無く弱々しく咳き込む、それでも彼は微かに口角を上げた。

 それで良い。

 お前は、それでいいんだ。

 

「あの料理は、この世界の至宝たりうる存在……か」

 閻魔は、目を細めて彼と、そして夜摩天の姿を見ていた。

 夜摩天の料理が、都市王の手で奪われ掛かった一つの魂を救った。

 その料理は、万人にその味を喜ばれる物では無くなってしまったが。

 それでも、あの料理は、少なくとも彼を助け、彼の帰りを待つ式姫達を笑顔にしてくれるだろう。

 誰かを助けて、誰かを笑顔にできた。

 それは、貴女がその生を通じて望んでいた事。

 形は変わっても、貴女の料理はその役目を果たした。

 それは、とても素晴らしい事じゃないかな。

 

「可能性の卵が、孵りましたか」

 都市王の猛攻を凌ぎながら、思兼がクスリと笑う。

 不確定の、そう、さながら原初宇宙の混沌のようだった彼の魂が、今明確な姿を取って彼女の賢者の目に映る。

 ただの人が。

 いや、神にも魔にもなれたのに、試練の果てに、敢えて人である事を選んだ魂が、そこに。

「……良かった」

 建御雷よ、式姫達よ。

 貴女達の想いは、ちゃんと、彼に受け止められていましたよ。

 神のように世界を睥睨(へいげい)し、一足の下、強く早く華やかに制する歩みでは見えない場所。

 人が大地を踏みしめ、時に這いずってでも進むその先にしか存在しない、そんな時と場所は、確かにこの世界に存在するのだと。

 だからこそ、式姫達は神々の力を持ちながら、地上に、人と共に在る。

 そこまで歩くと決めた人と、その途中で、志半ばで力尽きた人の想いと共に、その約束された場所に、共に立つ為に。

「キサマ、キサマノネライハ、コレカ……コレダトイウカ?}

 馬鹿な、あり得ない。

 それは、ある意味では彼女の自尊心を、最も引き裂く話だった。

 この知恵の女神は、たかが一人の人間、塵芥の如き存在の為に、その高貴なる分霊を、冥府の底に送ったと。

「その通り」

「タカガヒトノタメニ、カミガミガウゴイタノカ!」

 冥府の秩序を守り、妾や、黄龍の復活を阻むためではなく。

 たかが……人の為に。

「そうですね、確かに彼が復活したとて、貴女を一撃で滅ぼすような力も無いし、世界に跋扈する魑魅魍魎を平定する事も出来ないでしょう」

 その意味では、彼の復活など、たかがとしか言いようが無い事。

 そう、そういう価値のみを見る、貴女には判らないでしょう。

 けどね。

「彼はただ、自分が正しいと思う道を真っ直ぐに歩んできただけの人です……でも、その歩み方に、選んだ道に惹かれた、多くの流れが集まり、そしてその流れが、彼に、更にその先に進む事を望んだのです」

 それは、人であり、式姫であり、軍神建御雷であり。

「そして、それは私も同じ」

 今回の顛末の全てを見届けた今。

 世界の調和や、建御雷や式姫達の為だけではなく。

「私自身の想いとして、彼の歩みを見届けたくなったのです」

 

 刹那、都市王の、いや、その奥に光る玉藻の前の意思と、思兼の静かな瞳がぶつかり合う。

「カミガ……セツナニスギヌ、ヒトノセイヲ……ダト」

「ええ、私たちから見れば、一瞬の……そして得難い煌めきに」

 思兼の目に、煮えたぎるような屈辱と怒りと憎悪が見えた。

「……フザケルナ」

 低い唸るような声が、様々な感情に揺れる。

「ミトメヌワァ!」

 怒りの咆哮が冥府の廷内に轟いた。

 都市王が大きく剣を振るい、同時に背中に生じた手にした夜摩天の斧を、次いで何時の間に拾っていたのか、砕けた床石を投げつける。

 奇襲とも言えるそれらの攻撃だったが、それすら、全てを見通していた思兼を捉える事は出来ない。

 だが、その攻撃を回避した彼女と、都市王の間合いが大きく離れた、その拍子に、都市王は思兼に背中を見せて、躊躇いなく走り出した。

 冥王の座に。

 いや、その後ろに封じられた黄龍の魂に向かって。

 その背に、瞬時にぴたりと弓の狙いが付けられる。

「止まりなさい!」

「イタケレバ、イヨ!」

「……く」

 玉藻の前は賭けに出たのだ。

 都市王の攻撃をいなし、引き付け続けていた思兼。

 彼女を冥府に存在させている陰陽師の力が、最早限界に近づいている事に。

 その命を乗せた矢を思兼が射る事が出来るか、それとも出来ないかに賭けた。

 今、ここでこの矢を……奴を止め得る一撃、神の矢を射放てば。

 あの、辛うじて存在している陰陽師の魂は、全ての力を失い消失するだろう。

 それは……。

 狙いを付ける手がほんの僅かに震え、狙う都市王の巨大な背が揺れる。

 都市王が階に足を掛けた。

 ようやく動けるようになった閻魔が、罵り声を上げながら、斧を手に立ち上がる。

 夜摩天もまた、ふらつく足を踏みしめ、涙を拭って立ち上がる。

 だが、今からでは都市王の疾走を止めるのには、間に合うまい。

 私が射ねばならない。

 世界を滅ぼしかねない、黄龍の封を守る為には、それしかない。

 でも、それは。

 

 射よ。

 

 その言葉が、迷う思兼の心を貫いた。

 貴方は。

 射るんだ。

 駄目です、貴方の魂が存在している間に、冥王の判決を受け、次なる生を示されさえすれば。

 そうすれば、大いなる世界の理は、貴方の魂を忘却の裡に包み、癒し、そして次なる生に貴方を導いてくれるでしょう。

 今なら、まだ何とか間に合う。

 何か他に手段が……。

 そう、あの、庭の主殿が目覚めてくれれば、その力で……。

 時が無い。

 

 都市王が冥王の座に至る長い階を駆け上る。

 

 何か手段が在る筈です。

 君が思いつかない時点で、他に手段はない。

 

 都市王の振るう刃が、冥王の卓を、座を砕き、たくましい腕が残骸を払いのける。

 

 ……私に、主と認めた人を殺せと言うのですか。

 違う。

 それは、時に神々すら圧倒してきた……限りある命と魂だけが発する事が出来る、本当に静かな叫び。

 君には判っている筈だ。

 私が望んだ場所と生は、今、私の目の前に在る。

 だからこそ、その最後の一矢を。

 私の生を最後まで貫き、私を本当の意味で生かす、最後の一矢を、君が放つ。

 君は、その為に、その高貴なる神の身をやつし、ここに来てくれた。

 そうなんだろ?

 ……はい。

 滅びゆく魂の気配を感じ、その悲痛なまでの願いに、私は応えた。

 ありがとう、優しい女神よ、私は、君に救われたんだ。

 では、最後に、陰陽師らしい事をさせて貰おうか。

 

「我が式姫、思兼よ、主が命ずる」

 

 これは、私の願い。

 君はそれを叶えるだけ。

 だから、もう、泣くな。

 

 黄龍を封じた、分厚い扉に向かい、都市王が剣を振りかぶる。

 追いすがる閻魔と夜摩天も、ようやくその足を、階(きざはし)に掛けた所。

 それを睥睨(へいげい)して、彼女は笑った。

「カケハ、ワラワノ!」

 勝……そう吼えて、剣を振り下ろそうとする、その体を、緑の光が貫いた。

 凄まじい威力をまざまざと示し、その巨体が宙を舞い、壁に矢で縫い止められた。

 身をもがき、その矢を抜こうと触れた手が、瞬時に溶け崩れる。

 自らの敗北を悟った、絶望と無念の叫びが、甲高い狐の鳴き声のように上がる。

 完璧な力で深く体内に撃ちこまれた神の一矢。

 叡智の征矢の力が、都市王の体内に張り巡らせた、殺生石の邪悪な力を浄化していく。

 背中から伸びた腕がぐずりと崩れ落ち、巨体が徐々に元の都市王の姿を取り戻していく。

「オモイカネ……キサマァ!」

「賭けは貴女の負け」

 思兼が静かに弓を下ろした。

 その、彼女の姿もまた、この場に存在する力を失い、足元から薄れていく。

「……これで、良かったんですよね」

 彼女がそう呟きながら向けた目の先には、もう、あの陰陽師の姿は無く。

 力を使い果たした魂は、個を失い、その存在を、世界に還していた。

 思兼が目を伏せる。

 見事です、我が主よ。

 その魂、そして、その生き様、我が胸に刻みましょう。

 

「玉藻の前、貴女は、最初から間違っていたんです」

 なん……じゃと。

「貴女の賭けの勝負の相手は私ではなく、彼でした」

 妾が、人に。

「貴女は自分が弄んできたつもりでいた、人の覚悟の前に負けたのです」

 そして、巡らせた陰謀もまた。

「ご覧なさい」

 消えゆく思兼が細い手を上げ、指差す先。

 一人の人が身を起こす。

「そして今、貴女の陰謀も、ここに潰えました」

 そう、宣し。

 その言葉を最後に、知恵の女神の姿もまた、主の後を追うように、冥府の法廷から消えた。


 
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