とくん。
微かな波動が、冥府の廷内に静かに響いた。
そこに居た、全ての存在が、それを感じた。
その波動が何を意味するか、それを悟った夜摩天の頬を伝い、頤から落ちた雫が、法廷の床で弾けた。
言葉にならなかった。
ただただ、嬉しい。
私の、あの料理を食べてくれた人が、生きていた。
心が歓喜に震える。
暖かくこみ上げる感情が、彼女の目から、涙になって零れ、床を濡らしていた。
「……くっく……はは」
苦労を背負こみに、わざわざ帰って来たか、大馬鹿者め。
陰陽師が、それ以上笑う力も無く弱々しく咳き込む、それでも彼は微かに口角を上げた。
それで良い。
お前は、それでいいんだ。
「あの料理は、この世界の至宝たりうる存在……か」
閻魔は、目を細めて彼と、そして夜摩天の姿を見ていた。
夜摩天の料理が、都市王の手で奪われ掛かった一つの魂を救った。
その料理は、万人にその味を喜ばれる物では無くなってしまったが。
それでも、あの料理は、少なくとも彼を助け、彼の帰りを待つ式姫達を笑顔にしてくれるだろう。
誰かを助けて、誰かを笑顔にできた。
それは、貴女がその生を通じて望んでいた事。
形は変わっても、貴女の料理はその役目を果たした。
それは、とても素晴らしい事じゃないかな。
「可能性の卵が、孵りましたか」
都市王の猛攻を凌ぎながら、思兼がクスリと笑う。
不確定の、そう、さながら原初宇宙の混沌のようだった彼の魂が、今明確な姿を取って彼女の賢者の目に映る。
ただの人が。
いや、神にも魔にもなれたのに、試練の果てに、敢えて人である事を選んだ魂が、そこに。
「……良かった」
建御雷よ、式姫達よ。
貴女達の想いは、ちゃんと、彼に受け止められていましたよ。
神のように世界を睥睨(へいげい)し、一足の下、強く早く華やかに制する歩みでは見えない場所。
人が大地を踏みしめ、時に這いずってでも進むその先にしか存在しない、そんな時と場所は、確かにこの世界に存在するのだと。
だからこそ、式姫達は神々の力を持ちながら、地上に、人と共に在る。
そこまで歩くと決めた人と、その途中で、志半ばで力尽きた人の想いと共に、その約束された場所に、共に立つ為に。
「キサマ、キサマノネライハ、コレカ……コレダトイウカ?}
馬鹿な、あり得ない。
それは、ある意味では彼女の自尊心を、最も引き裂く話だった。
この知恵の女神は、たかが一人の人間、塵芥の如き存在の為に、その高貴なる分霊を、冥府の底に送ったと。
「その通り」
「タカガヒトノタメニ、カミガミガウゴイタノカ!」
冥府の秩序を守り、妾や、黄龍の復活を阻むためではなく。
たかが……人の為に。
「そうですね、確かに彼が復活したとて、貴女を一撃で滅ぼすような力も無いし、世界に跋扈する魑魅魍魎を平定する事も出来ないでしょう」
その意味では、彼の復活など、たかがとしか言いようが無い事。
そう、そういう価値のみを見る、貴女には判らないでしょう。
けどね。
「彼はただ、自分が正しいと思う道を真っ直ぐに歩んできただけの人です……でも、その歩み方に、選んだ道に惹かれた、多くの流れが集まり、そしてその流れが、彼に、更にその先に進む事を望んだのです」
それは、人であり、式姫であり、軍神建御雷であり。
「そして、それは私も同じ」
今回の顛末の全てを見届けた今。
世界の調和や、建御雷や式姫達の為だけではなく。
「私自身の想いとして、彼の歩みを見届けたくなったのです」
刹那、都市王の、いや、その奥に光る玉藻の前の意思と、思兼の静かな瞳がぶつかり合う。
「カミガ……セツナニスギヌ、ヒトノセイヲ……ダト」
「ええ、私たちから見れば、一瞬の……そして得難い煌めきに」
思兼の目に、煮えたぎるような屈辱と怒りと憎悪が見えた。
「……フザケルナ」
低い唸るような声が、様々な感情に揺れる。
「ミトメヌワァ!」
怒りの咆哮が冥府の廷内に轟いた。
都市王が大きく剣を振るい、同時に背中に生じた手にした夜摩天の斧を、次いで何時の間に拾っていたのか、砕けた床石を投げつける。
奇襲とも言えるそれらの攻撃だったが、それすら、全てを見通していた思兼を捉える事は出来ない。
だが、その攻撃を回避した彼女と、都市王の間合いが大きく離れた、その拍子に、都市王は思兼に背中を見せて、躊躇いなく走り出した。
冥王の座に。
いや、その後ろに封じられた黄龍の魂に向かって。
その背に、瞬時にぴたりと弓の狙いが付けられる。
「止まりなさい!」
「イタケレバ、イヨ!」
「……く」
玉藻の前は賭けに出たのだ。
都市王の攻撃をいなし、引き付け続けていた思兼。
彼女を冥府に存在させている陰陽師の力が、最早限界に近づいている事に。
その命を乗せた矢を思兼が射る事が出来るか、それとも出来ないかに賭けた。
今、ここでこの矢を……奴を止め得る一撃、神の矢を射放てば。
あの、辛うじて存在している陰陽師の魂は、全ての力を失い消失するだろう。
それは……。
狙いを付ける手がほんの僅かに震え、狙う都市王の巨大な背が揺れる。
都市王が階に足を掛けた。
ようやく動けるようになった閻魔が、罵り声を上げながら、斧を手に立ち上がる。
夜摩天もまた、ふらつく足を踏みしめ、涙を拭って立ち上がる。
だが、今からでは都市王の疾走を止めるのには、間に合うまい。
私が射ねばならない。
世界を滅ぼしかねない、黄龍の封を守る為には、それしかない。
でも、それは。
射よ。
その言葉が、迷う思兼の心を貫いた。
貴方は。
射るんだ。
駄目です、貴方の魂が存在している間に、冥王の判決を受け、次なる生を示されさえすれば。
そうすれば、大いなる世界の理は、貴方の魂を忘却の裡に包み、癒し、そして次なる生に貴方を導いてくれるでしょう。
今なら、まだ何とか間に合う。
何か他に手段が……。
そう、あの、庭の主殿が目覚めてくれれば、その力で……。
時が無い。
都市王が冥王の座に至る長い階を駆け上る。
何か手段が在る筈です。
君が思いつかない時点で、他に手段はない。
都市王の振るう刃が、冥王の卓を、座を砕き、たくましい腕が残骸を払いのける。
……私に、主と認めた人を殺せと言うのですか。
違う。
それは、時に神々すら圧倒してきた……限りある命と魂だけが発する事が出来る、本当に静かな叫び。
君には判っている筈だ。
私が望んだ場所と生は、今、私の目の前に在る。
だからこそ、その最後の一矢を。
私の生を最後まで貫き、私を本当の意味で生かす、最後の一矢を、君が放つ。
君は、その為に、その高貴なる神の身をやつし、ここに来てくれた。
そうなんだろ?
……はい。
滅びゆく魂の気配を感じ、その悲痛なまでの願いに、私は応えた。
ありがとう、優しい女神よ、私は、君に救われたんだ。
では、最後に、陰陽師らしい事をさせて貰おうか。
「我が式姫、思兼よ、主が命ずる」
これは、私の願い。
君はそれを叶えるだけ。
だから、もう、泣くな。
黄龍を封じた、分厚い扉に向かい、都市王が剣を振りかぶる。
追いすがる閻魔と夜摩天も、ようやくその足を、階(きざはし)に掛けた所。
それを睥睨(へいげい)して、彼女は笑った。
「カケハ、ワラワノ!」
勝……そう吼えて、剣を振り下ろそうとする、その体を、緑の光が貫いた。
凄まじい威力をまざまざと示し、その巨体が宙を舞い、壁に矢で縫い止められた。
身をもがき、その矢を抜こうと触れた手が、瞬時に溶け崩れる。
自らの敗北を悟った、絶望と無念の叫びが、甲高い狐の鳴き声のように上がる。
完璧な力で深く体内に撃ちこまれた神の一矢。
叡智の征矢の力が、都市王の体内に張り巡らせた、殺生石の邪悪な力を浄化していく。
背中から伸びた腕がぐずりと崩れ落ち、巨体が徐々に元の都市王の姿を取り戻していく。
「オモイカネ……キサマァ!」
「賭けは貴女の負け」
思兼が静かに弓を下ろした。
その、彼女の姿もまた、この場に存在する力を失い、足元から薄れていく。
「……これで、良かったんですよね」
彼女がそう呟きながら向けた目の先には、もう、あの陰陽師の姿は無く。
力を使い果たした魂は、個を失い、その存在を、世界に還していた。
思兼が目を伏せる。
見事です、我が主よ。
その魂、そして、その生き様、我が胸に刻みましょう。
「玉藻の前、貴女は、最初から間違っていたんです」
なん……じゃと。
「貴女の賭けの勝負の相手は私ではなく、彼でした」
妾が、人に。
「貴女は自分が弄んできたつもりでいた、人の覚悟の前に負けたのです」
そして、巡らせた陰謀もまた。
「ご覧なさい」
消えゆく思兼が細い手を上げ、指差す先。
一人の人が身を起こす。
「そして今、貴女の陰謀も、ここに潰えました」
そう、宣し。
その言葉を最後に、知恵の女神の姿もまた、主の後を追うように、冥府の法廷から消えた。
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式姫の庭の二次創作小説です。
前話:http://www.tinami.com/view/989474