No.989784

橋の下のフローリア 第一幕「王宮」編

踊り子として王宮に忍び込んだスパイの女、フローリア。
王宮で周囲から「冷酷者」と呼ばれる貴族の男、シュツァーハイト。
やがて民衆たちによって国に革命が起こされ、二人の男女は時代の荒波に押し流される。
はるか遠くの異国の地にて、何の因果か逃避の旅路を共にすることになった二人。
自分という存在は何なのか考えながら。自分の罪と向き合いながら。二人は当てもない流浪の中で惹かれあっていく。

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2019-04-11 16:07:48 投稿 / 全13ページ    総閲覧数:830   閲覧ユーザー数:830

 

 

 月下に花が咲いた。

 

 舞台に見入る多くの者たちは、そう思って息を飲んだ。

 

 廊下を足早に進むある男も、賑やかなはずのホールが水を打ったように静まり返っていることに気づき、いつもは見向きもせず通り過ぎる場所で足を止めた。

 

 人々が視線を注ぐ先。意匠に曲線が多く用いられた装飾の舞台。

 

 数名ぽっちの楽団を隅に置き、一人の女が真ん中に立っていた。

 

 爪先立ちでピンと伸びた背筋に、天と正面に向かってのばされた腕。彼女はまるでロウ人形であるかのように、指先までピタリと動きを止めている。

 

 こんなに注視されているのだから何者かと思ったら、ただの踊り子か。

 

 忙しい男は、足を止めさせられたことをいらだちつつ思う。

 

 宮殿で暮らす貴族たちに演技を見せに来た芸者。目元をベールのような布で覆っていて顔はよく見えないが、さほど身分の高い女ではあるまい。

 

 有力貴族に気に入られたのか、あるいは体でも使ったのか。音に合わせてフラフラと動いているだけで金になるというのだから、気楽なものだ。

 

 男は侮蔑するようにそう心の中で皮肉ったが、音楽が始まり動き出した彼女を見て、その考えが間違いであることがすぐに分かった。

 

 男は、子供の頃に泉で見た、水辺で遊ぶ美しい小鳥を思い出した。

 

 いつもは大酒を食らってばかりのあのデブの貴族たちも、今ばかりは、初めてオートマタ(からくり人形)を見る子供のように、半口を開けて彼女の舞いに見入っている。

 

 舞台を広く動き回るも音はせず、まるで踏まれる床のことを気遣っているようにさえ見えた。

 

 しなやかなその体の動きは身軽な子猫のよう。軽やかに跳ねる姿は、重力から解き放たれたかのようだった。

 

 彼女が優雅に腕を払う。少し遅れて、薄手の衣装の腕飾りが、風を受けてふわりとついてくる。

 

 すらりと伸びた四肢を透ける布が覆っていて、筋肉の動きが読めない。だから彼女が次にどんな動きを披露するのか予想がつかず、期待感が増した。

 

 彼女の舞台に見入ってしまっていたということに男が気がついたのは、しばらく経ってからだった。

 

 彼女が優雅に一礼し、夢から覚めたような顔をした観衆たちが思い出したかのように拍手をしはじめ、その音で我に返った。

 

 表情らしい表情も浮かべぬまま、何を考えているか分からない冷たい目をした男は、そのまま無言でその場を去った。

 

 宵闇を華やかなオレンジが照らす夜。天井をガラスに切り抜かれたホールの空からは、月や星さえもが、彼女の舞台を見に来ていた。

 

 顔を覆うベールの下からわずかに覗く、彼女の薔薇色の唇は、三日月型に妖艶に曲げられていた。

 

 

 

 

 

 

 

 昼の宮殿は人が少ない。

 

 腰まである長さの、色素の薄いブラウンの髪を背中に流した女は、辺りをさりげなく見回しながら歩き、そう思った。

 

 夜の舞台上とはすっかり姿を変え、何層もフレアが重なったスカートに襟ぐりの広いトップスをあわせている。

 

 深い碧(みどり)色をした彼女の瞳が左右をうかがう。

 

 ここで暮らす多くの者たちは、まだそれぞれの部屋で過ごしているのだろう。

 

 貴族様たちは毎晩酒宴で忙しいものね、と女は心の中で毒づく。

 

 この国では、形骸的な頂点である王の地位を血縁者が代々世襲し、生まれで区分された身分である「貴族」らが、王の委任を受けるという形で政治の全てを行う。

 

 王宮の敷地内にあるこの一番豪華で大きな宮殿は、貴族たちが暮らし、政治を行う場所。政の中心地。

 

 一応、そのようなていになっているが、多くの国民たちはこの宮殿をそのようなものとして見ていない。

 

 堕落と怠惰の園。

 

 自分たちの裁量で国民たちから巻き上げた税金で、食い飲み遊ぶ貴族たち。総国民の五パーセントにも満たない者たちが、伝統ある血筋とやらを武器に、多くの人々にその暮らしを支えさせている。

 

 重税に苦しむ国民たちにとって、この宮殿はそんな貴族たちの奢侈の象徴だった。

 

 周りの外壁を一周するのに半日かかりそうな広さ。贅を尽くした重厚なデザインと、華美な装飾品。天井や壁面などあらゆる場所に描かれた華やかな壁画。いくつも吊るされたガラスのシャンデリア。

 

 国民一人が一生に稼ぐ全ての金をかけても買えないような宝石が、絵画が、調度品が、あらゆる場所に当たり前のように置かれている。

 

 女の歩く廊下に敷き詰められた絨毯は分厚く、足音を吸い込む。

 

 大人の背丈の三倍の高さはありそうな大きな窓ガラスからは、一つの葉の自由も許さず整形され、刈り込まれている木々が見える。窓ガラスの縁に沿う緩やかな金の曲線が、昼の高い日差しを浴びてキラリと光っていた。

 

 珍しく、宮殿の召使以外の姿を見つけた。

 

 丁度こちらの方向に歩いてくるもじゃもじゃした髪の毛のその男は、魔法の下手くそな魔女が、練習で熊を人間に変えてみたような容姿をしていた。

 

 その大柄な中年男性貴族は彼女の傍までくると、じぃと顔を見た。

 

「見ない顔だなぁ。召使ではないし……。一体何者だ?」

 

 いぶかしげなその言葉に、彼女は目を細め、薔薇色の唇を緩やかに曲げて微笑んでみせる。

 

「宮殿への出入りを特別に許されております、町の踊り子でございます」

 

 夜の舞台でのように、しなやかな腕と指先の動きで優雅に一礼した。

 

 スカートのすそを摘まみ、細く長い脚を覆うブーツの爪先を床に滑らせる。

 

 男は「ああ!」と、彼女の動きですぐにピンときたようだ。

 

 そしてその毛むくじゃらの手で彼女の白い手を取ると、指先にじゅっと口付けた。

 

 手を離さぬまま、視線は彼女を見上げ、熱く語る。

 

「毎晩、ホールに君の舞台を見に行っているよ。ベールの下はそんなに美しい顔をしていたんだね」

 

 そして男は彼女にこう耳打ちする。

 

「今夜、舞台が終わったら私の部屋に来ないかい。君の踊りの感想をたっぷり伝えたいんだ」

 

 彼女は黙ったまま、ずっと変わらぬ微笑を口元にたたえ、はいともいいえともつかない妖艶な眼差しを向けていた。

 

 ここで強引に迫るような真似は、男女の駆け引きでは無粋だ。

 

 男もニヤリと微笑んでみせると、手を離し、彼女に熱い視線を送ってその場を去った。

 

 女は去り行く男の背中に、また優雅に深く頭を下げてみせたが、その下を向いた顔は微塵も笑ってはいなかった。

 

 舌打ちが出そうになるのを何とかこらえ、男がキスした指先を服で何度も拭う。

 

 彼女は先を急いだ。

 

 向かう先は、ある重要な役職に就く有力貴族の執務室。

 

 人目がないか注意を払いつつ、密かに入手した合鍵で扉を開ける。

 

 室内に入り込むと彼女はすぐに机や棚をあさり、中の書類や書簡を探し出す。

 

 しなやかな指先が素早く紙をめくる。視線が文字列をなめらかになぞり、すぐに行を移る。

 

 この部屋には彼女しかいないけれど、誰かが見ていたのならば、彼女がただの踊り子ではないことは一目で分かっただろう。

 

 彼女が沢山の書類を見ていると、最新の政治計画のひとつのある項目が目に留まった。

 

 どうやら貴族たちはまた、国民の税負担を増やすつもりらしい。

 

 この王宮を中心とする「王都」。それを取り囲む城下の「市街」。そしてその華やかな周りに、カビが生えるように暗く広がる「貧民街」。

 

 王都に住まうは貴族。市街に住まうは、規定の税を納められる市民階級。そして貧民街には、税など納められるわけもない貧乏人、病人、孤児らがいた。

 

 更に書類を読み進めると、とんでもない計画が提案されていた。

 

 

 貧民街のスリグループの掃討作戦。誰かが貴族の財布に手を出したか何かで、それを名目に、なんと貧民街に火を放つというのだ。

 

 あそこに住まざるをえない人々の多くは、国の失政により家族を失った子供たちだ。

 

 火をつけるなどとんでもないことをする前に、やるべきことはもっとあるはず。

 

 それに、貧民街の奥深くでは、寝たきりの病人や老人たちも暮らしている。

 

 ただひっそりと死を待つだけの彼らさえも、燃やし尽くしてしまおうというのか。

 

 彼女の表情は険しい。

 

 教えないと。そして、阻止しないと。

 

 そう思った刹那、扉の外に気配を感じ、彼女は机の下に身を隠した。ドクンと跳ねる鼓動を抑えて息をひそめ、まるで自分の耳が扉についているかのごとく、全神経を廊下の方にやる。

 

 分厚い絨毯が足音を吸収していてほとんど聞こえないが、彼女の今までの経験と鋭い勘で、扉の傍から気配が去ったことを察知する。

 

 時間的に、そろそろ貴族たちが活動しはじめているのかもしれない。

 

 彼女は書類を元に戻し、十分に注意した上で部屋を抜け出した。

 

 何事もなかったかのように、先ほどと同じ微笑みをたたえ、しなやかに足を進める。

 

 向かいから貴族の女性がやってきたので、彼女はまた深く一礼した。

 

 貴族の女性は、関わりたくもない卑しいものを見下す目で彼女を一瞥する。分厚い羽の扇で隠した口元で、どんな聞くに堪えない暴言をこぼしているかは、聞き取りたくもなかった。

 

 彼女は心底不快に感じたが、同時に仕方のないことだとも思う。

 

 本来なら自分は、この王宮に立ち入ることのできるような立場の者ではないのだから。

 

 この王宮において、貴族以外は人間ではない。愛玩用の犬猫や、畜生と同じだ。

 

 そして彼女は、貧民街の生まれである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女は王宮の裏出口で、痩せた少年に小さなメモ書きを預けた。

 

 緑の茂るこの小さな中庭には、いつも人気がない。

 

 背の高い木々が城壁に落とす濃い影の中で、気をつけて帰るように言う。

 

 その時。

 

「貧民街のガキに食い残しをくれてやるな」

 

 遠くから急に男の声がして、彼女は立ち上がって宮殿の方を振り返った。

 

 かなり上背のある若い貴族の男が、宮殿の回廊からこちらに鋭い視線を向けている。

 

 整髪油で後ろに撫で付けられた、白みがかったシルバーブロンドの髪に、右目の眼窩には鎖のついた銀のモノクル(片眼鏡)がはめられている。その奥には青みがかった灰色の瞳が。

 

 職務中なのか、白い手袋をはめた手には大量の書類が抱えられていた。

 

「この王宮から出るものは、ゴミの一つであろうと全て貴族のものだ。王宮の周りで乞食をされても迷惑だ」

 

 温度を持たない声。

 

 とらえられたら凍り付いてしまいそうな冷酷な眼差し。人を上から見下すことに慣れている目だ。

 

 その男の態度は、逆らう者には容赦しない、と物語っていた。

 

 男に声をかけられたのとほぼ同時に、彼女が手紙を託した少年は風のように走り去った。勿論、男を睨みつけることを忘れずに。その信じられない足の速さは、捕まれば命を取られるまでタコ殴りにされるスリの恐怖から培われたものだ。

 

 別に、宮殿の残飯を分け与えていたわけではない。

 

 しかし、身分が絶対のこの場所で、そんな言い訳を出来る相手でもないだろう。

 

 がたいの良い男の身体を覆う立派な上着の左胸部分には、歩くと音がするほど多くの勲章が飾られていた。ここではその種類と数がものを言うのだ。

 

 彼女は深く一礼をする。

 

「大変失礼いたしました」

 

 彼女は大人だから、あの少年のように睨みつけたりなんてしない。

 

 どんなに不愉快な相手にだって、腹の立つ相手にだって、頭を下げたり微笑んでみせたりできる。

 

 男はなんの言葉も返さぬまま、言いたいことだけ言い、足早にその場を去った。彼の革靴が奏でる足音は、時を知らせる鐘の音のように狂いがない。

 

 彼女は頭を上げて彼の背を見た。

 

 彼女は自分の舞台を見に来る貴族の顔のほとんどを記憶していたが、あの男の顔は覚えがない。

 

 ろくに手もつけずに棄ててしまわれる宮殿のごちそう。ゴミと認識しているものでさえも、人に分け与えるつもりはないのか。お偉い貴族様の考えていることは分からないし、分かりたくもない。胸糞が悪い。

 

 彼女は本音が表情に出てしまわぬよう気をつけつつ、気持ちを静めようと一度深く呼吸した。

 

 木々の葉の隙間からこぼされる光をちらりちらりとその身に受けながら、彼女は自分の子供の頃を思い出す。

 

 両手からはいつもゴミの匂いがしていた。何度洗ったって落ちやしない、しみついた匂い。

 

 ゴミをあさって手に入れたわずかな食べ物も、持っていると襲われ奪われた。だから、得たものはその場で貪り食った。

 

 貧民街の暗い路地裏では、服を二枚持つものが、服を一枚しか持たない者に殴り殺されていた。

 

 犬猫と食料を争う。

 

 馬車が荷崩れして転がった作物に無我夢中で群がって、馬車を引く御者に靴の先で頭を蹴られたことがあった。その時頭皮がめくれた傷は、髪で隠れた中に今も痛々しく残っている。

 

 彼女に転機が訪れたのは、いつものように市街の細い路地でゴミあさりをしていた、ある時。

 

 見知らぬ大人の男性に声をかけられた。

 

「おい、そこの残飯あさりの子供。私に笑ってみせろ。そうしたら飯をやる」

 

 貴族ではない。けれど確かな威圧感のある壮年の男性に、彼女の周りにいた子供たちは転がるように駆けて逃げ出した。

 

 しかし、彼女は逃げなかった。

 

 凍りついた表情筋をありったけの力で動かして、男を見て笑ってみせた。

 

 それはとても笑顔と呼べるような代物ではなかったが、男は満足したのか彼女にこう言った。

 

「そうだ、それでいい。プライドなんてものがいくらあったって、腹は膨らまない。どんなに憎い相手にだって、媚びへつらって見せろ。自分を殺して残忍に、目的の為には手段を選ばず狡猾に。いかなる犠牲を払っても、耐え忍び、虎視眈々と準備して牙を磨き、最後に寝首をかき切った者の勝利だ」

 

 当時、彼女は満足に人と会話ができるほど言葉を理解できていなかったのだが、その男の存在感に、差し出された手を吸い込まれるように取っていた。

 

 それから彼女はスパイとして育てられた。

 

 男は、理不尽な貴族政治の打倒を画策する市民組織のリーダーだった。

 

 市民階級であっても、一部上位の知識階級でなければ、貴族と渡り合えるような十分な読み書きの能力を持ってはいなかった。

 

 貧民街の子供ならばその無学さは尚更だった。教育を受けるどころか生まれた頃から家族を持たず、最低限の言葉以外満足に話すことが出来ない者も多かったし、彼女もそんな一人だった。

 

 彼女に人間らしい生活を与え、化粧を施し、香水をふり、髪を整え、綺麗な服に身を包ませると、花のように可憐な美しさを持っていることが分かった。

 

 リーダーは彼女に、貴族と話せるだけの言葉と知識、礼儀と教養を教え込み、文字を教え、踊り子としての技術を身につけさせた。

 

 彼女は組織の大人たちとの関わりの中で、優雅に微笑む練習もした。一つ笑顔ととっても色々な種類があって、無邪気に笑うだけでなく、誘うように妖しく笑めるようにもなった。

 

 彼女は飲み込みが早く、身体能力にも優れており、演技の才能もあった。だんだん町で有名になり、その評判を耳にした貴族らにより、公演のため王宮に出入りすることが特例で許された。

 

 彼女が知る限り、それまで組織には彼女のような少女はおらず、年若い者といえば使い走りの少年が数人いたくらい。

 

 貧民街の少女を拾ってみたのも、きっと試しにだったか、もしくは気まぐれだったのかもしれない。

 

 彼女を拾ったリーダーは、流行り病で妻と娘を若くして亡くしていたし、組織には事情のある大人が多かった。だからか皆、彼女に何かを重ねていたのか、それなりに優しくしてくれていた。

 

 そして彼女も、もし家族というものを自分が持っていたのなら、きっと父親というのはリーダーのような存在だったのかな、とこっそり思っていた。

 

 だからこそ、例え身や心を削られるような任務であろうと、与えてもらった様々なことに報いれるのならば何でもする。そう固く心に決めていた。

 

 物心ついた頃から独りきりだった彼女には名前がなかった。

 

 貧民街の裏路地では、他の子供らから「橋の下」と呼ばれていた。いつも、ドブ川に架かる橋の下で眠るからだ。

 

 リーダーは彼女に相応しい名前をつけた。

 

 フローリア。

 

 私は、フローリア。

 

 そして彼女は、宮殿の回廊に足を進めた自分を怪しげに観察する存在に、まだ気がついていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 今宵もまた、ホールで酒宴が開かれていた。

 

 味が分かっているのかいないのか、分厚い肉を年代物の高価なワインで押し込む人々。

 

 その様は食事というよりもあらゆるものを吸い込んでいるかのようで、人の生まれながらの罪の一つに数えられるとされる「強欲」という言葉がよく似合った。

 

 肉にフォークをつき立てた白豚のような中年の貴族の男が、食事をしながら、その上座の傍に控えるように立つ背の高い若い貴族の男にこう言う。

 

「非常に心苦しいことだが……。財政は火の車だ。優れた政策を執り行うためにはもっと金が必要だ。税収を上げざるをえない。非常に心苦しいことだが……」

 

 所々耳障りなクチャクチャという咀嚼音が挟まれたが、男は顔色一つ変えず、「は」と承知の言葉だけ発した。

 

 指示を受けた男はすぐにその場を離れようとしたが、赤ら顔をした周りの貴族たちにこう声をかけられた。

 

「お前はやらないのか?」

 

 酒をぐいと差し出され、勧められるも、男は手をのばさない。

 

「勤勉なのもいいことだけど、経験豊富な人々の意見も聞かないとダメなんだぞ」

 

 「経験豊富な人々」の「勉強会」の様子を、男はカミソリのような鋭利な眼差しで見つめる。

 

 するとその時、場の空気がさっと変わった。

 

 音楽が始まった。ホールに賑やかさをそえる楽団に、これまでだったら居ることすら気づいていなかったのだが、今は違う。

 

 皆の食事する手が止まりだし、舞台袖から出てくるであろう存在に胸を高鳴らせる。

 

 男はそのタイミングを見計らい、足早にその場を後にした。

 

 彼の去りゆく背を一瞥したあと、酒を勧めていた貴族の男は小声で言う。

 

「……酒も飯も興味がない、そしてこの素晴らしい舞いの魅力も理解できない。あの男は人の感情が分からないんじゃないか?」

 

 その不満げな言葉に、上座の太った中年の男は含むように笑った。

 

「そうさ。あの男には感情がない。どんな残酷な作戦も、指示すれば冷徹に計画し、実行する。人が死んでも殺されてもなんとも思わない人間に、この舞台の素晴らしさが分かると思うかね」

 

 そしてワインをゴブゴブと喉に流してから言葉を続ける。

 

「あの光のない目で見られると、自分がまだ人間的で、優しい存在であると自覚できるよ」

 

 隣でククククと笑う男の妻も、目を細めてこう言う。

 

「どんな残忍な作戦でもやりきる冷血な男……。だから皆、あの男のことを『冷酷者(ルシュレヒタ)』と呼ぶのよ」

 

 給仕の召使たちにより、周囲の燭台の灯りが一斉に落とされる。照らされるは舞台だけとなり、月明かりの優しい光がフロア全体を包み込む。

 

 廊下を歩いていても、男はあの踊り子が舞台に出てきたのが分かった。

 

 皆が同時に息を飲むから、嫌でも気づくのだ。

 

 舞台から遠く離れた場所だったが、男はちらりとそちらに視線を向け、足を止めた。

 

 奏でられる音楽は古典の名曲、悲恋を歌った曲だ。

 

 踊り子はいつもの通り目元をベールのような薄い布で覆っていて、表情が分からない。

 

 それでも、いや、見えないからこそ、彼女の舞う姿は様々な状況を表現してみえた。

 

 初めての恋に少女が心躍らすさまに見え、少女の想いを許さぬ大人たちに見え、悲しみのまま命を落とした恋人を追い、身を投げるように見えた。

 

 セリフや歌が一つもなくとも、曲の見せ場のシーンでは涙を拭っている観客もいた。

 

 男はまた、しばらくして周囲の拍手の音と共に、その場を去った。

 

 男はこの宮殿の現在の最高権力者の執務室に向かった。その部屋に自由な出入りを許されている人間はそう多くない。

 

 人々がホールに集い、すっかり静かになった廊下を進む。点々と灯りがともされ、大きな窓から月光が注ぎ込まれているため、日中ほどとはいかないまでも十分に明るい。

 

 目的の室内に入り、机上の燭台に火をともすと、豪華にしつらえられた部屋がその姿を浮かび上がらせる。宝石のあしらわれた高価な調度品、背の高い本棚。踏みつける絨毯には意匠の凝らされた柄が編まれ、男の腰周りよりも太い口をした花瓶には大輪の花が生けられていた。

 

 男はそれらには目もくれず、棚から書類を引き出す。そして諸外国からの書簡に目を通す。

 

 返信内容の基本的な指示だけ受けると、あとは文面を作成するのは彼の仕事だ。

 

 彼はあらゆる近隣諸国の言語に精通していたし、公的な書面には国ごとにより様々な形式や決まりがあり、それらをきちんと理解していた。そして綺麗な文字を早く書くこともできた。

 

 一般的な市民より抜きん出て読み書きができたため、幼い頃に城に入り、簡単な事務などを手伝っていた。

 

 そして彼は優れた頭脳と機転による数々の功績をたたえられ、市民の出でありながら、多くの貴族らと同じように胸に沢山の勲章をぶら下げるようになった。その数の多さでは、どんな名のある血筋の貴族にも引けを取らないだろう。

 

 今では恐らく、彼が貴族の生まれでないことを知っている者の方が少ないかもしれない。

 

 有能なこの男を取り立てた権力者たちは、彼を傍に置き、あらゆる作戦を指示し、実行に移させた。

 

 どんな残酷な作戦でも顔色一つ変えずに完璧に遂行させる彼を、周囲は「冷酷者」を意味する言葉「ルシュレヒタ」の異名で呼ぶようになった。

 

 締め切った部屋に、遠くからかすかに音楽が聞こえてくる。切なくも美しい旋律。

 

 男は、自分が知らない曲だったので、きっと今の町の流行りの歌か何かなんだろうと察した。

 

 おもむろに窓を開けると、ふわりとした夜風にのって音が流れ込んできた。

 

 男は視線だけで、窓から下の景色を見つめた。宮殿の最上階に当たるこのフロアからだと、少し離れた所にあるホールの明かりが見える。きっとあの踊り子が舞台で舞っているのだろう。

 

 見下ろす彼の目に、何か感情が宿っているようには見えない。彼にとって目は、情景を写し取り情報を読み取るためのもの。ただそれだけ。そこから何かが発せられることはない。

 

 男は目を伏せて曲を聴こうとしたが、すぐにやめた。

 

 自分は、美しい音楽に聞き入っている場合ではない。

 

 やらねばならないことがある。

 

 彼から喜怒哀楽は感じられない。怒りや不安の感情を押さえるには、他の感情も全て封印するしかない。ポジティブな感情だけ表出するなんて器用なことは、出来なかった。

 

 彼からそういったもの引き出すにはきっと、何重もの包装を開け、何層もの箱を開き、厳重な鍵を解錠しなければならないだろう。

 

 そして冷酷者(ルシュレヒタ)は今日も手を動かす。

 

 

 

 

 

 

 

 情報を探っていく中で、フローリアは知った。

 

 冷たい目をしたあの男。人々に「冷酷者(ルシュレヒタ)」と呼ばれるその男が、貧民街のスリグループの掃討作戦の指揮を執っているそうだ。

 

 話を聞くと皆が口を揃えて言う。あの男は、指示されたことはそれが例えどんな残酷な行為でもやり遂げる、と。過去に彼が実行した計画のいくつかを聞き出せたが、それはとても信じられない、信じがたいものだった。

 

 こんなことを指示する人間が一番おかしいのは決まっている。しかし、それを顔色一つ変えず実行に移せる人間も、十分に恐ろしいと感じる。

 

 いつもの夜の公演を終えた彼女は、宮殿を出たと見せかけて、真夜中に再度忍び込んでいた。背の高い大きな窓から差し込む月明かりを避け、暗闇を選んで歩く。

 

 入り口に大柄な門番が居たけれど、艶かしいウインク一つですり抜けた。

 

 宮殿の中心部には行政に関連する執務室や会議室が多く入り、そこから色々な建物に繋がっている。彼女が踊る舞台があるホールも、サロンも、書庫も、宝物庫も。

 

 そしてそこからまた細く枝が伸びるようにして、個人の部屋が並ぶ大きな建物がいくつも続く。千を超えるその室数は、一つの建物に入りきることは到底不可能で、階級ごと、または権力の強さや各勢力の対立関係を考慮した場所に、それぞれの部屋が割り振られていた。

 

 フローリアが足を進めるその先は、宮殿の中心部から大分離れた場所にあった。会議室の並びを抜け、ホールを横目に見送り、細長い回廊を通る。廊下の灯はほとんど落とされていて、月光に見放された場所は不安になるほど真っ暗だった。たどり着いた建物全体に、シンと静寂がなだれこんでいる。

 

 目的の建物の最上階。絶対に間違えぬよう階段から室数を一つ一つ数え、あの男の部屋を訪ねた。勿論、約束も予告もなく。

 

 彼女は扉を三度、小さくノックした。

 

 少し間があってから、扉が細く開かれる。

 

 光の宿らぬ目をした男は、探るような視線を向けてくる。

 

「入れていただいてもよろしいでしょうか?」

 

 彼女は薔薇色の口紅が引かれた唇を動かして、用意しておいたセリフをなぞる。

 

 細められた彼女の目は、自分が部屋の入り口に立っているこんなところを誰かに見られたら、あなたが困るんじゃないの? と語っていた。

 

 いつもは整髪油で後ろに撫で付けられた男の髪も、真夜中の今ばかりはくたりと前に落ちている。少し湿った髪の毛先が、モノクルを外した目の前をちらついていた。

 

 何を考えているか読めない無表情で、男は彼女一人が通れるだけの隙間を開けた。

 

 計画通り。彼女は色っぽく微笑み、部屋の中に体を滑り込ませた。

 

 が、しかし。

 

 男は彼女を、テーブルの上の蝋燭だけが灯った薄暗い室内に入れると、その一歩から先を進ませなかった。

 

 背後すぐで扉が閉まりきり、前方を男の体に塞がれ、そこからわずかも身動きが取れずフローリアは体をすくめる。

 

 予想外の展開に彼をちらと見上げると、恐ろしいとさえ思えるほど冷たい目をした男が、自分を視線だけで見下ろしていた。蝋燭のほのかな明かりも、彼が背負う形になっているから、彼女から見る彼の顔には大きく影が落ちていた。

 

「何が目的だ」

 

 フローリアはイレギュラーな反応に焦りを覚えた。しかしそれを顔に出すことはない。媚びるように笑んでみせる。

 

「お疲れではないかと思いまして」

 

 だが、自分のペースには全く持っていけない。

 

 男はナイフのように尖った言葉を彼女に浴びせる。

 

「貴様は個人の部屋にまで舞いを見せに来るんだな。まさかそれ以上のこともして回っているのか? 下卑た女め」

 

 彼女はスパイとして、自分の感じる感情の一切を押し殺し、微笑みを崩さない。

 

「……冷酷者(ルシュレヒタ)様のご想像のままに」

 

 その言葉に何の反応も示さず、男は彼女に詰問する。

 

「それで、なけなしの自分の持てるもの全てを差し出してでも、貴様は何を望もうとしている」

 

 男が何かを手にしているわけでもないのに、下手なことを口にしたら、そのまま切り裂かれてしまいそうだとさえ思った。フローリアは、今感じているこれが「恐怖」というものなんだと理解した。

 

 表情に微笑みを保てていたか分からない。彼女は刃物の切っ先を喉元に向けられているような気持ちで、固いつばを飲み込む。

 

 声が強張る。これは嘘や遠回しな言葉を使ってもしょうがないだろう、と思った。

 

「貧民街に火を放つのは、どうかおやめください」

 

「……なぜ」

 

 少し思考するような間をおいて、男は再度問うた。

 

 彼女は自分のまつげが震えそうになるのを感じていた。思考の読めない彼の暗い目と見つめ合うのが苦しくて、目を逸らしてこう続ける。

 

「あんな者たちでも、いなくなれば税収が下がるかもしれませんし、貧民街から市街に汚い人々が出てきたら、市街に赴く機会のある貴族の方々もきっと不快な――」

 

「違う」

 

 彼女が何とか並べようとした言葉をさえぎり、男は彼女のあごを片手で引いて強引に自分の方に向け、強制的に自分の目と見つめ合わせた。

 

 男は自分の顔を彼女に寄せ、至近距離でこう迫る。

 

「貴様がなぜ、わざわざ自分の身を差し出してまでそんなことを願うのか訊いてる」

 

 自分の流れに持っていけない、どころじゃない。圧倒的なまでの彼の流れから逃れられない。

 

 彼女は表情をボロボロに剥がされながらも、歯が震えないように必死で噛み締めながら、

 

「……貧民街の人たちを、殺さないで」

 

 とだけ、何とか声を震えさせずに言えた。

 

 男は黙ったまま彼女の目を見ていた。そしてほんのわずかに眉をひそめる。

 

「踊り子。名前は」

 

 なぜ今、そんなことを訊くのかと不思議に思いつつ、この質問に答えない権利など自分には無いのだと分かっている。

 

 彼女は自分の大事な名前を口にした。

 

「……フローリア」

 

 男は彼女の小さなあごを片手で拘束したまま、少し考えるように目を細めると、こうつぶやいた。

 

「フローリア……。そうか、お前、あの時の貧民街の拾われ娘か」

 

 彼の言葉に、フローリアはすぐ目の前の彼の顔を凝視した。

 

 

 

 

 

 

 

 フローリアが目を見張ったのを見て、男は彼女から体を離した。そのまま彼女の背後の扉の錠をガチャリとかけると、何も言わず部屋の奥へ向かった。

 

 フローリアは何が起こったのか全く分からず、しばらく目をしばたかせたままだった。彼の今の言葉は、一体。

 

 ここで突っ立っていても背後の扉は施錠されているし、彼の背に続かざるをえない。

 

 この恐ろしい男の部屋に招かれるなど、猛獣が大きく口を開いた中に飛び込んで行くのと同じ。

 

 フローリアは胸元に両手を重ね、一度静かに呼吸をしてから、意を決して足を踏み出した。

 

 男は小さめのテーブルの上の蝋燭以外に、棚にある燭台にも火を灯した。

 

 真夜中の部屋は薄明るく照らされる。

 

 盗み見る限り、男の広い部屋から、性格やその人の色といったものは全く感じられなかった。好みや思い出も分からない、個性のない、そこに暮らす人間のことを何も語らぬ部屋だった。

 

 大きなベッドにはシーツに波が寄っていて、きっと彼は就寝直前だったのだろうと分かった。

 

 居場所なくそこに立ち尽くす彼女は、彼の姿を目で追う。ゆったりとした長いガウンに身を包んだ男は、棚から酒のボトルをつかみ出すと、ガラス製のアイスペール(氷入れ)から二つのグラスに氷を入れ、テーブルに置いた。

 

 男はテーブルに添えられた椅子の一つに腰掛け、酒を注いだ。

 

 もう一つのグラスが置かれた位置と余った椅子からして、フローリアは自分がそこに座るべきなのだろうと察した。

 

 彼女は遠慮がちに椅子を引くと、身を小さくしたまま浅く腰掛ける。

 

 男はそんな緊張した様子の彼女には目をくれず、酒を一口飲んで、部屋の壁よりもっと遠くを見つめるようにして、こうつぶやいた。

 

「何もかもが懐かしい。クルデリヒの奴は相変わらずなのか?」

 

 クルデリヒ。それは彼女を貧民街から拾い、彼女に名を与えた、組織のリーダーの名前だった。

 

 この男がなぜその名を知っているのか。彼女は自分の想定をはるかに超えた事態に何も喋れない。

 

 小さなテーブルに対しハの字に置かれた二つの椅子は、真っすぐ座ると互いの視線は交わらないのだけれど、ちらりちらりと横目に彼を見る。

 

「この名を口にするのも何年ぶりのことか」

 

 男は彼女の返事を待たず、言葉を続けた。

 

「お前のことは覚えてる。俺がこの王宮に入る直前のことだったから、ほんのわずかな期間だったけれど。貧民街から、読み書きも分からない、まともに話すこともできない汚い子供を拾ってきて、スパイに育て上げるなんて、クルデリヒは何を考えているんだと思っていた」

 

 スパイ、という単語にドキッとする。

 

 彼女は今、自分がどんな表情を浮かべたらいいのか、どんな態度をしていたらいいのか全く判断がつかないままだった。

 

 男は彼女に視線をやった。それは優しいものでも暖かいものでもなかったけれど、先程よりは余程柔らかいものだった。

 

「ただ、まあ……今のお前を見ていると、クルデリヒの考えもそう間違ってはいなかったんだろうと思う」

 

 男はもう一度酒を口にした。

 

 フローリアは決心して、まごつきながらも彼にこう質問した。

 

「どうしてそんなことを知ってるの? 私のこととか、クルデリヒのこととか……。上の方の貴族の人たちは、そんなことまで全部知ってるの?」

 

 敬語はやめた。何となく、今の彼に対して使うのがおかしいような気がしたから。男もそれを特に指摘したりしなかった。

 

 その代わり返ってきた一言は、驚きの色がほとんどにじんでいない「まさか」だった。

 

「そんなことあるわけがない。俺がそれを知っているのは、俺もお前と同じ立場の人間だからだ」

 

 フローリアの口から漏れるはずだった「え?」が、彼の眼差しに押し戻される。

 

 彼がじっと自分を見ている。さっきと違って怖いとは思わなかったけれど、その瞳は底のない泉のように深かった。

 

「俺は、今のお前よりももっともっと若い頃からこの王宮に入り込み、ずっと長いことここにいる」

 

 彼女が視線を逸らした先に、いつもの職務中の彼の上着がかかっているのが目に入った。胸元に数々の立派な勲章が飾られている。ここでの立場はこれがものを言う。

 

 彼女は彼に、恐る恐るこう訊いた。

 

「でも、私、ここに同じようなスパイの人がいるなんて知らされてなかったわ。クルデリヒも言ってなかった」

 

 男がグラスを軽く傾けて、氷が音を立てる。

 

「それは……俺が組織を裏切ったと思われているから、だろうな」

 

「裏切った……?」

 

 不穏な言葉に反射的に身構えてしまう。

 

「俺は裏切ったつもりなんてない。俺の志は、この王宮に初めて足を踏み入れた時から何ら変わってない。この理不尽でおかしな政治体制を打ち倒し、市民のための国を作る」

 

 彼が嘘をついているようには全く思えなかったのだが、腑に落ちないことがあって、フローリアは尋ねた。

 

「でも、あなたは残酷な計画を沢山実行したと聞いたわ」

 

 男は少し間を置き、うなずく。

 

「その通りだ。ただ、目先の小さな事象を阻止したとて、根本はどうにもならない。この先にもっと酷い政策が行われると分かっているのに、そこで正体が露見してしまったり、姿をくらまさなければならない状況になるわけにはいかない」

 

 闇を見据える男の顔つきは険しい。

 

「俺はのし上がるだけのし上がって、いつか政治そのものをひっくり返す。本当に止めなければならない、とんでもない計画の実行を阻止できるように」

 

 彼の言葉を聞いても、彼女は安易にうなずくことはできなかった。責めるような言葉が口をついてしまう。

 

「だからといって……。あなたの実行した計画のせいで被害を受けた人たちは、確かにいるのよ」

 

「じゃあ、その人々だけを助けて、後からもっと被害を受けるであろう別の人々は見捨てたらよかったのか? 今だって、指示される数々の酷い計画を、より最小被害で済むように計算し、どうにもならなければ代替案を出すよう努めている。俺がここから居なくなれば、暴走した政治はもっと酷いことになる」

 

 フローリアは視線を太股の上の小さな拳にやって、黙っている。

 

 男は、目力で気圧せば、彼女を無理にうなずかせることもできた。

 

 だが、男は口に酒を含み、喉に押し流すと、静かにこう言った。

 

「……まあ、クルデリヒも納得しなかったからな。お前が不満に思うのは、予想の範囲内だ」

 

 彼の言葉ににじんだほんのわずかな寂しさに、彼女は質問を変えた。

 

「……あなたはクルデリヒや組織のみんなに裏切ったと思われてる。それでもあなたがスパイとして頑張り続けるのはどうしてなの?」

 

 彼は問い返す。

 

「お前こそ、どうしてそこまで身を尽くす? 読み、話せ、人並みの生活が出来る人間になった。組織から離れ、こんな身を削るような真似を続けなくてもいいはずだ」

 

 彼の問いに、彼女は真っすぐな瞳で答えた。

 

「貧民街から拾ってくれたクルデリヒや、私をまともな人間にしてくれた組織の人たちのためよ。国を倒すとか市民の政治を行うとか、難しいことは正直あまりよく分からないの。でも私は、少なくとも私の周りの人たちに、不幸せな気持ちになってほしいとは思わない」

 

 口には出さないけれど、家族のように思っている集団。組織が何かを望むのなら、みんなのために、みんなの力になりたい。

 

 男は彼女の言葉を聞いて、こう返した。

 

「じゃあ、俺もそうだ。会ったことも見たこともない人々のために、曖昧な正義感や義務感で動けるほど俺は出来た人間じゃない。顔を思い出せる全ての人々のために。例え相手がこちらを見切っていようとも、最後まで志を貫く。俺は、今の時代がひっくり返った後の覚悟も決めている」

 

 彼の言葉に迷いはない。

 

 でも。

 

 フローリアは、それでいいの? とも思う。

 

 あなたが志を全うした時、全てが終わった時、新しい世界には、新しい時代には、あなたを笑顔で迎えてくれる人たちはいないのに。

 

 その時ふと、彼の口から、彼女の聞き覚えのある言葉がこぼれてきた。

 

「……『自分を殺して残忍に、目的の為には手段を選ばず狡猾に。いかなる犠牲を払っても、耐え忍び、虎視眈々と準備して牙を磨き、最後に寝首をかき切った者の勝利だ』」

 

「クルデリヒの口癖ね?」

 

 男はうなずく。

 

 これをそらで言えるなんて、ここまで話していて別に疑っていたわけではないけれど、彼は本当に組織の人間だったんだなと思う。

 

「ねえ。あなたはどうして組織にいた……組織にいるの?」

 

 自分は裏切ったつもりはない、と言う彼に気を遣って、言葉の終わりを訂正する。

 

 男は特に気にするような様子も見せず淡々と答えた。

 

「よくある話だ。元々市民階級だったが、子供の頃に流行り病で両親が亡くなり、路頭に迷っていたところを組織に拾われた。両親が知識階級だったから、俺は昔から人並み以上の読み書きや、学問の基本的なことは出来た。それからスパイとして事務手伝いから王宮に入り、ここまできた」

 

 事務手伝いからここまでのし上がった結果得た、この広い部屋で、同じく得た酒を囲む二人。

 

 フローリアはまた尋ねた。

 

「どうして裏切ったと思われてしまったの? それと、どうして裏切ったと思われたことが分かったの?」

 

「俺が酷い計画を進んで実行していると思われているからだろう。クルデリヒが阻止して欲しかった計画も、俺は阻止をしなかった。俺は細かいことを組織の連中に説明したかったが、この立場を危ぶませず伝える手段がなかった。短時間の密会で簡潔に伝えることは難しいし、使いの子供に細かいことを書いた書簡を持たせるのは危険が大きい」

 

 男は酒をあおる。

 

「そのうち使いが来なくなり、代わりに俺を殺そうとするスパイが王宮に送り込まれた」

 

 驚いて目を丸くするフローリアに、男はその暗い瞳を向ける。

 

 フローリアは思わずどもってしまいながら、慌てて胸の前で両手を振った。

 

「わっ、私はそんなことするようになんて言われてないわよ。そもそも、あなたみたいな人がここにいるなんてことも、全然知らなかったんだもの」

 

 言葉を重ねるほどになぜか嘘っぽさが増してしまい、フローリアはこの状況を打開できるような言葉を必死で探した。

 

 だが。

 

 男は「ふ」と少しだけ小さく笑い、皮肉めいた表情を見せた。

 

「お前のような小娘に殺せると思われるほど、俺が過小評価されているとは思いたくないな」

 

 フローリアが初めて見た、男の表情らしい表情だった。

 

 でも、よく考えたら自分がバカにされたのだと分かって、ちょっとだけムッとした。さっきまでとは事情が違う。立場が同じだと分かったのだから、遠慮する必要はない。

 

「あなた、いくつ?」

 

 今まで聞いた話から察するに、自分より年上であることは間違いなさそうだが、見た目を観察するとそう大きく年が離れているようには思えない。

 

 大体五、六歳くらい上だろうか、と当たりをつけつつ尋ねてみた。

 

 男はあごに手をやり宙を見やると、さらりととんでもないことを言い出した。

 

「実年齢はいくつだったかな。子供の頃から体がでかかったし、ここに入る時に年齢を大分上にごまかして、以来ずっとそれで過ごすように心がけていたら、忘れた」

 

 驚くのを通り越して、フローリアは引いてしまう。自分の年齢を忘れてしまう人がいるなんて、頓着がないにしてもほどがある。

 

 ぎょっとする彼女に構わず、男は突然、こんなことを口にした。

 

「……お前の舞台、少しだけだが、見たよ。スパイとして忍び込むためだけにあそこまで仕上げたのなら、大した技術力と表現力だ」

 

 一応、見ていたのか。フローリアは何となく気恥ずかしくて、自然と視線を逸らしてしまう。声が少しこもり、小さくなる。

 

「……割と好きなのよ、ああいうの」

 

 いつもは下心丸出しで大げさに褒め称えられるか、極端にけなされるかで、こういう風に自然に褒められることはほとんどなかった。

 

 しかも、この男がまさかこんな風に言うとは全く予想しておらず、どうしたらいいか分からなくて、目の前の酒の入ったグラスを初めて手に取った。

 

 そして、カハッ、と盛大にむせる。

 

「つ、強いわ、これ……」

 

 喉が焼けるよう。一体何が入っているの、とでも言いたげな視線をグラスに向ける。

 

 男は呆れたように、

 

「そんなに一気に飲むからだろ……」

 

 と口にした。

 

 テーブルの上の蝋燭はだらだら汗をかき、随分とその背丈を縮めていた。

 

 薄く細かい模様の入った壁紙に、二人の影が映し出されている。

 

 星も眠る真夜中。この部屋だけが時間の流れから切り取られたかのような、静かで、不思議と穏やかな時間は過ぎる。

 

 そして。

 

 火は消される。

 

 彼女を部屋から送り出す時、男は扉を開ける前に、最後に壁際でこう言った。

 

「もう二度と、俺に接触するんじゃない」

 

 彼女は男の顔を見上げ、その言葉の意味を少し考えてから、間を置いてゆっくりうなずいた。

 

 窓から部屋に注がれる強い月光で、互いの表情が分かるくらいには明るい。

 

 そして、彼女も彼に最後の質問をする。

 

「最後に、冷酷者(ルシュレヒタ)なんて通り名じゃなくて、あなたの本当の名前を教えて。それまで忘れたなんてことはないでしょう?」

 

 彼を見上げる、月明かりの溶け込んだ丸い二つの瞳。

 

 まあ、自分以外に一人くらい、本当の名を覚えている奴がいてもいいか。そう思って彼は、もう何年も口にしていなかった名前を口にする。

 

「シュツァーハイト、だ」

 

 彼女はいつものようなよそ行きの笑顔でなく、うっすらとだけ微笑みをたたえた。

 

「そう。おやすみ、シュツァーハイト。お酒をごちそうさま」

 

 別れの言葉の代わりにそう残して、彼女は扉を開け、暗闇に姿を消した。

 

 自分の本当の名前が呼ばれるのを久々に聞いて、シュツァーハイトはとても自分のことのようには思えず、まるで他人の会話をどこかで聞いているようだと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 フローリアは不穏な動きを感じていた。

 

 王宮からではない。組織側からだ。

 

 伝達の手紙を届けてくれる少年が言うには、組織に続々と味方が増えているらしい。また、反政府組織はクルデリヒがリーダーを務めるところ以外にも、大小様々あるのだが、最近その勢力が一つの大きなものにまとまりつつあるそうだ。

 

 もっと細かなことを聴きたかったけれど、少年のつたない説明では限界があった。

 

 何より不安だったのは、使いの少年が気づくくらい大きな変化があるらしいというのに、クルデリヒから送られる伝達の手紙には「特に変化はなし」とつづられていることだった。

 

 細かく説明するだけの余裕と時間が今は無いのか。それとも、この簡単なメモ書きで簡潔に伝えられるような事柄ではないのか。

 

 フローリアは、読みきるとすぐにその紙を燃やした。

 

 王宮の裏出口に通じる中庭をあとにし、回廊を歩く。

 

 すると、向かう先から誰かがこちらに歩いてくるのが分かった。二人の男性貴族だ。

 

 前を歩く男は、禿げ上がった頭を光らせ、一体中に何を入れているのだろうと思えるくらい腹が飛び出ている。きっと採寸する服職人も苦労しているに違いない。

 

 そしてその少し後ろに従うように歩くは、いつかの夜ぶりに見るシュツァーハイトだった。

 

 冷酷者(ルシュレヒタ)の名の通り、モノクル越しの片目に冷徹な眼差しを覗かせ、髪はしっかりと後ろに撫で付けられている。歩くたび胸の勲章が音を立てる。

 

 前を歩く男はフローリアの存在を認めると、少し駆け足になって彼女に近づいた。

 

 同時に彼女は深く頭を下げ、優雅な仕草で一礼してみせる。

 

 男は抱きつかんほどの勢いで彼女のなめらかな手を取り、誘うような眼差しを彼女に向ける。それは笑えてしまうほど全く様になっていなかったのだが、本人はいたってまじめなようで、彼女のほっそりした指先にぶじゅりと熱く口付ける。

 

 舌先が少し肌に触れたような気がして、フローリアは自分の演技力と忍耐力が試されていると思った。

 

「昨晩の舞いも素晴らしかったよ。いつか私のためだけに、可憐な君の美しい全てを見せておくれ」

 

 彼女は目を細め、唇をゆるやかに曲げてみせる。

 

 男の後ろに控えて足を止めているシュツァーハイトは、いつもの通り顔色一つ変えない。

 

 それもそう。あの晩二人は、彼女が彼の部屋を出た地点で、知りもしない他人になった。お互い達成したい志が、任務があるからこそ。二人につながりがあるなどと周囲に感付かれたら、立場が危うくなるかもしれない。

 

 二人にとって一番安全な策が、他人に戻ることだった。

 

 男が名残惜しそうに彼女の柔らかな温もりを手放し、足を進めると、シュツァーハイトも黙ってそれに続いた。

 

 二人の姿を見送る彼女はしばらく頭を下げていたが、突然近くから女の声がして、反射的に頭を上げた。

 

「随分他人行儀じゃないかい」

 

 背後に立っていたのは、貴族の女。どこの有力貴族の妻だろうか、身にまとったドレスは周囲のどの者よりも金がかかっていることが分かったし、口元を隠す羽の扇も一段と大きく豪勢なデザインだった。

 

 ただ、それらは正直、その女の見た目にはそぐわぬものだった。あと彼女が十、いや二十若ければ、下界に降り立った女神のように似合っていたことだろう。

 

 しかし、今のこの、去りゆくなけなしの若さにすがりつくような格好が、彼女の本来の魅力を殺していた。

 

 それよりも。

 

 気になるのは、女の意味深長なセリフである。

 

 合点のいかない様子のフローリアに、女は嗤うように言ってやった。

 

「アンタ。いつかの晩、あの冷酷者(ルシュレヒタ)の部屋に行ってたろう?」

 

 とっさに反応してしまわぬよう動きを抑え込んだことにより、「えっ?」となるべきだった表情が遅れて、逆に不自然になってしまった。フローリアはそれを強く後悔した。

 

 これでは認めてしまっているようなものだ。

 

 貴族の女は、大きな扇で隠した口元をニヤリと歪ませる。

 

「若さと女を武器に、下賎な女が何をしてたんだか」

 

 見られていたのか。

 

 シュツァーハイトが自分と同じ立場の人間だと分かった今となっては、自分の軽率さをただ悔やんだ。

 

 あの夜、自分が部屋を訪ねているところを人に見られたら困るでしょう、と圧をかけて、強引に中に入ろうとした。

 

 結果的にそれは成功したのだが、まさか本当に誰かに見られていたなんて。

 

 彼女は動揺を悟られないよう、どうとでも取れるように「そうですね」と薄く微笑んでみせた。

 

 貴族の女はなお言う。

 

「裏出口で汚い外の子供を手なずけて、何をしているのか知らないけど……」

 

 まさかそれまで見られていたとは。

 

 そしてフローリアは、その時ふいに思い出した。初めてシュツァーハイトに会った時、中庭で「ガキに食い残しをくれてやるな」と声をかけられたのだ。

 

 彼は、フローリアを観察するこの貴族の女の存在に気づいていたのかもしれない。きっと、だからあの時あんな言葉をかけたのだろう。

 

 この貴族の女の目は、まるで蛇のようだと思った。絡みつかれたら二度と離してもらえない、そんな雰囲気がした。シュツァーハイトも、この女の陰湿さをよく分かっていたに違いない。

 

 そして女はフローリアを視界の真ん中にとらえ、笑っていない目でこう言う。

 

「私はアンタを殺したいほど憎んでるわ」

 

 市街では女の観客やファンも少なくはなかったが、この王宮の女たちの多くに良く思われていないことは重々分かっていた。

 

 特に、いい年をした男たちを次々骨抜きにしているのだから、女として見られなくなりつつあるその妻たちにとっては、不愉快極まりないだろう。

 

 女はフローリアに陰湿な言葉の数々を浴びせられるだけ浴びせると、フンと居なくなった。

 

 フローリアは思う。

 

 そろそろここを抜け出す頃合かもしれない。

 

 クルデリヒにも直接色々なことを聞きたい。

 

 スリグループの掃討作戦で貧民街に火がつけられるかもしれないということは、手紙で一応伝えはした。シュツァーハイトは、火をつけるというのは出来る限り回避する方向に持っていきたい、と言っていたけれど、万一のことがあっては困るし、その対策の相談もしたい。

 

 しかし、彼女の判断は遅れた。

 

 

 

 

 

 

 

 シュツァーハイトは、現在自分の補佐する有力貴族の男が、ここ数日妙に気を落としていることに気がついていた。

 

 自分から何かを問うことは絶対にしないが、周囲との会話に聞き耳を立てておく。

 

 会議室を出た男に付き従い、共に廊下を進む。その時一組の貴族夫婦とすれ違った。

 

「やあ、浮かない顔をしてどうしたんだ」

 

 夫婦の夫の方が、男に労わるように声をかける。

 

 男は辛そうに首を振り、深くため息をついてみせた。

 

「昨日も、一昨日も、いつもの舞台が公演されなかったんだ……。それは暗くもなるよ。あの美しい舞いを見るのが、私の数少ない生きがいだったのに。今日もやらないっていうんだから、踊り子は怪我か病気でもしたのだろうか。心配だ……」

 

 そう苦しげに、うなるように男は言った。

 

 シュツァーハイトは彼女が舞台を休んでいることなど知りもしなかった。一昨日からということは、今日で三日目。もしや、スパイ活動を引き上げ組織に帰ったのだろうか。

 

 無表情の仮面の下でそんなことを淡々と考えていたが、夫婦の妻の方が口にした言葉に、思考は止まった。

 

「あら、ご存知なくって? あの踊り子の女、スパイの疑いで捕まりましたのよ。今頃は王宮の地下牢ですわ」

 

 男は「そんな馬鹿な!」と、役者も顔負けの身振り手振りで信じられない気持ちを表現していたが、口元を大きな扇で隠した貴族の妻は、なぜか視線をシュツァーハイトにやっていた。

 

 この女がなぜ執拗に自分を見つめてくるのか分からなかったが、シュツァーハイトはこの情報を自分の中に入れないように努めた。

 

 もし彼女がスパイとしてこのまま殺されるようなことになったとしても、自分は決して関わってはならない。これまで気が遠くなるほどの長きをかけて築き上げた全てのものが、水の泡になってしまう。

 

 互いの志を遂げるために。そのために二人は他人になった。

 

 しかし、貴族の女はいやらしくその蛇のような目を細め、シュツァーハイトにとんでもないことを訊く。

 

「……ご自分には関係ないような顔をされているけれど、冷酷者(ルシュレヒタ)様はいつかの晩、あの女めとお楽しみだったのではないの? 随分冷たいんですのね」

 

 シュツァーハイトはちらりと貴族の女に視線をやる。

 

 その夫はおかしげに笑ってみせた。

 

「この冷酷者(ルシュレヒタ)が? 女と? はは、そんなわけがないだろう。この男はきっと、どれだけの美女にどんな手段を使って迫られようと、全くなびかない堅物だからな」

 

 それを聞く貴族の女の目は、蛇のようにシュツァーハイトをとらえている。何かを匂わせるようにこう言った。

 

「そう……。じゃあ、長いことお部屋で、二人で何のお話をしていたんでしょうね」

 

 そうだ、覚えている。この女は、以前自分の誘いを断り恥をかかせたシュツァーハイトのことを恨んでいるのだ。夫のいる身でなんという逆恨みを。

 

 以前、中庭でフローリアのことを隠れて観察していたのを見かけたこともある。王宮中の男たちを虜にする、若い女の踊り子を妬ましく思うがゆえだろうが、恐らくフローリアを投獄したのもこの女の差し金だろう。

 

 注意深く行動していたであろうフローリアをスパイだと見抜いたのは凄まじい観察力だとは思うが、どれだけ彼女を付け回していたのか考えると、その執念は恐ろしい。

 

 スパイ容疑でとらえられた女。その女と密会していた男。自分が周囲にどのように疑われるか、相当な馬鹿でない限りすぐに分かるだろう。

 

「もし本当に踊り子がこの男の部屋に行っていたとしたら、二人で一晩中トランプでもしていたんじゃないか」

 

 まぁおかしい、と貴族の女は夫の下らない冗談に大げさに肩を揺らしてみせる。

 

 彼女の投獄にひどくショックを受けていた有力貴族の男は、今度はシュツァーハイトを「信じられない」という目で凝視してくる。

 

「冷酷者(ルシュレヒタ)……まさか本当に?!」

 

 シュツァーハイトは、普段から自分の感情が顔に出にくいことをこれほど感謝したことはない。

 

 意図しない表情が浮かんでしまうから、ではなく。どんな顔をしてこの言葉を言えばいいか分からなかったから。

 

「私も、男ですから」

 

 そう口にしてみたけれど、事態が好転するような説得力はほとんど得られなかった。

 

 それからしばらく。

 

 彼の立場は次第に悪くなっていった。

 

 あの貴族の女があることないことを、サロンや大食堂、いたるところで喋るものだから、あらぬ噂が様々な尾ひれをつけて一人歩きしていた。

 

 立場のある貴族の妻だ。周りもそう適当には扱えない。

 

 シュツァーハイトはいらだっていたが、怒っても仕方がないと自分に言い聞かせていた。そんなことをしたって冷静さを欠くだけ。怒って事態が解決するのなら、状況が良い方向に向かうなら、いくらでも怒る。

 

 それに、自分に隙や落ち度があったのも事実、と考えたが、自分の正体を知らなかったとはいえ、フローリアが軽率な行動をしさえしなければ良かったのでは、とも思う。

 

 でも不思議と、フローリアが訪ねてこなかったら良かったのに、とは思わなかった。

 

 もう他人となった関係だけれど、あの夜はもう何年も久しぶりに、まともに人と話した気がしたから。その記憶もなかったことにしたいとは思わなかった。

 

 牢につながれる彼女のことを少しだけ考えて、すぐに頭から消した。

 

 他人に構う余裕はない。自分のことを第一に考えるべきだ。

 

 しかし、彼のそんな懸念も、些細な杞憂と化すこととなった。

 

 歴史の波は、ちっぽけな人間ひとりなど個体差もつかぬほど、あっという間に飲み込む。

 

 革命の時は来た。

 

 

 

 

 

 

 まだ日も昇らぬ早朝のことだった。

 

 王宮で眠る貴族のうちの何人かは、空気がおかしいことに気づき、目を覚ました。遠く窓の向こうがほの明るい。こんな時間に、まるで祭りでも行われているかのような熱気が弾けている。その圧は、敏感な者ならすぐに気づくものだった。

 

 ただそれがなんなのかは分からず、市街で火事か何かでもあったのかと、無関心に再び眠る者もいた。

 

 しかし、その熱気は一切収まりはせず、勢力を増させ、そのまま王宮の武器庫を襲撃した。

 

 その時になると、流石にのうのうと寝ている貴族は一人もおらず、事態を把握しようと誰もが慌てていた。

 

 大声で召使らを呼ぶも、誰もかけつけない。

 

 王宮で働く召使たちはみな、不穏な空気を察知し逃げていた。

 

 ダン、と強い振動と大きな音がする。人々の活気ある声も聞こえてくる。

 

 窓を覗いた貴族たちは、眼下の景色に我が目を疑った。

 

 民衆が城門を破壊しようとしている。人々の手には武器が握られ、それは農耕器具や包丁だけではなく、国の所有する銃や爆薬などもあった。

 

 城門を破り、人々が宮殿を襲撃するのは時間の問題。

 

 貴族らは半狂乱になって、自らの所有する財宝をかき集め、鞄や袋に詰め込み出す。そんな重いものを誰かが抱えられるというのか分からない、金塊や美術品を無我夢中でつっこんでいる。

 

 多くの貴族たちと同じく異変に気づいたシュツァーハイトは、室内にわずかにある、自分の形跡を残してしまいそうなものを全て燃やした。

 

 そして勲章の沢山つけられた上着など意味のないものには目もくれず、動きやすい身軽な格好に身を包んだ。見た目だけでは貴族と悟られぬよう簡素な服で、物などもほとんど何も持たず。

 

 彼の行動は早かった。革命を予測できていたわけでは全くない。予想外のことにかなり衝撃を受けてはいたが、取り乱しても逃げ遅れるだけだ。

 

 廊下に出たシュツァーハイトの眼前には、間抜けな地獄絵図のような光景が広がっていた。

 

 貴婦人たちの服の多くは一人で着ることができないデザインになっている。背中にボタンがあったりコルセットの編み上げがあったり、誰かに着せてもらうことを想定した作りだ。

 

 しかし召使も逃げ、みなが自分のためだけに動こうとしている今、服すらまともに着替えられていない女たちが、叫び散らして右往左往している。

 

 中には、ありったけの宝石や装飾品を服の中に詰め込み、髪の中にまで突っ込んで、窓から逃げようとする無様な姿もあった。

 

 髪を下ろし、いつものモノクルもつけていない彼だったが、シュツァーハイトがそこにいると気づいた年配の男性貴族がこう指示を出す。

 

「お、おお、冷酷者(ルシュレヒタ)! 私の荷を運べ! 馬を用意し一刻も早くここから逃げ出させろ! お前を今より上の階級に昇進させることを約束するぞ!」

 

 シュツァーハイトはその話の一切を無視し、言葉が終わる前に、つかまれた腕を振り払った。背後から「この、裏切り者!」と自分をなじる声がする。なんとでも言え、と思った。

 

 シュツァーハイトは階段を駆け下る。

 

 たまに人にぶつかり、ぶつかられ、自分に命令しすがりつく者を振り払いながら。

 

 シュツァーハイトの顔色はいつもと変わらぬものだったけれど、胸中は焦る気持ちを抑え切れなかった。

 

 反政府組織主導のもと、革命が起こされたのだろう。組織がどれだけの間、虎視眈々と計画し、水面下で動いていたのかは分からない。

 

 崩れる時は、驚くくらいあっと言う間だ。

 

 彼の心は複雑だった。自分でも理解が出来ないくらいに混乱していた。

 

 今までこれだけ耐え忍んできた自分。積み上げたものはどうなる?

 

 いや、こうして市民たちによる革命が起こり、理不尽な貴族政治を打ち倒せるのだから、新しい時代が始められるのかもしれないのだから、歓迎すべきことなんだろう。意図せずであっても、自分の志が完遂されるのだから、良いことなんだろう。

 

 なのに。

 

 心の中はザワザワとして穏やかでない。

 

 自分は今、民衆たちに倒される側にいる。

 

 そんなことは前から分かっていたはず。

 

 いつかこの立場を利用するために、そのためにひたすら出世した。周囲から「冷酷者(ルシュレヒタ)」の異名をうけるほどの行為に、手を染めることもあった。

 

 覚悟はしていたはずだ。

 

 裏切り者とされている自分は、組織には戻れない。市民に戻ることもできない。

 

 ならば、いち早く逃げなくては、多くの貴族たちと同じく殺されるだけだ。

 

 混乱する気持ちを抱いたまま、彼は宮殿内の隠し出口に向かう。王宮の建物の構造は物置の一つにいたるまで、彼の頭の中に全て整理されている。

 

 だが、その時ふと思い出した。

 

 地下牢につながれたフローリア。

 

 牢に入れられているくらいなのだから、襲撃してきた民衆も、彼女が確実に被害者であることが分かるだろう。

 

 しかし。主導する反政府組織のリーダーたちの言葉も届かぬほど暴徒化した民衆が、貴族を楽しませていた踊り子だということで、彼女をその場で殺してしまうかもしれない。

 

 それに、もしこのまま宮殿に火がつけられたりしたら、彼女はそのまま焼け死ぬ。

 

 もう他人となった人間が焼け死ぬことくらいなんだというのだ、と冷静に自分に言い聞かせようとした己に、シュツァーハイトは鳥肌が立つくらい驚いた。

 

 人間が焼け死ぬことくらい?

 

 今、自分がどう思考したのか。

 

 もう貴族の立場を全て捨てたはずの自分。冷酷者(ルシュレヒタ)でなくなったはずの自分。

 

 それなのに。

 

 シュツァーハイトの足は止まり、いつかの夜、震える瞳で自分に「貧民街の人たちを殺さないで」と訴えてきたフローリアのことを思い出した。

 

――あなたは残酷な計画を沢山実行したと聞いたわ。

 

――目の前の小さな事象を阻止したとしてどうなる。

 

 目の前の小さな事象? 必死に生きる人々の生活を奪うことが、小さな事象?

 

――被害を受けた人たちは、確かにいるのよ。

 

――より最小被害で済むように計算し、どうにもならなければ代替案を出すよう努めている。

 

 最小被害? 三人死ぬところを一人死ぬ、だったら、それでいいとでも、俺は本気で思っていたのか?

 

――貧民街に火をつけるのは、出来る限り回避したい。

 

 出来る限り回避?

 

 フローリアは言った。貧民街の奥には、体の動かない老人や病人たちも沢山暮らしているのよ、と。

 

――俺は、今の時代がひっくり返った後の覚悟を決めてる。

 

 笑わせる。時代がひっくり返ろうとしている今、自分は我先に逃げ出している。

 

 見た目こそ取り乱してみせていないだけで、あの無様な貴族たちとなんら変わらないではないか。

 

 これまで自分が行ってきた数々の行為への罰も受けず、まさか「スパイとして目的を果たすためだからしょうがなかったんだ」とでも言えば許してもらえると、心のどこかでそんな甘いことを考えていたのではないだろうか。

 

 頭が混乱する。

 

 でも。確かな思い、それは。

 

 このまま殺されたくない。死にたくない。

 

 そのためには一秒でも早く、少しでも遠く、安全な場所に逃げなければ。

 

 しかし。

 

 バクバクと心臓が早鐘を打つ。シュツァーハイトは拳を握り、眉根を寄せて考える。

 

 そして。

 

 踵を返し地下牢へ向かった。

 

 さっさと鍵を開けて、彼女を出してやるだけ。ほんの少しの時間だ。そうしたらすぐに逃げたらいい。

 

 もう、自分の冷酷な判断で人を死なせたくはない。

 

 

 

 

 

10

 

 

 人気のない宮殿の離れの地下にある、暗く湿った地下牢。石の素材がむき出しの壁に、鉄格子がはめられている。

 

 見張りの人間はとっくに逃げ出している。

 

 階段を駆け下ったシュツァーハイトは、隠し棚から鍵を探し出すと、声を張り上げた。

 

「フローリア! どこにいる!」

 

 牢はそう数があるわけではない。それでも一列ずつ探していくのは時間がかかりすぎたし、陽の差さぬこの暗い場所で目視のみで探すのは効率が悪すぎた。

 

 返事はない。

 

 その代わり、カン、カン、と何かがぶつけられる規則的な金属音が聞こえてきた。

 

 音を頼りに、火をつけた燭台を手に、牢の端の列の奥まで足を進める。するとそこには、鉄格子をつかんで寄りかかるようにして、なんとか身を起こしているフローリアの姿があった。

 

 手にした錆びた水差しを鉄格子にぶつけ、なんとか彼の声に応えるよう音を出していたようだ。

 

 彼を見上げた彼女の表情は弱々しく、満足な飲み食いが出来ず体が衰弱しているのが分かった。彼女の白い肌に残る痛々しいアザで、彼女が悲鳴を上げすぎて声が枯れ、もう大きな声が出せなかったのだと理解した。

 

 シュツァーハイトはすぐに牢を開けると、彼女へのいたわりの言葉を一つもかけぬままに、「早く出ろ」と急かす。

 

 フローリアは壁をつたい、ふらつく足でなんとか立ち上がると、何度か辛そうに咳払いをしたあと、かすれた声で彼に尋ねる。

 

「外が騒がしいわ……。一体、何があったの?」

 

 彼がモノクルもつけず、いつもと違う髪形と、シンプルな服装をしているのも不思議で、彼女は不安そうな目でそう訊いた。

 

 彼は足を止め、振り返る。

 

 口ぶりからして、彼女は襲撃が行われることを組織から知らされていなかったのだろう。それは彼女が捕まってしまったからなのか。それとも元々知らせるつもりはなく、ギリギリまで王宮の情報を探らせる駒として襲撃の情報は伝えられず、彼女は組織から切り捨てられてしまったからなのか。シュツァーハイトには判断がつかなかった。

 

「……民衆たちの暴動が起きて、王宮が襲撃されている。宮殿に入り込まれるのも時間の問題だ」

 

 シュツァーハイトの説明に、フローリアの口から「嘘……」と頼りなく言葉がこぼれる。

 

「……やはり、知らされてなかったのか」

 

「ええ……」

 

 目を見開いた彼女は、かすれた声を絞り出した。

 

 ともすればこのままふらりと倒れてしまいそうだったので、彼は柄にもなく、説得力を持たないセリフを口にした。

 

「もしかしたら……クルデリヒや組織の連中にとっても予定外の決行だったのかもしれないな。人々の勢いが手に負えなかったとか」

 

 彼が本当にそんなことを思っているわけない、と分かっていたけれど、フローリアは浅くうなずいた。

 

 シュツァーハイトの先導で、二人は宮殿を走る。

 

 雲ひとつない空に昇り出した朝日は、革命を後押しするかのように輝き、宮殿を照らす。二人以外の気配がない廊下に、まぶしい日差しが注ぎ込む。

 

 ワアワアと、人々の言葉にならない獣のような大声が、外からこだましている。

 

 フローリアには気力も体力もほとんど残されていなかったが、この状況では自分の体に極限まで鞭を打つしかない。まずは一刻も早く王宮を抜け出さなければ。

 

 それと、フローリアにはどうしても気になっている事があった。上がった息で、枯れた声で、それでも彼に、走りながらこう尋ねる。

 

「ねえ、どうして私を助けにきてくれたの?」

 

 あの時から二人は他人になって、スパイとしてつかまったとしてもそれはもう仕方のないことだと、お互い淡白にとらえていたはずなのに。他人なんだから、それはもう見捨てるという行為にさえ数えられないはずなのに。

 

 彼は返事をすることも、振り向くこともなかった。

 

 答える気がないのなら、しつこく訊いても仕方ない。フローリアは、今の彼が考えていることが全く分からなかった。

 

 そして思考は中断させられる。

 

 目の前に現れた、殺気だった人々。興奮して目を血走らせ、これまでの不満とこの非日常、血と火薬の匂いに理性が飛びかけていた。

 

 ついに城門が破壊され、人々が王宮内になだれ込んできたのだ。

 

 殺される。

 

 二人は同時にそう思った。

 

 動かねばと思うのに、足はすくんで、息すら上手にできなくなる。

 

 体が先に動いたのは、シュツァーハイトの方だった。

 

「近づいたらこの女を殺す」

 

 背後からフローリアの細い腕をひねり上げ、片腕で彼女の首を拘束する。

 

 フローリアはとっさに「カッ……」と声を上げてしまったが、彼が自分を本気で押さえつけているわけでないことはすぐに分かった。首元を絞めつけてみせる腕には、ほとんど力が入っていない。

 

「市民の間で評判の踊り子と言うから宮殿にとらえてみたが、つまらん女だった。だが、俺の盾くらいにはなるだろう」

 

 シュツァーハイトの言葉に、民衆の敵意が彼一人に集中する。

 

 フローリアは理解した。彼は自分を人質に見立て、ここを逃げ去るつもりなのだと。このセリフを聞けば、貴族のために王宮に出入りしていた踊り子とはいえ、一応は民衆側の人間、と見てもらえるだろう。

 

 だが。

 

 その目論みは、彼の背後から忍び寄った別の人々によって、あえなく潰えることとなった。

 

 フローリアの体に、背後からダン!と、痺れるような強い衝撃が伝わったかと思うと、力をなくしたシュツァーハイトの体が、自分に寄りかかるように後ろから重く覆いかぶさってきた。

 

 首をひねって視界の端にとらえた彼の横顔に、額から赤い汁が伝いだす。

 

 息を飲み、とっさに声が出せなかった。この両目にとらえるものが、現実のものであるとは思えない。

 

 彼女があげた悲鳴は、周囲の人々の爆発するような雄叫びによって、完全にかき消された。

 

 人々は脱力したシュツァーハイトの体をフローリアから引き剥がすと、彼女を強引に脇に追いやり、有り余る憎しみと怒りをもって、彼に暴力を浴びせた。

 

 フローリアが痛んだ喉から搾り出す声も、今は誰にも届かない。

 

「みんなやめて! 違うのよ、彼を放して!」

 

 自分一人の力では、どうにもならない。自分の弱い声と細い腕じゃ、どうにもできない。

 

 それでも、彼女は悲鳴混じりに叫んでいた。

 

「シュツァーハイト!!」

 

 彼は意識を失う寸前に、自分の名前が呼ばれたのを聞いた。冷酷者(ルシュレヒタ)じゃない、本当の名前。

 

 仰向けに倒れる体、暗くなる視界。

 

 ああ、この宮殿はこんな天井をしていたのか、と初めて知った。

 

 

 

 

 

 

11

 

 

 日が天頂に昇った昼頃。

 

 騒ぎの中、フローリアはなんとか組織の元に戻った。

 

 市街の中心の広場に、作戦司令本部にあたる場所が臨時に設営されている。人は忙しなく出入りし、興奮した一般民衆と、緊張で額に汗を浮かべている首脳陣の対比が印象的だった。

 

 これから一体どうなってしまうのだろう、と不安げに、家の中や広場の隅から遠巻きに見守る女子供の姿もあった。

 

 フローリアの体には、もう市街の石畳を蹴って走れるような力は残されていなかった。でも、休んでいる暇などない。ふらりふらりとよたつきながら、なんとかたどりつく。

 

 この襲撃の指揮を執る、組織のリーダーであるクルデリヒは、彼女が姿を現した時、少し驚いたような表情をみせた。

 

 だが、今はそんな些細なことを気にしている場合ではない。

 

 彼女は必死に訴えた。

 

 民衆に捕らえられたシュツァーハイトを解放して、と。

 

 最高指令席に座するクルデリヒは、髭に覆われた輪郭を指先でなぞると、低い声でその名を懐かしそうに呼んだ。

 

「シュツァーハイト……。あれに会ったのか」

 

 しかし、クルデリヒの目は厳しくフローリアをとらえる。

 

「あれはもう、何年も前から我々と連絡を取らなくなった。奴は拾われた恩を踏みにじり、王宮の生活に浸かる中で、貴族に迎合してしまったのだ。もう我々の組織の人間ではない」

 

 クルデリヒの言葉は、フローリアが初めて出会った時と同じように威圧感があり、恩人として慕っているとはいえ「怖い」と思ってしまう。

 

 それでもフローリアは、両手に小さな拳を作って食い下がる。

 

「彼はずっと機会をうかがっていたのよ。『自分を殺して残忍に、目的の為には手段を選ばず狡猾に。いかなる犠牲を払っても、耐え忍び、虎視眈々と準備して牙を磨き、最後に寝首をかき切った者の勝利だ』って、クルデリヒもいつも言っているじゃない」

 

 そう言う彼女にクルデリヒはギロリと視線をやった。

 

 周りは騒がしく、出入りする人々も多いというのに、まるでここには二人しか居ないような感覚さえ覚えた。

 

「では、この長い年月、あれは我々組織に一体何をしてくれたというんだ?」

 

 フローリアは言葉を返せない。彼が一人でどれだけ活動していたとしても、組織に直接の利益になるようなものではない。

 

「あれが今まで数々の残酷な計画を実行してきたことはよく知っている。罪なき庶民から財産を巻き上げ、都合の悪い者の家に火を放ち、国に異を唱えた者は投獄する……」

 

 クルデリヒが続ける言葉に間違いはなく、それらは自分が王宮にスパイとして忍び込んで知ったことでもある。

 

 指示されたこととはいえ、計画し実行したのは確かに彼。なんと弁護しても、例え程度の軽いものにしようと努力していたと言っても、それを証明できるものは何もない。

 

 それに程度はどうあれ、彼が実行したという事実は変えることは出来ない。

 

「どうせ、この襲撃が起きて、我が身の可愛さに安全を保障して欲しくて、『自分は裏切ってはなかったんだ』と都合よく詭弁を弄しているだけだろう」

 

 確かにクルデリヒの言う通りで、反論の余地は一つもない。普通に考えたらそういう風になる。

 

 でも。

 

「クルデリヒ……。私がこの数日間、連絡が取れなかったことは知っているわよね? スパイの嫌疑をかけられて地下牢に捕らえられていたのよ」

 

 フローリアはぎゅっと胸の前で拳を握った。

 

「私は襲撃が行われるなんてこと知らなかった。この大規模な行動、二日三日前に決まるようなことじゃないでしょう? 今日の早朝に王宮が襲撃されて、私は貴族たちを楽しませていた踊り子として殺されそうになった。牢にそのまま捕らえられていたなら、間違いなくその場で殺されていたわ」

 

 言葉が責めるような響きを持ってしまう。フローリアは震えそうになる瞳をまっすぐクルデリヒに向けた。

 

「あの時、わざわざ牢から出しにきてくれたのも、機転を利かせて私を逃がしてくれたのも、全部シュツァーハイトが一人でしてくれたことなのよ? それでも彼は裏切り者だというの? 彼を見捨てろというの?」

 

 そう言いきると、クルデリヒの返事を待った。

 

 けれど、彼の口から出てきたのはこの質問への答えではなかった。

 

「フローリア。名も持たぬ『橋の下』だったお前を拾ってここまで育てた。私の言うことならなんでもやると、組織の恩に報いると言っていただろう。いつからそんな反抗的なことが言えるようになったんだ」

 

 他人以下のように冷めた視線がフローリアを圧倒し、とんでもない言葉が吐き出される。

 

「『目的の為には手段を選ばず狡猾に。いかなる犠牲を払っても』。そうだ、私はいつもこう言っている。襲撃直前まで王宮の情報を得られるようにするため、この襲撃前にお前を呼び戻すつもりはなかったし、知らせるつもりもなかった。私はお前という『手段』を使い、お前という『犠牲』を払ったのだ」

 

 頼りなく開いた口から「え……?」とこぼれる。

 

 彼の言葉に、めまいがするような感覚がした。平衡感覚がおかしくなって、一歩後ろに足を出す。

 

 私は、クルデリヒにとっての、手段?

 

 あの宮殿の夜の会話が思い出された。

 

――お前こそ、どうしてそこまで身を尽くす? 組織から離れ、こんな身を削るような真似を続けなくてもいいはずだ。

 

――貧民街から拾ってくれたクルデリヒや、私をまともな人間にしてくれた組織の人たちのためよ。

 

 家族のように思っていた。組織が何かを望むのなら、みんなのために、みんなの力になりたいと思っていた。

 

 もし家族というものを自分が持っていたのなら、きっと父親というのはクルデリヒのような存在だったのかな、とこっそりそう思っていた。

 

 だから、例え身や心を削られるような任務であろうと、与えてもらった様々なことに報いれるのならば何でもする。そう固く心に決めていた。

 

 でも、クルデルヒたちは、そうは思っていなかった。

 

 フローリアは想起する。

 

 組織に見放されたシュツァーハイトが、それでも志を貫き通すと言った時。

 

 それでいいの? と思った。

 

 あなたが志を全うした時、全てが終わった時、新しい世界には、新しい時代には、あなたを笑顔で迎えてくれる人たちはいないのに。それでもいいというの? と。

 

 彼を上から心配できるような立場などでは、全然なかったというのに。

 

 新しく迎えようとしている時代に、自分を笑顔で迎えてくれる人など、私にだって居なかった。全部、自分の勘違いだった。

 

 言葉が発せられないまま立ち尽くすフローリアに、クルデリヒは静かに言った。

 

「……でも、お前が無事に帰ってこられたことは良かったと思っているよ。これは本当だ」

 

 きっと、その言葉には嘘はないんだと思う。本当に。

 

 だけど、その前に言葉にだって、嘘なんて一つもないんだと思う。

 

 フローリアは、ギリギリのところで声を震わせず、「はい」とうなずいてみせた。

 

 微笑む練習を沢山してきて本当に良かった。さもなくば、涙をこぼしてしまいそうだったから。

 

 周りの者たちに次々話しかけられ、あちらこちらに指示を出すクルデリヒをじっと見つめる。

 

 フローリアは色々なことを考えていた。

 

 拾われた時のこと。名前をもらった時のこと。読み書きを教えてもらった時のこと。

 

 言葉を覚えて、自分の思う気持ちや感情に名前がつけられるようになった。思考が整理できるようになった。もやもやした不安にも立ち向かえるようになった。何より、人と深く意思疎通ができるようになった。自分の名前を呼んでもらえることがこんなに嬉しいなんて思いもしなかった。

 

 踊りを覚えた時のこと。スパイとして王宮に入り込んだ時のこと。

 

 練習はもちろんとても厳しかったけれど、できないことができていくのは達成感があり、それが評価されることは嬉しかった。それまで全然知らなかった音楽も沢山覚えて、好きな曲もいっぱいできた。

 

 組織のスパイとして、大変なことや辛いこと、やりたくないけれどやらなければならないことだって思い出せばきりがないくらいあったけれど、これまでの生き方を後悔したことはない。

 

 それから、これからのことを考える。

 

 そして。

 

 フローリアはその場で深くおじぎをした。

 

 クルデリヒは、会話はもう終わり、という合図だと思っただろう。

 

 違う。

 

 これは、これまでの感謝と、別れの挨拶と、これからやろうとしている行為への謝罪。

 

 ありがとう。さようなら。ごめんなさい。

 

 本当の父親のように思っていました。

 

 自分に全てを与えてくれた人の顔を名残惜しく眺めたあと、背を向け、司令本部を出た。

 

 その眼差しには強く光が宿り、足は目的のために進んでいた。

 

 私一人でも、シュツァーハイトを助けに行く。

 

 

 

 

 

12

 

 

 王宮からそう遠くはない場所に、レンガ造りの背の高い建物がある。外壁の表面を固める漆喰は、長きに渡る劣化で変色し、雨だれのあとが濃くしみこんでいた。

 

 フローリアはその建物の一階に、なんでもない顔をして足を踏み入れる。

 

 入り口の見張りに立っていたのは、顔見知りの男性だった。名前も知らないような関係だが、あちらはこちらを知っているようだ。

 

「おお、王宮でのスパイ活動を終えて戻ってきてたのか。お疲れ」

 

 中枢の詳しい事情には通じていなさそうだ。フローリアは「ありがとう」と、ニコリと笑顔をみせる。

 

 そして尋ねた。

 

「クルデリヒの使いで来たんだけど。この牢には宮殿でつかまえた貴族たちをとらえてるんでしょう?」

 

「そうだよ。お貴族様たちが俺たち民衆をぶち込んでた牢獄に、まさか自分たちが入れられるなんて。いい気味だよな」

 

 皮肉って笑う男に、同調するように微笑んでみせる。

 

「ある貴族から情報を聞き出すように言われてきたの。背の高い、若い男が連れて来られた思うんだけど、どこに収監されてるかしら? 確か、頭から血を流していたはず」

 

 そう説明すると、男はすぐに思い当たったようだ。

 

「ああ。腕の骨を折られてた奴だろ?」

 

 ドキッとしたが、表情には出さずうなずいた。

 

「一番上の階の端だよ。下の階ほどうるせえ奴、上の階ほど静かな奴が入れられてんだ。ぎゃあぎゃあ騒ぐ奴は上まで連れてくのは手間だし、気絶してたりもう死にそうな奴とかは、適当にふん縛ってぽいっと投げとくだけでいいからな」

 

 フローリアは「へえ、そうなの」と相槌を打ってから、教えてくれたことに礼を言った。

 

「それにしても、君も大変だな。疲れて見えるし、そんなに声も枯れてるのに、やること続きなんだな」

 

「私たちの国の一番大事な時ですもの。今頑張らずにいつ頑張るのよ」

 

 そう気丈に言ってみせると、男は「そうだよな」と同意した。

 

 フローリアは一階からゆっくり階段をのぼる。そして男から姿が見えなくなってからは、足音を立てぬよう気をつけつつ駆け上がった。

 

 確かにあの男の説明する通り、二階からは騒がしい声に満ちていた。

 

「出せ! ここから出せ! 無礼者!」

 

 と半狂乱な声もすれば、ワンワンと子供のように声を上げて泣く声もあり、

 

「命だけは助けてくれ、金ならいくらでも払おう」

 

 と懇願する悲鳴もあった。

 

 だが、それらの声も次第に聞こえなくなる。他の階はちらほら見張りの姿もあったのだが、上の階に行くにつれ人は減っていった。そして最上階には一人も見張りの姿がなかった。

 

 理由は簡単だ。最上階に入れられた者たちは、例え牢に鍵がかかっていなくとも逃げ出すことなんて出来ないほど、衰弱しきった怪我人ばかりだから。

 

 フローリアは、その場に漂う死の近い空気に戦慄しつつ、カツン、と一歩通路に足を踏み出した。

 

 鉄格子のはめられた牢にはほとんど人の姿がない、と思ったけれど、それは違った。

 

 多くの収監者が、薄暗い牢の床にへばりつくように倒れているから、居ないように見えるだけ。

 

 フロアに反響する彼女の足音に反応する気配も、物音も、何もない。

 

 時折、牢の中からヒューヒューと、破れた袋に空気が吹き込まれるような呼吸音が聞こえた。助けを求める声が言葉にならず、うめくような声がする。

 

 最上階の一番端。

 

 男の言う通りの牢の前で、フローリアは足を止めた。黙って持ち出してきた鍵で、その部屋の扉を開ける。

 

 光の届かぬ牢獄に、ボロ雑巾のように捨てられていた。床に四肢を投げ出した彼は、呼吸で胸が大きく上下していなければ、死んでいるように見えただろう。

 

「シュツァーハイト……。私よ、フローリアよ。目を覚まして」

 

 声が響いてしまうので、なるべく小さな声で、彼の耳元に何度も話しかける。

 

 腕が折られていると聞いたので肩を叩けず、軽く頬を打つ。

 

 するとフローリアの手に、何かがべたついた。

 

 暗くてよく見えないが、血の跡だろう。それでも彼女はそのままそれを繰り返し、名を呼ぶ。

 

 シュツァーハイトは、遠く自分を呼ぶ声に、意識がこの世に戻る。

 

 「冷酷者(ルシュレヒタ)」じゃない。子供の頃のように、自分の本当の名前が何度も何度も呼ばれている。

 

 薄くまぶたを開けた時、暗くて何も見えなかった。

 

 でも、ああ、生きてる、と思った。そして、人はそんなに簡単に死なないし、死ねることもないのだなと、他人事のようにそう思った。

 

「シュツァーハイト、分かる? 私よ」

 

 聞こえてくる声に、分かる、と答えようとしたが、殴られた衝撃で口の中が腫れていて、すぐにはうまく動かせなかった。血の味も感じる。歯で切った箇所もあるのだろう。

 

 言葉にならない声が漏れ、それからかすれたたどたどしい声で「フロ……リア」と彼女の名前をなぞった。

 

 意識が浮かび上がってきたせいで、体中にズキズキと痛みをひどく感じる。呼吸をするだけで全身がきしむように痛い。まるで立ちくらみがずっと続いているかのように、頭がぐるぐる回っているような感じがして、気持ち悪い。

 

 皮膚表面も火で炙られているかのような、焼けるような痛みを感じる。特に左腕は、この痛みが収まるのならば切り捨ててしまいたいと思えるほどだった。

 

 苦しい、助けてくれ、と大声が出たのならば叫んでいただろう。

 

 そして、痛みで覚醒してきた意識の中ぼんやり思う。どうして彼女がここにいるのだろう。

 

 フローリアはシュツァーハイトの意識が戻ったことを確認すると、彼を急かす。

 

「ゆっくりしてはいられないの。立てる?」

 

 互いの顔がほとんど見えないほど暗いため、彼女の表情は分からない。それでも彼女の声から焦りを感じる。

 

 立って歩くなんてとても出来ない、と思ったが、出来なければここでゴミのように死ぬだけだ。

 

 シュツァーハイトは、今頑張ってくれたならもう一生頑張らなくてもいいから、と自分の体に無茶な注文をつけ、彼女の手を借りてなんとか体を起こす。ドッドッと、体全体に血が巡っていくのを感じる。

 

 かすれた吐息まじりの声をあげ、彼女の肩を支えにかろうじて立ち上がれた。

 

 全身の打撲や傷で、身体が思うように動かせない。それでも、左腕に震動が伝わらぬよう努めながら牢を出、足を引きずるように通路を進む。

 

 格子のはめられた通路の窓から、光が入ってくる。

 

 フローリアは明るい場所で彼の姿を見て、

 

「ひどい……」

 

 と一言だけ漏らし、辛そうに顔をゆがませた。

 

 このまま階段を下ると、途中の見張りの人間に気づかれてしまうかもしれない。それに、一階出入り口にはあの男がいる。自分が男性一人を力ずくで抑え込めるとは到底思えなかったし、大怪我を負っている彼と共に走り抜けるなんて絶対に無理だと思った。

 

 どうしよう、と悩んでいると、それを察したシュツァーハイトは切れ切れになりつつこう言った。

 

「この牢獄には、抜け道に通じる、隠し通路がある」

 

 そして彼女に支えられながらなんとか一つ階を下り、次の階へ向かう途中のある場所で壁を強く押すよう指示した。

 

 言われるがままフローリアがそうすると、壁は一つ分奥へ行き、脇にスライドさせられた。かなり古い作りだったし、とても重かったので、疲弊しきっている彼女が一人で行うのはかなり大変だった。けれど、弱音を吐いたとて、今の自分を助けられるのは自分しかいない。

 

 現れた隠し通路から続く螺旋階段を下る。狭い道だったので彼の体を支えようもなく、小さな声で「あともう少し頑張って」と繰り返した。

 

 急かしたくはなかったけれど、もし見張りが気づき追っ手がきたら、二人は終わりだ。

 

 シュツァーハイトは歯を食いしばり階段を下っていった。

 

 痛みが行き過ぎて朦朧としてくる中、彼女の言葉にこう思う。あともう少し、でどうなるというんだろう、と。

 

 行く当てなどない。安全な場所などない。全ての行動に「とりあえず」がつく。

 

 螺旋階段を下りきった先、地下通路を歩き、王宮の裏出口に出る。人目に気をつけながら、二人はその場を出来るだけ早く離れるよう歩いた。

 

 そして、彼がもう歩けないと倒れた場所で、わずかばかりの休憩をとることにした。

 

 そこは開けた原っぱで、市街地や王宮方面には背の高い雑草や木々が生い茂っていたので、頭を低くするよう気をつけていれば、とりあえず遠目から発見されることはなさそうだった。

 

 

 

 

 

 

13

 

 

 傍に小川があったので、フローリアは自分の服の一部を繊維方向に裂いてちぎり、水で濡らした。

 

 荒い呼吸をする彼の顔の血を拭い、体中に出来たあざを冷やす。それだけでも、小川と彼のもとを何十往復したか分からない。

 

 しかし、血の跡は完全にはきれいにならなかったし、あざを冷やすのなんて気休め程度にしかならなかった。

 

 それに、後頭部を強く殴られた際に開いた傷口や全身にある傷は、今はどうすることもできなかった。

 

 彼の指示を受けながら、左腕に添え木をした。また服の一部をちぎり、腕を吊るせるように三角状にする。

 

 彼の方が大怪我をしていることは確かだが、早朝に牢から出られたばかりのフローリアもかなり衰弱していた。

 

 仰向けに寝転がる彼に水を飲ませ、自分も水を飲むと、太い木の幹に背を預けた。彼と同じように横になりたかったが、二人でそうしてしまうと、周囲から近づく気配に気づけない。

 

 ずっと会話をする余裕もなかった二人だったが、呼吸の落ち着いてきたシュツァーハイトが、おもむろに口を開いた。

 

「……戻らないのか?」

 

 彼の言葉に、フローリアは寂しそうに小さく笑った。

 

「戻れないわよ、今更。私があなたを牢から逃がしたのなんて、きっとすぐに発覚するわ。組織は裏切る者には死を与える。あなたもよく分かってるでしょう?」

 

 シュツァーハイトは言葉を返さなかった。

 

 嘘みたいに澄んだ青空の下に広がる草原は、皮肉なくらい爽やかな風が吹いていて、汗ばむ彼の額を冷やしていく。

 

 フローリアは葉が触れ合うさざなみのような音を聞きながら、彼に尋ねた。

 

「……ねえ、もう一度訊かせて。どうしてあなたは、あの時私を牢まで助けにきたの? そうしなかったらあなたは今頃、こんな目に遭わずに逃げられてたかもしれないのに」

 

 彼女の静かな言葉に、彼も尋ね返す。

 

「お前だって、どうして俺を助けに来た。そのまま見捨ててしまえば、組織を裏切らずに済んだろう」

 

「……あなたを見捨ててのうのうと生きていられるか自問したら、無理だった」

 

 フローリアはしばらく言葉を探してから、そう言った。

 

「家族のようだと、父親のようだと思っていたのは、私だけだったの。……私は『手段』の一つだってはっきり言われたわ。だから、王宮に潜入していた私に襲撃が近づいていることは知らされてなかった。家族なんかじゃない。私、駒の一つとして、とっくに切り捨てられてたのよ」

 

 悲しげな笑顔をうっすら浮かべると、彼女は視線を落とし、風にそよぐ背の低い草たちをながめた。

 

「前に、『あなたはどうして一人きりでも頑張り続けてるの?』って訊いたでしょう? 私、あなたは一人きりだけど、自分には組織の仲間や恩人のクルデリヒがいるから頑張れてる、って勝手に思ってたの。あなたのことを心のどこかで哀れんでたんだと思うわ」

 

 風が彼女の前髪をふわりと浮かし、フローリアは自嘲するようにつぶやいた。

 

「同じような立場だったのにね……」

 

 シュツァーハイトは黙って目を閉じ、彼女が吐露するのを聴いていた。

 

「あなたと私が似たようなものだって分かって、私は思ったの。私一人くらい、あなたを助けてあげてもいいじゃないって。あなたを助けることで、私は自分自身も助けてあげたかったのかもしれない」

 

 彼女の告白を聴いて、シュツァーハイトは力なく「ふ」と笑った。

 

「俺はお前に可哀想だと思われていたわけか……」

 

 彼の低い声が、おかしげにセリフを吐き出す。

 

 そして、彼は言った。

 

「俺はただ、行く場所も帰る場所もなかっただけだよ」

 

 薄くまぶたを開いた彼の視界に飛び込む、まぶしい青空。風の中に緑の匂いを感じた。

 

 今日、王宮が襲撃されたなんて、投獄されて脱獄したなんて、悪い冗談だと思えるくらいに穏やかな場所だった。

 

「いつかこのおかしな世界をひっくり返すとか。その時の覚悟は出来てるとか。聞こえのいいことを言っていたけれど、いざそうなったら、全然そんなことはなかった。自分がやってきたことへの責任を取る度胸もなく、ただうろたえた」

 

 彼の目は、空より遠くを見ていた。

 

「意思疎通が上手くいかなかったことと、意見の不一致で組織に見放され、その後の俺は、まるで高い塔の上ではしごを外されたようだった。戻ることはできない、でも、汚い貴族たちには絶対に迎合したくない。俺はきっと、自分が、いつか国のために、志を完遂するためにと牙を磨くスパイだと思い続けることによって、手を汚す自分を弁護していただけなんだ」

 

 彼女もまた、彼の言葉を静かに聴いていた。こうして二人で話していると、あの宮殿での夜を思い出す。その時とは全く、場所も、立場も、二人の状況も違うけれど。

 

「俺は、お前とは違う。本当にただの裏切り者なんだ。見下している汚い貴族連中と何ら変わりないんだ」

 

 そう吐き出すと、辛そうに目を伏せた。

 

「情けをかけてもらえるような人間なんかじゃないのに、馬鹿だな、お前……」

 

 フローリアのいる場所からでは彼の顔は見えなかったけれど、もしかしたら泣いているのかもしれない、と思った。

 

 言葉を返すのが相応しいとは思えなかったので、二人はただ黙っていた。考えることもなかった。ただ、黙っていた。それでも時はあっという間に過ぎてしまう。

 

 市街の方から、ドン、ドンと大砲の音が聞こえてくる。人の発するものとは思えない悲鳴と絶叫が、遠くこだましている。

 

 風に乗って焦げ臭い匂いがしてきた。

 

 それらに追い立てられるように、二人はまた歩き出した。

 

 草原を渡りきり、山岳地帯を遠く左手に、日のあるうちに林を突っ切る。

 

 追っ手がかかっているかもしれない、という焦りと恐怖から、二人は少しでも遠く王都を離れたかった。

 

 彼は大怪我をろくに手当ても出来ぬままだったし、左腕も負傷していたので、彼女の手を借りても早く歩くことはできなかった。小休憩を挟みながら、少しでも遠くへ。

 

 そして、二人が遠く王都を見渡せる小高い丘に差し掛かったとき、空には星がまたたいていた。

 

 しかし、空は明るい。

 

「王宮が燃えてる……」

 

 シュツァーハイトの体を支えながら、フローリアはぽつりとつぶやいた。

 

 燃え上がる宮殿の火が、夜空を焼いている。

 

 闇夜に雲を作り出そうとしているかのような大量の煙が、王都を包み込んでいた。

 

 世界はこんなに簡単に崩れ去ってしまうものなのか。二人は何も言うことができなかった。

 

 二人があの夜を過ごした部屋も、彼の沢山の勲章も、彼女が踊った舞台も、みな、炎の中で塵と化す。

 

 これからどうしよう、と口にすることもためらわれた。自分たちに「これから」なんて未来はない。

 

 シュツァーハイトは考える。

 

 今の俺は一体、何者なんだろう。

 

 とっくの昔にスパイではなくなった。貴族でもなくなった。市民に戻ることもできなかった。帰るところも、行くところもない。

 

 シュツァーハイトは、隣で自分の体の支えにしているフローリアに視線をやった。

 

 フローリアは考える。

 

 私が今までやってきたことは何だったんだろう。

 

 全く何のためにもならなかったなんてことはないだろう。こうして革命が起き、市民のための国が作られようとしている今に至るまでには、自分の活動の結果もあるに違いない。

 

 でも。

 

 全てが変わろうとしているこの世界で。新しく始まろうとするこの時代で。共に生きたいと思っていた人たちを、理由はともあれ、裏切ってしまった。もう、一緒にはいられないと分かってしまったから。

 

 私は昔、橋の下にいて、名前をもらって、人らしい暮らしを得て、化粧をして、踊りを覚えた。

 

 これからの私は、次はどこに行ったらいいの。何をしたらいいの。

 

 フローリアは、隣で体を支えるシュツァーハイトをちらりと見上げた。

 

 視線が交わって、二人は何か言葉を待った。

 

 きっと、お互い何かを許してほしいんだと思う。そして、何かをしろと、誰かに言ってほしいんだと思う。

 

 でも、二人はもう、チリやゴミの一つさえも出てこないほどに空っぽだった。たった一片の言葉すらこぼれない。

 

 確かなことは、もうこの国にはいられないということ。

 

 ゆくゆくは臨時政府になるであろう組織を裏切った者。処刑されるべき旧体制の立場の者。

 

 二人はここを離れ、当てもなくさまよい続けなければならない。どこに逃げたら終わる、なんてものはない。つかまれば、死へ続く道しかない。

 

 この革命は一体なんのために起こったのだろう。

 

 自分たちが起こそうとしていたこれは、自分たちに与えることなく、ただ奪っていった。新しい時代を迎える人々の中に、自分たちは含まれていなかった。

 

 燃える母国を見つめながら、二人の流浪者は、これ以上何も言葉を交わせなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(第一幕 終)


 
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