No.989121

その目に二回、恋をする

神官の長・フェイムに恋するルタリアは、ある日父親の言いつけを破り、彼のいる神殿を一人で訪れた。
そこで口の悪い男・戦士隊長のクロナスと出会う。
お互い顔を合わせるとすぐ喧嘩になってしまう、ルタリアとクロナス。
けれど男たちが出軍する前日、クロナスに「フェイムは俺が盾になってでも守って、あんたのところに帰すよ」と言われて、ルタリアは胸がざわつくのを感じてしまって……

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2019-04-03 09:36:01 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:784   閲覧ユーザー数:784

「お父様……私、フェイム様に会いに行ってきますね……」

 

 くしの通った長い髪の先を軽く編んだ乙女が、玄関前でわざとらしいまでの小声を発する。耳元でささやかれてもきちんと聞き取れるか怪しい声量。

 

 そんな言葉を聞き届けた者など居るはずもないが、彼女は念を押すようにまた小声で確認する。

 

「私、ちゃんと言いましたからね……」

 

 そう言って極力静かに玄関の戸を閉めると、彼女は一瞬で口角を釣り上げた。

 

 街の中心地を幾重にも囲むように立ち並ぶ、貝殻と同じ白色をした建物たち。その奥に見える、大地を焼くような強い日差しをキラキラと照り返す、深い色をした海。

 

 彼女は潮の香りで胸をいっぱいにして、海の色とそれを映すような澄んだ空が交じり合う景色に向かい、そのオリーブの色をした髪を跳ねさせて駆け出した。

 

 街の娘たちの間で流行る白色の薄手の広い一枚布で思い切りおめかしをして、その心は既に彼女の想い人の元にあった。

 

 

 

 豊かな土壌と温暖な気候に恵まれ、その荒れた姿は神話にすら出てこないと言われる穏やかな海に面し、背後を小高い丘に守られ、穏やかな穀倉地帯と活発な海上交易の要衝の二つの顔を持つ街。

 

 この都市国家はそういうところだった。この恵まれた土地を求め、幾度となく攻め込まれた過去を持つ。しかしこの国の歴史は長きに渡り、今日まで途絶えたことはない。

 

「こんにちは、戦士さん! フェイム様はいらっしゃるかしら?」

 

 門番として見張りに立つがたいの良い男の前に、彼女はひょっこりと顔を出した。

 

 男は突然の意外な訪問者に面食らったように一度大きくまばたきすると、彼女にたずねた。

 

「お嬢さんは? 神官様に一体何の用で?」

 

「私、ルタリア。モルファの家の一人娘の……」

 

 ルタリアが自分の家の名を出すと、男は「ああ」と深くうなずいた。

 

「モルファさんのところのルタリアお嬢様でしたか。これは失礼しました、どうぞ中へ。神官様はこの奥の神殿にいらっしゃいますよ」

 

「ありがとう!」

 

 ニコリと品のいい笑顔を一つ残して、彼女はするりと門を抜けていく。活発なその性格を表すように、結われた彼女の髪が再び跳ねた。

 

 わずかに象牙色に染まる白い石畳の上を歩きながら、ルタリアはちらちらと周りをうかがう。

 

 ここはこの国を守る男たちが集い暮らす場所。いわゆる戦士たちの詰め所。奥には荘厳な作りの神殿がたたずんでいる。

 

 この国には優れた国防の担い手たる“戦士隊”と、戦略に長けた“神官”集団が存在する。何代にも渡り彼らによって受け継がれた防衛組織により、方々からの侵略をはねのけ、この都市は栄え続けてきた。その群を抜いた強さは周囲の国々から「神々の寵愛を受ける」とさえ称されていた。

 

 そんな無敵の強さを誇る戦士たちが各々鍛錬に精を出しているのを横目に、ルタリアは更に奥へ進む。

 

 子供の頃にはきちんとした家庭教師をつけられていたけれど、ルタリアはそういう歴史や国勢にはほとんど興味を持たなかった。

 

 今一番関心があるのは、自分の好きな男の人のこと。

 

 彼女の想い人は、国を守る神官集団の長・フェイム。若くしてその戦術の才能を周囲に買われ、その分野では稀代の天才と言われている。名門・ロベラ家の一人息子として生まれ、優しく立派な両親により厳しくも愛をもって育てられた。

 

 同じく名家であるモルファ家の一人娘ルタリアは、以前より周囲からフェイムとの結婚を確実視されていた。そして彼に惚れ込んでいるルタリア本人にとって、それは願ってもないことだった。

 

 実は父親には、フェイムがこの場所にいる間は一人で会いに行ってはならないと言いつけられていた。でも、父親同伴で好きな男性に会いに行くなんて格好のつかないこと、恋する乙女が受け入れるわけもなく。

 

 お仕事の場で迷惑をかけなければいいんでしょ、という都合のいい解釈をしてこうして初めて一人でここを訪れていた。

 

(お話に出てくる素敵な男の人のような、知的で優しいフェイム様……。早くお会いしたいな……)

 

 彼のいる場所に近づくのを感じて高鳴る鼓動を落ち着けるように、胸元に重なる薄手の布をそっと正した。父親に買ってもらったばかりのネックレスの位置がずれていないか確認しようと、指先を胸元に触れさせた時のことだった。

 

「そこで何をしている」

 

 疑問文のはずなのに、強い牽制力のある声。

 

 驚いて足を止めた彼女の目の前には、一人の男が立っていた。

 

「女がこんな所に来るな」

 

 男の鋭い言葉に足がすくんでしまう。

 

 男は肩に触れる長さの深いワインの色をした直毛をハーフアップにして、大きな白の一枚布を革のベルトで留め、身にまとっていた。むき出された右肩は明らかに鍛えられた男のそれであることが分かったし、布よりちらりと覗くふくらはぎもその屈強さを象徴するように太い。無骨な革のサンダルが一歩分、ルタリアに向けられていた。

 

 先ほどの門番の男とは全く違う。明らかな敵意が向けられているのを全身で感じた。

 

 男が手に提げている鉄製の剣よりも、その射るような眼光の方がルタリアには恐ろしかった。

 

「……ヒラヒラとまるで道化みたいな格好しやがって。早くここから立ち去れ。さもなくば剥くぞ、バカ女」

 

 露骨に顔をしかめ、吐き捨てるようにそう言うと男は背を向けて歩き出した。

 普通の女性なら、怯えて涙目で逃げ帰るところだろう。

 

 しかし、ルタリアは違った。彼女の持ち前の勝気な性格は彼の暴言を許すことができなかった。

 

「あなたねぇ……ちょっと待ちなさいよ! 誰がバカですって? 変な髪形してるあなたに言われたくないわ! 何様のつもりなのよ?!」

 

 一歩大きく足を踏み出すと、臆することなく大声で男に怒鳴りつけた。その表情は怒りに赤く染まって、先ほどの品の良い笑顔など全く彷彿とさせない。

 

 まさか女に啖呵を切られるとは思っていなかった男は、ぎょっとして彼女を振り返った。

 

「引くほど野蛮な女だな……。つーか、ホントにバカなのか?」

 

 呆れた声が近づいてくる。

 

 咄嗟に身をすくませてしまったけれど、ルタリアは自分より背の高い彼を見上げて精一杯睨み続けていた。

 

「バ、バカなんかじゃないわ。あなたって、お話に出てくる悪役みたいね! 性格が悪くて不親切で、あなたの方がよっぽど野蛮よ!」

 

「んだと、この浅はか女……」

 

 凄むように睨み返してくる男に屈したくなくて、震えを押し殺すルタリアの手には自然と拳が握られていた。

 

 そこに、澄んだ男の声が響き渡る。

 

「ルタリア?」

 

 二人が同時に声のした方向に顔を向けると、そこには一人の髪の長い男性が立っていた。

 

 両肩を覆うように上品に大きな白の一枚布をまとい、細かな装飾の施された金のベルトで留めている。そこに流れるマスカットの色が薄くにじんだプラチナ色の長い髪は、サラリと柔らかに伸び、ゆうに骨盤を越えるまでに達していた。

 

 長いまつげにおおわれた作りの細かい双眸が目の前の二人を交互にうかがって、彼は小首をかしげた。

 

「やっぱり、ルタリアじゃないですか。こんなところでどうしましたか? クロナスまで一緒に……」

 

 ルタリアは飛びつくように彼の傍に寄ると、背の高い彼を見上げるようにして訴えた。

 

「フェイムさまぁ! 私、フェイム様に会いに来たんです。そうしたらこの人が私に次々失礼なことを言ってきて……」

 

「俺は間違ったことは言ってない」

 

「もう! 私の言葉をさえぎらないでよ! 私がフェイム様にお話してるの!」

 

「何が“フェイムさまぁ”だ。さっきはあんな形相で怒鳴っておいて、今更とりつくろったってムダだ」

 

「この男っ……あったま来た……!」

 

 今にも彼に飛び掛らん勢いのルタリアの肩に、フェイムの手が優しく乗せられる。

 

「ルタリア、落ち着いて。せっかく来てくれたんだから、神殿を案内しますよ」

 

 穏やかに目を細めた彼にそう言われると、今までとても怒っていたはずなのに、ささくれた心が撫でつけられたようにキュンとしてしまう。

 

「はい、フェイム様……」

 

「クロナスも、そのくらいなら許してくれますよね?」

 

「神官のお前が許可するなら、俺がどうこう言うことじゃない」

 

 クロナスと呼ばれたその男はそう言い捨てると、フンと顔を背けそのまま立ち去ってしまった。

 

 ルタリアは不服そうなクロナスの背中をずっと睨みつけていたが、不意に落ちてきたフェイムの声で我に返った。

 

「何か彼に、不快な思いをさせられましたか?」

 

「……はい」

 

 彼に嘘をつけるはずもなく、ルタリアは浅くうなずく。

 

 そんな様子を見て、フェイムは困ったように眉を下げつつ薄く笑んで見せた。

 

「どうか許してあげてください。彼は私の大切な友人なんです」

 

 そう言ってフェイムが神殿の方に足を進めると、ルタリアは彼を追いかけて隣に並んだ。

 

 あんな男がフェイムの“大切な友人”だなんて、ルタリアには信じられなかった。ちらりと見上げた先の彼の目が、また優しげに細められる。

 

「彼は……クロナスは口は悪いかもしれませんが、とても信頼の置ける、いい奴なんです。何も理由無くあなたを不快にさせたわけではないと思うのです」

 

 真っすぐ前を見すえる彼の瞳はまぶしい何かを見る時のようでもあり、何かを愛でる時のようでもあった。ルタリアは真っ向からクロナスのことを否定したかったのに、彼のそんな瞳を見ていると口に出すことがためらわれた。

 

 腹の膨らんだ柱の立ち並ぶ立派な作りの神殿の中、幾重も段を上がっていくと、自分たちが暮らす白い町並み全体が見渡せた。海と空に映えるまぶしい貝の白色。それらを照らしつける太陽はもっとまぶしいものだった。

 

 多くの船たちを押し進めてくれる、潮の香りをはらんだ風に吹かれながら、ルタリアはそっとフェイムに寄り添った。

 

「クロナスはこの国を守る戦士隊長なんです。こうしてこの国が今日も平和なのは、彼のおかげでもあるんですよ」

 

 好きな人の言葉にうなずいて見せたかったけれど、クロナスに言われた言葉を思い出すと素直にそう出来なかった。

 

「でも、あんな失礼なことを言うなんて……。私、すごくかわいい格好をしてきたのに……。しかも『剥くぞ』なんて女性に向かって……。あんな野蛮な人、信じられません」

 

 先程のことを思い出し不満を口にしていくと、また段々と腹が立ってきた。独り言のようにつぶやかれるそれは、どんどん加速する。

 

「やっぱり戦士って野蛮なんだわ……。神官様たちが考えた戦略に従うだけで、何も深く考えていないのよ」

 

「ルタリア……」

 

 自分の名を呼ぶフェイムの声が悲しみを帯びたことに気づき、ルタリアは慌てて頭を下げた。

 

「ご、ごめんなさい! 戦士の皆さんがみんな悪い人だなんて思いません。でも私、あの人のことをどうしても許せなくって……。男の人にあんな風に言われたの、きっと生まれて初めてです」

 

 しゅんとして顔をうつむかせる彼女の小さな頭を見つめ、フェイムは困ったように眉尻を下げた。

 

 足元を見つめたまま、ルタリアはそっと口を開く。

 

「私、フェイム様が好きです。幼少期より、そばにいたあなたを兄のように尊敬していました。ずっと色んなことに頑張られていることも勿論ですし、立派なお生まれだもの」

 

 おずおずと顔を上げて彼の表情をうかがうも、彼はいつものように笑んでいるだけ。

 

(フェイム様はいつも優しくしてくれるけど、『好き』とは一度も言ってくれない……)

 

 結婚相手になるとしたらお互いであると、周りもそう思っているしルタリアもそう強く意識しきた。でも、彼から決定的な行動や言葉は何一つとしてなかった。

 

 彼女の眼差しから不安を感じ取ったのか、フェイムは目を細めた。

 

「もう少し奥も見て回りましょうか。帰りは敷地の入り口までお送りしますよ」

 

 ルタリアは「はい」と首肯するしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 その数日後。

 

 ルタリアはおつかいのついでに、市場で屋台を見て回っていた。

 

 交易の盛んなこの都市の市場は様々な異国の空気が入り乱れている。馴染みのない匂いの香辛料、見たこともない色と形の果実や花。陸だけでなく海を渡った遠くの町から色んなものがここに届く。それを売り買いする人々もまた活気にあふれていた。

 

 ルタリアの家、モルファは有名な家。人々の集まるこういう場所で、ルタリアの顔は広かった。

 

「ルタリアちゃん! まァ、今日もかわいいわねぇ。オシャレな格好して、お買い物しにきたの?」

 

「モルファのお嬢様、是非うちの商品も見ていってよ!」

 

 声をかけてくれる人々にルタリアが笑顔を返していると、目の前で見覚えのない二人の若い男たちが不意に足を止めた。二人とも体格が良く、まとった布の隙間から立派な筋肉が見えていた。

 

「あれ? 君って、こないだ戦士の詰め所に来ていた女の子だよね?」

 

「あー! そうそう。すっごいかわいい格好してたから覚えてるよ。キョロキョロして歩いてたよな」

 

 事態がつかめずルタリアが目をぱちくりさせていると、男の一人が彼女の手を取った。華奢な彼女の手は、大きな男の手にすっかり包まれてしまう。

 

「今日も素敵な格好だね。よかったら一緒に屋台見て回らない?」

 

「ずるいなお前! 俺だって誘いたかったのに!」

 

 相手が誰なのかも分からないまますっかり流れに置いていかれたルタリアは、自分の言葉を一言も待たぬままわめき合う二人を交互に見つめるしかなかった。

 

 騒がしく人の行き交う雑踏の中、立ち止まる三人を特に気に留めるような者もいない。

 

 二人に敵意や悪意があるわけではなさそうだけれど、どうしたらよいのだろうとルタリアが戸惑っていると、そこに新しい声が飛び込んできた。

 

「まだ買出しの途中だというのに、道の真ん中で何をやってる……」

 

 その鋭い声の主は、二人の男の先にいるルタリアの姿を目にとめると表情に不快感を露にした。

 

 それと同時にルタリアも口を開く。

 

「ああっ! あの時の、超失礼なヘンタイ野蛮男!」

 

 勢い良く口から飛び出した彼女の第一声がそれで、今度は言い争っていた男たちが目を丸くした。

 

「……隊長? このかわいい子と知り合いだったんですか?」

 

 部下の一人にそう言われて、露骨に顔をしかめるクロナス。何と言うべきかと少し思案した後に、

 

「二人共、先に帰ってろ。俺はこのバカ女に話がある」

 

 とだけ、うんざりしながら口にした。

 

「あなた、また私のことを『バカ女』って……!」

 

 ルタリアの怒りが噴出しそうになった時、クロナスは部下の一人にあごで何かを示していた。

 

「手を放してやれ」

 

「あ、はい……すみません」

 

 二人の大騒ぎとクロナスの出現ですっかり忘れていたが、彼の言葉でようやく自分が今までずっと手をつかまれていたことを思い出した。

 

 ルタリアは自由になった手をあわてて背後に引っ込めた。大人になってから男性に手に触れられるなんて、そうあることではない。

 

 部下二人が、隊長の命令なので渋々といった感じでその場を去っていくと、クロナスはようやく彼女に声をかけた。

 

「俺の部下たちが、悪かったな」

 

 そんなことを言われるとは思っていなかったルタリアは、彼に何か言われたら即座に言い返そうと思っていた気勢を行き場なく持て余した。

 

「べ、別に……」

 

「ただ」

 

 彼女の言葉をさえぎり、再び急に険しくなったその声色と表情。

 

「あんたも悪い。詰め所は別に女子禁制というわけじゃないが、戦士隊を構成するのは男子のみだ。そんな所にこの間みたいな薄っぺらい布をまとった女が現れたらどういう目で見られるか、そのちっこい頭使って考えてみろ」

 

 “ちっこい頭”などと言われたことに怒るより先に、父親が自分に「一人で行ってはいけない」と言いつけていた真意にようやく気づいて口をつぐんだ。それから、あの日クロナスが自分の格好を非難し無理にでも追い返そうとした理由も分かってしまった。

 

 この間のように言い返してこない彼女の様子から自分の言いたいことが伝わったのだと分かったクロナスは、その険しい表情を崩し、軽く息をついた。

 

「今の奴らだって、ここが公共の場だからあんな反応で済んだんだ。もっと強引に何かされたらどうする」

 

 クロナスの言葉は自分を責めているはずなのに、なぜだかルタリアにはそれがきつい口調には感じられなかった。心に申し訳ない気持ちが広がってしまう。

 

 何も言えずに胸の前に両手を重ねて視線を逸らしていると、彼から意外な言葉が降ってきた。

 

「もっと自分のことを大事にしろよ。あんたはフェイムの結婚相手の候補なんだろう? あいつ、いい奴なんだから、あいつが心配したり傷つくようなことするなよ」

 

 クロナスの言葉に、ルタリアは彼の顔を見上げた。

 

 わずかに細められた彼の目は、近くで見ると意外にも繊細な作りをしていた。長いまつげが頬に影を落としている。

 

「知ってたの?」

 

「あの日あんたがいなくなってから、あんたを通した門番の戦士を叱るついでに聞いた」

 

 さらっと言われたその一言で、ますます申し訳ない気持ちになってしまう。自分を通したせいで関係のない人が叱られてしまうなんて。

 

「ごめん、なさい……」

 

 自分に非があったと分かっても、あれだけこき下ろされこちらも暴言を吐いた相手に今更いきなり素直になれるはずもなく、謝る言葉が口ごもる。

 

 許す言葉を口にするでもなくそれ以上責めるでもなく、クロナスは軽く肩をすくめた。何も言われないことが逆にいたたまれなくて、ルタリアは無理に言葉を続けてしまう。本当は言う必要のない言葉ばかりを。

 

「で、でも、どういう目で見られるかとか、強引に何かされたらとか言うけど……あの時あなたは、私に何かしたりしなかったじゃない……」

 

 ルタリアは言葉尻を濁したけれど、クロナスは彼女が何を言いたいのかすぐにくみ取ったようだった。なんと返すべきか少し迷ったように再び目を細めた後、

 

「俺は戦士隊長だぞ。部下たちの手本になるのが俺の役目……と言いたいところだが」

 

 と、呆れたように口を開いたと思ったら、目つきは鋭いままに口元だけでニヤリと笑って見せた。

 

「あんたみたいな色気感じられない乳無しには興味がない。俺はもっと色っぽい女が好みなんだ」

 

「最っ低!」

 

 ルタリアは目の前に転がっていた水っぽい果実をクロナスの顔面に思い切り投げつけた。至近距離でまさかの直撃をした果実は、彼の視界を奪うようにその水分を弾けさせた。

 

「うわっ!?」

 

「変態! 野蛮! 馬鹿! 最低っ! フェイム様はあなたのおかげでこの国が平和だって言ってたけど、フェイム様たち神官様方がいればあなたなんていなくたってこの国は平和なのよ! 同じ国を守る男の人のはずなのに、あなたって本当、フェイム様と似ても似つかないわね! あなたの顔なんて二度と見たくないわ!」

 

 そう思いの丈を怒鳴りつけると、ルタリアは彼に背を向け駆け出した。そして最後に吐き捨てるように告げる。

 

「あとあなた、やっぱり髪形が変よ! 全然似合ってないわ!」

 

 彼のハーフアップに精一杯の非難をぶつけながら、そのままルタリアは市場を走り去ってしまった。

 

 果実の水分により視界をふさがれたクロナスは、異変に気づいた親切な通行人の助けでなんとか視野を取り戻すも、その時にはもう既に自分に果実を投げつけた女の姿はなかった。

 

 眉間に深いしわを刻み込んでクロナスはつぶやく。

 

「あんのバカ女……」

 

 戦士隊長ともあろう自分があんな小娘に、という気持ちよりも、また髪形が変だと失礼な指摘をされたことよりも、クロナスの心に一番引っかかることがあった。

 

(『フェイム様と似ても似つかない』、か……)

 

 自分の身にまとう白い布に飛び散った果実の汁から香る異国の匂いを鼻腔に感じながら、彼女の言葉を心の中で反芻させていた。

 

 

 

 

 

 

 

 オリーブの収穫期が終わる頃、この国に不穏な知らせが届いた。

 

 他国に偵察に行っていた戦士がつかんできた情報で、ここより北のある国がこの国に攻め込もうとしているということだった。

 

 フェイムを中心とした神官集団たちは連日連夜戦略会議を開いた。当初は平和的外交の道を模索するも、この国の豊かな土地を求める北の国は断固として開戦を決意しており、こちらも相応の覚悟で望まねばならない状況だった。

 

 この国を守る男たちに走る緊張は国民に伝播し、いつしか国全体もどこか暗い雰囲気に包まれるようになっていた。

 

 半世紀以上衝突の無かった北の国。北の国の今の正確な武力がつかみかねる。更に北の国は国内情勢に切羽詰って南下してくるだと伝え聞きいており、後のない彼らが何をしでかすか分からないと国民たちは怯えて暮らしていた。

 

 空の色も海の色も、日差しだって以前と変わらないはずなのに、この国はずっと曇ったような空気だった。

 

 ルタリアは厚手の布で身を包み、更に父親の肩掛け布を羽織って足早に街を中心地へと抜けていた。

 

 彼女が向かっているのは、いつかにフェイムに会いに行った、神殿を擁する戦士の詰め所。

 

 北の国の進軍の知らせを聞いて以来、フェイムはここにこもりきりで一度も会うことが出来なかった。それなのに、明朝早くに神官集団は戦士隊を引き連れ北の国との交戦地に出発してしまうというのだ。

 

 ルタリアは居ても立ってもいられなかった。

 

 この日は以前のように門番は立っていなかった。その代わり男たちが出立の準備に絶えず動き回っている。

 

 神殿の場所なら前回来たときに覚えている。少し彼の顔を見るだけでも、と壁や物陰に身を隠しながら奥へ進んでいった。

 

 武器庫らしきところまでたどり着くと、ルタリアの目にあの男が飛び込んできた。

 

(クロナス……!)

 

 戦士隊長として方々にてきぱきと指示を飛ばしている様は、あの日顔面に派手に果実をぶつけられていた間抜けな男とは全くの別人のように見えた。

 

 男たちは歩くたびにカチャリカチャリと音を立てている。それは普段は布をまとっただけの彼らが、今は鎧で重装備しているからだった。

 

 戦士隊長であるクロナスもそれは同じで、日に照らされくすんだ輝きを放つ青銅の鎧に身を包んでいた。

 

 いつもとは違う彼にじっと見入ってしまっていると、不意にその鋭い視線がこちらに飛んできたような気がした。慌てて頭を引っ込めて息をひそめるも、自分に迫ってくる物音はない。

 

 気のせいだったのかな、と息をつき、再びそちらをうかがう。

 

 するとクロナスは武器庫の前の戦士たちに何か指示を出し、どこかへ歩き出してしまった。皆が準備で慌しくしている場所からどう見ても離れていく彼が気になって、ルタリアはそっと後をつけた。

 

 クロナスは武器庫から大分離れた人気のない所で一人腰を落とし、傍の大きな樽に背を預けると口を開いた。

 

「なんか……あんたなりに気配を消して頑張ってるようだけど、とっくに気がついてるから」

 

 ルタリアの肩がびくりとはねる。

 

 気恥ずかしくて姿を見せられず、詰まれた木箱の陰に隠れたまま強気に返事をした。

 

「……腐っても戦士隊長、ってところね」

 

「いや? 周りの奴らもみんな気づいていたみたいだけど、あんたが必死に隠れてるつもりのようだから誰も言わなかっただけだ」

 

 淡々とそう言われて、ルタリアは返す言葉がない。

 

「今日は前と違って厚着してきたんだな。まあ、ここに女が来ること自体、俺は快く思わないけど」

 

 はっきりとそう言われて、ルタリアは恐る恐る彼にたずねた。

 

「怒ってるの?」

 

「……怒ってるというより、呆れてる。あんたは何度きつく言っても話を聞かないバカ女なんだなって」

 

 お互いの顔を見ないままに、クロナスは言葉を続けた。

 

「でも、今回は非難はしない。あんたの気持ち、分からなくもないから」

 

 えっ、と声をあげそうになってしまった。まさか彼にそんなことを言われるなんて思いもしなかった。

 

「あいつが、フェイムが心配なんだろ? あんたの未来の結婚相手なんだもんな」

 

 当然のようにそう言われて、自分だってそう思っているはずなのに、ルタリアはなぜか自分の心が妙な違和感を覚えるのを感じた。

 

 姿は見せず、言葉だけが行き交う二人の空間。

 

 彼女の心のもやをかき消すように、クロナスが強い決意とともにこう口にした。

 

「大丈夫。あいつは俺が盾になってでも守って、あんたのところに帰すよ」

 

 嘘をついていない言葉。姿や目を見ていなくたって分かる。

 

 ルタリアの目にじわっと涙がにじみそうになる。涙に熱を持ちはじめる声をごまかすように、ルタリアは彼にたずねた。

 

「あ、ありがとう……。でも、どうしてあなたはあの人をそんなに守ろうとしてくれるの……?」

 

 彼女の言葉を受けて少し思案するように沈黙した後、クロナスは一言こう前置きをした。

 

「あいつは知らないことだから、言うなよ」

 

 彼の声色が変わったことに気づいて、ルタリアは目をしばたいた。今まで聴いたことの無い、彼の穏やかな声。

 

「俺たち、本当は双子の兄弟らしいんだ。一応、俺がちょっとだけ兄貴」

 

「えっ、そんなこと……。本当に?」

 

 目を見開いたルタリア。幼い頃よりフェイムの傍にいるが、彼は間違いなくロベラ家の一人息子のはずだ。

 

「正直俺も半信半疑なんだけどな。俺の母親は片親のまま俺たち双子を生んだそうだ。そして子宝に恵まれなかったロベラ家、今のフェイムの親父さんが、あいつだけを養子に引き取ったらしい。俺がまだ幼かった頃に母親からその話を聞いた。まぁもしかしたら、全部母さんの妄想かもしれないんだけどな」

 

 カチリ、と金属が触れ合う音がして、クロナスが姿勢を変えたのが分かった。

 

「母さんは俺たちを生んで以来すっかり体が弱くなって、俺が生まれてから四度目のオリーブの収穫を待たずに、逝った。最期の方は、まだ子供だった俺でも分かるくらい熱に浮かされて朦朧としていたから……そんな時に言った言葉なんて嘘かもしれない」

 

 「でも」と、クロナスはまるで今限りの綺麗な夢を見ているように語る。

 

「母親と死に別れ、父親の顔も知らない。そんな俺にとって、嘘かもしれないようなフェイムとの細く儚いつながりが、唯一の救いだった。この世界で本当の意味での一人きりじゃない。同じ血が流れている奴が生きていることを知ってる。あいつをちらりと見られるだけでいつも嬉しかった。そんなことだけで、俺はここまで生きてこられた」

 

 なんの言葉も返さないルタリアが自分の話をどう聞いているのか少し気になったが、クロナスは決意を込めて言葉を続けた。

 

「俺がこの歳で戦士隊長まで上り詰めたのは、俺が何も持たないからだ。フェイムが優秀だったから若くして神官の長になったのとはわけが違う。俺は失うことを恐れない。それは俺自身もだ。だからこそ、命をかけてフェイムをあんたのところに帰す……」

 

 クロナスの言葉尻が消えたのは、耳慣れない、小さく鼻をすするような涙をこらえる女の吐息を聞き取ったからだった。それがルタリアのものであることを聞き間違えようがなかった。

 

「……なんだよ、今更泣いてみせたってかわいくもなんともないぞ。初対面の戦士隊長に怒鳴りつけるような、野蛮なバカ女のくせに」

 

 彼がわざと毒づいているのが分かるから、ルタリアは余計に泣きそうになってしまう。

 

 彼の抱える事情も知らないで、ひどいことを沢山言ってしまっていた。フェイム様に似ても似つかないだとか、あなたがいなくてもフェイム様が居れば街は平和だとか。

 

 変態だとか馬鹿だとか、そんな安い悪口を言うのとは意味が違う。彼は一体どんな気持ちで、自分の言葉を聞いていたのだろう。

 

 言葉をよこさない彼女の思考を読んだのか、クロナスは面倒そうに後頭部をガシガシと掻いて、投げやりにこう言った。

 

「別に、変なことを言われるのはあんたが初めてってわけじゃない。妙なところでまじめになるなよ」

 

 ルタリアはまた鼻を小さくすすり、涙ながらに嘘をついた。

 

「泣いてない、泣いてなんかないよ……」

 

 自分の流すこの涙が彼へ申し訳ないと思う気持ちからなのか、ひどいことを言った自分を責める気持ちからなのか、彼を可哀想だと思う気持ちからなのか。一体何なのか分からないままに、一度せきを切ったようにあふれ出した涙は止まらなかった。

 

 その時ルタリアがぴくりと小さく身を震わせたのは、今まで距離を持って聞こえていたのクロナスの声が、すぐ近くから聞こえてきたからだった。

 

「泣いてないなら、こっちを向け」

 

「い、嫌っ」

 

 気づけばすぐ背後に彼の気配を感じて、それでも振り返ることが出来ず、緊張で身を小さくした。

 

「あぁ……この前、市場であんたに言われたな。俺の顔なんて二度と見たくないって」

 

 彼の言葉に、ルタリアは心の中だけで「違うの」と叫んでいた。

 

(今あなたの顔を見たら、これまで自分が大切にしてきたことを忘れてしまいそうな気がして、怖いの……)

 

 なぜこんなことを思うのか自分でも分からない。

 

 “私はフェイム様が好き”、それが自分。自分も彼が好きだし、周りだってそう思っている。子供の頃から、いつか結婚するなら相手は彼だとずっと思ってきた。

 

 至近距離にたたずむこの人はきっと、自分が近づこうとしてはならない人。どうしてと訊かれたらすぐには答えられないけれど、きっとそう。今までの自分が崩れてしまいそう。

 

 ルタリアの混乱する思考を一瞬にして真っ白にしたのは、背後から急に腕を伸ばし引き寄せた、クロナスの抱擁だった。

 

 驚いて目を見開くルタリアのすぐ耳元から、彼の絞り出されるような声が聞こえてくる。

 

「ごめん。あの時は変なことを言って、悪かった。……俺も少し、気恥ずかしかったんだ」

 

 骨ばった手と太い腕に抱きすくめられ身動きが取れないまま、すっぽりと彼の胸の中に収まりながら、彼の言葉を受け取った。

 

 背中に彼の胸当てが押し付けられている感覚がする。自分が散々ばかにし続けた彼の髪の毛の先が、わずかに自分の耳元に触れるのを感じた。

 

 その彼の体の熱はすぐに離れ、カチャリと音がして彼が立ち上がるのが分かった。

 

 そのままクロナスは、ルタリアの小さな背中に言葉をかける。

 

「夜にでもあんたのところに行くように、俺がフェイムに言っておく。今日の詰め所は本当に色々と危ないから、早く帰れ」

 

 そして踵を返そうとして一瞬動きを止め、最後に一言だけ話しかけた。

 

「ルタリア」

 

 彼が自分の名前を口にするのは初めてのことだった。初めての感覚に慣れない耳と心が驚いている間に、彼は言葉を重ねる。

 

「フェイムの大事な未来の嫁さんを、泣かせて悪かった」

 

 ルタリアの胸に今度こそ決定的に広がる違和感。

 

 金属の触れ合う音がリズミカルに響いて、彼が離れていってしまうのが分かった。

 

 ルタリアは慌てて彼を振り返った。

 

 初めて口にする、彼の名。

 

「クロナス!」

 

 ようやくいつもの張りのある彼女の声が聞けて、クロナスは口を皿型に軽く笑ませたけれど、彼女の方を振り返ることは無かった。片手を軽く上げて反応を示すと、そのまま彼は何も言わず去ってしまった。

 

 彼の背中が見えなくなるまで、彼のハーフアップにされた髪形をずっと見つめていた。あんなに変だと思っていたのに。あんなに似合わないと言ってきたのに。ルタリアは目が離せなかった。

 

 

 

 その夜。出立前夜で忙殺されているはずのフェイムが、ルタリアの家を訪ねてきた。

 

 クロナスの言葉を信じていなかったわけではないけれど難しいだろうと思っていたので、家の扉の前でフェイムの姿を見たとき、ルタリアは一瞬反応が遅れてしまった。

 

「どうしました?」

 

 柔らかな笑みを浮かべる彼の作りの細かい目をじっと見つめてしまう。

 

「あっ……いえ、お忙しいところ来て頂いて、ありがとうございます!」

 

 慌てて視線を逸らすも、ルタリアの頭に浮かんでしまった思考は消えない。

 

(やっぱり目が、似てるよ……)

 

 父親に許可を取って彼を部屋に招き入れる。実は大人になってから彼が自分の部屋を訪ねてくれるのは初めてのことで、こんなことならもっと普段から綺麗にしておくんだったと心底後悔をした。

 

 窓からの月明かりと、蝋燭の明かりが淡く照らす室内。

 

 家付きの召使がお茶を出してくれたあと、ルタリアはそっと口を開いた。

 

「あの、明日の早朝に発たれるんですよね? 来て頂いて大丈夫だったんですか……?」

 

 お茶に口をつけたフェイムは、目を細めてこう言った。

 

「ある戦士がすごい形相で、今夜必ずあなたに会いに行けと言うものですから」

 

 クロナスのことだ、とルタリアはすぐに分かった。

 

 ルタリアが何と言おうか迷っている様子を見て、フェイムは言葉を続けた。

 

「ね。彼は……クロナスは、いい奴でしょう?」

 

 優しくそう言う彼に、ルタリアは視線を下げつつも深くうなずいた。

 

 フェイムは、自分がクロナスと双子の兄弟かもしれないということを知らない。恐らくクロナスが自分だけに話してくれたことだ。それでもフェイムは彼をずっと“いい奴”だと、“大切な友人”だと、“信頼のおける人”だと語る。それはクロナスにとってどれだけ嬉しいことなのだろう。

 

 そう思うとルタリアは胸がきゅっと締め付けられるような感覚がした。

 

 そんな思考を振り払うように、ルタリアは話を変えた。

 

「北の国との戦いは危険なものになると、噂で聞きました。大丈夫なんでしょうか……」

 

 声ににじむ不安の色を感じ取ったのか、元気付けるようにフェイムは微笑んで見せ、しっかりとした口調で語る。

 

「その為に私たち神官が毎日必死に戦略を考えるんですよ。大丈夫です。この国と、そして君や国民たちに危害を加えさせたりはしません。どんなことがあっても絶対に我々が食い止めてみせます。それが国を守る男たちの宿命です」

 

 自分の不安を取り除こうとしてくれている優しくて頼れる言葉のはずなのに、ルタリアは自分の心が冷えていくのを感じた。

 

 気づけばこんなことを口にしていた。

 

「でも、フェイム様。そうなったら……戦士たちはどうなるんですか? 私たち国民の為に、彼らが傷ついたり、命を落としたりするのではないですか……?」

 

 少しどもりながら遠慮がちにそうたずねる彼女に、フェイムは小首をかしげた。

 

「君がそんなことを言うなんて、意外ですね。以前は結構、戦士たちのことをきつく言っていたような気がしますが」

 

 本当に責めているわけではなく、穏やかに笑んでいるフェイム。

 

 自分がどんなことを言っても羽のように柔らかく全てを受け止めてくれるから、この人には素直に甘えてしまうのだ。

 

「はい……。以前は正直、あまり良く思ってはいませんでした。でも、この国の人々のために命をかけて、体を張って戦ってくれる人たちがいて、初めて私は平和に暮らせてるんだなって、今更だけど気づいて……」

 

 たどたどしく言葉をつむぐ彼女を、彼の優しい眼差しが見守っている。

 

「私が流行りの布をまとっておめかしできるのも、異国の果物を沢山食べられたりするのもみんな、守ってくれる人たちがいるおかげで……。確かにちょっと乱暴なところがあったり、女性に失礼な態度を取ることもあるけど、本当は色んなことをよく考えていて……」

 

「クロナスのことが好きなのですか?」

 

 言葉がわずかに止まった時を見計らって、フェイムは彼女にそうたずねた。

 

 驚いて視線を上げると、いつものように穏やかに自分を見つめる彼の瞳と目が合った。

 

 違います、と。反射的にそう言うつもりだったのに。言葉はつかえて出て来なかった。代わりに揺れる心をにじませるような頼りない声が出てきた。

 

「……分かりません。こんなこと、今までなかったんです。絶対に嫌いな相手のはずなのに、その人のことが頭からずっと離れなくて……。絶対、嫌いなはずなのに……彼だって私のこと、嫌いなはず……」

 

 バカ女だと、初対面の戦士隊長に怒鳴りつけるような野蛮な奴だと、クロナスは自分に何度も言っていた。でも、繰り返し再生されるその声はけして冷たく突き放すようなものではなくて。

 

 フェイムは言葉の途絶えた彼女の頭を優しく撫でると、彼女の髪に触れる程度の軽い口付けを落とした。

 

 ドキッとして彼を見つめ返すと、フェイムは腰を上げた。

 

「今日は疲れたでしょう。早くおやすみなさい」

 

 見送りは不要ですよ、と微笑む彼の背中に何も言えないまま、ルタリアは彼が口付けた髪にためらいがちに指先を触れさせた。

 

 挨拶のような軽さだったはずなのに、全身がそこを強く意識していた。

 

 彼は本当はクロナスの双子の弟かもしれないのだと思うと、まるでクロナスにそうされたかのような感覚がして、いつまでも激しい鼓動はおさまらなかった。

 

 あのクロナスがあんな風に優しく自分に触れてくれることなんて、あるわけないのに。自分に口付けることなんて、絶対にあるわけがないのに。

 

 昼間、彼に背中からきつく抱きしめられた感覚を体が思い出す。無骨な男の人の力強い腕と、背中に感じた鎧の金属。耳に触れた彼の髪に、自分以外の人の体の熱。

 

 生きているから、彼の体は熱い。

 

 “俺は何も持たないから、失うことは怖くない”と、秤にかけると自分の命がいつも浮き上がってしまう彼。双子の弟かもしれないフェイムのために、そして彼の身を案ずるルタリアのために、今回だって彼は簡単に身を危険にさらしてしまうかもしれない。

 

 だから、ルタリアは決めた。

 

 この国の平和は、国民全員が祈ってくれる。

 

 フェイムの身は、クロナスが守ってくれる。

 

 だったら自分は、クロナスのためだけに祈ろう。

 

 フェイムが居なければこの世界で自分には誰もいないだなんて、そんな不確かな絆にすがってしまうくらい本当はとても一人きりがつらいはずなのに、“失うことは怖くない”だなんて言わないで。

 

 ルタリアの心の中に揺れる不安はいつしか消えていた。代わりに強い想いがそこにあった。

 

 クロナスの無事を祈り、誰より強く彼を信じて待つ。自分一人で何人分だって祈ってみせる。

 

 そして無事に帰ってきた彼に、自分の想いを伝えよう。

 

 

 

 

 

 

 

「すっかり誘いこまれましたね、フェイム様」

 

 長期戦の様相を呈している北の国との交戦地。最前線よりわずかに南下した軍営で、長であるフェイムの元に集った神官たちが額を寄せていた。

 

 戦略に長けた彼らが頼りにするのは過去の膨大な情報。しかしこの交戦地の気候は、半世紀以上前に彼らと剣を交えた時のそれと大きく異なっていた。積雪の時期が早まり、雪に不慣れな戦士たちは苦戦を強いられ、明らかに疲弊させられていた。

 

「この状況でも辛うじて戦士たちが戦い続けられるのは、戦士隊長が希望を捨てず、いつも勇敢に最前線に乗り込み続けているからだ。その姿に勇気付けられている戦士も多いだろう。しかし、それもいつまで持つことか……」

 

 神官の一人が悩ましげにそう口にするも、フェイムは言葉を返さない。遣いを出して急いで持って来させたとある分厚い資料を一枚一枚めくりながら、なめした革に向かい合い、手を休めることなく真剣に何かを計算している。

 

 そこに丁度、今まさに名前の出ていた戦士隊長クロナスが飛び込んできた。足がわずかにもつれ身をよろめかせていた。

 

「フェイム、最前線への補給地が落ちそうだ。判断を」

 

 なるべく感情を挟まぬよう努めて冷静にそう言うクロナス。彼は額をわずかに切られ、己の血で視界を悪くしていた。

 

 そんな状態で急いで馬を走らせてきたであろう彼は、ひどく息が上がっていた。

 

 彼の言葉とその血に塗れた顔に、神官たちの表情に一気に緊張が走り、焦燥感がにじむ。

 

 彼らは慌ててフェイムの名を口々に呼ぶが、フェイムは駆け込んできたクロナスにすら顔を上げていない。資料と計算式に向き合い、手を動かしたままだ。

 

 そして声だけをクロナスに向けた。

 

「今、作戦を練り直しています。あと少しばかり計算をさせて下さい。時間はどのくらい稼げますか?」

 

 無駄なことは一つも言わず、淡々とそう言うフェイム。お互いに全幅の信頼を置く二人だからこそ出来るやりとりだった。

 

 クロナスも彼に答える。

 

「どのくらい時間を稼がなきゃならないのか教えてくれ。命を懸ける」

 

 その最後の言葉に、フェイムが初めて顔を上げた。そして血でふさがりかける視界で目を細めているクロナスをキッと見つめた。

 

「戦士隊長。簡単に『命を懸ける』などと言ってはいけません」

 

 今まで何度も二人で戦に出ることはあったけれど、そんなことを面と向かって真剣に言われたのは初めてだった。

 

 クロナスが眉間にしわを寄せると、フェイムは資料をめくる手を止めて腰を上げ、彼の傍まで歩み寄った。そして強い調子で彼に言い放つ。

 

「あなたは死んではいけません。あなたの死を何よりも悲しむ人が居ますから」

 

 いきなり何を言い出すんだと、思わず気の抜けた嘆声が漏れる。

 

「俺がここまで上って来られたのは、俺の死を嘆く家族もなく、守るべきしがらみもないからで……」

 

 今更こんなことを説明させるなと口を開くクロナスの言葉をさえぎって、フェイムはいつもの調子で優しくたずねた。

 

「今もあなたは本当にそう思っていますか? あなたが守るべき国のことを思い浮かべた時、真っ先に頭に浮かんだ人が居ませんか?」

 

 真っすぐ目を見据えてそう言われて、クロナスは血のにじむ視界の中、確かにある人物が思い浮かんだのを感じた。自分でも驚くほど、その存在は一番最初に脳裏に浮かんだ。

 

 その面食らったような彼の表情を見てから、フェイムは再び表情を引き締めた。

 

「あなたは必ず私が連れて帰ります。誰も死なせたりしません。だからあなたも死なないで下さいね」

 

 そう言うとすぐに席に戻り再び計算を始め、視線は手許に向けたまま、クロナスや他の面々にこれからの指示を出していった。

 

 フェイムには勝利が見えている。周りはそれを感じ取ると、弱気になっていた己を叱咤しすぐに指示された行動に移った。

 

 クロナスも同じく、決意を新たにした。

 

 死んでも国を守る、自分が命を落としたとしてもフェイムを国に返す、じゃない。

 

 生きて国を守る、生きてフェイムを連れて帰る。生きて再びあいつに、会う。

 

 

 

 ルタリアが男たちの凱旋の知らせを聞いたのは、オリーブの植え付けが始まる頃だった。

 

 終戦前に重傷を負って国に戻ってくる戦士たちの中に、クロナスの姿はなかった。神官の長であるフェイムの身に何かあればすぐに知らせが届き話題にもなるだろうけれど、戦士隊長であるクロナスが今どういう状態なのか、どうしているのか、ルタリアに知る手段はなかった。

 

 ここまで戦が長引いたのは、交戦地の予想外の気候の変化の為だと噂に聞いた。

 戦況の悪化で一時は最前線への補給地が落とされそうになったとさえ伝え聞いたが、その状況を打破できたのは戦地でも冷静に過去の資料を分析し続けた神官の長・フェイムのおかげだという。

 

 彼は過去のこの地の天候状況だけでなく、この大陸各地の天候変化の統計を取り、雪の勢力がいつ強まりいつ弱まるかの予測を割り出していた。

 

 街の外れに男たちの姿が見えてきたと、街一番の千里眼の少年が叫ぶ。その到着を待っていた国民たちは歓声を上げて彼らを迎えた。

 

 詰め所に向かうため街の中心地に入ってきた戦士たちの多くは、程度の差こそあれどこかしら負傷しているようで、腕を吊っていたり歩きにくそうに足を引きずっていたり。

 

 それでも無事にこの国を守り、この国に戻ってこられた喜びで顔は晴れやかだった。

 

 彼らを迎える深い色の海と澄んだ空、太陽の光を弾き返す白い町並み。それは全て彼らが守ったものだ。

 

 彼らの凱旋する道を囲む群衆の中に、ルタリアの姿はなかった。

 

 彼女はある場所で二人の帰りを待っていた。

 

 神官の長として凱旋の一番前を歩くフェイム。彼の視界に神殿と詰め所が見えてきた時、オリーブ色の髪の先を軽く編んだ一人の乙女の姿も目に入ってきた。白い一枚布をまとった胸元に輝くネックレスが、きらりと太陽の輝きを照り返す。

 

 そしてフェイムは、自分の肩に腕をかけて歩く人物に顔を上げるよう言った。

 

「クロナス、ほら。君を待ってる人がいますよ」

 

 額に包帯を巻かれた頭を上げた彼の視界に飛び込んできたのは、自分を待っているルタリアの姿ではなかった。

 

 自分目がけて勢いよく走って飛びついてくる、そんなルタリアの姿だった。

 

「おかえり、クロナス! ねえ、怪我してるの?! 一人で歩けないくらいなの?! 痛い?! ああもうっ、大丈夫?!」

 

 鎧越しの自分の胸に飛びついたまま、目の前で一人で大慌てしてわめき散らす彼女を至近距離で見下ろして、

 

「声がデカくてうるさい。そんなに心配するんだったら、怪我人に向かって助走を付けて飛びついてくるな」

 

 と冷たく言い捨てた。

 

 それでも彼女を見つめる彼の眼差しはどこか優しげで、今は素直に出てこない感情が生きて再び彼女に会えたことを幸福に感じているようだった。

 

 彼に肩を貸して隣に立つフェイムも、それを感じて嬉しそうに目を細めた。

 

 クロナスの顔を久々に間近で見て、ルタリアは彼の何かが違うことを感じていた。でもその違和感の正体が分からない。

 

 少し距離を取ってしばらくじいっと見つめていると、「ああ!」と気がついて手を打った。

 

「髪形! ハーフアップ、やめたの!?」

 

 そんなことかよ、と肩を落とすクロナスと、苦笑いを浮かべるフェイム。

 

「まさか、私が変とか似合ってないとか言いまくったから、もしかして実はずっと気にしてたの……?」

 

 まさかの角度から気遣われて、クロナスは「違う」とハッキリ否定した。

 

「包帯巻いてるから結えないだけだ。お前にけなされたくらいで自分のスタイルを変えるほど、俺はやわな男じゃない」

 

 クロナスと横でクスクスと笑むフェイムを見比べて、ルタリアは嬉しそうに笑顔を浮かべた。

 

「二人共、そうしてると髪形がそっくり。本当に、似てるね」

 

 屈託のないその笑顔に言われて、クロナスは困ったように、それでも嬉しそうに笑った。

 

 そしてフェイムが不意にクロナスの顔を覗き込み、ほほえんで彼にこう言った。

 

「私たち、そっくりだそうですよ。嬉しいですね、クロナス兄さん」

 

 彼はただふざけて言ってるんだと、分かっていた。頭ではちゃんと分かっていた。それなのに、こんな彼の無邪気な一言が、ずっと聞きたかった言葉が自然と漏れてきたことが、嬉しくて仕方がなくて。

 

「フェイム……」

 

 クロナスの目に涙がにじんでしまいそうになる。

 

 それを見つめかえす彼とそっくりな作りの細かい目は、驚くでもなく優しく細められている。

 

 二人を見守っていたルタリアが、そっと口を開いた。

 

「ねえ、クロナス。この国を、私たちを守ってくれてありがとう。私、あなたの無事をずっとずっと祈っていたの。私一人で、何十人も家族がいる人に匹敵するくらい、あなたは心配されていたんだよ。だからもう、自分が一人きりだなんて思わないで」

 

 強い意志の宿った瞳で彼を見上げてから、ルタリアははにかみながらも精一杯笑って見せた。

 

「あなたが好き……」

 

 目を見張ったのは周りの人間とクロナスだけで、フェイムはそれを分かっていたかのように穏やかにほほえんでいた。

 

 クロナスに返事をもらうより早く、ルタリアは彼の隣に立つフェイムに頭を下げた。

 

「ごめんなさい、フェイム様。私はずっと、あなたのことが好きですとお伝えしてきたのに」

 

 彼女の真摯な眼差しを受けて、フェイムはゆっくり首を左右に振った。

 

「謝らないで下さい。私はクロナスのことをずっと前から家族のように思っていますから、大切な家族にまた家族が増えることが、とても嬉しいんです」

 

「フェイム様……」

 

 どこまでも優しいフェイムに胸を打たれ、ルタリアが彼の名を口にした時。

 

 クロナスは片手で顔をおおい、こらえ切れぬ嗚咽を漏らしていた。

 

 泣き顔を見られたくないのか徹底してルタリアから顔を背けていたが、彼女が彼の傍に寄ると、片腕で彼女を強く抱き寄せた。

 

 もう片方の腕をフェイムの肩に預けているから、それはまるでクロナスが二人を大切そうに抱きしめているように見えた。

 

「ルタリア、フェイム、二人とも本当に、バカだな……。でも、ありがとう……」

 

 

 

 それから時が過ぎ、二回のオリーブの収穫期が終わった頃、二人は夫婦になった。

 

 結婚する前、クロナスがルタリアに言っていたことがあった。

 

 

――子供は沢山欲しいな。兄弟をいっぱい作ってやりたい。

 

――例え、年老いて俺たちがいなくなったとしても、皆が自分を一人きりだと思わないように。

 

――それは、とても素敵なことだろう?

 

 

 

 

 

 

(終わり)


 
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