「俺が……君を」
食べた?
文字通りではない以上、他の意味だろうが、そうすると男女関係を暗示する際どい言葉位しか思い浮かばない。
「いや、そんな馬鹿な」
狼狽する男に、彼女はくすくす笑いながら軽く頭を下げた。
「この姿では、あらぬ誤解を招く言い方でしたね」
そう面白そうに呟く彼女に、男は疲れた顔を向けた。
「その辺の坊主より、余程慎ましく生きてる哀れな凡夫に、心臓に悪い冗談は止めてくれ」
「あら、その辺の王侯貴族の後宮が霞む程の、類を絶する佳人、美少女に囲まれた生活をしてるくせに、どの口が仰います事やら」
「ああ……まぁ」
そりゃまぁ、傍から見ればそうなんだろうけど。
「あんな美人で面白い連中とはいえ、一応全員神様だ、畏れ多くて手を出した事はねぇぞ」
信じて貰えんかもしれんが。
「信じますよ……いえ、もっと言うと、私はそれが事実であることを知っています」
姿と役割を違えど、私は冥王に従う三尸……そして貴方の審判の様子も全て見届けております。
「そうか……だが、俺が君を食べたとは、何とも悪い冗談だな」
「いいえ、それは冗談ではありません」
「しつこいな……」
苛立たしげに、否定の言葉を続けようとした男は、彼女の顔を見て、言葉を失った。
それはどこか儚げな、喜びと、悲しみを内包した微笑み。
「貴方は、世界で初めて、私を食べてくれた人」
夜摩天様の、苛烈なまでの願いと想い、その全てを受け止めてくれた、初めての。
そう口にして、彼女は首を振った。
「この姿のままでは判りませんよね」
ご不快かと思って、姿を偽りましたが、仕方有りません。
その言葉と共に、夜摩天の姿がかき消す様に男の眼前から消えた。
「お……おい、どこに」
ココデス。
か細い、虫の音のような声が足下から響く。
その声に導かれるように、視線を下げた男は、自分の足許に可愛らしく置かれたそれを見出した。
否定しながらも、彼女の様子と言葉から、心のどこかで、答えを悟っていたのか、驚きは余り無かった。
「そう、そういう事か」
屈んで、綺麗な塗りのお椀を手の中に納める。
エエ、ソウイウコト。
蓋を取る。
「成程、確かに俺は君を食った……嘘は無いな」
ゴメンナサイ、ツラカッタデショウ?
どろりとした紫色の液体の中から、蚯蚓のような胴体に、目玉を付けた生き物がこちらを向いて、軽くお辞儀をするかのように、身を縦にくねらせた。
「俺が望んでした事だ、君が謝る事はねぇさ、えーと……」
どう呼ぶべきか暫し迷った後、男は神妙な顔でそれと正対した。
「味噌汁君」
大地を揺らし、金色の獣が落ちた。
地鳴りの音と揺れが、奴を追い、弓矢による攻撃で奴を追い詰めていた飯綱とかやのひめにも伝わる。
「やったっ!」
飯綱が小さく歓声を上げる、その声に、先を走っていたかやのひめの金色の狐耳だけが飯綱の方に向いた。
「飯綱、油断しちゃだめ、急ぐわよ」
「はぁい」
前を向いたままのかやのひめの言葉に、飯綱がぺろっと舌を出す。
とはいえ飯綱も判っている。
あの化け狐が、そう容易く死ぬわけも無い。
鞍馬の策に嵌り受けた痛撃に、小烏丸の捨て身の追撃によって、空を舞う力を失ったのは間違い無い所だろうが、それでも油断はできない。
あの狡猾な狐の事だ、力を失って落ちたと見せかけて、実は地脈の力を吸い上げる為に、敢えて地に落ちた可能性すらある。
かやのひめが、寧ろ足を速めたのは、そうした危機感の表れ。
奴が確かに滅んだ、それを実際にこの目で確かめるまで、何も安心は出来ない。
この屋敷、彼女たちの家の構造は、二人とも知悉している。
奴の落ちた場所の当たりを付けて、最短距離を走る。
駆け抜けようとする二人の道を、崩れた練塀や、焼け焦げ倒れた庭木がちろちろと火を上げた姿で塞ぐ。
自分たちが遊び歩いた散歩道が、丹精した木々が無残な姿をそこかしこに晒している。
それらを避け、あるいは跳躍して先を急ぐ二人の眼前に、そんな光景が否応なく映し出される。
「……っ」
低く、息遣いに紛れる程度に、本当に僅かに上げた飯綱の呻くような声に、かやのひめの耳がピクリと動く。
その気持ちはかやのひめも同じ。
美しく、優しかった庭の風景、それと共に育まれた暖かい思い出、それらを土足で踏みにじられた、怒りと哀しみ。
それは、良く判るけど。
「この『庭』が生きてあれば、再建は出来るわ」
「かやのひめさん……だけど」
ご主人様は、もう。
飯綱が健気にも、そう言いかけて呑み込んだ残りの言葉も、かやのひめの鋭敏な耳には届く。
「……ふん、あんな殺しても死ななそうな奴の心配なんか、私はしてないわよ」
私や飯綱やみんなに、こんな思いさせて、意地でも心配なんてしてやるもんですか。
「……そうだよね」
ご主人様、帰ってくるよね。
「ええ、帰って来たら文句を沢山言って、沢山埋め合わせさせてやりましょ……その為にも」
この、絶大な力を秘めた霊地たる場所だけでも、自分たち式姫だけでも、そしてあの男とこうめという少女だけでも、どれか一つだけでは、この『庭』は存在しなかった。
だけど、いや、だからこそ、かやのひめも飯綱も信じている。
この庭があり、私たちがここに居る限り、彼は再び帰ってくる。
角を曲がった二人の眼前に、金色の巨体が横たわっている。
「うん、絶対にこの庭を守りきるよ!」
頷き交わした二人が散開する。
横たわっていた巨体が身を起こす。
弱ったりとはいえ、まだまだ強大な力を秘めた体が、血を滴らせながら、二人を迎え撃つべく身構える。
妾を殺しに来たかァ、式姫ェ。
毒気と瘴気に満ちた呼気を、ふしゅうと吐きだしながら、屈辱と憎悪に煮えた、血走った目が二人を睨む。
それを更に勁い視線で睨み返してかやのひめは、弓に矢を番えた。
「引導を渡しに来てやったのよ、ありがたいと思いなさい!」
弓に矢を番えたまま、かやのひめが更に足を速め、藻に向かう。
力さえあれば、彼女に従う植物達の力を借りて無限に等しい程に放てる矢だが、今の自分では、撃てる矢も残り僅か。
飯綱の矢とて、あれだけの連戦を潜り抜けて来た後では、知れた物だろう。
ならば、至近距離からの、急所への一撃で、確実に止めを刺す。
手にした、植物の神たる彼女に従う、生きた梓の弓に力を込めるが、返ってくる反応が弱い。
無理も無い、大妖相手の長丁場の戦に、武具だけでなく彼女もまた心身ともに疲弊しきっている。
御免なさい、だけど今だけは。
(お願い、もうちょっとだけ頑張って)
ただでは滅びぬ、そなたら、一人でも多く道連れにしてくれるわァ!
肘から先が断たれた右前脚で、地に踏ん張り、その巨体をもたげた藻が、残る片目でかやのひめを睨み据える。
その全身から、夜目にも判るほどに溢れる血が、毒液のように黒く地を汚していく。
そこまでして、憎悪を振りまき、己の命を投げ捨ててでも、一人でも多くの不幸を望むというのか。
自分の死への道連れ……か。
その妄執が、彼女の主たる玉藻の前の復活の為の礎になるという決意の現れだったら、まだ良かった。
だが、この叫びは、自分の滅びと、敗北を受け止められない、未熟な魂の最後の虚栄でしかなかった。
「千金を抱いてであろうが、万の人に泣いて貰おうが、億の敵の屍を積もうが、それは死を前に己を慰める術であって、本当の終わりは常に一人で受け止めるしかないのよ」
それは、羽虫であろうが、大妖怪や神々であろうが変わらない、全ての存在に課された、冷厳な事実。
貴女も、元を糺せば妖狐だというのに、その自然の理を、忘れてしまったの?
愚かで、そして哀れな。
最後の力を振り絞った金色の巨獣が、高い、悲鳴のような雄叫びを上げる。
小烏丸に斬られ、露出した前脚の骨を砕き、肉と血を飛び散らせながら大地を蹴る。
もう、痛みも感じていないのか、それとも、痛みを超える何かが、藻を衝き動かしているのか。
迫る巨獣に弓を向け、かやのひめは静かに呟いた。
「その醜悪な命に、止めを刺して上げるわ、外道」
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式姫の庭の二次創作小説です。
前話:http://www.tinami.com/view/987788
味噌汁との対話に関しては、ミスタ~forest氏のシュールな式姫掛け合いが秀逸過ぎて、超えられる気がしません……味噌汁とぬりかべの対話、また拝見したいもんです。