ところは東京・新宿のとある事務所。
「…はい、飛鷹探偵事務所です。…はい、おりますが。少々お待ち下さい」
かかってきた電話に出た、緩いウェーブの長い髪の女性――三杉瑠衣は顔を上げて。
「光一郎、ホシノコウジ様という方から電話よ」
「…ホシノ…?」
窓際の席に座る、精悍でクールな雰囲気の整った顔立ちの男性――この事務所を営む私立探偵の飛鷹光一郎は目を瞬かせる。
回してくれ、と伝え、手元の電話を取る。
「お電話替わりました、飛鷹です」
『お忙しいところすみません。先日お世話になった星野ですが』
「え?」
『あの、母方の曾祖母とのことで…』
「ああ…!」
思い出した、という表情になる光一郎。
電話の相手は、光一郎と親しい土御門佑介の恋人・草壁栞の義兄である星野紘次だった。
「その節ではどうも。その後はいかがですか?」
あちらが手を引いたとは言え、まだ安心という気にはなれない。
『お陰様で、やっと落ち着きました。本当にありがとうございました』
「いえ、そんな。当然のことをしたまでですから」
ついこの前まで、紘次の周りは大変なものであった。
突如、紘次の母方の曾祖母が彼を後継者にせんと、紘次の妻の咲子や家族に引き渡すよう妨害を仕掛けてきた。
しかも、その曾祖母というのが『財政界のゴッドマザー』と言われる人物。
とても太刀打ちができない…というときに、紘次にとっては義母にあたる草壁真穂が力になってくれるからと紹介したのが光一郎だ。
実際、真穂と光一郎は佑介の剣道関連で面識はあった。
紘次は詳しいことは知らないが、光一郎はそのコネを使って裏で手を回してくれたらしい。
一介の私立探偵でありながら各界のかなりの大物にも繋がっており、あのゴッドマザーにも対抗しうるほどの力を持つ『ドン』とコンタクトしていたのだ。
それに加え咲子や佑介たちの深い愛情の前に、ゴッドマザー側は引き下がるを得なかった。
『それで…そのお礼と言ってはなんですが、お時間があれば今夜、食事かお酒でも…』
それにふっと笑みを浮かべ。
「いえ、お礼なんてとんでもない」
やんわりと断るのだが。
『そうでないと私の気が済みません。今日でなくてもよいので、是非』
紘次からそこまで言われてしまっては、光一郎も折れるしかない。
「…ちょっと待ってて下さい」
苦笑しつつ言い、
「瑠衣。これからの予定はどうなってる?」
恋人でもある秘書に問えば。
「今日は…。予定はなにも入ってないわ」
パソコンを見て答える瑠衣に頷いて。
「わかりました、では今夜に。東京駅のステーションホテルに行きつけのバーがあるのでそこで…」
こうして会うことになった。
東京駅のステーションホテルの2階にあるバーのひとつ『オーク』に、光一郎の姿はあった。
ブラウンを基調とした、落ち着きのある雰囲気のバーである。
少し遅れてバーに入った紘次は、ふと店内の様子に目を瞬かせる。
行きつけというだけあって、光一郎はカウンター席に座って50代頃のバーテンダーと話に興じている。
その姿に、店内の客…特に女性客の視線が集まっていた。
初めて会ったときも思ったが、男の紘次から見ても光一郎はかなり整った顔立ちをしていると思う。
探偵という職業柄か、触れれば切れそうなナイフのように鋭く近寄りがたい雰囲気。
だが一度懐に入れば、信じられないくらいに優しく柔らかい表情をする。
そのせいだろうか。
あの件では、紘次は高校大学時代の先輩・倉田臣や弓道の師匠の都竹忍にさえ見せなかった「弱さ」を光一郎には見せてしまっていた。
(でも、私立探偵をやってるんなら、あれじゃかえって目立つんじゃ…)
ふと苦笑いでそんなことを思っていると、紘次に気づいた光一郎が手を上げているのが見えた。
「すみません、飛鷹さん。誘っておいて遅くなって…」
「いえ、私もさっき来たところでしたし」
にこりと笑いかける。
光一郎の隣に紘次が座ったことで、更に女性客の視線が集まる。
たが、ふたりはそれも意に介さない風で。
紘次も精悍な男前で、芸妓であった祖母のやち代に育てられたこともあってか、それに加えてそこはかとない「色気」もにじませているのだから。
「星野さん、何を飲まれます?」
「そう…ですね、好きなのは焼酎ですけど…」
ここには置いてないですよね、と言おうとすると。
「ではお作りしますよ。メニューにはありませんが」
バーテンダーの硲貴士(はざま・たかし)が笑顔で言う。
「え」
「あ、お願いします」
目をぱちくりさせている紘次の横で、光一郎は慣れた風で答える。
「飛鷹さんは今日はどうしますか?」
「じゃあ、ちょっとマニアックにギムレットにしますか。ドライのほうね」
おどけるように片目をつぶって言えば。
「そのままじゃないですか、探偵さんなんだし」
硲もくすくすと笑っている。
カクテルの材料の焼酎を取りに行くのに離れようとしたバーテンダーを引き留め、なにやら耳打ちした。
しばらくして、硲が戻ってきてシェイカーなど道具を取り出す。
まずは光一郎が頼んだ『ギムレット』。
レイモンド・チャンドラーの代表作『長いお別れ』に重要な小道具として登場した、主人公である私立探偵のフィリップ・マーロウ愛飲のカクテル。
ドライ・ジンとライムジュースをシェイクして、グラスに入れるというものである。
硲が光一郎に「そのままじゃないですか」と言ったのはこのことからだ。
「綺麗な色合いですね。薄い緑で」
紘次が覗き込むようにする。
「でも度数は強いですよ、見た目によらず。『ギムレット』は錐を意味するんですから」
「錐って…あの突き刺す?」
苦笑気味に言う光一郎に問うと。
「そうそう。突き刺さるように強い酒という意味でそう名付けられたとか」
紘次の分のカクテルをシェイクしながら硲が答える。
「お待たせしました」
紘次の前に出されたカクテルは…
「…これは?」
「飛鷹さんが、貴方はコーヒーもお好きだと仰っていたので、これを作ってみました」
「セントラーザスペシャルですね、これ」
『セントラーザスペシャル』。
一見、ブラックのアイスコーヒーにクリームが平べったく乗っているとしか見えないカクテル。
麦焼酎とコーヒーリキュールをシェイクし、生クリームを乗せたもの。生クリームはノーシュガーだ。
本当はその3つを全部合わせてシェイクするのだが、なかにはこのやり方もある。
「カクテルに詳しいんですね、飛鷹さん」
感嘆の意を込めて紘次が言うのに。
「ちょっとかじっただけですよ、以前それ関連の事件を担当したので」
照れくさそうな表情の光一郎の答えを聞いて、改めて彼は私立探偵なんだと思う。
「では改めて――」
ちん、とグラスを傾ける。カウンターにはフィッシュ&チップスなどのつまみが置かれている。
「あ、美味しいですね。これ。あとから焼酎が来る感じで」
「よかった」
紘次の反応に光一郎が満足げに見ていると。
「…本当に、飛鷹さんのおかげです」
不意に紘次の声が聞こえた。
「義母が飛鷹さんを紹介してくれなかったら、どうなってたか…」
「…そんなことないですよ」
ふっと苦笑気味に笑って。
「星野さんを守ろうとした、ご家族の方たちの思いが彼らに勝ったんですよ」
そう言って紘次を見る瞳は優しい。
妻の咲子の愛情。草壁夫妻や星野家のやち代たちの思い。
そして、自分のところに駆け込んできた佑介の苦悩と覚悟。
それらの「想い」が紘次を救ったのだと光一郎は思う。
「それに…」
もう、言ってもいいだろう。
「私を動かしたのは、本当は…佑なんですよ」
「え?」
「表向きは草壁さんが相談して…ということになってましたけどね」
変わらずほろ苦い笑みで。
「本当は、佑のやつが私のところに駆け込んで来て、それで事を知ったんです」
紘次は大きく目を見開いた。
光一郎を紘次たちの許に向かわせたのは、本当は佑介だった。
その事実に、紘次は目を見開いていた。
「…佑介とは…知り合いだったんですか?」
「ええ。1年前に知り合って、それからです」
「………」
何とも言えない表情になる紘次。
「あいつも苦しかったと思いますよ。少しでも星野さんたちの力になりたいのに、みんなが隠そうとしていて…。なまじ力を持ってるから余計に」
「!」
紘次は弾かれるように光一郎を見た。
光一郎も、佑介の能力のことを知っているのか。
それに驚きを隠せなかった。
佑介が薄々、自分たちの問題のことに気づいているだろうとは思っていた。
こちらが隠そうとしても、佑介には嫌でもわかってしまうから。
それでも、言えなかった。
佑介は自分たちから見ればまだ子供で、大人である自分たちが守りたかったから。
その大事に思うが故の「すれ違い」が、佑介にもつらい思いをさせてしまったのか。
「それだけ…佑にとっても星野さんたちはとても大事な存在なんですよ」
にっこりと、優しい笑顔で言う。
「……っ…」
――俺だって、紘次さんたちを助けたいんです!
紘次と咲子の前で、たまらず泣きながら叫んだ佑介。
そんな彼を、紘次は抱きしめていた。妻とともに。
「ありがとう…」
「すまなかった…っ…」
そう言うのがやっとで。
「本当に…いいヤツですよ、佑は」
いとおしさをたたえた瞳で呟くように言う。
「…ええ」
紘次も穏やかな笑みを浮かべる。
ふたりとも、佑介のことは「弟」のように可愛いのだ。
「…そういう飛鷹さんは、佑介とはどうやって知り合ったんですか?」
お酒が入ったこともあるのか、幾分かくだけた雰囲気になってくる。
「…あ~…。場面としてはあまりよくないんですけどね」
苦笑しつつも、光一郎は語り始める。
1年前、自分が殺人事件の現場検証にいた時に佑介が友人とそこをたまたま通りかかった。
その際佑介の特殊な能力のおかげで、犯人がすぐに捕まったことなどを。
先ほどの紘次の反応から、彼も佑介の能力を知っていると見てすべて話した。
「そうだったんですか…。初めは驚いたでしょう?」
「ええ。でも不思議と受け止められましたね」
ギムレットのグラスを置き、何とも言えない笑みで紘次を見。
「力があろうがなかろうが関係ない…。それは星野さんもそうでしょう?」
光一郎の言葉に、一瞬目を見開くが。
「――もちろん」
見せた笑みは自信にあふれていた。
そんなふたりの様子に目を細めていた硲が。
「飛鷹さん、ギムレットのおかわりいります?」
「あ、そうですね。じゃあ…」
答えながら紘次をさして。
「星野さんにも同じものを」
「え」
言われた紘次は目を瞬かせるが、硲はにこにこして頷いた。
2杯目のギムレットをカウンターに差し出して。
「ギムレットは友情の証ですからね。よく味わって飲んで下さいよ?」
「え?」
おどけた口調で言う硲。これには光一郎も少し驚きの表情を見せたが。
「友情の証って…?」
話の見えない風の紘次に聞かれて、思い出す。
「あ~、あれですか。『ギムレットには早すぎる』って」
思わず苦笑を漏らしてしまう。硲は「うんうん」と頷いている。
「…確かそれって、レイモンド・チャンドラーの小説の台詞ですよね?」
「おや、貴方もご存じですか」
「本はよく読む方なので…」
紘次は照れくさそうに肩をすくめる。
「でもあれは、最後は飲んでしまうと友情が終わるということじゃないですか」
光一郎が少し憮然とした顔で言う。
主人公である私立探偵のフィリップ・マーロウは、ギムレットが好きだった友人、レノックスに合わせて一緒にギムレットをよく飲んでいた。ギムレットはふたりの友情の証といってもいい。
そんな時、ある事件への関与を疑われたレノックスを逃がすためにマーロウはあらゆる手を尽くすが、レノックスは逃亡先で自殺してしまう。
レノックスは自殺の際にマーロウに遺書を残した。
『事件についても僕についても忘れてくれ。だがその前に、僕のためにヴィクターでギムレットを飲んでほしい』
つまり、マーロウにひとりで飲んでくれというギムレットは、レノックスからの「さようなら」の言葉の代わりだった訳だ。
ひとりで飲んでしまえば、その友情も消えると。
しかし、実際はレノックスは顔と名前を変えて生きていた。ふたりは再会し、そして再び別れる。
「ギムレットには早すぎるね」
これはその時にレノックスが発した言葉。
そしてマーロウも言う。
「君とのつきあいはこれで終わりだが、ここでさよならは言いたくない」と。
「本当のさよならは言ってしまったから」と。
再会したふたりは共にギムレットを飲むことはなく、ただ静かにお互いの深い友情だけを確認して別れた。
「…『ギムレットには早すぎる』というレノックスの台詞は、マーロウに対して『まだ自分を友人と思っていてくれるか?』『まださよならを言わないでいてくれるか?』という切望を込めた言葉なんだろうと思う」
ギムレットの綺麗な緑を見つめ、光一郎は呟くような声で言う。
その横顔を、気遣わしげに見ている紘次。
探偵という職業上、彼も多くの「さよなら」をしてきたのだろうか。
きっと、つらい思いもしたに違いない。
自分が光一郎に「弱さ」を見せてしまったのも、そんな彼だからかもしれない。
「…だから、このギムレットは『始まり』にするんですよ」
「…始まり?」
優しく微笑んでいる硲に、光一郎と紘次は首を傾げる。
「私から見れば、おふたりはいい友人になれそうに思えるんですけど?」
「!」
思わず顔を見合わせるふたり。
「傍から見ても、互いに信頼しあってるように見えるんですよ」
「………」
光一郎は何とも言えない表情になるが、紘次はどこか確信を得た顔をした。
信頼……そうだ。
あの時、自分は心のどこかで光一郎を信用し、頼みにしていたのかもしれない。
だから自分の「弱さ」をさらけ出せたのだ。
「…飛鷹さん」
「え?」
その顔に親しげな笑みを浮かべて。
「飛鷹さんのほうが俺より3つも上なんですから、敬語はやめて下さいよ」
「星野さん」
光一郎は突然の申し出に戸惑ってしまう。
しかも、いつの間にか「私」から「俺」に変わっている。
「その『星野さん』もなし。…名前で呼んで下さい」
「いや、しかし」
「名前で呼ばないなら返事しませんよ?」
やりとりしていて、紘次も思わずおかしくなってしまう。
佑介に名前で呼んでもらうようになったときも、こんな会話だったなと。
初めは呆気にとられていた光一郎だが。
「…ったく」
くすくすと笑い出す。
「わかりました。…これからもよろしく、『紘次』」
「こちらこそ」
顔を見合わせて吹き出した。
そのふたりを、硲も優しい笑みで見ていた。
「じゃあ、お近づきの印としてこいつで飲み比べするか?」
「いいですね」
手元のギムレットを指差して言う光一郎に、紘次もにっと悪戯な表情になる。
カクテルの場合も、種類の違う物を飲み続けると悪酔いするのだ。
こうして、バー『オーク』の夜は更けていく。
ギムレットには早すぎることもなく。
かといって遅すぎることもなく。
ただ「始まり」として飲むギムレット。
「…おい、もうダウンか?」
「…まだまだっ!」
そうは言ってるが、紘次の顔は赤い。
「あの~…おふたりが強いのはわかりますが、閉店なんですけど…」
硲はただただ、苦笑いをするしかない。
果たして、飲み比べの行方はいかに…?
了
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うちの探偵殿・光一郎の結婚ネタを載せたこともあって、少しずつ彼の周りのお話を載せようかと思いまして。
中には季節外れのものもありますが、大目に見てやって下さい(笑)。
今回載せますのは、探偵という職業柄から、友人を持たないと決めていた光一郎にとっては友情の始まりのお話。
いずれは私の友人が書くであろう、彼女側のあるキャラにとって重要なストーリーがあるのですが、そのお話が終わった後のことがすっとんと落ちてしまいまして。
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