ちょっとハッキリさせておきたいこと・・・。について書きます。
ちょっとハッキリさせておきたいことを書きます。
それは、例えばの話になってしまいますが、何処かの医療機関に通うべきかどうかを毎日話し合った場合、その話し合わなければいけない根拠はいったい何なのか?と絶対に皆、考えると思うんですよ。
毎日のようにそのことをネット内で論議している感じが強かったら、誰しもがそういう風に次第に真剣に考えるようになると思います。
さらに、それだけじゃなくて、ハッキリとした原因はまったく分からないけど、どうやら冒頭に書いた問題が原因の大きな主軸となっているとしか思えない、大々的な著名ビルが突然閉鎖するようなショッキングな予告があったりすると、これはもう笑い事では済まされない感じがすごく強くありますよね。
でも、考え方によってはいかにもそういう風に見えたり感じたりしたとしても、単なる偶然と言えばそれで終わってしまうことも世の中にはたくさんあると思います。
また、ちょっとでも変だとか疑問に感じた点が見つかったら傍に人がいたり、そのことに対して何か知っていそうだと思ったら、躊躇しないですぐに素直にどんなつまらない内容でも良いから言葉で質問した方が良いと思うんです。
いちいちちょっとしたことを尋ねるのは馬鹿っぽくてみっともないからとちょっとしたことはすぐ自分の長年の経験と勘による憶測で判断する大人の人々がすごく多いように思うんですが、正直言って“聞くは一時の恥”だと私は思っているから、もしもその憶測が実はとんでもない勘違いだったのにその勘違いのせいで、すっかり周囲から誤解されて、その挙句の果てに何者か達の明らかなる悪意に基づいたトリック的な策略を仕掛けられてしまったせいで、大勢の運命が一瞬の内に谷底に突き落とされるとしたら、ちょっとでも変だとか疑問に感じたことは、臆せずにその場ですぐに何かを知っていそうだと感じる相手に質問をするべきだと思うんですよね。―その方が絶対に間違いが無いと思いますから―
ただ、何かを誰かに質問して、ある答えを聞いて、そして、その結果、その答えがどうしても納得が行かない、すごく不愉快で気に入らないと思った場合も、そこで話をすぐ終わらせないで、もうちょっと色々と質問して、すべて本音を吐く必要は無いけど、何かが原因でそういう事情はとても困る、嫌だと思っている、ということくらいはハッキリと相手に感情表現をすべきだと思います。
なぜ、そうした方が良いのかと言うと、そういう風に表現をした結果、もしもその答えが実は適当だったりちょっと嘘が混じっていた場合、そういう本心はその答えがすごく気に入らないという強い意思表示をすることによって、それほどその答えが気に入らないのだったら後々トラブルになったら困るから、『実は・・・。』という風に別の新たな答えが出てくることだってあるのです。―この場合適当に答える場合の本心は、そのことを話し合うために出会った訳じゃないから・・・ということになると思いますよ―
―つまり、最初から“○×△の件で話し合いたい・・・”という前置きのお願いがあれば、そういう気苦労や失敗を未然に防げたと思うということです、また、その場合、もちろん、何でそのことで話し合いたいのか?ともちろんそういう講義が始まると思いますが、理解不明な回答を得るよりは、最初にきちんと何のことについて話を聞きたいかという主旨とか要点をまず先に相手に告げることが一番大事だと思うのです。そういった工夫がまったく無かったら、いつも結果、理解に苦しむような対応ばかりされても、それは仕方の無いことだと思います―
いちいち、いつも人の発言を何処かの組織が潰れるだとか、誰かが死ぬだとか天と地が引っくり返るほどの大変な事件が起きるだとかに全てことを置き換えて、常に特定の人物―私もその一人のような気がします―精神的に追い詰めているのは絶対に間違っているしちょっとやっていることが何もかも異常過ぎると思います。
ちょっとあまりにも私のやることなすこと発言に対して過敏に反応し過ぎる人が多いということについてもとても疲れるしいい加減にして欲しいといつも強く感じているのです。
そして、私は特にもっと若い時は、人間関係は純粋にお互いが好きだったり自然に惹かれ合えばお付き合いをすれば良いと思っていたので、だから、そのようなお互いの純粋な感情以外の何かもっと公的な、大勢の運命や収入に大きく関わるような、大きな圧力のために自分の感情や希望は完全に押し殺して、まるでお勤め―つまり、人間関係も所謂仕事―みたいな感じでそれら―誰かと交流を深めて行く行為のこと―の問題に取り組んでいかないとならないと感じるようになって来るとダンダンとその人間関係に対してすごく重たい物を感じるようになってしまって昔のように純粋にすごく良いなとか惹かれ合うっていう感じがまったく起きなくなって来るのは確かだと思います。
格段、あるタイプの人物のいる医療機関に誰が、あるいはどのタイプが通うかどうかという問題になると、自分にとっては医療機関と言うのは、そもそもその医療機関の内容に合った病気や症候に悩まされたら行くべき場所だと考えているので、それ以外のことでただ何となく周囲がそうした方が良いように合図を送ってくるから、確証はまったく無いけどそう見えるから、だけでは、悪いけれどすごく不気味で不吉な感じがするから一歩も動くことはできないと思います。
普通の知り合いや友達をつくる場合はそういう専門の出会い系ツールがあるからそこでつくれば良いだけの話で、医療機関はそういった場所でも何でも無いのでそれは当然のお話だと自分は思っているのです。
もし、それであってもまたそこへ行くとしたら本当にそこの医療機関にピッタリの病気になって苦しくて困った場合だけになると思います。
そして縁は無理やりつくるものでは無いし、自然が一番大事だと思っているし、自分にとっては少なくとも現段階において人間関係はお仕事だとは思っていないので、ただ何となくそういう風に見えるとか感じるくらいで、絶対的なハッキリとした理由が見当たらなかったら、そう簡単には意味不明な行動を取るわけには行かない、とそのように感じているのです。
―やはりこれらの問題には最初から色濃く宗教問題が根ざしているようにもとても強く感じたりしています―
Tweet |
|
|
0
|
0
|
追加するフォルダを選択
ちょっとハッキリさせておきたいこと・・・。について書きました。
文章訓練中です。><