味噌汁のいい匂いがして、犀星は目を覚ました。無意識に床の隣に腕を伸ばすが、そこには誰もいない。上体だけ起こして部屋の中を探すと、庭に面した障子をうすく明け、その前に座っている恋人の姿を見つけた。薄藍色の襦袢を羽織ったその人は、両手で大事そうに掲げた犀星の煙管を朝の光にすかして、ためつすがめつ眺めていた。
「織田君」声をかけると振り向いて、「あ、先生、起きたん」と笑顔を見せた。犀星は床から出て、臙脂色の襦袢をまとうと、作之助の隣に腰を下ろした。
「何をしていたんだい」
そう聞くと、作之助は少し決まり悪そうに煙管をそっとたばこ盆に置いた。
「すんません。勝手に先生の煙管触って」
「それはかまわないが、随分熱心に見ていたな」
「ワシたばこはやりますけど、煙管は使わへんから、ちょっとめずらしゅうて。それに、これが先生の使うてはる煙管なんやなあ、て思て見てたら、」
決して派手ではないけれど品の良い竹の羅宇、鍍金の色も落ち着いて、
「まあ、粋(すい)なモンやなあと、ほれぼれしてました」
褒められて犀星はなにやら面映ゆく、「そんなに良い品でもないんだが、」と言うと、「それがまたええんですわ」となにやら一人得心して、うんうん頷いている。稚気のある仕草はかわいらしいが、軽く羽織っただけの襦袢姿はしどけなくて目のやり場に困った。さりげなく襟を合わせてやりながら、
「ところでさっきから気になっていたんだが、この味噌汁はなんだ?」
と聞いた。作之助の前にはたばこ盆と、まだ湯気の立っている味噌汁の椀が一つ置かれている。
「まさか君、この格好で食堂まで行ったんじゃないだろうね?」
「いや、まさか! 先生これ、インスタント言うて、お湯注ぐだけで出来る味噌汁なんですわ」
せやからこの部屋からは一歩も出てへん。という言葉を聞いて犀星は安堵した。
「それならいいが」
「ホンマはね、先生が起きてきはる前に、先生の煙管を掃除しといたろ、思いましてん。昨日、ちょっと詰まってきたな、言うてはったでしょ。知らん間に煙管がきれいになってたら、先生驚かはるやろ思って」
ケッケッ、と作之助は笑った。たしかに昨日煙草を吸いながら、そんなことを言った記憶はある。しかしそれを覚えていて、代わりに掃除しようとするとは、なんだかいとおしい話だ。
「ほんで、ヤニ掃除には味噌汁がええって言いますやろ。使うてみよと思たんですけど、あれ、ホンマなんやろか」
「んん、確かに聞いたことはあるが、使ったことはないな」
「ナア先生。先生の煙管、味噌汁で掃除してみてもよろしい?」
目をキラキラさせて尋ねてくる姿は、まるでいたずらな少年のようで、思わず苦笑した。
「かまわないよ」
「やった! 犀星先生は太っ腹やね」
作之助はうきうきした様子で懐紙を手に取り、細く千切って紙縒りを作る。
「せやけど、先生が煙管使わはるの、なんや意外でした」
「そうかい?」
「ワシはずっと、先生のことは作品でしか知りませんでしたから。先生の作品で煙管いうたら、ほら、母親が……」
言いさして、作った紙縒りをくるくると手でもてあそぶので、犀星は作之助の言いたいことを察した。
「たしかに子どもの頃はよく煙管で叩かれて折檻されたな。そのことを恨みがましく作品にも書いたりしたが、まあ、煙管自体には恨みもないし」
「そらそうですわな」
言いながら作之助は紙縒りを味噌汁にたっぷり浸して引き上げた。
「ほな行きまっせ。先生、煙管が味噌汁臭うなったら堪忍やで」
「まあ、やってみなさい」
この年下の恋人は、なんでも楽しそうにやるので、見ていて飽きない。
まず火皿をゴシゴシ擦って、ヤニの取れ具合を検分する。
「これ、よう取れてるんとちゃいますか」
汚れた紙縒りを目の前にぶら下げて、うれしそうに見せてきた。新しい紙縒りを用意して、味噌汁に浸し、今度は吸い口から通して中を掃除する。掃除しながら上機嫌に、作之助は語りだした。
「ワシにとって煙管は、なんや色っぽいイメージがありますわ」
「色っぽい?」
「ワシ、文楽とか好きやから、色街のイメージがあるんですわ」
「ああ、なるほどね」
「せやから、先生が煙管を吸うてはるのを見ると、あんまり男振りが良うて、惚れ惚れします……」
「……織田君」
随分かわいらしいことを言うのでこっちを見てほしくて声を掛けたが、作之助は煙管に夢中で一瞥もくれない。犀星はそっと作之助の肩を抱き、顔を覗きこんだ。真剣な顔をしている作之助の邪魔をしては悪いと思いつつ、口づけだけでもと顔を近づける。
「先生、見てください、めっちゃヤニ取れたで!」
作之助が叫んだ。
「あ、……ああ」
ヤニで黒ずんだ紙縒りを見せられて、犀星は手を引っ込めた。
「ヤニ掃除に味噌汁はなかなか使えますねえ。ええこと知ってもうた」
楽し気な作之助に、犀星も思わず笑みをこぼした。もうちょっとじゃらつきたい気持ちもあったが、新しいおもちゃを手に入れてはしゃぐ無邪気な恋人はかわいらしいので、諦めることにする。
作之助は、真新しい紙縒りで最後に仕上げの掃除をして、出来上がりを検分した。
「見てほら、先生。めっちゃきれいになりましたわ!」
「本当だ。ありがとう織田君」
得意げに煙管を見せてくる作之助に、犀星は礼を言った。
「先生、吸うてみはります?」
「そうだね」
そう答えると、作之助は刻みを雁首に詰め、煙管をくわえるとたばこ盆の桜炭で吸い付けた。
「はい先生」
吸い口を襦袢の裾でさっと拭って斜めに差し出すのは、恐らくわざと情婦を連想させるような、なまめかしい仕草をしたのだろう。それにはっとさせられて、目を奪われたのも事実だが、同時に少し面白くないとも犀星は思った。織田君はどうも、俺の気持ちを軽く見ている気がする。
犀星は煙草を受け取って、吸った。
「これはいい按配だ。きれいに通っている」
君もやってみるかい、と煙管を差し出すと、作之助はちょっと遠慮する様子を見せたが、受け取って煙草を吸った。
「ほんまや。おいしいですね」
作之助が返してきた煙管を一吸いして、また手渡して吸わせる。二度目になると、作之助もあまり遠慮しても悪いと思ったのか、吸い口も拭わず返してきた。しばらく無言で互いに煙管を吸った。
「比翼煙管ですね」
ぽつん、と言った作之助の頬には、うっすらと朱が浮かんでいた。
「そうだよ。吸い付け煙草は粋だがね、俺は煙管の雨に降られるより、たった一本の煙管を比翼にする方がいいさ」
作之助は顔を真っ赤にしてしばらく黙っていた。
「先生……」
作之助はそっと犀星に寄り添って、袖を引く。
無言でねだられるままに、犀星は作之助の唇に口付けた。ふっと漏れた吐息はどちらのものか。犀星は灰吹きのふちに煙管をポンと当てて、火を落とした。薄藍色の襦袢の上に、臙脂の襦袢が重なる。消えかけた桜炭の煙がうすく立ち込めていた。
「何くどくどと思うぞや これぞ一蓮托生と 慰めつ又慰みに 比翼煙管の薄煙」
冥土の飛脚/近松門左衛門
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比翼煙管の薄煙り
犀星先生のお衣装最高すぎましたね。間に合わなくて、もう時期を外してしまいましたが、いまさらの煙管ネタ。
犀星先生のキセルのお掃除をする織田君と、先生のじゃらじゃら。
SSです