青い空で輝く銀色の雲が、高く、大きく、空に広がっている。
暑い空気と喧しい蝉音に包まれながら、網戸越しにその光景を眺めていた。
とっくに見飽きてしまったテレビが笑い声をコソコソ上げている。
じっとり汗が滲み続け、身体が溶けてしまいそうな気がする。
体に触れるものすべてが疎ましくて、エアコンの風すらも不快で、電源を消した。
自分の心も消してしまいたい。
冷たいフローリングの上に寝転べば、その固さが不快で。
柔らかいカーペットの上で大の字になれば、投げ出した手足を切り取りたくて。
膝を抱えて丸まれば、鼓動と息の根を止めたくなって。
片想いの辛さは知っているつもりだった。
甘かった。
「カスミ」
重い肩を上げて、ピストルのような彼女の名前を顳顬に突き付ける。
頭の中をすべて吹き飛ばしてくれますように。
六月に結婚式する奴の気が知れない、そう思う人が多いことくらいはもちろん分かっている。
昔はジューンブライドという言葉があって、憧れの結婚式の代名詞みたいになっていたみたいだけど、ただでさえ雨で外出したくないのに、窮屈で動きづらい高価なドレスを着て、ジメジメした暑い中を、汗と雨の化粧崩れに怯えながら歩くというのが信じられない。
そんな時期に、私は結婚式を開催する。
招待した人たちの苦虫を噛み潰したような表情をなるべく想像しないようにしながら、彼と一緒に結婚式を準備してきた。
彼とは大学時代から八年間付き合っている。
大学に入学してから一ヶ月後、管弦サークルの新歓コンパで、同じく一年生だった彼と初めて会った……らしいのだが、私はまったく覚えていない。彼は今でも、私との初対面はコンパだと言い張っているが、やはりまったく覚えていない。
コンパの翌日、フルートを吹いていた私に、彼が話しかけてきた。
彼はバイオリン片手に、昨日はお疲れ様、みたいなことを言った。彼のことを初対面だと思ったけど、私はとりあえずニコニコして話を合わせた。たぶん、それで彼に火が付いてしまったのだろう、それから毎日話しかけられて、一週間後にはデートに誘われた。悪い気はしなかったけれど、デートに誘われてもまったく高揚しなかったので、彼が希望を残さないように、スパッと丁寧丁重にお断りした。
のだけれど、彼は、そのあともコンスタントに私に話しかけてくる。
管弦サークルのサマーコンサートが終わったあとの打ち上げコンパでも、彼は隙を見つけて私の隣に座り、五分くらい話した。彼の話は当たり障りないものばかりで、ボディタッチはもちろん、体を寄せてくることもなかった。
「カスミさんは、僕のこと嫌い?」
突然、彼が放った言葉。
私は微笑みながら「え?」と返す。
「僕は好きです」
彼は私を数秒見つめたが、たちまち彼の耳は真っ赤になって「ごめん」と言いながら視線をそらした。そして、突然の告白から十秒もしないうちに、彼は席を離れて行った。
興味が無い異性であっても、あそこまで言われてしまうと、少なからず心が波立った。
私はオレンジジュースを口に付けて、どうしたもんか、と考えていた。
彼と付き合い始めたのは大学二年の冬。それまでは、別の男性と付き合っていたけれど、彼にとって、そんなことは問題にすらなっていないようだった。
それから七年後、社会人になった二人の軍資金が貯まったところで、順当に彼からプロポーズされた。
嫌いではないが、高揚はしない。
なるほど、噂どおり『結婚するならこんな人』になってしまった。
「いつにする?」
プロポーズを受けた翌朝、結婚式について話しているときに、彼が質問してきた。
「六月にしたい」私が答える。
「六月かあ……ジューンブライドだね」
「うん」
「カスミの誕生日?」
「別の日にする。誕生日、平日だし、仏滅。調査済み」
「そうなの? それは残念……。……そういえば、カスミの名前って、なんか、ジューンブライドっぽいよね」
「え? なにが?」
「カスミのカは、花嫁の花だし。カスミのスミは、音読みしてジュンだし。ご両親、もしかしたらちょっと意識してたんじゃない?」
「んー……純はお父さんの名前だから、違うと思うけど」
そう言いながらも、思い当たることがあった。
私の両親は、六月に結婚式を挙げたのだ。その翌年の六月に私は生まれた。
今度の六月で二十九歳になる私は、母と同じ年齢、同じ日に結婚しようとしている。
この機会に、自分の名前の所以でも訊いてみようか。
※
「それでは、本日はよろしくお願いします」
結婚式当日の朝、彼が父の前で頭を下げた。
「いや、よろしくお願いするのはこちらだよ。うちのと似て、花純はキツいからね、申し訳ない」笑顔の母を見ながら、父が言った。
「うっさいわね。それ今言うこと?」私も笑顔で言葉を返す。
「確かに、キツいですね」
彼の言葉で、全員が笑った。
「そういえば、式の最後、母さんはどうする?」
「一緒にお願い」
父の質問に私が答えた。
「大丈夫かな、最近肩が上がらなくてね、落としちゃうかも」
嬉しそうに冗談を言った父の表情を見て、少しだけ悲しくなった。
風呂敷の包みを広げると、中に札束が三つ入っていた。
「これで、永代供養をお願いします」
札束を持ってきた老年の男性が口だけを動かしながら言った。男性の声は周りの蝉の声に掻き消されて、男性の周囲一メートルくらいに近付かなければ、何を言っているのか聞き取れない。もっとも、男性の周囲にいるのは私だけであるが。
「そうですか……。えぇと、あの、私が言うのもあれなんですが、その、永代供養として頂く御心遣いとしては、かなりの金額かと思いますが……その、なんと言いますか、お墓を建てたい、というご要望になりますでしょうか?」
「いえ、お墓は昔からこちらでお世話になっております。先代の御住職には、妻の戒名も頂き、本当にお世話になりました」
男性が深々と頭を下げる。
「そうでございましたか、大変失礼いたしました、申し訳ありません」
私も頭を下げた。
十秒ほど沈黙の時間が流れる。
広い御堂に敷き詰められた畳の僅か二枚の上で、若くない男二人が無言で向かい合う。
御堂に染み込んでいる香の匂いが私達を取り囲み、二人の関係を不思議に思っているに違いない。私もそうなのだから。
頭部全体に汗を滲ませているであろう私とは対照的に、男性の顔は、涼しさを通り越して、冷たさを感じるほど変化がない。
そう、
こんな表情をした顔を、
私は何度となく見てきた。
宗教が廃れて久しい。
私が信徒となっているこの寺院も例外ではない。地域の高齢者の減少に比例、否、指数関数的に、寺院を訪れる人は少なくなっている。今の時期、つまり、お盆であってもそうなのだ。
それ故に、この男性の存在を不自然に感じた。まるで、この世界に既に存在していないような……。
「実は、永代供養の他にもお願いしたいことがありまして」
男性が目を伏せながら話を再開した。
「本来であれば私が手続きすべきなのですが、高齢になり、頭も働かなくなりまして……私の代わりに、墓仕舞をお願いしたいのです。そのためにお持ちした御布施でもあります」
男性が改めて札束に手を添えた。
「左様でございましたか……それでも、かなりの御心遣いとは思いますが、そうですね、ご主人のご希望でしたら、やぶさかではございません。協力させて頂きます」
※
「住職、ちょっといいですかぁ?」
男性の希望どおり、業者に墓仕舞をお願いした日のことだった。
御堂の外から、墓を下見していた業者に声をかけられて外に出ていくと、業者の一人が封筒を持っていて、それを私に差し出してきた。
封筒の口は糊付けされていて、表に『御住職様』とだけ書いてある。
「御骨場開けたら、一番手前に化粧箱があって、その上に置かれてたんですけど、最近の骨壷ですかね、住職、心当たりあります?」
心当たりは無かった。
葬儀の依頼は激減しており、最近の荼毘であれば、その親族であるはずの男性の顔を忘れるはずはない。
業者と一緒に、封筒が置かれていた化粧箱を見に行ったが、やはり見覚えはない。それどころか、このあたりの地域では見たことのない化粧箱だった。
化粧箱には戒名らしき文字が書かれており、仏の生前の名前が『花純』であることが見てとれる。
業者には墓仕舞の作業を続けてもらうことにして、先日、男性に連絡先を書いてもらった名寄帳を確認するため、御堂へ戻る。その途中で封筒を開けて中身を確認した。
封筒の中には便箋が一枚入っていた。
最初の数行で、私が男性に対して持っていた印象の正体を理解した。
※
御住職 様
この手紙を読んでいる頃には、私はもう自殺しています。
確信犯ながら、御住職を私の我儘に巻き込んでしまい、心苦しいばかりです。
三十年前に妻を亡くし、一昨年には一人娘も亡くし、天涯孤独となりました。
寂しさというよりも、たった一人で相手を想い続けることの辛さに耐えきれず、人生を終わらせることにしました。
この手紙は燃やして頂いて構いません。警察に御提出頂いても構いません。御住職のお好きなように処理して下さい。
私の遺体は、皆様に御迷惑をかけないよう、誰にも見つからないよう、遠くで廃棄しております。
捜索等はお控え頂いたほうが賢明かと思われます。
最期にお付き合い頂きまして、誠に有難う御座いました。
増田 純
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ある六月の花嫁にまつわる、お話。