大っ嫌い。
静かな海の上を、その言葉が流れていく。
その言葉が耳に入り、頭が理解し……そして、感情が拒否した。
大きな顔が、途方に暮れた表情を浮かべた。
「……キラい?」
「そうよ、大嫌い」
でもね……。
「貴方が悪いわけじゃない」
理由なんてない。
「貴方が私を好いて下さったように、私は貴方を嫌ったの」
「こんなニ、ワシガ……アイしても?」
「そうよ、どれ程愛して下さっても、私は、貴方が大嫌い」
感情に理由は付けられない。
嫌い、どうしても大嫌い。
どうしても愛してしまう。
それは表裏一体の心の動き。
それを聞いて、仙狸は静かに頷いた。
それが世の理なのだ。
どれ程愛そうが届かぬ思いもある、どれ程冷静に見ようと思っても、嫌ってしまう。
理と智は、人が己を御するための大事な柱ではあるが。
それで、己の全てを御せるようには、人は出来てはいないのだ。
「……ヒメ……よ」
「納得できるか否かは、どうでもいいわ……私は貴方にお別れを言いに来たの」
「ワカ……れ?」
大きな顔が途方に暮れた表情を浮かべる。
「ええ」
対する彼女に、迷いは無かった。
「私は帰るわ」
ここから。
この海の上に作られた、偽りと幻の街から。
海市から、去るわ。
「ドコに?」
「ははさまの所」
私の魂と想いが最後に帰りたかった所に。
「ねぇ御坊様……」
澄んだ笑みを浮かべて。
「貴方も帰る時よ」
もう、全てが終わったの。
命が果てた事も気が付けなかった二人と、偽りと幻を乗せて彷徨っていた。
うつろぶねの漂流は、終わったの。
「ワシの……帰る場所?」
「ええ、在る筈よ」
最後の時に、自分を還したい場所。
魂の奥津城(おくつき、墓所)を。
「それを思い出して」
姫と、先代の住職だった男が、互いを静かに見交わす。
「姫よ」
「なぁに?」
「儂が、嫌いか」
「ええ、大嫌い」
不思議な事に、そう言い交わした二人は、笑みを浮かべていた。
「そうか……そうなのじゃな」
そう呟いて、彼は俯いた。
小刻みに、大きな顔が震える。
泣いてるのか……そう一瞬見えたが、そうではなかった。
くっくっく。
心底愉快そうに、彼は笑っていた。
邪気も、皮肉さもなく、心から楽しそうに。
一しきり笑った後に、あげた顔を見て、仙狸は驚いた。
別人か……そう思う程に、その顔は端正で落ち着いた物で。
そうか……これが。
今の住職が、かつて師と仰いだ、男の顔か。
「姫が、儂にはっきりと物を言うてくれたのは、これが初めてじゃなぁ……」
いつも曖昧に笑い、確たる答えを返さない。
相手に答えを想像させるのは、恋の駆け引きの基本ではあるが。
「そうね」
ふっと、姫がどこかほろ苦い笑みを浮かべた。
「ちゃんと、言葉にして伝えるべきだったわね」
「そうじゃな……いや、判っては居ったのじゃ……だが、それを悟りたくないと、目を閉ざした儂が悪いのじゃが」
穏やかな笑みを浮かべ。
「良き引導を渡してもろうたよ」
そう口にした顔が崩れていく。
「さらばじゃ、姫よ」
ありがとう、儂の蒙を断ってくれて。
「ええ、さようなら」
姫の見守る中で……真紅に染まった海の中に、白い、蜃の死肉が完全に崩れ落ち……海の底に沈んで行った。
さようなら、彷徨い続けた悲しい人たちよ、今は安らかに。
わたし……あなた達の事を忘れないよ。
姫が自分の顔に手を伸ばし、ぐっと掴み。
「お主……」
それを外した。
おお、と仙狸の口から嘆声が漏れる。
仮面。
外れた顔が、白い仮面に変わる。
豊かにうねる髪も、豊麗な体も、幻のように消える。
そこに居たのは、見慣れた、小柄な姿。
「カク!」
鮮烈な赤毛と、同じ色の長い尻尾がふわりと揺れる。
中空に浮かんでいた体が、支えを失ったように、ぱしゃりと海に落ちた。
「カクよ、大丈夫か!」
出そうとした声が掠れる……近寄ろうと思うが体がまだ、まともに動かない。
仙狸の言葉に、ややあって、水音が上がったあたりから、こちらも力ない声が上がった。
「……多分、仙狸さんよりは」
「くっく……言いよる」
「えへへ……」
暫し、静寂が訪れた海の上で、式姫二人の笑い声が、波の音と共に優しく響いた。
力を使い果たした二人が、月明かりに照らされた海の上にぷかぷかと浮かぶ。
「あの姫がお主だったとはな、見事としか言いようが無かったぞ」
「……お褒めに与り恐縮、と言いたい所だけど、私にも良く判らないんだ」
あれは確かに自分だった。
だが、間違いなく、あの時の自分は、自分では無かった。
姫君が、あそこにいたのだ。
そして、彼に引導を渡した。
姫君だったからこそ、彼もまた、引導を受け入れた。
だが、あれが姫君の筈は無い。
海市の、いや、蛭子珠の破壊によって、姫は確かにあの時解放された。
もう、この世に魂も存在はしていない。
私は、それを見届けたんだ。
「我こそは、海の向こう、唐の国よりはるばる来たりし、客人神なり」
少女の前で、カクは棍でどんと大地を叩き、大見得を切った。
その顔が、いつの間にか、真っ赤な顔に金の毛を持つ猿神のそれに変わる。
それを見上げて、少女が恐る恐る声を掛ける。
「まぁ、貴女はどんな神様なの?」
「よくぞ聞いた」
そう言って、カクは棍をぐいと構えた。
「我は武神」
びゅんびゅんと棍を唸らせて、少女の目の前で、力強くも流麗な演武が披露される。
「凄いわ」
感嘆の吐息と眼差しを受けながら、演武を終えて、カクは棍を構えなおした。
「そして、我は、英雄神の化身にして、この棍の一撃で、全てを破砕する神なり」
「まぁ、怖いわ」
「そうであろう、だが我の破壊は必要な事なのだ」
世界を終わらせ、そして始める為の。
再生の前の破壊を司る者なり。
「では手始めに、そなたの大事な、この場所を破砕してくれよう」
ぶうんと、大きく棍を振り回すカクに、姫君が取りすがった。
「ああ、ああ止めて、ここだけは」
ここは私の大事な大事な場所なの。
「ならぬぅ、この街は壊さねばならぬのだぁ!」
万座の舞台の隅々まで届くような雷喝と共に、カクの振るった棍が、真紅の光となって海市を一閃した。
突風と轟音を伴い振るわれた、必殺の一撃。
万人に、全てを破壊するに足ると思わせるに十分な、大迫力の一撃だった。
その一撃で、海市が揺らぎ、崩れていく。
それを見ていた少女の顔に涙が伝った。
海の向こうの、貴方のお父様がいらっしゃる街にはね、毎日毎晩市が立って、人が集まって、賑やかで、楽しくて。
それはそれは、素敵な場所なのよ。
いつか、連れて行ってあげるからね。
海市が消え去った。
「さようなら」
さよなら、ははさまがくれた、私の大事な宝物。
カクが為すべきだった事。
姫君の幻想を、破壊する事。
ここには何もないと……彼女に納得させるための。
そんな芝居を、この世界の神たる姫君に奉納するために、カクはここに来たのだ。
姫君の想いが解放され、外部からも一撃を受けていた蛭子珠が完全に砕けた。
その裡に封じられた、様々な力や、人の魂が解放されていく。
その中で。
「ありがとう……えっと」
カクをじっと見つめる、姫君の姿が消えて行く。
「カクだよ……私の名前はカク」
「そう……ありがとう、カク」
私、やっとははさまの許に行けるわ。
「さよなら、もう、迷わないでね」
「ええ」
最後に姫君は、少女だった頃のような笑みを浮かべて。
「さよなら、カク……楽しいお芝居をありがとう」
姫君の笑顔が、光の中に消えた。
「……どういたしまして、楽しんでくれてありがとうね」
その光が完全に消えるまで、カクはじっと見送っていた。
魂が、自ら望んで輪廻の輪に還った。
私はそれを見届けたんだ。
「……良く、判んないよ」
あの時の私は、私で、だけど、姫さんで。
思い返すだけで、頭がぐるぐるする。
「左様か」
カクの述懐を聞きながら、仙狸は内心で頷いた。
役者とは、突き詰めれば自分以外の何かになる事。
仮面を付けた時、人は己以外の何かになる。
姫君の魂と直接言葉を交わし、その生の喜び、涙、怒り、そして悲しみを刻んだカクの心の中に。
姫の仮面が作られたのだ。
だから、その仮面を被ったあの時のカクの行動も、言葉も、いや魂すらも、姫君その物となった。
芯から、役者なのじゃな……お主は。
姫君の身に起きた事を、客観的に見るだけだった自分と、彼女の魂と言葉を直接交わしたカク。
それは、冷静に一歩引いて物事を見極める自分と、只中に飛び込み、感情を共にするカクの違い。
別に、今日この状況を想定していた訳ではないが……此度の調査の同伴者が彼女で本当に良かった。
自分だけでは、二人を救う事は出来なかった。
カクよ……お主と共に戦えて、わっちは、幸せ者じゃよ。
「大したもんじゃな、お主は」
「え……何が?」
自分が成し遂げた事がいかに凄い事か、まるで判っていない様子のカクの声に、仙狸は淡く微笑んだ。
いや、だからこそ、か。
「ふふ……何でもない、お互い無事で良かったと思っただけじゃ」
その真っ直ぐな魂よ、願わくばそのままで。
その、至純の芸道を貫いてくれ。
「ほんとにね、あー、お腹空いた」
「全くじゃな、さて、食事にありつくには、どうにかして生きて帰らねばならぬが」
そう言って見上げた月を横切る影がいくつか見えた。
翼持つ人の姿。
それを認めた仙狸とカクが手を振ると、その人影もこちらに気が付いたのか手を振り返した。
そこから声が降ってくる。
海を揺るがす天狗声。
「仙狸さんとカクちゃんはっけーん、みんなー二人とも無事だよー、おーい、二人ともーおつのちゃん達が加勢に来たよー、気をしっかり持てー、というか、浜を飲みつくすかもしれない馬鹿でっかい敵ってのはどこー、蛤ならお吸い物とか焼いたりして料理してやるぞー!」
おつのの言葉を聞いた、仙狸とカクが、何とも言えない顔を見合わせて、僅かにため息をついた。
「あれあれ、何よーその態度はー、これでも仙狸さんのお手紙貰ってから、動ける式姫全員で助けに来たんだよー、そういう態度はいただけないなー」
ぷーっと膨れるおつのの可愛い顔に、仙狸とカクは苦笑を向けて、頭を軽く下げた。
「すまんすまん、おつの殿」
「ごめんよ、おつの姉ちゃん……けど」
人の願いと欲と野望が絡み合って生まれた、海市と。
「ちと、遅かったのう」
「えー、何それ、どういうことー?」
それを巡る、二つの悲しい魂のお話は。
「もう、幕は下りちゃったのさ」
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式姫プロジェクトの二次創作小説です。
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