「綺麗な所だね」
カクと姫君は市の中をそぞろ歩いていた。
「ええ……綺麗でしょ」
夢見る様に、うっとりと姫君が辺りに視線を彷徨わせる。
艶麗な、多くの男を惑わせ、その人生を狂わせてきた、魔性の美を秘めた姿ではあったが、きらきらと輝く瞳と、うっすらと浮かべた、邪気のない笑みは、彼女が最前の少女と同じ人である事を、カクに教えてくれる。
「私、ずっと、ここに来たかった」
幼い日の、一番美しい思い出の中。
大好きな人と、一緒に歩いた、朧な記憶。
「……来られたんだよね」
今ここで、こうして……終わらない夢の中に。
「そうね」
彼女は、寂しそうにカクに笑い返した。
「来た、という言葉は正しくないわね……私は、気が付いたらここに居たわ」
「そうなんだ」
言葉少なに、カクが相槌を打つ。
仙狸から聞いた言葉が脳裏に甦る。
数十年前の、あの時。
寺で蛭子珠を見た時、彼女は既に、その魂の半ばを、蛭子珠に取り込まれたのだろう。
蛭子珠は創世の力。
このお姫様が、何故こんな市の景色を夢見ていたのか、カクは知らない。
だが、確かな事は一つ。
姫が心の中に常に抱いていたこの想いと景色に、蛭子珠が感応し、その裡に世界の卵を作り出した。
そして、彼女はその景色に魅せられ……その魂が、この蛭子珠の中に囚われた。
その身は滅んだが、魂だけが、この中で、夢を紡ぎ続けていた。
あの海市は、そして、蛭子珠を抱え、あの先代住職の傍らに立っていた彼女は、このお姫様の夢が、蛭子珠の外に漏れ出た、朧で、うつろな影。
では、自分もまた、蛭子珠の中に囚われてしまったのだろうか。
カクは、改めて辺りを見渡した。
光と幸福に満ちた光景。
……でも、こんな綺麗な場所なのに。
幸せな夢なのに。
「……何で」
「ん、なぁに?」
笑みを返す彼女を正面から見たカクの目の端に、涙が一滴光っていた。
「貴女は、少しも嬉しそうに見えないよ」
そのカクの表情をじっと見て、姫は静かに口を開いた。
「そう……そう見える?」
「……」
無言でカクは頷いた。
姫は変わらず、笑顔。
だが、彼女の笑顔は……。
艶麗に、無邪気に、蠱惑的に、驕慢に。
いかに笑おうと、そこに、「彼女」は居なかった。
恐らく、大半の人には気が付けまい。
ただ、カクには判った。
仮面。
彼女は、どう振舞えば、どう笑えば、何を言えば、どこに居れば、男を狂わせ、破滅させられるかを知悉した。
悪女を演じた、名女優。
「凄いよ……貴女は」
「褒められたと思っていいのかしら?」
「……そうだね、本当は駄目なんだろうけど、それでも」
理非善悪とか、赦しとか……色々なこの世界の徳目は大事だとは思うけど。
私は、役者として、貴女を尊敬する。
しばし、二人は無言でお互いを見続けていた。
睨みあう訳でも、探り合う訳でも無い。
ただ、じっと。
交わす目線の間で、雨滴が、静かに土の中に浸み込んで行くように。
お互いの想いが、互いの中に浸み込んでいく。
ふぅ……。
どちらが吐いたため息だったのだろうか。
「この畜生並の私を、そんな風に言って貰えるなんてね」
「そんな事は……」
「私ね、父にこの身を任せたのよ」
「……!」
言葉を失うカクを見て、姫は言葉を続けた。
「身を任せたというのは、正しくないかな……私が、父を……ううん、あの獣を誘った」
ははさまを失い、代わりを求めていたあの獣を。
「あの男はね、私の優しいははさまじゃなくて……あの顔と体を愛したの」
赴任先の一時の慰み者の心算だったのが、その姿を忘れられず。
あの獣は、正妻に責めたてられる事が判り切っているというのに、ははさまを都に連れ帰った。
その後は酷い物だった。
有形無形の正妻側からの嫌がらせに、日々やつれていくははさまの姿を、今でも鮮明に思い出せる。
だがあの男は、大してははさまを庇うでも無く……ただ、その欲のはけ口に、ははさまを飼っていただけ。
そして、私が十五になる頃に、ははさまは死んだ。
私にひもじい思いをさせたくない……その為に自分を捨てた男の元に戻り。
その心をすり減らして。
最後には、油が無くなった灯火が消えるみたいに……ふつりと、命が絶えた。
……ひどい……あんまりだよ。
カクが、俯いて発した掠れた声に、姫は少しだけ眉宇をやわらかくした。
「……ありがとう」
ははさまの生を悲しんでくれて。
そう呟いて、姫は顔を上げた。
私は、あの獣を……私の大事なははさまの人生を食い散らかした、あの獣を憎んだ。
破滅させてやりたかった。
でも、私には戦う術が無かった。
武も金も権力も無く。
有ったのはただ、この身一つ。
でも……貴族の姫君の嗜みだとか言われて読んだ、唐の国の歴史に、無力な身一つで歴史を変えた人の姿を見たわ。
国を傾け、都城を滅ぼした、魔性の女達の話を。
私が西施や夏姫の後を継げる等と、思い上がる心算は無かったけど。
ただ一匹の獣を滅ぼす程度なら、私にも。
「ははさまと瓜二つのこの顔と、体を餌として……獣を罠に誘った」
あれは、所詮、獣だった。
人倫なんて、あの獣の欲望の前では薄紙みたいな物だった。
一度箍が外れてしまえば、後は簡単に堕ちて行った。
そして、私はあの男を破滅させる為に、動いた。
あの獣の政敵を、私は巧妙に誘い……そして彼が私に溺れるように仕向けた。
二人を鉢合わせさせ……彼が私とあの男の間に、畜生にももとる関係を結んでいる事を悟らせ……。
後は、私が力づくで手籠めにあったと……そう、涙ながらに訴えるだけで良かった。
「もう、どうにもならないわ」
元々敵が多かったあの獣では、後は、もう……坂道を転がり落ちるような物。
あの青ざめた、全て失ったと悟った、惨めな獣の顔の、何と愉快だったこと。
お前のせいで我が身の破滅だと、私を罵るあの顔の、何と滑稽だった事。
「だから、あの獣は、私を都において置けなくなり、あのお寺に預けた」
顛末を見届けられなかったのは少し残念だったが、どの道、あの獣の未来は閉ざされた。
今回の醜聞の始末を付けるために、随分と金を使う羽目になり、金づるだった、正妻の本家からも見放され、後はゆっくりと緩慢に落ちぶれていくだけ。
「後悔は無かった……それどころか、この上ない満足を感じたわ」
晴れ晴れとしたその顔は、自分の戦いを完遂した者だけが持てる、崇高さすら感じさせるもので……。
その顔の前では、復讐は空しいとか、貴女の幸せの方が大事だとか……そんな頭で考えた、お上品で利口な言葉の全てが、意味を失う。
人は、感情持つ生き物は……例え我が身を滅ぼしてでも、血と泥にまみれてでも、相手の喉笛に喰らいつき、それを噛み裂かねば収まらない、そんな感情を、心の鬼を……抱く事があるのだ。
「……うん」
だから、カクには、彼女に掛けられる言葉が見つからなかった。
ただ、この憎しみを生み出した、彼女の一番大事な存在を踏みにじられた哀しみと怒りの深さを、思う事しか出来なかった。
だけど……。
「……何でだい?」
「何が?」
不思議そうにこちらを見る姫君に、カクは顔を向けた。
「貴女が父親を破滅させた理由は判ったよ……けど、さ」
何で。
「何で、あの坊さんまで……」
あの人は、話を聞く限りじゃ、そこまで貴女に悪い事はしてないよね?
それとも、語られていない何かが有ったっていうの?
「……そうね、別に悪い人じゃ無いんでしょうね」
姫君が、どこか遠い所に視線を泳がせ、他人事のように、そう呟いた。
いつの間にか、海市はその姿を消していた。
カクが最初に立っていた、白い光の中で。
「同じ目をしていたのよ」
あの時、彼が私に向けた、あの目。
自信に満ち、自分の行いが間違っているなどと欠片も思わず。
己の生に疑問を抱いた事も無い。
自分程の存在が愛したならば、女風情は、手も無く靡くと信じて疑わない。
人の生を、無自覚に破壊して、恬も顧みない、傲慢で視野の狭い。
私ではない、ただの綺麗なおもちゃを欲しがる。
その安っぽい執着を、自覚も出来ない。
他人(ひと)を、愛する事の出来ない。
私が憎悪してやまない。
「あの獣と同じ……自分しか愛せない、小児(こども)の目」
一目ぼれと言う言葉があるわよね。
それと同じ。
私は、一目で彼を憎んだ、許せなくなった。
理性では無く、この心が。
「あの御坊様を、敵だと認めたの」
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式姫プロジェクトの二次創作小説です。
前話:http://www.tinami.com/view/961802
少々インモラルな表現があります、苦手な方は避けて下さい。