巨大な妖の浮上により、大きく押し流される船の上。
必死で目を凝らすカクの視界の中で、仙狸と蜃の姿がどんどん小さくなっていく。
「船を……!」
戻して。
そう言いかけて、振り向いたカクの目に、必死で櫂を操り、帆を立てて、死地から逃げようとする漁師たちの姿が入る。
カクの言葉に気が付いた様子が見られる者も何人かは居たが、彼らもまた、一様に気が付かなかった振りをして、今の作業に打ちこむ。
無理も無い……か。
今また、あの死地に。
波間の向うに、青い炎が踊る。
大妖怪と、式姫の死力を尽くした戦いを繰り広げる場所に、人に戻れとは。
とても……言えない。
こういう時に、死地に立ち向かえる人は、そう居る訳では無い。
まして、自分一人ならばともかく、ここで船を返すというのは、全員の命を危うくする行為でしかない。
「すまん」
誰かは判らない。
ただ、漁師たちの中から、低く上がった声が、カクの耳に届いた。
口先だけで、という人も居ようが、それでもカクは、その言葉に多少救われた気分になった。
「水練は得手じゃないんだけどなぁ」
だからか、そう小さく口にした言葉には、どこかあっけらかんとした響きがあった。
海の流れは完全にあの海市が有った所から沖に向かっており、式姫といえど、ここを泳ぎ渡るのは、かなり困難な話。
だが。
カクは轟々と荒れる海を睨んだ。
「やるしかないよね」
「あんた、何を?」
濡れ鼠のようになった洟垂れの父親が向けて来る顔に、カクは微苦笑を返した。
何を……か。
多分、あんまりお利巧では無い事を。
「悪いね、後は頑張って、坊やの所に帰っておくれ」
あれだけの大妖怪と式姫が戦いを始めた付近に、その辺のちっぽけな妖が寄ってくるとも思えない……ここから逃げるだけなら、今が一番安全だろう。
泳ぎに飛び込もうとする、そのカクの目に、波間に揺れる白っぽい何かが見えた。
これは……天佑か。
主なき一層の小舟が、波間を漂っていた。
あの海市が沈んだ時に流されてしまった、無数の小舟の一つ。
「天運我にあり」
例え、地の利はあちらに有れど。
「待っててよ、仙狸さん」
たん、と船端を蹴ったカクの小柄な体が、ひらりと海の上に舞う姿に、漁師たちが一時目を奪われる。
九郎判官(源義経)の八艘跳びとは、かくの如きか。
殆ど船を揺らす事も無く、カクは小舟に飛び乗り、漁師達に手を振ってから、船底に転がっていた櫂を手にした。
「そうれ……っと!」
こちらも鮮やかな手つきで櫂を操り、逆巻く波に舳先を向ける。
飛沫が顔を濡らし、手には波の力が掛かる。
それを蹴散らす様に、込めた力に、船が波に逆らい、切り裂きながら前へと進みだした。
「天運と、人の和が揃えば、こっちの勝ちだい!」
白く長大な体が、荒れる黒い海の上でうねる。
予測の付かない位置から、まだ生えて来たばかりのような、白い前脚の一撃が仙狸を襲う。
まだ鋭い爪は持っていないようだが、それが振り下ろされ、風を切る、重く唸るような音は、それが、いささかも脅威を減じてくれる物では無い事を如実に示していた。
「ち……」
大地の上ならばなんとか凌げようが、ここは揺れる船の上……転ぶような事は無いが、しっかと立って、相手の攻撃を受け止めるような戦い方は望むべくも無い。
槍で前脚を払いのける。
掛かった力に、船が大きくぐらりと揺れる。
そして、払いのけきれなかった前脚の一撃が小舟の舳先を僅かに掠めた。
「いかぬ!」
みしり、ばきりと木が砕ける音が響く。
舳先が折れ、外板が幾つか弾け、船の前部が海に没する。
船はまだ半ばから上が海の上に出ているが、完全に海中に没するのも、時間の問題か。
「そうだ、船を砕け!式姫といえど、海に没すれば我らの敵では無い!」
その、狂ったような僧の声に応え、蜃の大雑把な、力任せの攻撃が、仙狸を襲い、あしらい切れなかった攻撃が、更に船を崩していく。
船が、徐々に波間を漂う板切れの群れになっていく。
仙狸は忌々しそうに、貝の上に佇む人影を睨んだ。
「……我ら、か」
やはりそうなのだ。
あの僧こそが、蜃に奸智を与えた原因。
あの日、蜃が喰らった人二人。
二人は蜃の血肉となったが、その魂は何故か、蜃の中に留まり続け、ついにはその思考に干渉できるようになった。
僧の知は、蜃の行動に影響を与え。
姫の心は、蜃の生み出す幻影に形を与えた。
それは判る……だが、何故だ。
蜃に食われた多くの人と、この二人は何が違う……。
目を凝らす。
良く動き、喋る先代の住職と、対照的に静かに佇むだけの姫。
その胸に、大事そうに抱かれた木箱。
……やはり、あれか。
白い巨体が海の上をうねる。
未だ鱗も無く、爪も牙も無い。
だが、その長大にくねる体は紛れも無い龍のそれ。
それは敢えて言うなら。
「龍の幼生……」
「叩き潰せ!」
正気を失った声に、狂ったような高笑いが続く。
その声に応える様に、白い巨体が仙狸を押しつぶすように迫る。
「力に溺れたか」
人が、その身に過ぎた力を得た時どうなるのか。
一つの答えが、今、仙狸に襲い掛かる。
迫る巨体、狭い足場。
重い前脚の攻撃が低い位置から繰り出される。
霊槍が辛うじてその一撃を食い止める、だが、狭く不安定な足場が、それを受け止めきる力を仙狸から奪っていた。
「つっ!」
受け止めた槍ごと、勢いに負けた仙狸の小柄な体が、暗い空に放り出される。
「よし、船じゃ、先に船を破壊せよ!」
その声に応えるように、白い巨体が、勢いよく上空から船にのしかかる。
一瞬だが船が抵抗するようにその巨体を受け止める、だが、木が軋み、裂ける嫌な音と共に、小舟は、その巨体の下で完全に砕け散った。
凄まじい衝突の勢いに叩かれた海面が、轟音を上げ、船の残骸を伴い水柱を高く上げる。
雨のように降り注ぐ大量の水と木切れを見ながら、先代の住職だったモノは高笑いを上げた。
「これで足場は無くなった、蜃よ、後は海に落ちた式姫を虫けらのように叩き殺せ!」
自由を失った、あの煩い化け猫を殺せ。
そして、その身を喰らって、我らは、神に等しき存在に。
仙狸の姿を求めて、海面近くに蜃は身を寄せた。
その巨体が、痛みにくねり、大きく揺らいだ。
それと同じくして、彼の体にも鋭い痛みが走る。
「こ、これは?」
がくりと膝を突いた彼が、慌てて顔を上げ、海を見渡す。
高く上がっていた水柱が海に落ち、辺りに無数の木切れを漂わせる。
「やれやれ、虫けらのように叩き殺せとは、一時なりとて僧職に在った者とも思えぬ言い種じゃな」
「貴様、どうして」
水煙が靄のようにたなびく海の上に、彼女は静かに佇んでいた。
「船を破壊した程度で、わっちの自由を奪ったつもりか」
まるで、その身に重さなど無いかのように。
「心気を鎮め、この身を空と化せば、木っ端一片とて足場となる……」
ゆらゆらと波に揺れる木片の上に、彼女は静かに立っていた。
「……なんたる体術じゃ」
忌々しげな言葉の中に、賛嘆の響きが隠し切れないのは、人の限界を極めんとして、肉体と精神の修行に明け暮れた、そのかつての生の片鱗であろうか。
「ふん、貴様も化け物なれど、こちらは式姫じゃ……常の戦いと同じように考えるではない」
仙狸の目が、月明かりの中で、琥珀色に煌めく。
その時、彼女の目が、波に抗いこちらに迫る一艘の船を見た。
来たか。
(カクよ、頼むぞ……わっちの意図を汲んでくれよ)
お主が、この悪趣味な舞台の千秋楽の幕を下ろすのじゃ。
その足が、木っ端を蹴った。
たんっと、海に浮かぶ板や木っ端を蹴って仙狸が海面を走る。
「お陰で、ちと頼りないが貴様らまでの道が出来た、勝負は、ここからじゃ!」
「させぬ!」
走る仙狸を迎え撃つように、蜃がその身を貝から伸ばす。
龍の長大な体が、仙狸が貝の部分に迫ろうとするのを防ぐように動く。
(ふ……ん)
本体である筈の蜃の体を盾にして、死人二人が乗るだけの貝の方を守ろうとは。
ならば、やはりわっちの目論見は間違っておらぬ。
頭が矢のように仙狸に向かい、それと同時に蜃の体が大きくうねる。
大きく開いた顎が仙狸に迫る。
牙は無いが、あの顎で挟まれるだけで、骨の一つや二つはたやすく砕けよう。
それを間一髪で回避し、後ろに跳ぶ。
その仙狸を追って、鞭のようにしなう尾の一撃が唸りを上げ、夜気を切り裂く。
まだ、飛び退った仙狸のその身は空中に。
空中に居る、仙狸の体に、容赦ない尾の一撃が迫る。
「死ねい!」
その僧の声に、仙狸の唇が僅かに笑う形に歪んだ。
やはり、そこで仕掛けるか。
それは彼女の予測の裡の事。
単純な一撃が通じないとなれば、次手で勝負に来るだろう事は読んでいた。
その上で、敢えて僅かな隙を見せ、次手を誘った。
能う限り、こやつを引き付けるために。
この蜃の頭脳が、あの僧ならば、次手も見える。
彼が、荒行の過程で体術を修めた事は、今の住職から聞き及んでいる。
その体術の心得を以てすれば、必中の一撃を放つ時も見えるだろう。
空中に跳ぶのは、相手の目を眩ます回避の一手だが、同時に、回避も防御も困難な場所に身を置く事となる。
それを知るならば、その瞬間に止めの、全力を乗せた一撃を狙うだろう。
そう、確かに人相手ならば、その攻撃は必殺の一撃となる。
(やはり、人相手の戦いの枠を出て居らんな)
あろうことか、仙狸の優美な肢体が、空中で姿勢を変えた。
「な……何じゃと!?」
あり得ぬ……あんな動きは。
それはまるで、逆さに落ちた猫が、空中で優雅に一転して着地するかのような……。
「わっちが何の式姫か忘れたが、ヌシが不覚よ」
かりそめに人の姿を取れど、その闘術は人のそれを遥かに超える。
空中で器用に身を捻った仙狸が、襲い来る尾に槍を叩き付け、その威力を大きく殺した。
それでも、完全にはその一撃を受けきれない、小柄な体が弾き飛ばされる。
だが、一方の蜃も全身を使って尾を振り切った所に反撃を喰らい、空中で大きく姿勢を崩した。
「今じゃ!」
逆巻く波を超え、小舟が矢のように貝に向かって漕ぎ迫る。
護りは既にない。
それを察知した先代の住職が何やらを念じると、貝がその口を閉じだした。
だが、間に合わない。
カクは船端を蹴って、矢のように貝の中央に佇む二人に襲い掛かっていた。
「……殺(シャ)ッ!」
いつもの陽気な顔では無い、金に光る眼が獲物を捕らえて鋭く光る。
狙うべきは一つ。
「ならぬ!それだけはっ!」
先代住職の、悲鳴とも怒声とも付かぬ声。
庇うように動こうとする、それも間に合わない。
振りかざした棍が、唸りを上げて振り下ろされた。
姫が手にした箱に、真紅の棍が叩き付けられる。
(……捉えた!)
箱の中身に。
創世の力秘めた宝玉に。
蛭子珠に。
そして、光が、爆発した。
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式姫プロジェクトの二次創作小説です。
前話:http://www.tinami.com/view/959719
キャット空中三回転……いえなんでもないです。