「んん……」
頭の中に鉛でも詰まっているような最悪な寝起き。眠り足りないとかそんなぬるい表現では物足りない。
体の中で眠気と覚醒が太極図のように渦巻いているようだ。
もう一度眠ればいいのかそれとも起きればいいのか、体が混乱している。
脳が生来の仕事を中途半端に放棄してしまったらしく、俺は上半身を起こしたまま虚空を見つめていた。
「…………」
薄目を開き、部屋の隅に置かれた机をぼんやりと眺める。卓上には香の道具らしき見慣れぬ置物が鎮座している。ただし煙は出ていない。
部屋が暑いせいで、二度寝をする気になれない。汗をかいてないのが自分でも不思議な位だ。
ゆっくりと首を横にやると、障子を通して漏れてくる明るい光が確認できる。今は朝の何時なんだろう。
「…………?」
しばらくすると、ようやく起き始めたらしい聴覚がさざ波の音を微かに捉えた。
近くに海があるらしい。
待てよ、海……だと?そんな馬鹿な。
突然浮かんだ疑問に気怠い体を動かして、なんとか外の様子を確認しにいこうとすると
「オガミさん、おっはよー」
俺が布団から脱するより早く廊下の方の障子が開けられ、アスモデウスが顔を覗かせた。
「ん?どうしたの?」
「あ、いや……おはおう」
なんだか普段以上にニコニコしている気がするアスモデウス。何か良い事でもあったのだろうか。
離れていても十分によく通る声のおかげで、俺の脳も体も覚醒の方に向かってしまった。
「ふわああぁー」
「眠いの?大丈夫?」
「らいじょうぶ……」
「ご飯もう出来てるから、先に行ってるね」
「あー」
「それじゃ、また後でねー」
「あー」
欠伸をしつつ間の抜けた返事を返すのが精一杯。とりわけ俺は朝に弱い。
討伐の予定がないので、お茶でも一杯飲んでから再度布団に横になるつもりだったのだが仕方ない。
眠い目をこすりつつ、俺は服を着替え始めた。
便所を済ませ、食堂へと向かう途中で今度はえんすうと遭遇した。
「おはよう、オガミさん」
「ん、おはよう」
「なんか、顔色悪いみたいだね。あまり寝てないんでしょ?夕べ暑かったもんね」
「うん、正直言うとまだ少し眠いんだ。えんすうやアスモは元気だな、俺にも半分分けて欲しい位だよ」
「あはは、そうなんだ。じゃあ、ちょっと手出して」
「手?」
はいどうぞ、と手を差し出すと、えんすうはギュッと握り締め
「むむむむむ……!」
ぎゅうううぅぅ。
「痛い痛い痛い」
「ああっ、ごめんごめん。痛かった?」
解かれた右手が少し赤くなっている。
「……いや、おかげで少し元気になった気がするよ」
「えへへ、ごめんねー」
アスモデウスといいえんすうといい、笑顔が可愛い。笑って許されるタイプだ。
ふふふ、この二人を連れてきたのは正解だったな。
食堂に入る頃には、寝起きからの厭な気分が完全に霧散していた。
「朝から刺身とは……豪勢だな」
枯渇していた食欲が、ご馳走を目の前にして膨れ上がる。
「えーっと……」
「ほら、アスちゃんの隣空いてるよ」
「ん、そうだな。よいしょっと」
「えへへ、いらっしゃい」
では、三人揃ったところで。
「「「いただきまーす」」」
ぱくぱくもぐもぐ。
「……あれ?」
味がしない。俺の舌がおかしいのかな。
「どうしたの?美味しくない?」
「……いや、旨いよ。うん、旨い旨い」
笑顔を無理に取り繕った。流石にここで二人に対して水を差すような失言は控えなくては。
「あ、そこの醤油取ってー」
「うい」
ちょうどアスモデウスとタイミングが重なってしまい、醤油の小瓶に二人の手が触れあった。
「あ……」
「…………」
お互いの視線が交錯する。
心なしか、アスモデウスの顔が少し赤いように見えた。
「ご、ごめん」
「あっ、私こそごめん……」
彼女の反応に対して妙に気まずくなってしまい、お互いにさっと視線を外した。
ううん、なんか、こう……思春期の女の子っぽい感じ?いや元々女の子なんだけど。
心臓が少しドキドキしている。お、落ち着け落ち着け……。
今のはなんでもないただの事故だ、変に意識してどうする俺。
「オガミさん、醤油醤油」
「あぁ、すまんすまん」
えんすうは少し困ったような同情するような視線を向けてきた。こっちもこっちで、なんか普段と反応が違う気がする。
ここは『あはは、何やってんのさー』って笑うのが普通ちゃうん……?
まぁ考えてても仕方ない。心臓を落ち着かせる為に、今は馳走を平らげる事に集中しよう。
「そういえばさー、えんすうちゃんはどんな水着買ったの?」
刺身を口に運ぼうとした箸がピタリと止まる。今、何て言った?
「んーとね、私は気に入ったのが無かったから結局買うの止めちゃったんだ。あ、オガミさんも気になるんだ?」
「えっ!?あ、いや……俺は……」
気になる気になるめっちゃ気になる。水着だと?お前らいつの間にそんなもん買ったんだチクショウ。
もちろん見たいに決まってるじゃないか俺だって男ですもの、もぐもぐ。
「顔、赤いよ?」
「…………」
指摘された俺は、赤くなった顔でうつむいた。
「オガミさんも男だもんね、まぁ気になるのは当然だよ」
えんすう、それフォローになってないからな。
「アスちゃんはー?」
「私はねー、……内緒」
何やら意味ありげな視線を横目で飛ばされ、再び狼狽する。
おい、何故そこでチラッと俺を見るんだ。あぁもちろんアスモデウスの水着だって気になるさ。
くっ……日頃から顔を合わせているのに、今日はやたら意識してしまうな。
生きてて良かった。
え?それを言うのはまだ早いって?
だって気になるんだもん気になるんだもん、気になる気になる気になる――。
ガチャッ。
「っとと、醤油こぼしちゃった。すまんが、そこのお手拭きを」
「……オガミさん、分かりやすいね」
朝食の後、部屋で支度している二人を置いて、一足先に浜辺へやって来た。
水着に着替える位で何故時間がかかるのか分からないが、まぁそんなこたぁどうでもいい。
アロハシャツに海パン、ビーサンなんて久しぶりだ。泳げないわけではないが、泳ぐのが好きというわけでもない。
小脇にシートやビーチパラソルその他もろもろを抱え、波の音が木霊する浜辺をざりざりと歩く。
雲一つない快晴の下、白い砂はさぞ熱いだろうと思いきやそうでもなかった。
慣れない砂浜を歩く感覚に、胸の内がワクワクしてくる。
風も穏やかで天候に恵まれていたが、辺りを見渡してもビーチには誰もおらず、閑散としていた。
かろうじて、ぽつんと佇んでいる海の家の小屋は営業しているらしい。
「ほぼ貸し切りだな、こりゃ……」
海の家の近くにシートを引き、続いてビーチパラソルを立てる。
民宿の方を振り返ってみたが、二人の姿はまだ見えなかった。
どうする?肩慣らしにちょっとだけ泳いでみるか?
…………いや待て待て、早まるな。深呼吸、深呼吸。
誰もいないという事は、あやかしが出る可能性もあるという事。
流石に一人で海に突撃するのは不用心かもしれない。
後でやってきた二人が最初に目にするのが主の死体とか、そんな展開は絶対にゴメンだ。
せっかく朝から良い事ずくめなんだし、この運気が波に飲まれるような事態は避けなくては。
「ふーっ……ふーっ……」
パラソルの日陰に入り、ビーチボールに空気を入れる。そこそこ大きいので、なかなか膨らまない。
当初フーフーだった息遣いは数分でゼェゼェに変わり、ようやく膨れ上がったボールに栓をすると俺はそのまま背後にひっくり返った。
日陰で作業をしていたはずが、気付けば汗だくである。
「ぜぇ、はぁ……ぜぇ、はぁ……」
遊ぶ前から疲れるとはこれいかに。
荒い呼吸が落ち着くまで青空を眺めていると、
「オガミさん、お待たせー」
いつの間にか傍まで来ていた二人が、ひょっこり顔を覗かせた。
えんすうは、薄い桃色の布地に鮮やかな紅を紐のように結わえ付け、絶妙なコントラストを表現している。
髪色と同じ橙色の花飾り。適度に引き締まった全身。社交的な性格に加えてこの容姿、ビーチに男共がいれば間違いなくナンパされそうだ。
他に誰もいなくて良かったと、俺は心の底から安堵した。
そういえばこの子、元から炎に縁があったっけ。俺と違って、暑さに参るどころかむしろ普段より生き生きしている。
少し自信ありげに微笑む表情、全身から打ち放たれるカリスマオーラ。非の打ち所がない、完璧だと言わざるを得ない。
それでいてなお普通に下着が見えているのだからこれはもう最高である。水着と普段着を合わせたような衣装、とでも言うべきか。
アスモデウスの方は上品さと妖艶さを漂わせる赤紫のビキニ。確かワインレッドとかなんとか言ったっけ。
綺麗な赤色の髪をアップスタイルにまとめている。潮風は髪を痛めるので、恐らくそれに配慮したのだろう。
えんすうから少し離れた場所で大胆なビキニ姿を晒しておきながら少し恥ずかしそうにしている様子は、生娘のようでこれまた可愛い。
普段からそこそこ煽情的な衣装を着ている癖に、水着もまたこれはこれで新鮮なエロスがあって非常に良い。というか、けしからん。
後ろ手を組みながら、えへへ、どうかな?と目で問うてくる。やっと落ち着いてきたばかりの心臓が、再びドクドクと活発になりだした。
俺はただ、ぽかんと口を開けたまま馬鹿みたいに二人を眺めていた。
オシャレ絵巻のモデルを務める位なのだ、元々この二人は美人揃いの式姫達の中でもズバ抜けている。
それが水着を着ているというだけで、もうね……くううっ!
「はぁ……」
ため息が漏れた。
「あはは、大分待たせちゃったみたいでごめん。色々支度してたら時間かかっちゃって」
ちげーよ馬ッ鹿野郎、今のは感動のため息だよ。
綺麗だとかエロ可愛いとかその他諸々の感動詞が全部ごちゃまぜになって一遍に喉から出ようとした結果がはぁなんだよおおお。
こんな時、俺は感極まる胸の内を言葉に示す術を知らない。こういう場合はとにかく褒め言葉の一つでも言うべきなのだと頭では分かっていたが、
あまりにも嬉しすぎる予想外――間違えた、予想外が嬉し過ぎて……あれ?別にどっちでもよくね?
うん、まぁ、言葉が出てこないのだ。
とはいえ硬直した主の様子を見て二人ともその思いを察してくれたらしく、不機嫌になる事はなかった。
「あ、ビーチボール用意しておいてくれたんだね。じゃあ早速、これで遊ぼっか!」
「そうだね。ほら、オガミさんも行こう」
「あ、あぁ……そうだな」
ひょいと手を差し出すえんすう。その手に触れた途端、
「ぐふっ!」
「えっ?」
立ち上がりかけた膝がガクッと折れた。
「だ、大丈夫?」
「……ごめん、二人とも先に行っててくんないかな?すぐ行くから」
「う、うん……」
一度は握ってくれた手なのに、全身に電流が走るような軽い興奮を覚えてしまった。恐るべし、水着の効果。
目にとっては絶好の保養だが、心臓にとっては却って悪すぎる。水に入る前から心臓発作になりかねない。
いつも通りに、いつも通りに……。自分に言い聞かせるように同じ言葉をぶつぶつと呟く。
何度も深呼吸を繰り返し、ようやく落ち着いたところで俺はパラソルの下から飛び出した。
「そーれっ!」
ぽーん。
「はいっ」
ぽーん。
二人でボールをトスし合っている。
適度に走りながら打ち返し合う二人の胸も、ボールに負けない程に弾んでいた。……って、見とれている場合じゃなくて。
「おーい、俺も混ぜてくれー」
「おっけー、いくよ!」
ぽーん。
「よっ、と」
「ほいっ」
「なんのっ」
「うわわっ!?」
すってん、というマヌケな効果音が聞こえそうな程に無様にコケた。
痛みはないが、柔らかすぎる砂に足元のバランスが取りにくい。俺も鈍ったかな。
「大丈夫ー?」
ぽーん。
「大丈夫大丈夫」
素早く起き上がり、飛んできたボールを打ち返す。
三人のラリーはしばらく続いていたが、
「あっ」
突然の風に、ボールの軌道が大きく逸れた。
「なんのおおおお!」
明後日の方向へと飛んでいくボールを見上げながら、必死で追いかける。
この程度なら追いつける――!
「前、前!」
えんすうが何か叫んでいる。……前?
言われて前を見ると、驚いた表情のアスモデウスがすぐ目前に――!!!?
「きゃっ!」
二人して砂浜に倒れ込んだ。
ちょうど、アスモデウスを押し倒した格好になっている。
間近にあるお互いの顔が、一気に赤くなった。
「ッ――!」
弾かれたように身を退けた。幸か不幸か、その豊満な胸を鷲掴みにするような事は無かった。
不慮の事故とはいえ、まぁ軽傷で済んだようで良かったかな。心臓がドキドキしていたが、心臓発作を引き起こす程ではない。
立ち上がって砂を払いながら、アスモデウスに声をかけた。
「大丈夫か?」
「う、うん……私は平気だけど……」
「ついボールを追いかけるのに夢中で……本当にゴメン」
少しだけ気まずい空気の中、身をかがめてアスモデウスに手を差し出す。
「あ、ありがと……」
顔を赤らめている彼女の手を握り、ゆっくりと起こしてやると、
はらり、とアスモデウスのトップスがはがれ落ちた。
「えっ?」
「――――――――」
ああああああああ、マズイマズイマズイ。鼻血こそ出なかったものの、今度は俺がアスモデウス以上に赤くなる番だった。
さっき倒れ込んだはずみで、背中のヒモが解けてしまったのか。
咄嗟に両手で胸を覆い隠すアスモデウス。しかし、もう遅い。
「……見た?」
「み、見てない」
「嘘、絶対見たでしょ」
「見てないって……」
怒っているのか泣いているのかはたまた恥ずかしいのか、複雑な表情である。
……ごめんなさい、一瞬とはいえしっかり見てしまいました。
おまけに、
「どうしたのー?」
ボールを拾いに行っていたえんすうが、様子がおかしい二人の下へ走ってきた。
うう……超気まずい。気まずすぎる。
多少の失礼なら笑って済ませてくれる彼女と、ここまで気まずくなった事などかつてあっただろうか。
お互いに首をこれ以上曲がらない程に背け、真っ赤になりながら硬直している。
「……あー、なるほどね」
一目で状況を理解したえんすうは、苦笑しながらアスモデウスのトップスを拾い上げ、
「オガミさん、ちょっとあっち向いててくれる?」
「…………」
俺はロボットのようにピキピキと動き、背を向けた。
「あーあ、こんなに砂つけちゃって」
パンパンという音は、砂を払っている音だろうか。
「これでよし、っと。……おっ、アスちゃんって胸大きいねぇ。私よりあるんじゃない?」
聞いてはならない言葉を耳にしてしまった。
その言葉は俺にとっては禁忌であり、ある種の強烈な呪いをもたらす。
そう、例えばこうやって直立の姿勢から即座に座り込んでしまう呪いだ。
「ちょ、ちょっとやめてよ……んっ」
「おー、これはなかなか」
続けざまに呪詛の言葉を受けた俺は頭を抱えた。えんすう、お前ワザとやってるだろ。
それでも耳を塞ごうとしなかったのは……うん、やっぱり俺って健全だな。
実にけしからん、くそっ今すぐ代われいや代わって下さいお願いします。
「ハイ、終わりっと。オガミさん、もういいよー」
「…………」
してやったり、といった表情のえんすう。
今日は彼女にからかわれっぱなしだ。この子、こんな性格だったかなぁ……?
海という開放的な場所だからか、あるいは夏の日差しの影響で意外な一面が引き出されているのか。
アスモデウスの方をちらっと見ると、バツの悪そうな顔をしてまだ下を向いていた。あー、こりゃ完全に嫌われちゃったかな。
「この辺で少し休憩しよっか?」
えんすうの提案に、二人は黙って頷いた。
三人でシートの上に座ってからも、重苦しい雰囲気はそのままである。
会話らしい会話もなく、聞こえるのはさざ波の音だけ。
なんとかせねば、という気持ちはあったが騒動を引き起こした張本人であるが故に下手に動く事もできず。
「…………」
「…………」
「…………」
まいったな。何らかのきっかけがなければ、この居心地の悪さは払拭できない。
どうするどうするどうする……。
「さて、それじゃー私は冷たい物でも買ってこようかな」
さっとえんすうが立ち上がり、海の家へと歩いて行こうとする。
「あ、じゃあ俺も――」
「いいよいいよ、ここで待ってて」
「…………」
おいこら、何故そこで止めるんだ。心の中で悪態をつきながら、仕方なく俺は再び腰を下ろした。
よりによって一番気まずい二人を残していくとは、とうとう雰囲気に耐え切れず席を外したか。
……いや、えんすうはそんな奴じゃないハズだ。きっと何か考えがあるんだろう。
斜め前で体育座りをしているアスモデウスの背中を見つめた。蜜を吸っている蝶々のように、ゆっくりと羽が揺れ動いている。
それに遮られて表情は窺い知れないが、やはり声をかけられそうな雰囲気ではなかった。
俺の謝罪の気持ちが足りなかったのだろうか?もう一度きちんと謝るべきなのか?
しかし、済んだ事を今更蒸し返すのも……。
「…………」
あれこれ悩んだ末に、結局俺は沈黙を守る事にした。
焦るな焦るな。迂闊な事を口にして、これ以上傷口を広げてしまうのは懲り懲りだ。
「ねぇ、オガミさんって好きな子とかいるの?」
正面を向いたままのアスモデウスから、全く予想だにしない質問が唐突に飛んできた。
え、何?いきなり恋バナ?てかそんな事聞いてどうするんだ???
口から疑問詞が飛び出そうになるのを寸での所でこらえた。
頭の中でカチャカチャとジグソーパズルが組み立てられる。が、完成を直前にしてどうしてもピースが符合しない。
はいかいいえか、はたまた適当にウソをついて様子を見るべきか。
冗談で誤魔化せるような雰囲気ではない。どれだ。一体どう応えるのが最適解なんだ。
「俺は、その……」
特にうしろめたい事があるわけでもないのに、うつむいたまま言葉が続かない。
ただ、質問の意図はなんとなく理解できた。
「あっははははは!なーんてね」
「え?」
唐突に笑い出したアスモデウスの顔をぽかんと見つめる。
「冗談だよー、ちょっと聞いてみただけ。意地悪しちゃってごめんね」
「はぁ……?」
またからかわれたのか俺は。
まぁ、嫌な空気が少しは払拭されたようだから良しとしておこう。
砂を踏む足音に振り返ると、
「お待たせー。はい、かき氷買ってきたよ」
えんすうが戻ってきた。
「おぉ、ありがとう……って、一人分足りないような」
「ん?」
手には、二つの容器しか握られていない。見た目からしてどちらもイチゴ味のようだ。
「…………」
「はい、どうぞ」
「…………」
「どうしたの?」
強引に押し付けられたかき氷の容器と、えんすうの顔を交互に見る。
これは、あれか。もしかしてもしなくても、アレをやれというのか。
ジロリと睨んだが、本人はもう自分の分をシャリシャリしている。うぐぐ……。
ええい、もうこうなったら仕方ねぇ。覚悟を決め、俺は下手なナンパ師のように震えた声で呼びかけた。
「ア、アスモー」
「何?」
「こっち来て、一緒にかき氷でも食べないか」
「うん、いいよ」
式姫相手とはいえ、なんでもない一言を口に出すのがこんなにも大変だとは。
さんざん意識するなと言い聞かせたはずの暗示は、とっくにその効力を失っていた。
「えんすう、もうちょいそっち詰めて」
「ん」
流石に一つのパラソル下に三人が入るのは無理があったが、おかげでドキドキする密着感を味わう事ができた。
ザクザクと氷の山を崩し、
「はい、あーん」
「えっ?」
キョトンとしているアスモデウス。は、早く食ってくれ、めっちゃ恥ずかしいんだから。
「……あーん」
ぱくっ。
「んふふー、冷たっ」
目をギュッと閉じながら、満足げに氷を頬張っている。
その間に、俺も一口――頂こうとしたところで、反対側の横腹に肘がつんつんと突いてきた。
「ん?」
ふるふる、と首を横に振っている。え、食べちゃダメ?
困惑する俺の前で、えんすうがざくざくと氷の山をスプーンに盛ると、
「はい、あーん」
「いや、俺の分はあ――」
「あーん!」
「……あーん」
強引なやり方に戸惑いながらも、口へ放り込まれたかき氷を味わった。
しゃくしゃくしゃくしゃく。
「あー、ずるい!オガミさん、はーい、お返しだよ」
今度はアスモデウス。
もはやこうなっては断れない。というか左右から挟まれているので、やられ放題である。
「あーん……しゃりしゃりしゃり」
嬉しい事この上ないシチュエーションなのだが……ここまでトントン拍子に事が進みすぎて、うすら寒い気配を感じていた。
「ぐっ!」
頭にキーンときた。二人分をほとんど俺一人で食べているのだから当然だ。
「あらら、大丈夫?」
「あぁ、別に大した事は――」
なでなで、なでなで。
「よーしよし♪」
「痛いの痛いの飛んでいけー♪」
「…………」
いや、そんな事しても痛みが治まるワケないんだけど。
――なんて事を言うわけにもいかず、俺は黙って頭を撫でられるがままに任せた。
もう止めてくれ、今度は熱中症になっちまうよ。
たかがかき氷一つで、ここまで美味しい思いができるとは……いと侮り難し。
瞬く間に楽しい時間は過ぎ去り、気付けばもう夕暮れ時。
鮮やかな朱色に染まった波打ち際をアスモデウスと二人歩く。
チラリと後ろを振り向くと、遠くの方で特に意味もなく築き上げた砂の山が残っているのが見えた。
子供じゃあるまいし、何であんなものを作ったんだろうなぁと苦笑する。
同じく朱色の衣装を纏っていたもう一人の方は、
「私はちょっとはしゃぎすぎて疲れちゃったから、先に戻って休んでるねー」
バレバレのウソもここまでくると流石に分かるというもの。
恐らく、民宿に戻ったフリをしながら実はどこかでコッソリ覗いているのではなかろうか。やさふろひめなら確実にそうするだろう。
全く、余計な気遣いやがって。だが今はそれに甘えておこう。
「今日は楽しかったねー」
「あぁ、そうだな」
お互いに口数は少なかった。疲れているわけでも雰囲気が悪いわけでもない。
ただこうして歩いているだけで楽しく、また同時に寂しくもあった。
この砂浜にいられる時間も残り少ない。緩やかに打ち砕ける波の音が、二人の胸に哀愁を誘う。
少し前を行くアスモデウスは笑っているのか、それとも……悲しんでいるのか。
潮風に時折揺られ、足元を橙色に輝く波に洗われながら、彼女は何を考えているのだろう。
「ね、オガミさん」
不意にアスモデウスが足を止め、くるりとこちらに振り返る。
俺も合わせて立ち止まった。
「私、オガミさんの事が好きなの」
少し前屈みになりながら、アスモデウスが微笑む。うう、可愛いっ。
「な、なんだよ、またからかおうってのか」
まぁ確かに中々良い雰囲気だけどさ……けれど、冗談でも言っていい事と悪い事がある。
「ううん、本気だよ」
「…………」
突然訪れた告白タイムに俺はどう対処すればいいのか分からず、ただアスモデウスの瞳をじっと見つめた。
笑ってはいるが、巫山戯てはいない。
「私はね、オガミさんの思ってるようないい子じゃないんだよ」
アスモデウスが一歩歩み寄る。
「こんな性格だから、友達は簡単に出来ちゃうんだけど……少し、物足りなくなっちゃった」
また一歩。
「オガミさんに、他に好きな人がいても構わない。例えそうだとしても、この気持ちにウソはつきたくないから」
ドクンドクン。アスモデウスが一歩近寄る毎に、心臓が倍の鼓動に膨れ上がる。
頭がおかしくなりそうで、もう何も考えられない。こ、こんな……こんな……。
アスモデウスって、こんなに可愛いかったかな。
「私と付き合って下さい」
日常の中にいきなり割り込んできた非日常。ぐらりと周囲の景色があやふやになる。
今がちょうど夕暮れ時で良かった。お互いに赤く染まっている顔を、夕日が上手く誤魔化してくれている。
「…………」
全身が痺れそうな感覚に襲われる中でも、その視線から目を外す事は出来なくて。
心はこんなにドキドキしているのに、頭は凪のように穏やかで。
気付いた時には、目の前にいる彼女の肩を掴んでいた。
「俺も――」
言いかけたところで、アスモデウスの人差し指がちょんと唇に当てられる。
「ダーメ。それを言うのはまだ早いよ」
「…………」
「言葉よりも、態度で示して。……ね?」
そういうと、アスモデウスが目を閉じる。
ビリビリと全身に電流が流れた。こんなあり得ない事が起きるなんて。
あぁこれはきっと――……
目を閉じながら、そっと唇を近付ける。
これはきっと――――夢だ。
目を開けると、そこには見慣れた天上の木目模様。
ふわふわと漂うような全身の感覚は、覚醒した途端に泡の如く消え去った。
ふと人の気配を感じて首を横に動かすと、
「おはようございます、オガミ様」
「……おはよう」
白峯が傍に居た。
そうか、今までのは全部……。
「良い夢は見られましたか?」
「…………あぁ、最高だったよ。目が覚めて欲しくなかった」
視界がぼやけている。右手をそっと頬に当てると、涙の痕。
夢を見て泣いたのなんて何年ぶりだろう。唇を噛み締め、片手で拭った。
「夢はいつか覚める物です。覚めない夢は、夢ではありません」
感情を交えない、白峯の淡々とした言葉。事実だが、それは今の俺にはあまりにも辛い。
心の奥底に刃を突き立てられたようで、俺は苦しさに顔をしかめた。
布団から起き上がる。心の中に充満していた幸福感は霧散し、今は虚しさと悔しさ、その他諸々のドス黒い負の感情が渦巻いていた。
白峯の手には、夢で見た香の道具が握られている。微かに煙が立ち上っており、くんくんと嗅覚を働かせると甘酸っぱい果実の匂いを感じた。
――あぁ、そうか。記憶が徐々に蘇ってくる。
ここ最近暑くて寝付きが悪い俺は、何か良い方法はないかとこの占い師に相談を持ち掛けたのだ。
その結果、お香を焚こうという事になったんだ。アロマセラピーという言葉くらいは俺でも知っている。
「オガミ様は普段通りに眠って下さい。大丈夫、きっと良い夢が見られますよ」
寝る直前の白峯の言葉を思い出す。
そうか。
お香の匂いが影響して、夢の中の俺は味覚や潮の香りをうまく感じ取れなかったのか……。
「少し、効き目が強すぎたようですね。申し訳ありません」
深々と頭を下げる白峯。
「いやいや、白峯さんのせいじゃないですから、そんなに謝らないで下さい」
悪いのは彼女ではない。夢を見せてくれと頼んだわけではないのだ。
俺の無意識下に潜む願望がお香によって増幅され、生々し過ぎる夢を見てしまっただけだ。
邯鄲の枕――。
人生の目標を定めず、ふらふらと都に出歩いた若者は、そこで出会った仙人に夢が叶うという枕を与えられ。
己の栄枯盛衰を一瞬の夢の内に感じ取ったという。
いや、胡蝶の夢とでも言うべきかな。
もっとも俺は蝶に成れず――艶やかな蝶を手にした気分になっていた、ただの有"蝶"天だ。
「あまり気にしないで下さい。数日も経たないうちに、すっぽりと忘れられますよ」
元気づけようとしているのか、微笑みながら白峯が言った。
なんだか俺の頭の悪さを指摘しているような気もするが……。
うんともありがとうとも言えず、俺はうつむいたまま声を出さずに唸った。
「オガミ様が何を見たのか、私は聞きません」
思い出させるのは酷というものですから、と占い師が続ける。
「不思議なものですね。楽しい夢も、辛い夢も、人は望む望まないに関わらず一生のうちに何度も見てしまうんですから」
「…………」
違和感はあったんだ。いつか覚めると分かっていても、自分では気付かないフリをして、幻想の世界に浸っていたくて……。
目を逸らし続けたその結果が、これだ。
一度でも覚めてしまえば、夢の続きを見る事は出来ない。
だけど、起きた時が辛いから今すぐ目を覚まそうなんて人はまずいない。
辛いと分かっていても、なお夢を見たがるのが人間なのだ。
いつか覚めると分かっていながら、それでも夢を見続けたいと願うのは……馬鹿げている。
しかしそれは、起きている人の考えだ。眠っている者に、起きている者の理屈は通じないし聞こえるハズもない。
あらゆる常識が通用しないのが、夢の世界なのだから。
邯鄲の枕では、確かあの青年は夢を見た後に故郷に帰ったんだっけ。
ならば、俺はどうする。どうしたらいい……?
「……………………」
長い沈黙の後、ふう、と大きく息をついた。
「お香はもういいです、ありがとう白峯さん」
「あら、少し晴れやかな顔になりましたね。どうしました?」
「いやいや、ちょっと覚悟を決めただけですよ」
寝巻きのまま立ち上がり、そのまま部屋を出ようとすると
「お待ちください、最後に一つだけ」
白峯の声に振り返る。
「夢のような出来事と、夢の出来事は全く異なるものです」
「分かってますって」
廊下をずんずん歩く。遠くから聞こえる蝉時雨が、ここが現実である事を強調しているようだ。
どうしたらいい?生憎とその答えを教えてくれる程、親切な式姫はいない。
行き止まりに当たってしまった以上、引き返すしかないのだ。どうしたいか、という自分に素直な欲求の元へ。
白峯に言われるまでもなく、下手すりゃ今日中で内容を全部忘れる自信すらある。
それでも、もう一度……。
可能性を示唆してくれた蝶々を、もう一度――。
「アスちゃん、ちょっと失礼するよ」
アスモデウスの部屋を訪れる。
部屋ではアスモデウスとえんすうが、机を挟んで何やら話し合っていた。
二人とも普段着だ。オシャレ絵巻に関する事で相談していたらしく、机の上には紙と筆が無造作に散らばっている。
「オガミちゃん、おはよー。そんなに慌ててどうしたの?」
気持ちは急いているが、別に慌てているわけではない。
対面した瞬間、夢で見た二人の煽情的な衣装を思い出してしまって呼吸が少し不安定になったが。
「あのさ、急で悪いんだけど海行かないか?」
一呼吸の内に用件を伝える。自分でも驚く程すんなりと言葉が出てきた。
普段の俺なら面倒くさい前置きを用意したり、遠回しな言い方になるだろうに。
主の単刀直入かつ無遠慮な誘いに二人とも驚いていたが、
「海か……うん、いいね!」
これまた予想外の嬉しい返事が返ってきた。
「オガミちゃん、明日でもいいかな?色々と用意したい物が」
「オッケー、恩に着るぜ二人とも。じゃあ明日、三人で遠出しよう」
「けどさ、急にどうしたの?」
「なあに、ちょいと虫取りがしたくなってね」
「虫取り……?」
二人が顔を見合わせている。
「まぁ細かい話はまた後で。んじゃ!」
海辺で虫取りというと、さぞ荒唐無稽に聞こえるだろうが今の俺にはすんなりと納得できる。
今より幼く、今よりもっと純粋で。
夏休みという特権がまだ生きていた頃の、あの暑い夏の日々のように蝶を追いかけてみたくなったのだ。
理屈の通用しない世界から持って帰ってきた、形のないモノに形を与えたくて。
バタフライエフェクト、だったかな。遠い夢の世界で羽ばたいた蝶が、今こうして俺を駆らせている。
虫取り網なんて気の利いたモノは持っていない。そんなものは、遥か遠い少年時代に置いてきた。
それでももう一度、この手に大きすぎる蝶を掴む為に――。今組み立てるべきは、ジグソーパズルに非ず。
二人で作ったあの砂の山のように、今はひたすら可能性という名の砂粒を積み上げるんだ。
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アスちゃん達と浜辺で過ごすお話です。
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