黄昏時。昼間と比べると暑さも大分和らぎ、昼と夜が混ざり始める時刻。
夕飯前の暇を持て余していた俺は、縁側で一人団扇を扇ぎながら綺麗な夕焼けに染まった空を眺めていた。
その傍らには、皐月さんの用意してくれた水菓子が盛られた皿。こんもりと小皿に形成された桃の山は、手をつけられた形跡はない。
「何してるのよ」
声に振り向くと、廊下を闇織姫がこちらへ歩いてくるのが見える。
「んー?別にー」
やや不機嫌さを滲ませる彼女の声色に対し、俺は正面を向いたまま能天気な返事で応えた。
背後でピタリと足音が止まる。しばらくしても動く気配がないので、
「そんな所に突っ立ってないで、隣に座ったらどうだ?」
と促してやると、ようやく言われた通りに腰を下ろした。
本人の機嫌は良くないのだろうが、座る動作一つに対しても荒れた様子はない。
さすがに織姫と似ているだけあるな。妙に律儀というか、なんというか。
透けて見える黒い薄絹。鮮やかな青色の腰布。同じく青に染まった瞳は当初は冷たい感じがしたが、こうして間近で見てみると中々綺麗だ。
もっとも性格が捻くれているので、彼女の場合そのまま口に出した所で逆に怒り出しかねない。
「なぁ、織姫」
「私の名前は闇織姫よ。間違わないで」
「まぁいいから聞け」
諭すように言うと、闇織姫は黙った。
既に縁が結ばれている以上、いかに彼女の機嫌が悪かろうと主である俺には容易に逆らえない。
……まぁ強制するようなやり方は俺自身、あまり好かないけれど。
「その闇っていうのさぁ、なんとかなんないかな?」
「はぁ?」
人を小馬鹿にしたような視線を飛ばしてきたが、俺はそれに憶する事なく続ける。
「言霊の力ってーのは中々厄介でな。単語が一つくっついただけで、それに対する周囲からの印象はガラリと変わる」
「……で?」
「良い呼び名は無いかと考えていた。織姫Bとか」
「びぃって何よ」
「織姫ツーはどうだ?」
「わけが分からないわ」
「じゃあ、一卵性織姫」
「……あなた、私を馬鹿にする為に召喚したの?」
「っせーな、こちとら糞真面目に不真面目な事を考えるのが大好きな捻くれ陰陽師なんだよ」
威張って言う事ではない。
「織姫妹でいいか?」
闇織姫は俺から視線を外し、空を眺めている。どうやら本当に呆れられたようだ。
七夕から一週間が過ぎた。
江戸の街並みはもちろん、この貸本屋にも鎮座していた笹飾りは全て撤去され、代わりに普段通りの暑苦しい夏の日常が居座っている。
かつて共に戦った織姫達も今はおらず、静かである。こうして縁側でのんびりしていると、まるであの騒動がひと夏の夢のような感じさえする。
しかし、隣に腰かけている彼女の存在が、あれが夢ではない事を静かに物語っていた。
誰かの願いから生まれた、夢の残滓とでも言うべき存在なのに。全く、皮肉なもんだ。
「一つ聞いていいかしら?」
「二つでも三つでも構わん」
「……あなた、私が怖くないの?」
「怖くない」
即答する。
「ふうん。その落ち着いた様子、どうやら嘘でもないようね」
「なんだ、怖がって欲しいのか?」
「そういうわけじゃないわよ」
まぁ、一度は刃を交えた仲だしな。妙な距離感があるのは分かる。
「織姫妹より、もっと怖い式姫達を知っているんでね」
人斬り依存症に悩まされる付喪神。
主をいたぶるのが大好きな妖狐。
浮気をしようものなら国をも滅ぼしかねない鬼嫁、などなど。
「そう。私も、もっと加虐の力を磨かないといけないわね」
「それは構わないが、俺にぶつけるのは止めてくれよ」
「あら、私の前でそんな事言っちゃ駄目じゃない。ふふっ……」
織姫妹が気味の悪い笑みを浮かべている。ううむ、今のは失言だったな。
「しかしまぁ、世の中には変な奴が多いなぁ」
「何の話?」
「お前の生みの親だよ。こうであって欲しいという願いを込めて、何冊も本を書いておきながら名前を残さなかった奴」
織姫を歪ませる為ではなく、こんな織姫もアリなんじゃないか。
そんな好奇心を滾らせながら、ただひたすらに筆を走らせた名も知らぬ作者。
「恨んでいるか?」
「いいえ。むしろ、会ってみたいわね。これが貴方の望んだ織姫よ、って」
なんだ、素直な所もあるじゃないか。
「あの時と比べると、ずいぶん丸くなったなぁ」
口の端に笑みを浮かべながら、俺は彼女に言った。
「あなたの式姫になったんだから当然でしょ」
まぁそれもあるだろうが……。
「憎悪と愛情は元を辿れば同じモンだしな」
織姫妹がこちらを見る。
「今度は何?」
「ただの戯言だよ。ほら、あの夕焼け空がいい例だ」
青いだけが空ではない。こうして赤くなるのも自然の摂理。
しかし、夕焼けだの黄昏だのと呼んだところで、空の本質が変わるものではない。
移ろいゆくそれに便宜上の名を与え、識別しているだけに過ぎぬ。
「というわけで、織姫妹。どうぞ桃を召し上がれ」
すっと皿を押し出す。
「……頂きます」
未だに笑顔は見せてくれないが、まぁ焦る事はない。
まだまだ距離を縮める時間はあるのだから。
水菓子を用意していった本人は買い物に出かけたまま、まだ戻ってこない。
そろそろ帰ってくるハズだが……。
「で、私は何をすればいいのかしら?」
「ん?んー、そうだなぁ……特にこれといってして欲しい事はないな、今んとこは」
「今の所?」
織姫妹が問い返す。
「そう、今の所はね」
「どういう意味よ?」
遠くの方でガラガラと戸口が開く音が聞こえた。
噂をすれば、帰ってきたかな。
「今回の件で、こういう風に式姫が生まれるって事が分かったからな。今後、お前のような捻くれ式姫が出てこないとも限らん」
「悪かったわね」
「別に責めてないし、直せとも言わんよ」
こうあってほしいという願いから生まれた存在である以上、元の性格を変えるのは困難だ。
というか恐らく不可能だろう。
「周りがどう言おうと、お前はお前だろう。好きなようにしてくれればいい」
「…………」
「で、お前には今後出てくるであろう捻くれ共の相手をし――」
「絶対に嫌」
織姫妹が苦虫を噛み潰した顔をしている。
七夕の騒動の時もそうだったが、この式姫、厭な顔をさせれば右に出るものはそうそういない。それ程によく似合っている。
「そう言うと思った。……だが、残念だったな。少なくとも俺以外にもう一人、変わり者の相手をしてもらわにゃならん」
「変わり者?誰よ」
「あと十秒後にやってくる陰陽師さ」
十……九……
「馬鹿馬鹿しい。それもお断りするわ」
織姫妹が立ち上がる。
八……七……
その手を、俺はすかさず捕まえた。
「そうはいかねぇよ。お前、桃食っただろ?」
六……五……
織姫妹がこちらを振り返る。
「屋敷の物を食べてしまったんだ、そう簡単には逃げられんぞ」
四……三……
黄泉竈食ひ、という言葉がある。
あの世の食物を口にしたが最後、二度と現世に戻れないという伝承。
もちろんここではそんな呪はかけられていない。
ただ、俺の言葉に足を止めてしまったが故に。
二……一……
「あら……?あーっ、織姫ちゃんっ!」
故に、俺の前から姿をくらますのが遅れてしまった織姫妹は、帰ってきた皐月さんに見つかる。
声のする方を見た彼女は、後悔と驚きの混ざった複雑な表情になった。
「あ、貴方は……!」
「式姫の気配がしたので来てみたのですが……逢いたかったですー!」
文脈が滅茶苦茶だ。色々とすっ飛ばして、気付いた時には織姫妹に抱き着いている。
「ちょ、離れなさいよ!」
織姫妹が懸命に解こうとしているが、生憎その程度で放してくれる皐月さんではない。
仮に加虐の力をぶつけたとしても、この人は離れないかもしれない。
「またお会いできて光栄です!」
「ぐ、苦しい……」
頬ずりまでしている。
私は全然嬉しくないわ、と言った表情で皐月さんを睨んでいる織姫妹。うむ、仲睦まじきは良きことかな。
「ふふふ、織姫ちゃんは何が食べたいですか?今夜は腕によりをかけて私が何でも作りますからねー」
そう言うと、強引に織姫妹の手を引っ張って歩き出した。
「何を勝手に……!ちょ、ちょっと」
皐月さんに引きずられながら、俺に何とかしなさいよと目で助けを求めてきた。
悪いな、こうなった皐月さんはもう誰にも止められねーのよ。
俺はニッコリ笑って片手をヒラヒラさせながら見送った。後で覚えてなさいよ、と彼女の鬼のような表情が廊下の角に消えるまで。
せいぜい弄られてくるがいい、織姫よ。
かつてこの身に刃を向けたその愚行、この儀を以て赦すとしよう。
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後日談的なお話です。
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