No.959648 利根会議AEさん 2018-07-12 03:22:39 投稿 / 全1ページ 総閲覧数:711 閲覧ユーザー数:711 |
「利根会議」 by AE
2018.07.12
「また夏じゃのう……」
南中の太陽が照りつける、内海の静かな海面。
引き潮の時にだけ渡ることができる岩塊の頂から、「それ」はいつものように海を見おろして呟いた。
「いつものように」とはわかるのだが、「いつから」という記憶はおぼろげで、気付いたらここに居て海を見ていたように思う。
なぜここなのか、という疑問にはかすかに心当たりがある。
傍らの小さな鳥居。少し離れた陸に建てられた小さな資料館。そして少し南の水底に散らばる幾つかの鉄片。
いずれも遠い昔の自分自身に「縁(ゆかり)」のある存在にちがいない……のだろう。この自分が唯一無二の存在かと思ったこともあったが、そうではなかった。想いを寄せれば、遥か東方の古い社にも自分と全く同じ存在が居るのがわかる。それだけでなく、意識を澄ませば、この国の至る所に散らばった鉄鋼材の一片一片に、自分という存在が微かに宿っているのがわかるのだ。
しかし今、この自分はここに居る。ここに居てこの海を眺めている。
その海の彼方に小さな影が現れた。
「お、今日は大きいのが来たな」
北方向の水平線に現れた灰色の船舶、火力を示す砲身を抱えた船が、湾内速度を守りつつゆったりと北の岸に入っていく。随伴艦はない。まるで昔、この湾に身を潜めた自分のようだ、と「それ」は思った。そして、そのような灰色の艦影を眺める度に心の奥底に小さな火が灯るのを感じた。
かつて自分はあれの同族だったのだ、という確信が深く淀んだ記憶の向こう側から浮かび上がってくる。もっと広くて深い海を舞台に駆け、護り、撃った。戦って戦って戦った。そして(おそらくここで)独りで沈んだ。しかし、艦としての自分が滅びた後でも自分はこうして海を眺めている。……何故なのだろう。
ふと、あの灰色の艦は同族を屠った経験があるのだろうか、と思う。
海は本当に静かになった。おおよそ「それ」が感じることのできる海域では、海上でそのような戦が起こったことは一度も、ない。自分は違った。記憶の中、自分の砲身が同族や空を舞う機体を睨み付け、火を放ち、彼らの機能を停止させるのを何度も見ている。
これは罰なのだ、艦だった頃の罪を償うための時間を自分は費やしているのだ、と考えたこともあった。思い悩んで、他の自分たちに尋ねた時、東方の社に身を寄せる自分がこんなことを呟いた。
「罪とか罰というのはな、遠い昔につまらぬ男が作ったヒトのための概念、なのだそうじゃ。
道具であった頃の我輩たちはヒトの意志によって駆け、護り、撃つしかなかった。
罪とか罰というのは、ヒトの存在意義であって我輩たちのものではない」
それならば自分たちは今、何のために存在しているのか。
「……社というのは実に大勢のヒトが訪れる。勝手な願いを祈る。
我輩は、ご厄介になっているお社様と共にそれを聞く。ヒトは納得して家路に着く。
そこには、社とヒトとの間の縁(えにし)が生まれる。
そんなところではなかろうか。ヒトと、ヒトではないモノとの関係というのは。
想い想われ、縁が生まれ、常世という船が善き方角へと帆先を向ける。
まあ、善悪という概念もこの社で学んだヒトの定規なんじゃがな」
東方の社に身を寄せる自分は随分と饒舌になったものだ、と思う。
ヒトから語りかけられる機会の多いことが、その原因なのだろう。
ヒトとの付き合いは自分たちを変えていくのだ。
それではこの自分はどうだろう、いまだヒトとの付き合いがあるのだろうか、などと考えていると、小さな資料館の方からガチャガチャという鍵を開ける音と、ガラリという引戸が開く音がした。
意識を移すと、自らが宿るかつての艦の部品を納めた資料館に、数人のヒトが訪れてきたようである。旅行者だろうか。
未だ北を指すコンパスを覗く者。機関室の工具を観察する者。手記を閲覧する者。そして建屋の裏手の碑に手を合わせる者。そして、少し離れた海面に向かって黙祷する者。
そのうちの一人が、傾斜し半ば海に沈んだ「それ」の写真を見つめて、こう言った。
「……辛かったろうな」
隣に居た同行者が、ん?と尋ねるように呟くと、写真を見つめたまま言葉が続いた。
「いや、燃料もなく弾薬もなく、座して耐えるだけの戦いって、どんなに辛いだろうって思ってさ」
ふむ、と「それ」はその言葉に聞き入っていた。面白いことを言うものだ、と。思えば、ここを、この場所を訪れるヒトは自分に語りかける者は多くなかったように思う。それが最近になって増えてきたのは何故なのだろうか。東方の社の自分のように、ヒトに語りかける能力があるのならば、真っ先に尋ねたいところだ。
その日は来訪者が多く、日が傾いても旅行者は絶えなかった。最後に資料館と周囲を散策した旅行者たちは、建屋に鍵をかけて去っていく。道路に出るまでの途中、資料館の裏手の小さな公園に住まう二匹の猫が現れて、旅行者たちを見送った。
夕暮れの中、猫たちと「それ」だけがその場に残された。猫たちは旅行者からせしめた戦利品の余韻を舌なめずりして、満足しているように見えた。
夏の夕暮れ刻になると、「それ」の記憶に浮かんでくる情景がある。
この湾に大破着底してから、しばらく経った頃のことだ。
南方から飛んでくる敵機が顔を見せなくなった。
毎朝艦隊旗を掲げに来ていたヒトも来なくなり、乗艦するヒトは皆無になった。
しばらくすると、成人したヒトではなく、子供が泳いで近くまで来るようになった。初めは恐る恐る、そして次第に甲板に昇るようになり。そこで釣りを行う子まで現れた。「戦う」という役目しか知らない自分にとっては全く意味不明の行為だったが、傾いた狭い甲板を縫うように歩き、艦橋によじ登る子供たちに「それ」は興味を持った。大人に知られると困るのだろう、子供たちは陸から見えない左舷に集い、物言わぬ艦と遊ぶのが日課になった。
艦橋の外壁に落書きをされた時のことである。さすがに少々怒りが込み上げてきて子供たちを怒鳴り付けたのだが、その時なぜか船室のいずれかが浸水して船の傾斜が少し変わった。子供たちは大慌てで海面へ飛び込み、一目散に退散していった。しかし翌日になると何事もなかったかのようにまた遊びに来る。子供たちの好奇心に若干の敬意を感じた「それ」は、以降、子供たちを見守ることにしたのだった。
そんな平和な、戦とは全く無縁の日常をしばらく経験した後の春のことである。早朝に久しぶりに大人たちが小舟で渡ってきて乗艦すると、浸水していない艦内の一部を調べ始めた。そして昼頃、いつものように遊びに来た子供たちを追い返しながら言った。「ここで遊んではいけない、この船は解体することになったのだ」と。子供たちの数人が非難の声を上げたが、大人には敵わない。大人のうちの一人は艦内にあった小さな木製の社を取り外し、大切に包んで持ち去った。一瞬、「それ」は自らが二つに分かたれて、それでも両方が自分のままであるという不可思議な感覚に捕らわれた。思えばそれが東の社に宿る自分との別離だったのだろうか。
解体作業は数日後に着工し、甲板上の構造物を分解することから始まった。未だに上空を睨み付ける砲身、傾いた煙突、艦橋。作業に携わるヒトたちは黙々とその解体作業を幾月も続けた。高い構造物が崩された後、数人が海中に潜って舷側で作業を始めた。爆撃で穿たれた巨大な亀裂を溶接で塞ごうとしているらしい。それが終わると豪々と轟音を響かせる機械が繋がれ、艦内の浸水部分から海水が吐き出されて艦の傾斜が回復していくのを「それ」は感じた。そして同時に自分がこの湾から移動させられるであろうことを、自分の軍艦としての役目が完全に終わったということを悟ったのだった。
数日後に同族の、小さいながらも強力な力を持った小船がやって来た。錨のあった場所に牽引のためのロープを縛り付け、海底から解き放たれた「それ」をゆっくりと牽引していく。かつてのように乗艦したヒトが勇ましい号令をかけるわけでもなく、東を向いていた艦首が徐々に北へ転針していく。「それ」は(そのような機能もなかったから)哀しみも寂しさも感じることなく、小船たちの作業を観察し続けた。
その時、右舷からヒトの声が聞こえてきた。湾内の漁船の船着き場の方からである。
船着き場には今となっては懐かしい正装を整えた軍人が整列し、自らが乗艦した艦に向かって敬礼を送っていた。
そして、その脇に並んで、子供たちが大きく手を振っているのが見えた。
泣き声だった。大声で叫んでいた。
「さよなら、とね」と。
とね。それが自分の名前だったことを「それ」は久しぶりに思い出した。
そしてその名を呼ぶ子供たちの姿に、生まれて初めて「感慨」という「感情」を感じたのだった。
艦橋が崩れ、砲が消え、缶から炎が消えても。
軍艦としての役目を終え、船の姿さえ失いつつある今この瞬間でさえも。
あの子供たちにとって、自分は「利根」で在り続けることができるのだ。
「利根」を覚えていてくれる存在が、この世界にいるのだ。
その子供たちに対して自分は、いま、どのように応えたら良いのだろうか。
わからない……。わからないから、利根は子供たちと同じようにヒトの姿で手を振る自分を精一杯思った。
軍艦の様相は何も残っていない、分解された残骸が散乱する飛行甲板の上で、両手を振って応えた。
その姿が子供たちに写ったのか否か。前にも増して大声になった歓声が巻き起こり、子供たち、そして軍人たちも船着き場から岬へ向かって駆け始め、少しでも長く利根の姿を見ていられるように走り続けた。湾を出て彼らの姿が見えなくなっても、利根は両手を振っていた。
ふと、その思い出を回想している最中に、小さな疑問が生じた。
……あの時、なぜ自分は子供たちの仕草を真似ようと思ったのだろうか。
自分だけではない。今日、資料館を訪れた旅行者はなぜ「辛かったろう」などと、物言わぬ艦の心情を想像したのだろう。できたのだろう。
「あなただったらどうするだろう」と相手を理解しようとする試みは、この世の総ての存在が自然に有している機能なのだろうか。
その疑問が浮かんだその瞬間。木霊のように、東の社に宿る利根のあの言葉が返ってきた。
「想い想われ、縁(えにし)が生まれる」
そうか、と利根はこの自分が何者で、なぜここに居続けるのかを初めて理解した……ような気がした。
自分は、あの子供たちに想われて産まれた、あの子供たちにとっての利根なのだ。あの子供たちと重巡利根との間に産まれた、縁(えにし)そのものなのだ。
分霊元の社に戻り、ヒトの願いを聞き届ける役目を負った利根。
この国の様々な道具の一部となって働き続ける利根。
その名を継いで、今もこの大海原を渡っている利根。
そして、思い出の場所を護るためにそこに残った、利根。
その縁の総てには善や悪の概念はなく、ただただ、過ぎ去った時間と思い出を護り続けるという機能が宿るだけである。
それがわかった途端、利根の中ではるか昔に別離した同胞たちの記憶が甦ってきた。
同胞だけでなく、火力を交えた宿敵を、そしてさらには邂逅したこともない同族の存在を思った。
いつしか拡がっていた夜空に瞬く満天の星々を仰ぎ見て、この星々を映す海原を駆けた総ての仲間たちのことを思った。
遠い海に沈んだ妹分の艦。
亡骸から帰国し、今も旧き社に集う小さな艦たち。
数多の国の、様相の異なる様々な社に眠る勇猛な艦たち。
もはや艦だったことも忘れ、漁礁となって生命を育む役目を負ったもの。
数奇な運命からヒトに良く似たモノに宿ったものたち。
想像を越える様々な形態で、仲間たちは今もこの世界の縁となって活き続けている。
そこにはかつての敵味方の区別はなく、それぞれが新たな縁をこの世界に刻み付けているのだ。
逢いたい、と利根は強く思った。
そして根拠は無いが、そのような出会いの機会を、他ならぬヒトが築き上げてくれるのではないか……と希望を抱いたのだった。
気が付くと東の空がうっすらと明るくなってきた。
がさがさ、と公園の植木の陰から音がして、二匹の猫があくびをしながら這い出してくる。背伸びをしてから石垣を飛び降りて、民家の方へ朝食をねだりに行く。
利根が居て、利根を覚えているヒトたちがこの資料館と公園を築き、この猫たちが住まうようになった。きっと、この猫とも何かしらの縁があるのだろう……。そう思うと、伝わらないとはわかっていても、利根は猫に語りかけた。
「まあお互い、のんびり行くとしようか。
今日も一日、良いことがあるといいのう」
その声が聞こえたのか否かは定かでないが。
猫たちは利根の方を振り返り、にゃあ、と鳴いたのだった。
以上。
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【あとがき】
推奨BGMは「坂道(長崎犯科帖ED)」です。
30年以上探し続けていたフルコーラス版を先日ついに入手しまして、それをエンドレスで聴きまくっていたら数年前に能美海上ロッジに宿泊した時の経験を思い出し……浮かんでくる情景を言葉に紡いでいったら、自動書記のように勝手に書き上がってしまいました。
当時、もちろん艦これは知っていて、その登場艦の資料館がある、とのことで選んだ宿でしたが「波音に包まれながら、海面の上の畳で眠りにつく」というのは生涯残る貴重な経験でした。能美海上ロッジの復活を切に望みます。またいつかゆっくりと滞在したいです。
最後の利根ねーさんのセリフは、宿を立つときに背後から「感じた」セリフそのものでして、「ああ、ありがとうございます……って、誰?」と返答して振り返ってしまった程に明確かつオカルトチックな体験でした。
そして利根公園の猫。やつらはきっと何か見えてるに違いない。かまってる時も必ず何か他の視線を気にしていたし、夜は着底ポイントの方の海面を見つめていたりする……。
八百万の神というテーマは物凄く好きですし、実際に存在する縁なのだとつくづく思い知らされる今日この頃です。
ここまで読んでいただいて、ありがとうございました。
以上です。
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艦と猫と、夏の海。