I.
海の底に石像があった。
人間の男性の全身を模した石像だ。いつからそこにあるのかはわからない。
石像には藻は生えているし両腕と右膝から下が無かった。
長い長い間石像は通り過ぎて行く魚達だけを友として過ごしていた。
ある日のこと、人魚が偶然にそこを通りかかった。
白く長い髪と白い肌、銀色の鱗を持った美しい人魚だった。
ふわふわと泳ぐたびに海に降り注ぐ柔らかな光を反射して髪と鱗が輝いた。
人魚は石像に気がつくと不思議そうにぐるぐると回りを泳いで全身を眺めた。
人魚は人間の作った物を初めて見たのだった。
石像は人魚の美しさに見惚れた。
そして自身の今の様子を残念に思った。
地上にあった頃は彼も人魚のように滑らかで美しい肌をしていた。
人々は彼の美しく力強い様子を褒めたものだった。
しかしそれも遠い遠い昔の話だった。
石像は今の全身が藻に覆われた姿を恥ずかしく悲しく思った。
人魚はさらに石像に近づいて良く見ようとした。
顔と思わしき所をその柔らかな両手で優しくぬぐった。
人魚は石像の力強い眼差しを見て一目で好きになった。
嬉しくなった人魚は上機嫌にくるくる泳いで石像の引き締まった唇にひとつキスをした。
そして石像に笑いかけるとまたもと来た道を帰っていった。
人魚が帰ったあと、石像は人魚の慌ただしくも可愛らしい様子を思い出してとても心が温かくなった。
その思い出でこれからの独りきりの長い長い時間も寂しくはない気がした。
II.
二、三日が経った。
とは言え長い長い孤独を海底で過ごしてきた石像にとっては何でもない時間だった。
その日の朝、人魚はまたやってきた。
石像はとても驚いた。
夢でも見ているのかもしれないとすら思った。
石像は眠ることさえ知らないというのに。
人魚はまた嬉しそうにぐるぐると石像の周りを泳いだ。
そして石像の頬にキスをひとつ落とすと手に持っている何かをずいと石像の眼前に突き出した。
それは海綿の骨格、所謂スポンジだった。
人魚はいつもそれを使って自分の肌を磨くのだという。
人魚は石像に積もり積もった汚れをそれで少しずつ落としていった。
汚れとともに心まで洗われていくようだと石像は思った。
人魚は丁寧に丁寧に石像を磨いた。
全身が洗い終わるころには夕暮れになっていた。
石像はとてもすっきりとした心地になった。
そして人魚に深く感謝した。
何もお礼ができないことが悲しかった。
せめて暗くなる前にお帰りと言った。
人魚は汚れの落ちた石像の肌をひとなですると満足そうに微笑んで帰っていった。
次の日も人魚はやってきた。
人魚は石像に自分の好きな景色を見てもらいたいと言った。
人魚は石像を運べないかと試みた。
しかし人魚の細い腕では石像は少しも動かせなかった。
石像は人魚の気持ちだけで充分幸福に思った。
しかし人魚はすっかり落ち込んでしまい、石像は人魚を慰めることに心を砕いた。
人魚が来てくれてどれほど嬉しいかを一生懸命に伝えた。
それからまだ陸地に居た頃の話をした。
この話は人魚の興味を引いたようで、人魚は落ち込んでいたのも忘れて夢中になって聞き入った。
人魚は最近は人間に見つからないように暮らすのが大変だと話した。
なぜ人間に見つかってはいけないのかと石像が尋ねると、その昔陸地に産み落とされた人魚が人間に酷い目に合わされたのだというのだった。
石像は人間は好きだけれども人魚に怖い思いをさせる人間は嫌いだと話した。
人魚は人間は嫌いだけれども石像のことを作った人間は好きだと話した。
石像と人魚はその日お互いに色々なことをたくさん話した。
その日から毎日のように人魚は石像のもとにやって来た。
そのたびに色々な物を持って。
つやつやとしたサンゴの骨格、ウニの骨格、乳白色に光る貝殻、ガラスの欠片。
どれも自分で集めた宝物なのだと人魚は言った。
人魚はそれを石像の目に映る場所に飾った。
温かい潮が流れてくると人魚は石像の胸元に薄紅色の柔らかな頬を寄せて昼寝をした。
石像は人魚を優しく見守った。
石像と人魚はとても幸せだった。
III.
そうして石像と人魚は穏やかな愛しい時間を過ごした。
その時間がいつまでも続くような気がしていた。
しかし始まりと同じ様に終わりは唐突にやってきた。
ある日人魚は憔悴した様子で石像のもとにやって来た。
石像はとても心配した。理由を尋ねても首をふるばかり。
人魚は石像にぴたりと寄り添って離れようとしなかった。
やがておずおずと人魚が話だした。
人魚達は人間の目から逃れるために定期的に住処を変えて長い旅をするのだという。
またそうしなければならない時がやってきたというのだ。
人魚はここに残りたいと言ったが他の者達に反対されたのだそうだ。
石像もここに残ることは反対だと言った。石像の言葉に人魚はとても驚いた。
悲しみで胸が裂かれそうになった。
石像を離れてどこにもいきたくはないと人魚は言った。
しかし石像は聞かなかった。
人魚が遠くへ行ってしまうことはもちろん悲しかった。
だがたとえここに残ったとしてどうなるというのだろう。
石像にはただ見守ることしかできない。
冷たい夜に体を温めてやることもできなければ、たとえ人魚の身に危険が迫ったときでも動くことすらできないのだから。
石像は人魚に言った。
自分はここから動くことは決して無いのだからまた会うこともできる。
動けない自分の代わりに色々な世界を見てきてほしい。
そしていつかまたここに帰ってきたときにたくさん話をきかせてほしいと。
人魚は涙ながらに頷いた。
そして石像に最後のお願いをした。
石像の体を一欠片ほしいというのだった。
いつでも身に付けて大切にすると人魚は言った。
石像は願いを聞き入れた。
そして人魚に持てる一番大きな石を持ってくるように人魚に言った。
人魚は大きな石を探して持ってきた。
そして言われるままに石像の右の肩先に力いっぱい振り下ろした。
人魚がいつも枕がわりにしていた石像の右肩。
石像の肩先はボロリと崩れた。
その中から一番大きな欠片を人魚は拾った。
きっと大切に大切にすると石像に約束した。
そうして人魚は行ってしまった。
人魚が残した石像の欠片はまるで石像の涙の代わりのようにほろほろと流れていった。
人魚は行ってしまった。
たくさんの宝物を石像のもとに残したまま。
美しい人魚。無邪気で可愛い人魚。愛しい愛しい人魚。
きっと人魚は旅先で様々なものに出会うだろう。
そして古びた石像のことなど忘れて華やかに楽しく暮らすだろう。石像は想像した。
それは石像にとって寂しいことではあるが、幸せな想像でもあった。
人魚の幸せを思えばこの先何にだった耐えられるだろうと思った。
どんなに遠くに行っても、これから先永遠に会うことがなくても、こんなにも眩しい思い出がこの胸に満ちているのだから。
今日も石像は海の底。
通り過ぎる魚達だけを友として、だんだんと砂に埋もれていく人魚の宝物を眺めながら、夢のようだった日々に思いを馳せている。
〈了〉
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ロシアの画家Nadezhda Illarionovaの絵画を見て思い付いたお話。
2015年12月6日 00:17