一足毎に、死臭が濃くなる。
風よけの林を抜け、道の先に見える市が見えた頃には、その匂いは耐え難い程になっていた。
「よくまぁ……こんな中で漁師さんたちは平気だねぇ」
胸が悪くなると言いたげなカクに、負けず劣らずの顔を仙狸も返した。
「まだ幸せな海市の夢に騙されておるのじゃろう、わっちやお主はここが何か知って居るから、真の姿が見えて居るだけじゃ」
狐に騙されて、牡丹餅を食ったら馬糞だった、温泉だと思ったら肥溜めだった。
そんな伝承が伝える通り、人の五感は、意外に容易く騙される物。
人は信じたいものを信じる生き物。
使いきれない宝物を目の前にした時、眼前の光景を疑うような賢者 ーあるいは、余程に世をひねた者かー は、そう滅多に居るものでは無い。
「幻術の基本って奴だね、かぶきり師匠も、そんなような事言ってたよ」
幻術というのはね、見たいもの、もしくは見える筈の物を見せ、意識を誘導する、そういう駆け引きの術でもあるのよ。
故に、姿形を忠実に映すだけではなく、何より騙す対象を知らねばならない。
人を知る。
それこそが、幻術の神髄。
「かぶきり殿は、その辺の達人じゃでな……」
話をしながらも足は止まらない、程なく、二人は広大な市の前に立ち、それを見た。
全体に壮麗に見えるが、細部の作りが甘い、建物のような物が、ぼんやりと並ぶ、不思議な都。
その間をもやもやとした、かつて人だった者達が歩き回り、一部の者は、各自思い思いの品を前にして、何やら低い声を上げて、道行く人を呼んでいる。
商品は様々あった。
目も綾な宝物を置いているかと思えば、こちらでは襤褸切れのような衣服、錆びた包丁、うず高く積まれた、世にもまれなる異国の香に細工物。
「成程、海の上に市がある……ね」
「そうじゃな……まさか、これが海市の正体じゃったとは」
唾を飲む仙狸の傍らで、カクが顔をしかめた。
「何の冗談だい、これは」
その表情から、カクもまた、この悪趣味な諧謔に気が付いたとみて、仙狸が強張った顔に、無理に笑みを浮かべた。
「お主も判るか」
「当たり前だよ……とはいえ、実際に見た事は無かったけどさ」
二人は、何とも言えない顔を見合わせた。
こいつは。
「鬼市」
きし、おにのいち。
ここでいう鬼は、日の本の国で言う、角の生えた大力を持つ妖怪では無い。
唐の国でいう所の鬼。
日の本の国では、幽霊といえば判りやすいか。
肉体を失い、この世を彷徨う魂魄。
本来、人は死したる後は、冥府の法廷で裁かれ、生前の行いに応じて輪廻の輪に戻って行くのが正しい在り様だが、現世への妄執激しく、この世にしがみつく人や、唐突に生を断たれたが故に、自らが死んだ事を理解できない、そんな魂魄は、現世と冥界の狭間に留まり、生前と同じような営みを続ける事がある。
家庭を持ち、生前の生業を続け、飯を食い、怒り、笑い、そして泣く
そして、そんな亡者達の営みは、何かの拍子に現世と交わる時がある。
鬼市もまたそんな営みの一つ。
幽霊同士が、物を商う場所。
鬼市に限らず、市というのは、そもそもが見知らぬ存在同士が、取引という約束事だけを土台に、出会い別れ、物が無くなれば消えて無くなる、脆く淡い不安定な場所。
誰が客かも。
誰が売っているのかも。
何が売られているのかも。
誰が買っていくのかも。
全てが雑然とした、得体のしれない空間。
そういう、全てがあいまいな場所だからこそ、こうして怪しきモノと、人の営みが交わる事があるのだ。
「でも……なんで」
「ん、如何した?」
目の前の光景に、どうしても納得できない様子のカクに、仙狸は目を向けた。
「これはどう見ても鬼の市さ、それは判るよ、けどさ、鬼の市ってのは、都の寺社とかに立つ物であって、海の上に立つなんて、このカク聞いた事も無いよ」
「そりゃそうじゃ、お主の言うように、そもそも市とは賑やかな場所に立つ物よ」
カクが訝るのも無理はない。
鬼の市は、本来都のような、人の多い -当然死人もー 場所に現れる。
客が居ない所では商売が成り立たないのは、人だろうが鬼だろうが同じこと。
従って、こんな海の上には、商人も客も来ず、従って市は立たない。
立てようと思う阿呆も居ない。
その筈だった。
「だが、あり得ぬ事だが、海に市が立った」
蜃が何も考えずに吹く、幻の中に佇む都の風景。
それが一夜だけとはいえ、実体を伴って海上に現れた。
市という器が、出来たのだ。
そして、海には、その市という器を満たすだけの、死者が大勢彷徨っていた。
一攫千金を求め、唐天竺や暹羅(シャム)などに船で赴き……夢の途次で、嵐や海賊や妖怪の餌食になった人々が。
日ノ本にこの品々を持って帰り、売れば、俺の苦労は報われるのに。
使いきれない程の富が、一生楽に暮らせるだけの物が手に入るのに。
何故俺は……こんな所で。
その無念と共に、売る事叶わず、商人と共に海に沈んだ財貨の数々が、海の底には眠っている。
そんな無念の凝り固まった亡者が、たまたま出現した、空っぽの市に吸い寄せられた。
市だ。
市ならば、我が手に残る、この財宝を売る事が出来よう。
市ならば、客も来るだろう。
哀れな人々の妄執が、この幻の上に、鬼市を生み出したのだ。
人の情として無理からぬ事だと思うが、仙狸にとっては、今の事態は余り同情もしていられない。
「ここが鬼の市じゃったというなら、事態は更にややこしい事になるのう」
仙狸がしぶい顔で辺りを見回した。
「どうしてさ?」
これ以上、事態が悪くなるなんてあるの?
そういうカクに向かって、仙狸はほろ苦い、どこか皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「そうじゃな、まぁ、最悪の底が抜けるだけじゃ」
何かを聞きつけたのか、ピンと立った猫の耳が向いた方に、仙狸は走り出した。
「最悪の底が抜けるって、それ、もう破綻してるって事じゃん!」
「そうじゃ、あの漁師たちは、既に幽冥界の住人から、物を受け取っておるの……つまり取引を交わしてしまった」
その場で代価を支払ったのか、ツケになっているかは知らぬが。
生者と死者の間に、取引が成立した。
「そうか……縁が、結ばれちゃった」
カクの言葉に、仙狸の眉間の皺が更に深くなる。
「全く冗談では無いぞ」
蛭子珠の力得た蜃に加えて、亡者まで出て来るとは……。
(厄介がこれ以上積み上がったら、わっちらだけではどうにもならぬぞ)
ゼニヲ。
ゼニヲ。
黒く朧な人影が、おうおうと泣き声を上げながら、それだけを口にして、漁師に迫る。
恐怖に、声も無く竦む猟師たち。
彼らは、常に死を間近にして生きる漁師である、人や獣や勇魚(いさな、鯨の事)のような相手なら、相手がどれ程強大でも、勇敢に立ち向かえる。
だが、逆に、自らの力が恃めない相手に対しては、戸惑いからか、脆さを見せる。
その中で、長としての矜持か、網元が震える喉を無理やり開いて大声を上げた。
「だから……だからそこにある金銀銅貨、全部要るだけ持って行けば良いじゃろうがぁ!」
「駄目じゃ駄目じゃ」
黒く朧な影達の中、しっかりとした輪郭と顔かたちを保つ、先代の住職の霊が、はっきりした言葉で、網元の言葉に首を振った。
「わしらは、その銭を貰うた所で、何も買えんでな」
お主らの銭はな、対価としての価値は無いのじゃよ。
「銭とは所詮、人同士、それも手狭な範囲の便宜の為に作られただけの物じゃよ、網元殿、ヌシは犬猫や神仏を、金銀で手懐け、交渉する事が出来ると思うて居るのか?」
価値とはその位、脆き物じゃ。
儚い、幻のような約束事の上に、人の生活は成り立っておるのじゃ。
人の上に立つ者は、その辺りをしかと心得て居らねばなぁ、違うか、網元殿。
坊主らしいと言うべきか、分別くさい言葉に、網元は実際的な男らしく、目を剥いて端的な問いを発した。
「では、御坊よ、わしらは、何を支払えばよいのじゃ?」
「ふむ」
網元の抑えてはいるが、怯えを含んだ声には直接答えず、先代の住職は彼の後ろに数多控える、黒い人影に目を向けた。
「網元はああ言うておるが、どうされるな?」
ナント、ゼニハ、ハラエヌノカ。
モッテオラヌノカ。
イカガスル。
イカガシヨウ。
カワリニナルモノヲ。
ソウダ、カワリヲ、イタダコウ。
オオ。
ウム。
ウム。
泣き喚くのを止め、満足げに互いに頷き交わす黒い影を、不気味そうに見て、網元は先代住職に顔を向けた。
「代わりになる物だと……一体それは」
「なに、お主らにも支払えるものじゃよ、安心せい」
わしは要らんので、ここらで失礼するがの。
寄り集った、数多の影たちの顔らしきところに、かぱりと、一斉に紅い大穴が開いた。
「ひっ!」
上下に散らばる白い何かと、奥に見える、深淵に続くような黒い穴が見える所を見ると……あれは口か。
「て……てめぇら……何を」
それは、疑問と言うより、胸の中に収めきれなかった、恐怖の発露。
その影たちに場所を譲る様に、先代住職は後ろを向いて歩き出した。
「金が無いなら仕方あるまいよ」
コッチニコイ。
ワレラノナカマニ、ナレ。
ナカマニ。
ナカマニ。
「お前らの仲間になんぞ、なってたまるか!」
野郎ども、逃げろ!
魚が見えた時に、眠っている一同を叩き起こす、慣れ親しんだ網元の怒号。
その声に、半ば反射的に漁師たちの手足がしゃんと伸び、彼らは、黒い靄から逃げる為、弾けるように走り出した。
アタタカイ、チガアッテハ、ナカマニナレヌ。
ヤワラカイ、ニクガアッテハ、ナカマニナレヌ。
カタイ、ホネガアッテハ、ナカマニナレヌ。
ゾウモツガアッテハ、ナカマニナレヌ。
ヘノコガアッテハ、ナカマニナレヌ。
メダマガアッテハ……。
ハナガアッテハ……。
風に漂うように、漁師たちの後を追いだした亡者の群れを見てから、先代の住職は踝を返した。
「代価を払えぬなら、体で返すが、人の道じゃ」
市で何かを受け取った以上、奴らは何らかの代価を払わねば逃げられぬ。
亡者からも。
この幻の島からも。
「南無阿弥陀仏」
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式姫プロジェクトの二次創作小説です。
前話:http://www.tinami.com/view/954530