No.95424

魏After  ~北郷隊、最後の日~ 参

とととさん

どうもです。とととです。

勢いで書いた本作ですが、まさか三部作になるとは思ってもいませんでした。
うーん。長かった。

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2009-09-14 20:55:53 投稿 / 全12ページ    総閲覧数:14753   閲覧ユーザー数:10047

「あっはっは~♪ さすが覇王様は言う事がちゃうわ~♪」

 

 不意の笑い声。

 誰一人言葉を発する事の出来ない空気の中、のんびりとした声を伴って現れたのは霞だった。飛龍偃月刀を肩に、ゆっくりとこちらに向かってくる。

「霞!」

 現れた霞に春蘭が声を荒げた。

「貴様、この一大事に一体どこをうろついていた!」

「そんなん言われてもかなわんわ。こっちは夜通し演習やって帰ってきたらこの騒ぎやもん。ウチから言わせたら、アンタらが一体何しとんねんって話やで?」

 ジト目で言われてたじろぐ春蘭。

「そ、それは、あいつらがだなぁ……!」

「わーっとるって。話は聞いとった」

「ならば話は早い! わたし達と一緒にさっさとあいつらを───」

 

「イヤや」

 

 あっけらかんと言い放つ霞に、春蘭だけでなく秋蘭、桂花も声を失う。

「な、何だと!?」

「ウチは北郷隊の名前残して欲しいもん」

 豊かな胸を張って堂々と言ってのける霞。からからと笑いながら塔の上に大きく手を振る。

「おーいっ! アンタら、ド偉いこと仕出かしたなあ! 褒めたるわ!」

 そんな霞に華琳は気を悪くした風もなく、悠然と微笑んだ。

「あら、霞もわたしに叛くと言うの?」

「『北郷』の名を封印するのがホンマに『主命』なら、叛く事になるかもな」

 覇王の気迫も、根っから自由な霞には通用しないらしい。ひょいと肩をすくめると口の端を吊り上げた。

「にしても、『北郷』の名を封印するなんて出来んとちゃうの? 事は北郷隊だけやないで?」

「どういう事かしら?」

 訝しげな華琳に、霞はとっておきの秘密を話すように含み笑い。

「華琳は知らんかもしれんけどな、あそこの大通りをまーっすぐ行った突き当りに美味い飯屋があるんよ。まー、上品な店ちゃうから、行った事は無いと思うけどな」

「意味が分からないわね」

 突然、飯屋の話を始める霞に、華琳は眉をひそめる。その後ろでは、「華琳様を愚弄する気か!」と激昂した春蘭を秋蘭が押さえつけていた。

「その飯屋と一刀の名と、何が関係しているのかしら?」

「関係無い思うやろ? それが関係してんねん。そこの名物がな、『北郷丼』ゆうんやで?」

「北郷───丼?」

 呆気に取られる華琳。その言葉に凪はぽんと手を打った。

「ああ、あの麻婆豆腐をご飯に掛けた丼」

「おー、隊長がやったやつや」

「初めて見た時は『え~っ!?』って思ったけど、美味しいんだよねー」

 塔の上で頷き合う凪達。彼女達と一刀が親交を深める第一歩となった思い出。

「天下の覇王様はそんな飯屋に行って、料理の名前を代えろ言うんか? 『北郷』の名前が気に入らんって。それはちょっとみみっちいと違うんかな~」

「…………」

 言葉は返さないものの、華琳の眉の角度が髪の毛三本ほど緩んだ。更に霞は続ける。

「それに、東側にあるお菓子屋が並んだ通り、あそこは通称『北郷通』。アンタのお使いでよー並ばされとったからな。それ見た街の連中がそう呼んでんねん。『御遣い様がいる通り』ってな」

 語る霞は本当に楽しそうな笑顔だ。

「更に、や」

 指一本立てると、塔に向かって呼びかける。

「沙和ー! あの白くてキラキラした布があったやろ? あれ、なんちゅーねん?」

「あ、隊長の服みたいにキラキラするように白い布に銀の糸を編みこんだ布なの。だから、『一刀織』って言うのー」

「真桜ー! アンタの作った『かめら』で写した絵、あれって街では何て言われてるんやっけ?」

「隊長は『写真』言うてたけど、皆は天の絵やからって『天画』って呼んでるわ」

 一刀が託したのは思い出だけではない。

 一刀から託されたのは華琳達だけではない。

 それは街のあらゆるところに、あらゆるかたちで存在しているのだ。

「一刀の名にちなんだもんなんてそこら中にあるんやで? それを一個一個潰してくんか? 正直、ウチは勘弁して欲しいわ」

 霞はぺろっと舌を出して、ぱたぱたと手を振った。

「ウチもあの子達と一緒や。一刀の残したもんを見る度に、聞く度に、自分の口で言葉にする度に、こう───心の中がぽかぽかすんねん。そしたら、どんなにめんどい事でも、どんなに疲れてても、『よっしゃ! いっちょやったろか!』って気になんねん。せやから、ウチは『北郷』の名を封印するのは反対や」

「成程」

 華琳は小さく頷く。しかし、それは霞の言い分を理解しただけで、認めたわけではない。

「それでも、わたしは引き下がらない。一度、王として断を下したのだから」

「せやったら───残るのは一手やな」

「一手?」

「そ。このまま睨み合ってたって日ぃ暮れるし、街のみんなも迷惑やろ」

 そう言って霞は塔の方へと歩いていく。

「凪ー! 沙和ー! 真桜ー! アンタら、いい加減に降りてこんかーい!!」

「し、しかし、霞様!」

「ここを降りたら北郷隊が無くなっちゃうのー!」

「姐さんかて反対なんやろ!?」

「それはそうや。でも、アンタらのやってる事が正しいかって言われたら、ウチそれはそれで困んねん。可愛い妹達がおかしな事したら、それを正すんが姉の役目やろ?」

 その言い草に凪は憤然と反論する。

「わたし達は『北郷隊』の名を守る事に命を懸けています! いくら霞様だからって、それをおかしな事だなんて───」

 身を乗り出した凪に、霞は苦笑いで手を振った。

「あー、ちゃうちゃう。ウチが言ってんのはそれやなくてな? 『何で、武官が言葉で語ろうとしてんねん?』って事や」

「言葉───で……?」

「せや。ウチら武官が言葉のやり取りだけでホントに気持ちが伝わるか? 相手に言葉を投げつけられて、それで納得出来るか? 武官ってのは、やっぱ最後は言葉やなくて拳と拳、剣と剣。コレやろ」

 にやっと笑って華琳を見る霞。華琳は憮然とした表情で顔をしかめている。

「ちょっと霞! まさか華琳様とあの子達を戦わせようと言うんじゃないでしょうね!?」

「まー、華琳の本気も見てみたいけどな。それはさすがにせーへんよ」

 にやりと笑って視線を動かす。その先にいるのは───

 

「ここは───春蘭しかおらんやろ」

 

「な、何ぃっ!?」

 突然の御指名に春蘭は思わず自分を指差してしまう。

「わ、わたしがか!?」

「せや。華琳の想いを代理するんやで? そんなん春蘭にしか務まらんとちゃう?」

「むむっ!?」

 華琳様の想いを代理する。それすなわち───華琳様と一体となるという事!

「───ふっ。天下広しと言えども、華琳様のお心を一身に背負えるのはこの夏侯元譲のみ!」

 霞の言葉にあっさりとのったバカ───もとい、春蘭は大剣を空に構えて吼えた。

「貴様等がどれだけ大それた事をしたのか、その体に刻み込んでやるわ!!」

 やる気モード全開の春蘭に、霞は笑って華琳にウインクする。

「っちゅーわけで春蘭はやる気バリバリやけど、どないする?」

「まったく、あなたのお祭り好きにつける薬は無いわね……」

 華琳は頭に手をやって深々とため息。

「え? え? 一体どういう事なの~?」

「華琳様の代理に春蘭様が出てきて───こちらの代表と戦うという事だろう」

「勝った方が負けた方に従う。分かりやすい言うたら、これ以上わかりやすい解決法もないやろうけど……よりにもよって春蘭様かい……」

「え~!? そんなん無理に決まってるのー! だって、春蘭様だよー!?」

 悲鳴を上げる沙和。頭はどうあれ武の腕だけで言えば春蘭は魏で随一の使い手。魏武の大剣の名は伊達ではないのだ。

「どうする、凪……?」

 苦悶の表情を浮かべる真桜。

「…………」

 凪は無言で瞳を閉じ、大きく息を吸い込む。

「───やるしかない」

 すっと目を開ける。その視線は華琳を捉えている。

 華琳は真っ直ぐにこちらを見ている。その凛とした佇まいには一分の隙も無い。その威風堂々たる立ち姿こそ、彼女の覚悟の表れだ。

「華琳様はわたし達の覚悟を試しておられる。引き下がる訳にはいかない……」

「でも、でも、相手はあの春蘭様だよ~!?」

「勝ち目は万に一つも無いかもしれない。でも、春蘭様の名に怯え逃げ出すのなら、華琳様のお覚悟を変える事なんて到底できやしない……」

「相手は春蘭様で、春蘭様やない……敵は覇王の覚悟そのものって事か……」

「凪ちゃん……」

「凪……」

 二人の視線に、凪は大きく頷いた。

 

 

「わたしが───行く」

 

 

 

「華琳様! 北郷隊、楽進! 霞様の言をいただき、我等の覚悟を貫く為、春蘭様と戦わせていただきたく存じます!!」

「よく言った! ならば望み通り、その体に真の忠義というものを叩き込んでやる!!」

 沙和、真桜を背に、塔の上に仁王立ちの凪。

 抜き放った大剣に日を煌かせて吼える春蘭。

 群集がどよめく中、華琳はため息をついて霞を睨みつけた。

「随分と盛り上げてくれたわね? あなたの狙い通りというところかしら?」

「んー、どやろな。幾ら凪でも春蘭の相手は厳しすぎる。まともにいったら無理も無理、大無理やな」

「北郷隊存続を願うあなたにとっては望ましい結果にならないんじゃない?」

「ま、そうなったらそうなったで仕方あらへん。ウチ、ああは言ったけど、華琳の言ってる事が全部間違ってるとも思ってへんしな。それに───」

 霞は眩しそうに塔を見上げた。

「今のあの子らは強いわ。そもそも、華琳の命に叛くってだけで、並の事やないやろ? それをあの子らはやってのけた。腹に覚悟を持った人間は、自分の器以上の力を出すもんや。これで賭けるんが一刀の名やなかったら、ウチが相手してやりたいくらいや」

「…………」

 屈託の無い霞の笑みをしばらく睨みつけていた華琳だったが、すぐに諦めたという顔で苦笑い。

「まぁ、こうして睨み合って言葉をぶつけ合っても堂々巡りになるだけね。後腐れなく片付くのなら、むしろ良い案と言えるでしょう」

 自分を納得させるように頷き、そして華琳は前に出た。

 

「明日! この時刻! 夏侯惇、楽進、両名で試合を行い、勝者の覚悟を今後の我等の運命とする! 敗者は潔くその運命を受け入れよ! よいなっ!!」

 

『はっ!』

 

 蒼天の下、凪と春蘭の声が重なり合う。

 こうして、後の世に言う『北郷隊の乱』は一先ずの決着を迎えたのであった───

 

 

 

 塔から降りてきた三人に、北郷隊や街の人々がわっと群がる。

「小隊長! 頑張って下さい!」

「北郷隊をお任せします!」

「俺達からもお願いするよ!」

「楽進様、ご武運を!」

「どうかご無事で!」

「小隊長!」

「楽進様!」

 回りを取り囲む一人一人の顔を見て頷く凪。

 と、凪の肩を沙和が掴んだ。

「凪ちゃん……」

 緊張に強張った声。見れば、そちらからやって来るのは主君の姿。

「まったく、魏の領内でここまでの大騒動ときたら、一刀が天に還って以来じゃないかしら」

「華琳様……」

 春蘭、秋蘭、桂花、そして霞を従えやって来た華琳に、周囲の人々はざざっと後ずさってしまう。三人は膝をついた。

「華琳様、この度の騒動───」

「申し訳ない───と言うつもりなら、明日まで待ちなさい。明日、春蘭があなたに勝ったなら、その続きをゆっくりと聞かせてもらいましょう」

「はっ……」

「沙和も真桜も凪が敗れたなら潔くその結果を受け入れる事。いいわね?」

「もちろんなのー」

「ウチらは一心同体や」

 その言葉に満足したように頷くと、華琳はすっと手を伸ばした。

 こちらに向かってくるその手に、思わず凪は体を硬くする。あるいは頬の一つも張られるだろうか。

 そう思っていたのだが、

 

 ぽすっ。

 

 その手は優しく凪の頭に置かれた。

「か、華琳様……?」

「主命に叛いたのは少々カチンときたけれど、よくぞこのわたしを相手に覚悟を貫き通したわ。それは褒めてあげる」

 くしゃりと凪の頭を撫でて、華琳は微笑んだ。

「あなた達を褒める時、一刀ならこうしたんでしょう?」

「か、華琳様……」

「沙和。真桜。あなた達も見事と言っておきましょう。なかなかの将に育ったものだわ」

「華琳様……」

「大将……」

 二人の頭も撫でてから、華琳は微笑んだまま、すっと目を細めた。

「でも、明日は我が覚悟があなた達の覚悟を粉砕するでしょう。それが嫌なら、命を懸けて抗ってみせなさい」

「そうだぞ! 何なら貴様等三人一緒にかかってこい! このわたしがお前達の覚悟とやら、粉々に打ち砕いてみせよう!!」

「…………」

 既に戦意を剥き出しにしている春蘭に凪は無言で頷いた。

「秋蘭、第三錬兵場を用意しておきなさい。明日の試合はそこで執り行うわ」

「御意」

「桂花、今日の騒ぎは遠からず広まるでしょう。『魏内に謀反の兆しあり』なんて、おかしな連中が煽り立てないように気をつけておいて」

「承知致しました。恐らく、呉も蜀も目立った動きは取らないでしょう。動くとすれば未だ三国の秩序を受け入れられない愚か者どもかと」

「せやったら、ええ機会や。おかしな動きした連中はとっ捕まえたったらええんとちゃう?」

「そうね。炙り出したネズミの始末は凪達に任せましょう。この騒動の責任を取る為にもね」

「はっ」

「その任をわたしは『北郷隊』に命じるのか、それとも新たな名の隊に命じるのか───それはあなた次第よ、凪」

「分かりました」

 大きく頷く凪。沙和も真桜も全てを受け入れる覚悟を決めた表情だ。

「では、明日───」

 身を翻して帰路につこうとした華琳だったが、ふと思いついた顔で足を止める。

「そうそう。聞き忘れていたわ。あなた達、どうして詰め所の備品を他の詰め所に運び出したの?」

「はっ。それは───」

 凪は真桜に目配せした。真桜は頷き、工具入れから手の平に乗る程度の正方形の箱を差し出す。上面に丸い出っ張りが付いているその箱を手にして華琳は小首を傾げた。

「一体何なの、これは?」

「それはな、今は外してあるけど、塔の上にある導火線に結びついててん」

「導火線───ですって?」

 その言葉に表情を変える華琳。

 しかし凪、沙和、真桜は一点の曇りも無い視線で一同を見つめている。真桜は淡々と説明を続けた。

「でな、そこの出っ張っとるとこをポチッと押すと、中のからくりが導火線に火ぃつけるんや。導火線は詰め所中に張り巡らされていて、そしてこれも詰め所中に設置された爆薬に繋がっとんねん」

「あなた達、詰め所を爆破する気でいたのっ!?」

 桂花が悲鳴じみた叫びを上げる。

 あまりの事に呆気に取られる一同に、凪は表情を変えずに言った。

 

 

「もし華琳様が我等の不忠を責め部隊を突入させようとなされたら、我等は魏の人間同士の戦いを避ける為、この北郷隊の詰め所と共に我が身に始末をつける所存でした」

 

 

 

 

 一礼と共に三人がこの場を後にしてからも、華琳達は動けずにいた。

 何という苛烈なまでの覚悟だろうか。

 彼女達はただ自分達の覚悟の程を表す為だけにこの舞台を用意したのではない。

 最悪の場合はこの舞台を、一刀との思い出が込められたこの詰め所を死に場所に命果てるつもりでいたのだ。

 更に詰め所自体は手向けに持っていくものの、魏より拝領した調度類などの備品は全て外に持ち出しておく律儀さと周到さ。

「ぷっ───あははははは!」

 突如、堪えきれずに笑い出した華琳。桂花達の驚いた顔も気にせず、自分の笑い声に身を委ねる。

「やってくれるじゃない! この曹操に息を飲ませたのだから大したものよ! あの子達の教育を一刀に任せたのは大正解だったわ!」

 その澄んだ笑い声に霞もつられて笑い出し、桂花は笑っていいものかどうしたものか悩ましげだ。

「姉者」

 秋蘭は未だ三人が去った方向を睨みつけている姉の耳元にそっと呟いた。

 

 

「姉者。全力を尽くさねば、粉砕されるのは姉者の方かもしれんぞ……?」

 

 

 

 ぱちり───と、火が爆ぜる。

 城壁の外側、凪は焚き火をじっと見つめていた。

 自室に戻る事はなかった。

 あれは、魏の士官が住まう部屋。

 魏への、華琳への忠誠は揺らぐ事はないものの、その華琳に叛いている今は自室に戻る気は無い。

 沙和と真桜は凪の勝利の為だと言って、沙和は三人の財布を、真桜は凪の手甲「閻王」を持って行ってしまった。恐らく街でその『勝利の為』に何かやっているのだろう。

 彼女達がそう言うなら、それはきっと本当に勝利の為に役立つ事なのだ。それは疑いようも無い。

 後は自分がどう戦うか───いや、どう勝つかだ。

 

 あの魏武の大剣に。

 

 春蘭という武将は、確かに知略に通じているわけではない。まぁ、端的に言うならば───バカだ。

 だから、他国の人間からは侮られやすくはある。

 しかし、同じ国の将として、同じ戦場に立ったならば、これほど頼りになる人間はいない。

 春蘭の武を支えるのは並外れた腕力でも、暴風雨を思わせる剣捌きでも無い。

 彼女の武の根底にあるのは、ただただ華琳への忠義。だから、春蘭はブレない。どんな苦境に陥っても、華琳を信じ、その主命を全うする。

 戦場の最前列に大剣を引っさげて雄々しく立つその背中は、凪にとって目指すべき目標だった。

自分と同じように不器用で、真っ直ぐ前に突き進む事しか出来ない。それでいて、その突き進む力は自分などより遥かに強く、敵陣を切り裂き、噛み砕き、塵になるまで粉砕する───それこそが春蘭の武だ。

 

 ───勝てるだろうか……

 

 勝たなければ、自分の心の支えが奪われる。自分だけではない。沙和の、真桜の、北郷隊の、街の人々達の───みんなの想いを裏切ってしまうのだ。

 抱えた膝をぎゅっと抱きしめる。

 呟く名は、勇気の源。

 

「隊長」

 

 

 

 

 

 ───頼りなさそう……

 それが一刀の第一印象だった。

 一兵卒に負けるくらい弱く、知略に通じている訳でもない。天の知識と呼ばれるものには驚く事はあったが、それも凪にとっては『すごい』と言うより『訳が分からない』といったものだ。尊敬の対象にはなるようなものではない。

 ただ優しい事には間違いなさそうだ。まぁ、甘いだけの人なのかもしれないけど。

 凪の一刀評は少々厳しいものだった。

 指示には従っていたが、それは一刀の命令だからではなく、華琳が任じた上官の命令だからだ。

 人としては悪くなかったが、上官としては頼りないのは否定できないところだった。

 それが変わったのはいつの頃からか。

 相変わらず弱く、知略はまぁまぁといった程度。

 それなのに凪が一刀を少しずつ隊長として認めていったのは、一刀の中に自分とよく似た部分を見つけたからだ。

 華琳に怒鳴られ、桂花に嫌味を言われ、春蘭に追い掛け回されても、一刀は腐る事無くひたすら華琳達の為、民の為に何が出来るかを考え、自らが先頭に立って動いていった。その多くは失敗だったものの、それでも前へ前へと進むのが一刀という人間だった。

 その背中に凪は、愚直なまでにただ前へと突き進む自分の武の在り方を被らせていた。

 沙和の臨機応変さも真桜の意外性も無い凪は、自分が先頭に立って突き進む事しか知らなかった。その結果が傷だらけのこの体だ。

 その武の在り方に武人として誇りは持っていたものの、一人の女としては劣等感を抱かざるを得ない。そう思っていたところに現れた一刀の背中に、凪は自分自身の姿を重ねるようになった。

 

 ───そのままでいいんだ。

 

 一刀の背中はそう語りかけてくるようだった。

 この背中の後に続いていけば、自分が今までやってきた事を認められる。そう感じた。

 それを自覚したとき、一刀は『隊長』になっていた。

 前へ。

 前へ。

 自分が信じた道を、ただ前へ。

 

 

「前へ───そこに立ちはだかるのが例え華琳様だろうと、例え春蘭様だろうと……わたしはひたすら前へ前へと進みます。それでいいんですよね───隊長……」

 

 

 

 

 朝露がしっとりと空気を濡らす。

 目を覚ませば、既に日が上り始めていた。

 ゆっくりと立ち上がった凪は、まだ星の見える薄闇の空に蹴りを放つ。空気中の水分が蹴りの起こした風に巻き込まれ、露となって光を反射する。

 薄闇の空の下、光の粒が降り注ぐ中、蹴りの姿勢のままピタリと静止した彼女の姿はまるで一枚の絵のようだ。この姿をそのまま切り取れる画家がいたのなら、その者はこの一枚だけで後世に名を残せるだろう。

 と、背後から二つの足音。

「おー、気合入っとるやないの」

「凪ちゃん、かっこい~♪」

「真桜、沙和。遅かったな」

 現れた二人は、手に袋を持っていた。

「まーな、ちょっと根つめすぎたわ」

「沙和も~」

 二人とも笑顔だが、その表情は疲労を隠しきれていない。徹夜したのがありありと見て取れる。

「ま、勝負が始まってまえばウチらに出来るのは応援くらいやからな」

 言いながら、真桜は背負った袋をゴソゴソとやる。

「ほい」

 軽い声と共に渡されたのは、凪の手甲「閻王」だ。華琳に士官する前から使っている愛用の武器は、しかし今まさに出来上がったかのようにピカピカに磨き上げられている。あまりに輝いていて、まるでそれ自体が光を発しているようだった。

「ウチらの大舞台にふさわしいようにぴっかぴかにしといたで。あと、取り付け部分の皮がちょっと痛んでたから取替えといたわ。上等のなめし皮を使っとるから、使い心地は格段に上がっとるはずや」

 装着してみれば、なるほど真桜の言う通り、まるで肌に吸い付くような感覚がある。拳を打ち出せば、輝く光の軌跡が大気を両断したように見えた。

「うん。これはすごい。真桜、助かる」

「当然や。ウチ、入魂の仕上げやからな。ウチの覚悟はアンタに託した」

「任せろ」

 頷き合う二人の後ろで、沙和も袋から何かを取り出した。

「次は沙和の番だよー! 沙和が用意したのは───じゃじゃーん!!」

「これはっ!」

「おー、こりゃすごい!」

 沙和が取り出したものに、二人は声を揃えて驚いた。沙和は胸を張ってピースサイン。

「これは隊長の名前を守る戦いなのっ! だからこそのとっておきなの!」

 沙和が用意したものに、凪は自分の中から無限の力がこみ上げて来るのを感じた。

 もはや自分の武が春蘭に通じるのかという不安は消し飛んだ。ただ、自分の全てをぶつけてやろうと心を決める。

 前へ。

 前へ。

 それこそが楽文謙の武───

 

 

「沙和、真桜。この勝負───必ず勝ってみせる……!」

 

 

 

 第三練兵場へと続く廊下。

 華琳はむしろ楽しげな顔で傍らの桂花に問う。

「桂花。曹魏の筆頭軍師はこの戦い、どう見るの?」

「それは春蘭でしょう」

 当然と言わんばかりの顔で即答する桂花。

「素早く動き回る沙和や搦め手を使う真桜なら万が一もありますが、凪は春蘭と同じで真正面からの戦いに本領を発揮する将ですから」

「ぶつかり合えば吹き飛ぶのは単純に力の無い方というわけね」

「御意」

「お任せ下さい、華琳様! あの馬鹿者どもの性根を叩き直してくれましょう!」

 気合充分の表情で力こぶを作る春蘭に、桂花は顔をしかめる。

「気合が入っているのはいいけど、華琳様の前で空回りして醜態を晒すのだけは勘弁してよ? まったく、盛りのついた猪じゃあるまいし、鼻息が荒いったらありゃしないわ」

「何をー!? わたしが最近食べ過ぎでちょっと太ったかなーと気にしているからといって猪とはどういう事だ!?」

「そこを見て猪と言ってるわけじゃないわよっ!!」

 ぎゃーぎゃー言い合う二人。秋蘭は姉の手をぐいっと引っ張った。

「姉者。戦いの前に気を散らせるな。相手は凪だ。気を抜いて戦える相手ではないぞ?」

「秋蘭の言う通りや。あの子ほど敵にしたら厄介な奴もそうおらんで?」

 秋蘭、霞の言葉をはじき返すかのように、春蘭は胸を張ってふんぞり返る。

「ふん! 凪などまだまだヒヨッコだ! わたしが直々にしごいてくれるわ!」

「まったく……」

「忘れてた。猪に何言うても無駄やったわ……」

 ため息をつく秋蘭と霞。華琳は何か言いたげな視線を二人に向ける。

「秋蘭も霞も、凪にも勝ち目ありと見ているというところかしら?」

「まーな」

「無くは無いでしょう」

「秋蘭~!?」

 不満げに頬を膨らませる姉に萌え心を疼かせつつも、秋蘭は冷静さを取り繕って主に答える。

「凪の強さの本質は武ではなく、その心にあるものと思います。凪に打ち勝つには、何より凪の心を打ち砕かねばならないかと」

「心───ね……」

「ただ、一刀の名を支えにした今のあの子の心はめっちゃ強い。ちょっとやそっとじゃ傷もつかへんよ。それこそ、腕の一本もへし折らんかったら止まらんわ」

「ふん、上等だ! 凪ごとき腕の五・六本、容易くへし折ってやる!」

「腕が五本も六本もある訳ないでしょう? この脳筋」

「け、桂花! 貴様、さっきから何をつっかかって───」

「はいはい。二人ともそこまで」

 凪との試合の前に一勝負起こしそうな二人を制する華琳。

「し、しかし、華琳様! さっきから桂花の奴が……」

「桂花も北郷隊解散の策は心苦しく思っているのよ。だから、ついあなたに八つ当たりしてしまうの。可愛いでしょう?」

「はぁ……? そ、そういうものですか?」

「華琳様! わたしはそんな事思っておりません! ただ、華琳様に楯突くあの子達が苛立たしいだけです!」

「そうなの? わたしはてっきり、自分が北郷隊解散の策を出した後ろめたさと、あくまで一刀を慕うあの子達への嫉妬で機嫌が悪いのだと思っていたのだけれど?」

「か、華琳様! ますます違います! わたしはあんな変態性欲魔人の事など、これっぽちも───」

 真っ赤になって言い募る桂花。秋蘭はこめかみに手を当てて苦い顔。

「ふぅ。華琳様も桂花へのからかいが過ぎるのでは?」

 秋蘭に指摘され、華琳は「あら、そう?」と微笑んでみせる。

「この曹操ともあろうものが、つい心が浮き立っているようね。可愛いあの子達が春蘭相手にどれほどのものを見せてくれるのか……」

「華琳様はどう見ます、この勝負」

「も、もちろん、わたしの勝利を信じてくれていますよね!?」

 勢い込む春蘭。華琳は透き通った笑みを浮かべた。

「そうね、それは───」

「それは?」

 華琳は笑って空を指差した。

 

 

「『天』のみぞ知る───かしら」

 

 

 

 第三錬兵場は集団戦の訓練を行う第一、第二錬兵場と違い個対個を対象とした錬兵場だ。

 中庭のように天井の無い建物、中央には石造りの舞台がある。舞台は円形、直径50メートル程。東の壁際には階段状に作られた雛壇があり、その頂上が華琳の座る玉座だ。

 そして、華琳達がこの第三練兵場に足を踏み入れた───その瞬間だった。

「あいつら……!」

 春蘭は怒りで頬を朱に染めた。

「不遜にも程があるわ……」

 桂花は忌々しげに吐き捨てた。

「まったく……」

 秋蘭は苦笑いで肩をすくめた。

「まーた一本取られた!」

 霞はからからと笑い声を上げた。

 そして華琳は───

「…………」

 華琳はただ無言だった。その頬に笑みを浮かべたまま。

 そこにいたのは沙和、真桜、そして───

「凪っ……!」

 ぎりっと春蘭の奥歯が鈍い音を立てる。

 彼女達の目の前にいるのは、腕を組んで仁王立ちの凪。

 そして、その肩には日の光を反射して輝く、真っ白な服が翻っている。袖を通さず、そのまま肩に羽織っているその服は、まぎれもなく───

 

 聖フランチェスカの制服だった。

 

「貴様、何だその格好は!!」

 今にも飛び掛ろうとする春蘭に、凪は眉一つ動かさずに答える。

「これは沙和が作ってくれたものです」

「沙和だとっ!?」

 それだけで人が殺せそうなほどの視線を沙和に移す春蘭。しかし、沙和もそれを真正面から受け止める。

「これは隊長の名前を懸けた戦いなの! そして、この服は沙和達の想いと一緒に、凪ちゃんに無限の勇気を与える魔法の服なの! 凪ちゃんは絶対勝つの!!」

「凪の拳には、ウチらだけやない───北郷隊の皆や街の人達の想いも込められとる! 並の痛さやないで? 春蘭様、覚悟してやっ!!」

 春蘭の視線を受けてなお言ってのける二人。堂々たる勝利宣言だ。

「き───さ───ま───らあああああああああっ!!!」

 もはや人を通り越して獣の咆哮を上げる春蘭。

「よくも華琳様の御前で、それだけの愚弄を重ねたものよ! もはや、お仕置きなどでは済まさんぞ!!」

「姉者、落ち着け」

 今にも飛び掛ろうとする春蘭を秋蘭が制する。

「離せ、秋蘭!」

「ダメだ。この戦いは姉者のものではない。あくまで凪達と───華琳様のものなのだからな。姉者はあくまで華琳様の代理。それを履き違えるな」

「くっ……」

 華琳の名を出されては黙らざるを得ない。不満げに剣を引く。

「…………?」

 そんな姉の横顔に、秋蘭は違和感を感じた。

 ───幾ら姉者が猪突猛進とはいえ、同じ魏の将にここまで敵意を剥き出しにするとは……

 秋蘭は姉の視線を追う。

 その先には三人組が、いや、凪がいる。

 凪が───?

「そうか……成程な」

 秋蘭は頷き、姉の耳元に口を寄せた。

「気持ちは分かるが、華琳様の御前だ。そう猛るな」

「…………」

 春蘭は不満げに、しかし素直に引き下がる。そんな二人に霞は持ってきた酒瓶に口をつけてからニヤリと笑みを浮かべた。

「出来のええ妹ってのは大変やな~。ウチ、一人っ子で良かったわ」

「そうか? これでなかなか気に入っているのだが」

「いやいや、大変やって。特に『今日の』春蘭相手はしんどいと思うで?」

「ほう」

 どうやら霞も春蘭の姿に秋蘭と同じ答えを見出したようだった。

 ───さすが、霞の勘は鋭いな……

 一先ず春蘭が落ち着いたのを見届けてから、玉座の華琳が立ち上がる。

「北郷隊、楽進、于禁、李典。改めて聞きましょう。あなた達はこの曹操の命令に叛き、その覚悟を見せる為に楽進を代表に立て、魏武の大剣である夏侯惇と戦う───それでいいのね?」

「はいっ!」

 頷く凪の顔には迷いも恐れも無い。ただ、命を懸けて勝つという強い決意があるのみだ。その肩に羽織ったレプリカの制服が、彼女の決意を表すかのように風に大きく翻る。

「ならば、もう何も言う事は無い。あなた達の覚悟、このわたしに見せつけてみせなさい」

 華琳の手が天に掲げられる。

「一方が降参する、舞台から落ちる、意識を失う。そのどれかで決着とする。ある程度の怪我は仕方ないけれど、今後働きに影響が出るような怪我は許さない。いいわね?」

「はっ!」

「御意」

 大きく頷く春蘭と凪。華琳も頷き返す。

 そして、掲げた手が振り下ろされる。

 

「勝負───始めっ!!」

 

 

 

「勝負───始めっ!!」

 

 合図と共に放たれた矢の勢いで春蘭が疾駆する。

「早いっ!」

 神速の霞が思わず立ち上がるほどの速度で凪に迫る春蘭。

「おっりゃああああああっ!!」

 空気中の水分すら両断する勢いで振り下ろされる大剣、七星餓狼。しかし、その一撃はあっさりと空を切る。

 凪の体は既に宙にあった。天と地を逆転させ、中空に弧を描く。

 見上げる春蘭と見下ろす凪の視線が交錯する。

 一瞬静止する時間。

 そして凪が着地した時、誰からともなく「ほうっ」と息が漏れた。霞が感心したように頷く。

「凪の方もキレキレやんか。伊達に華琳にケンカ売ったわけやないな」

 その凪は着地し、すぅっと一呼吸。

「沙和、頼む」

 羽織った制服を放ると、沙和はわたわたしながらキャッチする。

「ふん。それはお前に無限の力を与えるのではなかったのか?」

「もちろんです。そして、それはこの身から離れていても変わりません」

 凪が構えを取る。拳に輝く、白銀の閻王。

 

「どんなに離れていても『わたし達』は一つです」

 

『わたし達』。

 それは無論、沙和であり、真桜であり、北郷隊であり、街の住人達であり、そして───

「相も変わらず、いけしゃあしゃあと……」

 その言葉に春蘭の眼光が更に鋭さを増した。

「そういう言葉の一つ一つが───」

 ゆっくりと大剣を振り上げる。瞬間───

「腹立たしいと言うのだっ!!」

 更に速度を増した踏み込み。一瞬で凪との間合いがゼロになる。振り下ろされる七星餓狼。あくまで試合用にと刃止めはつけてあるが、それでも春蘭ほどの使い手が振るえば、それはとてつもない威力を秘めた凶器となる。

「はぁっ!!」

 凪は両腕を交差させてその一撃を受け止めた。衝撃が体を突き抜け、石造りの床にヒビが入る。それほどの一撃。

「ふんっ!!」

 今度は横合いからの斬撃。上体を反らしてかわす凪。その鼻先を剣がかすめる。「ひゃっ!」と悲鳴を上げて目をそむける沙和。まさに紙一重だ。

「よくかわす! ならば、これならどうだ!」

 矢継ぎ早に繰り出される斬撃の暴風。凪はその全てをかわし、受け流し、弾き返していく。錬兵場に金属と金属がぶつかり合う甲高い音が炸裂する。

「ウチが精魂込めて磨き上げた閻王や! ちょっとやそっとじゃ傷もつかんで!!」

 パチンと指を鳴らして誇る真桜。

 春蘭が振り回す七星餓狼の黒の軌跡。

 凪が繰り出す閻王の白銀の軌跡。

 二色の竜巻が舞台の中央でぶつかり合う。威力は黒、速度は銀。一歩も譲らぬせめぎ合いに霞は心が騒ぎ出すのを隠せない。

「う~、こんな事ならやっぱウチが出とくんやったなぁ。今日の凪、めっちゃ強いやん。やりたいわ~~~~!」

 三度の飯より酒よりケンカ好きの霞が黙っていられないほど、凪は強くなっていた。

 ───確かに……

 それには秋蘭も頷かざるを得ない。三羽烏の中で最も成長した凪だったが、春蘭の武に並び立つとは思ってもいなかった。

 その強さこそ、彼女達の覚悟の表れか。

「だが……」

 姉の苦境に、しかし秋蘭の頬には笑みが浮かんでいた。

「姉者とて見せねばならんだろう? 華琳様のお覚悟に隠した、姉者自身の想いを……」

 

「凪ちゃん、行っけえ!」

「そこや! ぶち込んだらんかいっ!」

「はああああああっ!!」

 沙和と真桜の声援を力に、凪の拳の速度が更に増す。

「くっ!」

 わずかずつではあるが、銀の竜巻が黒の竜巻を押し込みつつある。速度が威力を凌駕しつつあるのだ。

「何やってるの、春蘭! 曹魏最強の名が泣くわよ!」

 猫耳を逆立ててわめく桂花。華琳は瞬きすらせず、二人の戦いを見つめている。どんな結果になろうとも、その結果を網膜の細胞一つ一つにまで焼き付けるように。

「お───のれええええええええっ!!」

 自分が押されている。その事実を認めんが為の、春蘭渾身の一撃。だが───

「あかん! 焦り過ぎやっ! 今の凪はそれもかわす!」

「!?」

 霞の言葉通り、凪はその一撃を紙「半」重でかわした。前髪数本が切り落とされて風に舞う。研ぎ澄まされた集中力、類稀な動体視力、そして血の滲む鍛錬によって築き上げられた体捌きが高次 元でがっちりと噛み合わさった結果の芸当だ。

 残像すら残すほどの動きで渾身の一撃をかわす凪に、春蘭の目が驚愕に見開かれる。

 ───勝機。

「はぁぁぁっ!!」

「っ!!」

 凪の一撃が春蘭の側頭部を捉えた。飛び散る鮮血。

 ───手応えあり!

「猛虎蹴───」

 更に追い討ちの攻撃を繰り出そうとして───

「───!?」

 凪は大きく後ろに跳んだ。

「何してんねん、凪!!」

 真桜の叫び声も、今の凪には聞こえていなかった。

 全身を冷たいものが流れ落ちる。我知らず、全身が総毛だっていた。

 追撃を繰り出そうとした瞬間、凪は見た。

 春蘭の目。

 凪の打撃を食らいながら、その目は爛々とした輝きを灯して凪を捉えていた。明らかにさっきまでとは違う、それは別次元の輝きだ。

 ───あそこで撃ち込んでいたら、確実に反撃を食らっていた……

 凪の歴戦の勘がそう告げる。

 

「ビビった───と言うのはかわいそうやろな」

 一杯やりながら霞。その表情からはさっきまで浮かんでいた笑みが消えている。

「ああ。こちらも用意しておかないとな」

 秋蘭は静かに全身に力を込めた。

「いざという時には割って入らんと、凪が危ない。いよいよ姉者が本気になった」

 

 大きく一息。

 撃たれた側頭部に手をやると、それほどの量ではないにしろ赤い液体が流れている。

「ふむ」

 春蘭は一つ頷き、凪を見た。

「凪。まずは謝っておこう」

「しゅ、春蘭様?」

 何のことか分からず戸惑う凪。

「どうやら、わたしはまだ、お前を『お仕置き』してやろうという気持ちだったようだ。軽く叩きのめして、華琳様に楯突いた事を懲らしめてやろうとな」

 一歩踏み出す。氣の使い手である凪だからこそ見えるのは、春蘭の全身から溢れ出す闘氣。

「だが、もはやお前はわたしに『お仕置き』されるような将ではない。お前は充分に強い。だからこそ、わたしはお前に謝ろう」

「わたしを侮った事を───ですか?」

 言い知れない不安を押し殺しての凪の言葉に、春蘭は首を振る。

「いや……わたしが謝るのはな、凪───」

 春蘭の瞳がすっと細まる。瞳に宿る、暗い炎。

 

「もはやお前を無事に帰してはやれないという事だ」

 

 

 

 宙に浮かんでいる。

 それを意識したのは、地面に打ちつけられてからだ。

 痛みは感じない。

 驚きだけがある。

 凪は呆然と春蘭を見て、それから自分が倒れているのに気づいた。慌てて立ち上がるとすると、膝がガクガクと震え出した。

 ようやく感じる痛み。頭に手をやれば、べっとりと赤いものが流れている。

 ───何だ……!? わたしは今、一体何をされた……!?

 頭部に一撃を受けたのは理解した。

 だが、いつ食らった?

 まったく見えなかった。

 春蘭の体が一瞬揺れ動いた。そう思った瞬間、自分の体は吹き飛ばされていたのだ。

 これが本当の春蘭の速さなら、さっきまでの踏み込みは歩いていたようなものだ。

 あまりにも絶望的な速度。

 

 ───これが、春蘭様の……本気……

 

「早い」

 霞の声はわずかに強張っている。

「ウチなら捌けた───とは言い切れんな。実際、食らってみんとそれは分からん。せやけど、ウチの知っとる春蘭とは一つ二つ桁が違うわ」

「この半年で強くなったのは凪だけではないさ。姉者とて必死の想いで修練を積んできた。それはお前だって同じだろう、霞?」

「───否定はせん。せやけど何の為に?」

「それもお前と同じだ。きっと、魏の誰もが同じだよ」

 

「な、凪ちゃん! ふぁいとなの!」

「頑張れ、凪!」

 沙和と真桜の声援に、凪は何とか再び構えを取る。

 春蘭は七星餓狼を手に、構えもせずに立っている。

 その姿が───消える。

「!!」

 咄嗟に頭部をかばった。閻王越しに感じる、骨まで響く凄まじい衝撃。再び宙に浮く自分を感じる。

「くっ!」

 硬い舞台に打ちつけられる。一撃を受けた腕が痺れている。今まで味わったことの無い衝撃だった。

「よく防いだな」

 春蘭の言葉には、彼女のものとは思えないほど感情が無い。

 ───いや、違う……

 凪は自分の考えを否定した。感情が無いのではない。感情を押し殺しているのだ。

 ───一体何が春蘭様をここまで……

 更に一撃。

 両腕を交差させ防ぐ。

 吹き飛ばされる。

 立ち上がる。

 そこに追撃。

 防ぎ、吹き飛ばされ、叩きつけられ、立ち上がり、再び斬撃に襲われる。

 繰り返されるループ。

 舞台上で繰り広げられるのはもはや試合ではない。一方的な暴力だった。

 

「華琳様、これ以上は凪を壊しかねません」

 桂花の言葉に、華琳は小さく頷いた。

 ───凪、あなた達の覚悟はここまでなの……?

 

「まだ───です……」

 よろよろと立ち上がる凪。既に全身傷だらけだ。真っ直ぐに立つ事すらかなわないが、それでも構えを取って戦う意志を見せる。

「凪ちゃん、もういいのぉ……」

「アンタはよぅやった……これ以上はもうええ!」

 嗚咽交じりの二人の声。

「二人はああ言ってるが?」

 春蘭に問われ、凪は首を横に振った。かすかな笑みすら浮かべて。

「まだ戦えます……こんなに簡単に諦めていては、隊長に会わせる顔がありません……」

「また『隊長』か───」

 ぎりっと春蘭の奥歯が嫌な音を立てる。

「しゅ、春蘭様……?」

「何かと言えば隊長、隊長、隊長と───!」

 春蘭が走る。斬りかかる。

 凪は残撃をギリギリでかわした。さすがに多少とは言え目は慣れてきたものの、もう余力は少ない。振り回される残撃を体に掠めさせながら、少しずつ後退していく。

「どうした凪! かわすだけで精一杯か! そんな姿をお前の『隊長』が見たらどう思うだろうな!」

「くっ……!」

「この程度の実力でよくも今まで大言を吐けたものだ! 今のお前を見れば、お前達が心の支えとほざく『隊長』もタカが知れてるというものよ!!」

「い、幾ら春蘭様でも隊長の事を悪く言うのは───」

「言ったがどうした!? 気に入らんのなら、その拳でわたしを止めてみろっ!!」

 全体重を乗せた重たい斬撃が凪を吹き飛ばす。舞台の縁、あとわずかで舞台から転げ落ちる。

「あかん! 凪!」

「こ───のおおおおおっ!!」

 気合と共に凪は舞台へ拳を突き立てた。固い岩盤を打ち抜き、何とか体が停止する。

「ふん。往生際が悪いところは『隊長』譲りか」

 忌々しげに吐き捨てる春蘭に凪は激昂した。

「春蘭様!!」

 疲労とダメージを怒りが超越した。舞台の中央に仁王立ちの春蘭に向かって一気に走り出す。

「はぁぁぁっ!!」

「ぬぅっ!!」

 氣を込めた突きが打ち込まれる。大剣の腹で受け止める春蘭。両者が立つ舞台がクレーター状に砕け散る。

「はっ! その程度か! 所詮、お前の覚悟はこの程度! 北郷なぞに入れ込むからこのザマなのだっ!!」

「春蘭様、隊長を愚弄する気ですかっ!」

「愚弄して何が悪い! あんな弱い男なぞ、この魏から消えてしまって清々するわ!」

「このっ!!」

 春蘭の暴言を止めようと凪の蹴りが飛ぶ。上体を反らしてかわす春蘭。両者が離れる。睨み合う。

 

「姉者……」

「まだやで、秋蘭」

 今にも飛び出していきそうな秋蘭を霞が制止する。

「まだ二人の戦いは終わっとらん。武人の戦いを邪魔したらあかんよ」

「しかし……」

「ウチはええ機会やと思っとる」

 霞は戦う二人を眩しそうに見つめた。

「春蘭は意外と自分の中に溜め込む性格やからな。これを機会にどかんと吐き出したったらええねん」

「…………」

 

 春蘭が残撃を繰り出す。

 凪はそれをかわし拳を放つが、その全てを春蘭は弾き返す。

「どうしたどうした! 愛しの『隊長』様を愚弄されたのだぞ!? もっと気合を入れて打ってこんか!」

「ぐっ……!」

 かわしそこねた一撃が肩に入った。慌てて後ろにさがる。

「凪ちゃん!」

「大丈夫。かすっただけだ……」

 そう言う凪だが、大丈夫じゃないのはその表情から明らかだ。額に脂汗が滲む。あるいは骨折か脱臼はしているかもしれない。

「なぜ……です……?」

「…………」

 凪の問いに、春蘭の動きが止まる。

「なぜ、隊長を愚弄するのですか……?」

「…………」

「春蘭様も……隊長を愛しておられたのではないですか……?」

「……黙れ」

「わたしは……わたし達は、隊長を愛しています……」

「……黙れと言っている」

「隊長がいなくなって寂しいんです。だから、隊長の名前まで失いたくなかった───春蘭様は、隊長がいなくなって寂しいとは思わないのですか!?」

「黙れっ!!」

 言葉に続く一撃を凪はどうにか受け止めた。目の前にあるのは春蘭の顔。その顔は───

「あ───」

「寂しいだと!? ふざけた事をぬかすなっ! このわたしが寂しいなどと思うかっ!」

 放たれるのは斬撃と言うには随分と稚拙なものだった。子供がかんしゃくを起こしているようだ。

「武も無い! 勇も無い! 智も無い! あるのは女への欲望だけ! そんな輩がいなくたって何だと言うのだ! あんな男がいなくたって───」

 大きく振りかぶられた大剣。あまりにも力任せな一撃。凪は後方へ飛ぶ。刹那、凪が立っていた場所に大剣が突き刺さる───

 

 ──────!!!!

 

 まさにそれは大地を揺るがす爆音。

 春蘭の一撃は、何と石造りの舞台全体を粉々に粉砕してしまったのだ。

 飛び散る岩から華琳と桂花を守りながら、霞と秋蘭はただ呆然とする。

「じょ、冗談やろ……?」

「姉者……」

 あまりの事に、凪はぺたんとその場に腰を落としてしまう。

 濛々と立ち込める土煙。そこに浮かび上がるシルエット。叫んだ。

 

「北郷がいなくなって、寂しくないわけがあるかっ!!」

 

「!?」

「あいつはいない!! もう、いない!! いないものを思ってもどうにもならない!! 違うかっ!!」

「春蘭様……」

「あいつがいなくなったのは魏の苦境を救うため天の知識を使ったからと華琳様は仰った。ならば、その苦境は誰のせいか───わたしが弱いからだ!! 魏の大剣たるわたしが弱いから……あいつは、天の知識を……」

 土煙に隠された春蘭の表情は分からない。しかし、その震える声は何よりも彼女の気持ちを表していた。何より、先程凪が見た春蘭の表情は……

 

「春蘭……」

 華琳が呟く。

 それは魏の誰もが内に秘めていた事。

 自分がもっと強ければ。

 自分がもっと賢ければ。

 あるいは一刀が天の知識を使わずに済んだのではないか……

「みんな、そう思っとる。だから、頑張ってきた。この半年、ウチは一刀に手ぇ引っ張ってもらってきたようなもんや」

「ああ。そうだな……」

 言葉少なな秋蘭。あるいは、この想いは彼女が一番強いかもしれない。一刀が天の知識を使う事になった一番最初は、そもそも定軍山で彼女を救う為だったのだから……

 

 土煙が収まると、そこには普段の春蘭がいた。半年間抱え込んだものをぶちまけた所為か、凪に一撃もらってからの瞳の炎はもう無い。

「…………」

 春蘭は地面にへたり込んでいる凪を一瞥してから、華琳に向き直った。

「申し訳ありません、華琳様。舞台を壊してしまいました」

「仕方ないでしょう。桂花、準備を」

「華琳様、まだ───」

 続けるおつもりですか? と言おうとした桂花の口を指で止め、華琳は微笑む。

 

 

「まだ、どちらの覚悟も砕けてはいないわ。そうでしょう?」

 

 

 

「準備、出来たで」

「ご苦労様。さすが真桜ね。仕事が早いわ」

「こんな簡単な仕事、そんな褒められても……」

 舞台があった場所は今は剥き出しの地面があるだけだ。そこにあるのは真っ白い円。煙玉用の石灰で真桜が描いたものだ。

「急ごしらえでここまで出来れば上出来でしょう。この線を舞台とみなし、ここから外に出た者は負けとするわ」

 線沿いに視線を一周させて頷く華琳。

「あの、華琳様。ウチは───」

「真桜」

 真桜の言葉を先読みし、華琳が言う。

「凪の身を案じて試合を放棄すると言うのなら、それは凪に対する侮辱よ? 見てみなさい。あの子、まだやる気よ?」

 

「凪ちゃん、大丈夫なの……?」

「ああ。いける」

 短く答える凪。その頭部に自分の服を引きちぎって作った包帯を巻きつけながら、沙和は重苦しい表情だ。

「凪ちゃん? 凪ちゃんは沙和達の分までいっぱい頑張ってくれたの。だから、ここで止めても誰も……隊長だって凪ちゃんを怒ったりはしないの……」

「ああ、そうだな」

 凪は頷いた。

「でも、やる。もうちょっとだけ戦えそうなんだ。だったら、前に進む。それが、わたしだからな」

「凪ちゃん……」

 

「あーあ、可愛い妹にようやるわ。これが終わったら凪は医者に見せんと」

「ふん! わたしだって一発貰ってるんだ。それに武人同士の戦いとあらば、本気で行かない方が失礼だろうが」

「ま、それはそうやけど~」

「霞、姉者をそういじめるな。姉者は姉者なりに真正面からあいつらを受け止めようとしているのだから」

「しっかも、恥ずかしい告白つきでな?」

「霞~!!」

「あっはっは。まぁ、春蘭の言った事はウチ等の気持ちとおんなじや。だから、恥ずかしいは恥ずかしいけど、それでもかっこええと思うよ?」

「ふん!」

 そっぽを向くものの頬の辺りが赤いのは隠せない。

 秋蘭はくすくす笑いながら、どこかさっぱりとした顔の姉の肩を叩いた。

「まぁ、姉者は思う限りやり合ってくればいいさ。その結果がどうなろうと、わたし達はそれを受け止める」

 

 少しだけ、分かった気がする。

 春蘭の怒りを通して、華琳の覚悟が。

 多分、それは自分達と同じなんだろう。

 自分達と同じように一刀を大切に想いながら、それを外に出すか内に秘めるか。

 それだけの違い。

 北郷隊の名を変えるからといって、華琳達は一刀の事を忘れようとしているんじゃない。

 ただ自分達のように一刀が帰ってくる事だけを見ていないだけ。万が一、帰って来ないとしたら───自分達が見ようとしなかったその可能性にしっかりと目を向けているだけ。

 それが分かった。

 皆が一刀を愛している。

 彼の帰りを願っている。

 だからこそ、その可能性に目を向けようとせず、一刀の名を呼び続ける凪達に春蘭はあれほどの怒りを見せたのだ。

 そうか。

 そうだったんだ。

「やっぱり、あの方達は大人だな」

「せやな……ウチらはまだお子ちゃまか」

「そうだね。みーんな隊長の事好きなのにこんな大ゲンカしてって考えたら、何だかおかしいの」

 くすりと笑う沙和。つられて二人も笑う。

「よし」

 凪が立ち上がる。

「行ってくる」

「おう。頼んだで!」

「凪ちゃん、ふぁいとー!」

 

「では華琳様、行って参ります」

「ええ」

 一礼して舞台へ向かう春蘭。その背中を華琳が呼び止める。

「ねぇ春蘭。北郷隊の名を変える事、あなたは反対だった?」

「わたしは華琳様のご命令に従うのみです。華琳様がそれを望むなら、それはわたしの望みでもあります」

「そう」

 華琳はその言葉を心に染み入らせるかのように目を閉じて深く息を吸う。

 そして目を開けた。微笑む。

「愛してるわよ、春蘭」

 

「春蘭様……」

「何だ?」

「わたしにはあと少ししか力が残っていません」

「…………」

「その全てを春蘭様にぶつけます。受け止めていただけますか?」

 凪の言葉に、春蘭は一瞬きょとんとし、それから大笑した。

「ひよっ子が生意気言うな! お前の全身全霊など、わたしが片手で受け止めてやる! 存分にかかってこい、凪!!」

「───はいっ!!」

 

 

 

 再び、黒と白銀がぶつかり合う。

 違うのは、二人の顔。 

 くすりと華琳が笑う。

「二人とも、笑ってるわ」

 華琳が言う通り、凪も春蘭も先程までとは違い頬に笑みをたたえていた。まるで子供が無心で遊ぶように。

「心中、わだかまっていたものを吐き出した所為でしょう。まったく、猪が悩んだって何にもならないのに」

「そうね。でも、そこがあの子の可愛らしいところよ」

「華琳様……」

「そう膨れないの、桂花。わたしはあなたも春蘭と同じくらい可愛がっているつもりよ?」

 いたずらっぽく笑い、華琳は深々と椅子に身を預けた。

「あなたが立案し、わたしが認めた『北郷隊解散』の案───別のかたちで実を結びそうね。大きくて、とてもとても甘い実を三つ───ね」

 

「っしゃー!! 凪も春蘭もええぞー!!」

 くいくいと酒をあおりながら両者を応援する霞。

「いいのか、二人を応援して」

「ええも悪いもあるかい。こんな見事な勝負をサカナに酒が飲めるんやで? 楽しまな損や。秋蘭も飲まんかい!」

「ふむ。それもそうだな」

 秋蘭は霞から酒瓶を受け取ると一口。

「いい酒だ」

「いい酒、いいサカナ、いい女や。一刀が帰ってきたら今日の事教えてやんねん。きっとうらやましがるやろな」

 けらけら笑う霞に、秋蘭は頷いた。

「ああ、まったくだ」

 

「なぁ、沙和」

「なぁに、真桜ちゃん」

「ウチ、例え北郷隊の名前が無くなってもな? それでもきっと頑張れるわ……」

「そうだね。沙和もそうだよ。きっと凪ちゃんだって……」

 二人は舞台で繰り広げられる戦いを見つめたまま頷き合う。

 目には涙。

 口元には笑み。

 万感の───笑み。

 

 拳を突き出す。

 大剣をかわす。

 それだけに集中する。

 研ぎ澄まされていく自分を感じる。

 見えなかった大剣が見えるようになり、届かなかった拳が届くようになる。

 自分が更に前に進んでいる気がした。

 恐れを踏み越え。

 前へ。

 前へ。

 これがわたしの武。

 これがわたしの誇り。

 これがわたしの───わたし達の───

 

 ───隊長から教えられた全て!!

 

「凪ちゃん!!」

「凪ぃ!!」

 春蘭の一撃が凪の腹部に入った。くの字になる体。

 更に追撃の───一撃!

「くはっ───」

 吹き飛ばされる。

 世界がスローになる。

 届かなかった。

 春蘭のいるところには辿り着けなかった。

 ───隊長、すいません……

 凪の意識が闇に沈む───

 その時だった。

 一陣の風が練兵場を吹き抜けた。思いのほか強い風に皆が顔を背ける。と、

「ああっ!」

 沙和が声を上げた。

 

 ───なんだ……?

 沈んだ意識の底に、かすかな光が届いた。

 凪は目を開ける。

 そこには───

 

「隊長……?」

 

 青い空。

 輝く太陽。

 その光を反射させているのはまぎれもなく、一刀の制服だった。

 強風にあおられて沙和の手から飛び立った聖フランチェスカの制服が空に舞っている───

 

「隊長!」

 

 凪は覚醒した。

 体を捻って何とか着地する。ギリギリ白線の内側だった。

 ───左腕は動かない。右腕は……動く! だったら───

「戦える!!」

 凪は走った。一直線に、前へ。

「何だと!?」

 完全に決まったと思っていた春蘭は虚を突かれた。

 放たれる閻王。

 むしろ今までよりも強烈な一撃をどうにか大剣で受け止める。

「くっ! お前、どうして───」

「言ったはずです! あの服は、わたしに無限の力を与えると!!」

 左腕は動かない。さきほど肩口に受けた一撃で骨が折れているようだ。

 だからなんだと言うのだ、と凪は心の中で叫ぶ。

 まだ、わたしは前へ進める。だったら進む。ひたすらに、前へ!

 右腕一本の打撃。もはや、足も高くは上がらない。

 それでも繰り出される一撃一撃の重さに、春蘭は驚愕するしかない。

 凪はただがむしゃらに拳を打ち出す。

 力の続く限り、ひたすらに打ち出す。

「行けっ!! 凪っ!!」

「凪ちゃん!!」

「凪!! 春蘭!! どっちも根性見せたらんかい!!」

「春蘭、負けたらどうなるか分かってるでしょうね!?」

「姉者! 負けるなっ!!」

 声は重なり合い、交じり合い、二人の背中を強く押す。

「うああああああああああっ!!」

「おおおおおおおおおおおっ!!」

 二人が吼える。

 凪は拳を打ち出す。

 ひたすらに打ち出す。

 前へ! 

 前へ!

 

 命の限り、ただ前へ!!

 

 華琳が立ち上がった。

「凪!! 春蘭!!」

 

 ───拳が、止まった。

 凪は拳の先を見つめる。

 拳は───春蘭には届いていなかった。

 最後の一撃は、大剣に受け止められていた。彼女の拳は、春蘭を捉える事は無かった。

「届かなかった……」

 全力は尽くした。でも届かなかった。それだけが事実。

「沙和……真桜……みんな……済まない………………隊長……」

 凪の体が崩れ落ちる。その体を春蘭が受け止めた。

「まったく……そんな事で曹魏の将が務まるか……未熟者め……」

 言いながら、気を失った凪を見下ろすその目は優しい。そして振り向く。

「華琳様」

「ええ、春蘭」

 華琳が微笑む。春蘭が答える。

 

「この勝負───凪達の勝ちです」

 

 春蘭の足は、わずかに白線の外に出ていた。

 凪の全身全霊の拳は、わずかに彼女を白線の向こう側へと押し出していたのだ。

「え……?」

「と、と言う事は……」

 ぽかんとする沙和と真桜に微笑みかけ、華琳が大きく手を上げた。

 

 

「勝者、楽進!! よって北郷隊はその名を存続する!!」

 

 

 

 三日後───

 

 夜の闇。

 廊下には月明かり。

 扉を叩く。

「入りなさい」

 許しを得て、中に入る。

「華琳様、お召しにより楽進、于禁、李典、参上致しました」

 薄暗い部屋。明かりはわずか。

「凪、もう体は大丈夫なの?」

 部屋の主である華琳に問われ、凪は恐縮するように頭を下げる。

「はい。肩の骨は折れていますが、ちょうど華佗様が都におられまして診ていただく事が出来ました。一月もすれば動かせるようにはなるそうです」

「そう。それなら安心ね」

 華琳は頷き、そして平伏する三人を見る。

 その表情に、華琳は満足そうな顔。

「あなた達の覚悟、見事だったわ。北郷隊の名前は残しましょう。見事、守ってみせなさいな」

「はっ!」

「ありがとうございますなのー!」

「おおきに!」

 笑顔の三人に笑顔を返し、華琳は窓を見上げた。窓は閉じられている。そこを開ければ見事な月が見えるだろうに。

「一刀がいなくなってから、月を見るのが怖いのよ」

 唐突な言葉に、三人は顔を見合わせた。構わず華琳は先を続ける。

「月の下。青白い光。あいつはわたし達のもとからいなくなった。だから、今でも月は見たくないの。また大切な人を失いそうで」

 自嘲するように肩をすくめる。

「何の事はないわ。わたしも引きずっているのよ。一刀の事を」

 そう言う彼女の背中は、あまりにも小さかった。思わず駆け寄って抱きしめたくなるくらいに。

「今思えば、霞は気付いていたのね。だから、あんな事を言ったんだわ」

 

 ───『北郷』の名を封印するのがホンマに『主命』なら、叛く事になるかもな

 

「北郷隊解散の話が出た時、あるいはわたしは一刀との事に一つの決着をつけたかったのかもしれない。あなた達を案じたのは真実。でも、どんな理由をつけようと、そういう気持ちもあったかもしれないという思いは消えないわ。わたし自身の決着の為に、あなた達の心の支えを奪おうとした。それは君主の行いではない。ただのわがまま……」

 華琳は上を見上げる。閉ざされた窓の向こうの月を見るように。

「ごめんなさい」

「か、華琳様……」

 覇王の口から謝罪の言葉が、しかも自分達のような者へ向けられたものが発せられるとは……

 驚く三人に、華琳は振り向いて皮肉っぽい笑み。

「あら? わたしが人に謝るのがそんなに面白いかしら?」

「いえいえいえ、決してそんな事はないですよ? なー、沙和?」

「そ、そうなのー。それに謝らなくちゃいけないのは沙和達なのー」

 その言葉に、凪が一歩前に出る。

「この度の事、万死に値するものと思います。しかし我等、北郷隊で働きたいのです。罰を受けた後、どのようなかたちでも北郷隊へ戻る事をお許しいただけないでしょうか?」

「お願いしますなのー」

「ウチら、今以上にめっちゃ働きますから!」

「…………」

 華琳はしばらく黙り、そして立ち上がった。三人に向き直った顔は、覇王の威厳に満ち溢れている。

「北郷隊の名は残す。しかし、組織としては変わらなければならない。あなた達で変えていきなさい。一刀の戻る場所を」

「華琳様!」

「これより北郷隊を三つに分け、それぞれを『部』と呼称する!」

 華琳が朗々たる声を張り上げる。

「楽文謙!」

「はっ!」

「お前は北郷隊警備部を指揮せよ! 洛陽だけでなく他の都市にも支部を作り、この魏から、この大陸からあらゆる犯罪を駆逐せよ!!」

「ははっ!!」

「于文則!」

「はい!」

「お前は北郷隊教練部を率いよ! 兵を育てるだけでなく、兵を育てる者を育て、お前の育てた者達で魏武の礎を築いてみよ!!」

「分かったの!!」

「李曼成!」

「はいなっ!」

「お前には北郷隊開発部を任せる! お前のからくりで一刀が語った天の世界をこの魏の大地に存分に描いてみよ!!

「了解やっ!!」

「三人とも、一刀の帰る場所をしっかりと守ってみせなさい! 天にその名が届くくらいに、アイツがすぐにも帰ってきたくなるくらいに、北郷隊を立派に育ててみせなさい!!」

「「「御意っ!!!」」」

 華琳を見上げる三人の顔は依然とは別人の顔、将の顔だ。

 その顔に、華琳は新たな北郷隊が後の世に語り継がれるようなものになる事を確信した。

 窓の向こう、月を睨んでニヤリと笑う。

 ───見ていなさい、一刀。あなたが慌てて帰ってくる頃には、自分の名前が付いているのが恥ずかしくなるくらい、北郷隊は素晴らしいものになってるんだから!

 

 

 

 

 城壁の上。

 風に吹かれて飲む酒の美味さはまた格別。

「ええ天気やな~」

 霞は鼻歌交じりで城下を見下ろす。

 この前の凪と春蘭の試合は、今思い出しても心が熱くなるような試合だった。提案した自分を褒めてやりたいくらいだ。

 天を見上げ呟く。

「なぁ一刀。ウチらの妹達はよー育っとるよ? せやから、アンタも早く帰ってきてあのコ達を褒めてやってな」

 霞のいる城壁のすぐ下では、沙和が罵詈雑言で新兵を罵倒している。震え上がりながらも恍惚の表情を浮かべている新兵達を見ると、もう沙和の調教───もとい、教育は終盤にさしかかっているらしい。

「沙和ももう慣れたもんやな。まぁ、ウチはあの沙和の言葉遣いには慣れへんけども……っと!」

 突然の爆発音。音がした方を見れば、城近くの建物から煙が吹いている。

 いつもなら謀反か敵の工作かと飛び出す霞が、今は苦笑い。

「まーた真桜んとこかいな。アイツ、また桂花に搾られんで? 懲りんやっちゃなぁ」

 笑いながら更に一口。

 街は平和だ。

 ここにいても人々の活気が伝わってくる。

 と、霞は遠くに見える北郷隊詰め所の監視塔の上に人影を見つけた。凪だ。

 凪は監視塔から街を見下ろして満足そうに頷いていたが、何かを見つけたように視線を険しくすると、いきなり監視塔から飛び降りた。見事に宙で三回転してから着地すると、一気に大通りへと駆け出していく。ケンカ騒ぎでも見つけたのだろうか。

「凪はホンマ真面目やな~。まー、そこがあのコの可愛いところなんやけどな」

 今回の騒動で大きく実ったものがある。

 それは凪、沙和、真桜。大きく成長した、魏が誇る三人の将。

 更に一杯。

 霞は天に向かって酒瓶を掲げる。

「今日はホンマ、ええ天気や♪」

 

 

 

 

 見上げる空は蒼。

 白い雲がたなびく。

 その下を北郷隊は駆け抜ける。

 前へ。 

 前へ。

 

 

 北郷隊は駆け抜ける。

 

 

 

 

 後世の書に曰く。

 

『その日、北郷隊は最後の日を迎える。

 そして之、新たなる北郷隊の始まりの日』

 

 それは華琳が再び月を見る事が出来るようになる、半年前のこと───

 

 

 

 

 

<了>

 

 

 

あとがき(Take2)

 

あれ、途中から見れなくなってる!

と思われた方、再度見ていただき有り難うございます。とととでございます。

昨日アップした後、誤字を見つけて更新したのですが、それが上手くいかず本文が途中までしか表示されていなかったようです。

朝起きてびっくりしましたw

 

というわけで再アップ、それに伴いあとがきもまた書いておりますw

 

本作はメモ帳にあった「三羽烏が色々がんばる」という適当な走り書きからイメージを膨らませたものです。どうしてここまで膨らんだのやらw

他には「桂花ピクニックに行く」「バカルート(長編)」「強襲! 黒華蝶仮面!」などなど。

どれも超適当なw バカルートなんて始めてたら絶対行き詰まってましたよw

田豊とかオリキャラが色々出てくるんですけどね。麗羽が天下統一ってw

 

 

さてさて、相方の闘病生活も終わりましたので、とととは(本業?)のゲーム製作に戻ります。

SSの投下はしばらく出来なくなりますが、今回みたいにこっそり投稿させていただく事もあるかと思いますので、その際はよろしくしてやって下さいませ。

 

では皆様、ありがとうございました!

 

 


 
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