「ややや、これまた異な物、味な物……仙狸殿、こはいかに?」
湯から上がって来たカクの芝居掛かりの声に顔を上げ、仙狸は大皿に拡げた肉を前に、にやりと笑った。
「海幸山幸の故事では無いが、海が駄目なら山の幸じゃ、猟師から雉や山鳩、そして鹿の肉を分けてもろうたのじゃ」
醤油(したじ)に味醂を合せたたれもあるぞ。
そう言って仙狸は、七輪に掛けた鉄鍋に、それを流し込んだ。
ふつふつと滾って来たそこに、先ず葱を入れてから雉肉を入れる。
漂う良いにおいに、カクが陶然とした顔で鼻をひくつかせた。
「おお、幾久しくお目もじ敵わなんだお肉殿よ……この国は嫌いじゃないけど、どうもお肉好きには肩身が狭いよね」
「仏弟子が多い国なればまぁ、仕方もあるまいよ……これは肉にあらず、滋養強壮のお薬なりという所じゃな」
それでも多少、こうして口実を設けて食せるだけ、まだましと言う物じゃ。
「お魚と鳥食べるんだから、別に獣肉も良いじゃんねぇ、何も目の仇にする事無いだろに」
「世の中の金とお肉は仇なり、どうか仇に巡り合いたい、という奴じゃな」
くっくと笑いながら、仙狸は皿にカクの分を取り分けて彼女の前に差し出した。
「お主なれば、一日歩くはどうこう無かろうが、人を相手に調べ物は疲れたじゃろ、たんと食うて、頭の英気を養うが良い」
「あいや忝い……って仙狸殿はそれだけでいいのかい?」
カクに盛りつけたそれの半分ほどの肉と葱を前に、仙狸はくすりと笑った。
「わっちにはこれがあるでな」
醤油や味醂の入った物とは別の徳利を、その白い手に取って、彼女は中身を椀に注いだ。
透明な液体が、ほんのわずかに水とは違う様子を見せながら、とろりと零れ落ち、辺りに甘い香りが漂う。
「やや、これは酒ですな」
「お主も一杯やるかの?」
「一人酒は宜しくない、一つご相伴に与ろうってなもんだい、あ、一杯で良いよ」
「控えめなのは良い事じゃな」
「このカク、あまり御酒とは、良いお付き合いが出来ませぬ故に」
暗に、あまり強くないと言いながら、小さめの猪口に注がれたそれを、カクはおっかなびっくり口に運んだ。
くっと口に含んだ顔が、驚きの表情を作る。
「甘いね」
「味醂を焼酎で割った物じゃよ、『直し』と西国では称しておるな」
材料が手に入ったで作ってみたが、中々に呑みやすい割に、強いでな、気を付けて呑むのじゃぞ。
美味そうに、仙狸がその酒を干す。
味醂のとろりとした甘みを、焼酎がさっぱりと薄め、夏の終わりの空気に一服の涼気をもたらす。
焼酎の方は粕取りと言われる物。
清酒を絞った粕は良い肥料になるのだが、酒を絞ったばかりの物には、まだまだ酒精が満ちており、そのまま使うと、むしろ土の毒となってしまう。
その酒精芬々たる酒粕を特殊な器に容れて炙ってやると、酒精は気に変じて粕から抜ける。
その気と変じた酒精を、集め冷やしてやると、結露して美酒が生じ、酒精が抜けた残りの粕は良い土の肥しとなるのだ。
何と、不可思議にして、美しい在り様ではないか。
陶然とそんな事を思いながら、杯を重ね、間に肉を摘まむ。
カクの方も、いつの間にか二杯目を手にして、ほんのり上気した頬を、何か思い出したように、へらりと緩ませた。
それをちらりと見て、こちらはまだ平然とした顔をしている仙狸が口を開く。
「ふふ、上機嫌じゃな、何か良い事でもあったかの?」
「えっへっへー、そうなんだよぉ、このお酒お祝いにちょうどいいや」
「祝いか、それは目出度いのう、して」
何が有ったと、先を促す仙狸の言葉に気を良くしながら、カクは杯を干しながら口を開いた。
「それがさぁ、昨日相談した洟垂れ小僧の父親がねぇ、先刻帰って来たんだよ、いや、このカクも他人事ながら嬉しくて……」
「何じゃと、帰って来た?!」
カクの言葉を、仙狸の緊迫した声が遮った。
「ど、どうしたのさ急に」
「訳は後じゃ、いつ戻って参った、様子は?」
「戻って来たのは夕方らしいよ、少しやつれてたみたいだけど、元気そうで」
「元気……そやつ、どうやって戻って参った、仲間に救助されたのか?」
仙狸の剣幕に驚きながら、カクは手にした杯を置いて、今日見聞きした事を思い出しつつ口を開いた。
「漂着したどこかの島から、丸太に掴まって自力で泳いで帰って来たんだって話だよ……ねぇ、あれは間違いなく人間で、妖が化けたりしてたわけじゃ無いんだよ、そんなに殺気立つ話かい?」
「妖なればまだ良かったんじゃ、人、しかも恐らく本人じゃからこそ最悪なのじゃ 急ぐぞ、カクよ!」
「え、ちょちょ、ちょっと待ってよ、どこ行くのさ?このお肉は?お酒は?」
「それ所では無いわ、急がねばこの近在の浜に暮らす民、すべて消えて無くなりかねん、さっさと着替えて出るぞ!」
ぱっと着替えを済ませた仙狸が、一足先に廊下に飛び出し、宿の女中に火の始末を頼んでいる所に、慌てて普段着に着替えたカクが追いつく。
「……説明はしてよね」
「嫌でも道々聞いてもらうが、先ずは山の寺じゃ、急ぐぞ!」
「が、合点だい!」
網元は、奇妙な違和感を拭えなかった。
目の前で、迷惑を掛けた詫び言を言っている、彼の支配下に居る漁師共の中でも、それ程目立たない一人。
だが何だろう……この感じは。
「この度は、あっしの不注意から網元にまでご迷惑をお掛けしやして、真に申し訳のしようもねぇこって」
「まぁ、無事なら何よりだ、体さえ無事なら、明日からでもまた働いて貰おうかい」
言葉だけ聞いていれば、普通の親分子分の言葉のやり取りではある。
だが、長い間、人の上にだけ立って来た網元にだけ判る、本当に僅かな違和感。
こいつは、俺を畏れていねぇ。
理由は判らないし、他の誰にも判らないだろうが、彼にはその感触が、間違いなくあった。
「明日から働く……働くねぇ」
漁師の声が、奇妙な響きを帯びる。
嘲弄とも、憐憫とも、何とも付かない。
漁師は挑戦的な表情を、網元に向けた
「網元……ちょいと内密な話をさせて頂きてぇんで、お人払いを」
願えやせんかね?
彼の詫びに付いて来てくれていた、老人二人に顔を向ける。
漁師の無礼な言い種に、実際に漁を指揮する立場の二人が気色ばむ。
「何だと、てめぇ!」
まぁまぁと網元は二人を宥めながらも、表情を厳しくした。
「漂流して帰って来たばかりだ、疲れから妙な事を言ったんだろう、聞かなかった事にしてやるから、潮見の爺さんと、水主頭(かこがしら)にちゃんと詫びを……」
そこまで言いかけて、網元は息をのんだ。
漁師が下卑た笑みを浮かべながら、懐でちらつかせたそれに、目を奪われる。
こいつ……まさか。
「……おめぇら、暫く席を外せ」
「網元!」
「良いから外せ!」
思わぬ剣幕で怒鳴られた二人が、不平そうな顔を網元と漁師に向けてから、無言で席を立った。
暫く経って、更に席を立ち、二人が近くに居ない事を確かめてから、漁師は居ずまいを改めた。
「ありがとうごぜぇやす、網元ならきっと判って下さると思っていましたよ」
漁師は懐からそれを取り出しながら、目の中に、にたりとした色を浮かべた。
欲という餌で釣れた、安い魚を見るような目……だが、彼が取り出した物に目を奪われていた網元には、それは見えていなかった。
仄暗い鯨油の灯りの中でさえ、艶やかな赤色を見せる珊瑚の飾り物に、大粒の真珠があしらわれている。
「……おめぇ、海市を」
「へい」
灯りが吹き込んできた風に揺れたせいだろうか。
漁師のにんまりとした笑みが、揺れる灯りの作る影の中で、ぐにゃりと薄気味悪く蠢いた。
「みつけやした」
ぐびり、と網元の喉が生唾を飲み込む音が、静かな室内に響く。
「そ、それで、場所は何処だ、取引は」
「お任せくだせぇ、あっしが案内しますで、網元は今すぐありったけの船と銭を用意して下せぇ」
漁師は、目の前の珊瑚の飾り物を網元に手渡しながら、声を潜めた。
「あの爺さんたちも、他の浜に内通してないとも限りませんからね、他の連中には内緒で、男衆総出の夜漁の体で、繰り出しましょうや」
「ご住職、火急の用にてお目に掛かりたい!失礼致すぞ!」
夜とは思えない音声で、表から住職を呼びながら、仙狸はためらいなく、駆けて来た勢いそのままに、あまり高くない塀の上に、一息で飛び乗った。
「ちょっと、仙狸さん、寺社にそりゃ流石に非礼……」
「話は付けてある。第一、猫とお猿の入り口は本来こちらじゃ、行儀のよい事を言わずお主も参れ!」
「はいはいっ、今参ります親分」
こちらも流石に身軽な様子を見せて飛びあがったカクが、塀の上に一度手を付いてから、更にぴょいと空中で一回転して、優雅に境内へと降り立った。
「流石に身軽じゃな」
「お互い、白波稼業(盗賊の事、中国古典に典拠、歌舞伎の用語でもある)で、十分食って行けそうですなぁ」
カクの言い種に、仙狸は片頬を歪めるような皮肉な笑みを浮かべて、ふんと鼻を鳴らす。
「お互い望めば、切り取り強盗も自由自在じゃろ」
そう言いながら、仙狸は門の閂を抜いて、開け放った。
ややあって、庫裡の障子が、内側に灯った光を透かして、ぼんやりと闇に浮かぶ。
パタパタと鳴る雪駄の音に、心張棒が慌てて外される音が続き、扉が開く。
顔を出した住職の着衣に乱れはなく、表情には驚きや非難ではなく、ある確信に基づく緊張感が漲っていた。
「仙狸殿か……夜中唐突なお運びとは、まさか?」
「思うたより、事態の進みが早いようじゃ、御覧(ごろう)じろ」
「何で?!」
「むぅ……」
開いた門から仙狸が指さす先を見て、カクは驚きに目を見張り、住職は低く唸った。
本来闇の中に閉ざされている筈の浜に、幾つかの炎の灯りが見える。
あれは、あの洟垂れの居る漁村の方角。
こんな夜中に、一体何が起きているのか。
惑うカクとは対照的に、当然見えるべきものが見えたという顔で、仙狸は言葉を続けた。
「わっちらは、あの浜に向かう」
「では」
「うむ、ご住職と小僧殿とで、他の浜から人を退避させて貰いたい、一刻も早くじゃ」
まだ寝ぼけ眼でようやく起き出して来た小僧に仙狸は目を向けて、お主も頼むぞ、と、その肩をポンと叩いた。
「それと、ご住職」
「判っております、これに用意しておきましたぞ」
住職が手にしていた風呂敷包みを仙狸の方に手渡す。
「借り受ける、ではこれにて!」
それを受け取り、仙狸は後ろも見ずに、再び走り出した。
「ちょちょちょっと仙狸さん……あ、和尚さんは大丈夫そうだけど、小僧さんはごめんね、夜中お騒がせしました、失礼しますー」
ぴょいと一礼してカクも仙狸を追って走り出す、その二人が軽やかに塀を飛び越えていく背中を見送っていた住職が、寝ぼけ眼の小僧の肩を揺すった。
「さぁさぁ、夕餉の折に少し話して置いたじゃろ、しゃんとせい、しゃんと、そこに汲んでおいた井戸水があるで、顔を洗って、足袋を履くんじゃ」
「ふわい……」
僧籍にあるとはいえ、まだまだ子供の身では、この時間に叩き起こされれば寝ぼけているのは仕方ない、だが、気の毒だとは思うが、ここは小僧にも踏ん張って貰わねばならない。
「これはわしの書き付けじゃ、これを持って西の網元の所にしっかり使いしてくれよ、何を聞かれても、私は存じ上げません、書付の通りです、そう繰り返すんじゃ、良いな」
「はぁい……」
何とか提灯を持たせ、草鞋を履かせ、まだ少しおぼつかない足取りながら、歩き出した小僧を見ながら、住職も袈裟を纏い杖を手にした。
「わしらはわしらで何とかしますでな……どうかそちらはお願いしますぞ、仙狸殿」
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式姫プロジェクトの二次創作小説です。
前話:http://www.tinami.com/view/952819