Ⅱ 惑わされる者たち-2
「……ふう。さすがに疲れたなあ」
そこまで長くも無いくすんだ金色の髪をソファの背もたれに放り出して、翠の眼を閉じる。こうしていれば、幼さが残るもののそれなりの美貌である。だがそれはティスとは違い、何処か女性らしさの含まれる美しさだ。
放り出した髪を無造作に掻き、シェウリは一つ欠伸を漏らす。淡黄色よりも薄い色の服は所々薄汚れていて、掻いている髪にも砂を被っている。ほんの少し荒れていた息も、少しずつ落ち着いてきた。
「く、ふあぁぁ」
座ったまま大きく背伸びをして、静かに腕を下ろす、しばらく何処かを虚ろな目で見つめた後、また目を閉じた。首がかくっ、とソファーにもたれ掛かって、ゆっくりとした吐息が聞こえてくる。
扉をノックする音が聞こえてから、入るぞ、と声がした。
「シェウリ、北東の街の税の徴収についての書類だが――」
書類片手にティスは扉を開けた。そして思わずその光景に目を丸くして、それから柔らかく微笑んだ。音を立てないように気をつけてソファーの近くに寄り、シェウリの頭についた砂を掃ってやる。持ってきた書類を鏡台の上に置いて、ベットの上に放り出されていた毛布を上に掛けると、うぅと少し身じろぎした。だが直ぐに落ち着いて、また静かな吐息が聞こえる。
「こんな姿、初めて見たかもしれないな……。こんな、気を抜いた姿」
相変わらず穏やかな微笑みを絶やさずに、ティスは呟いた。
何時も飄々としているふりをして、何処か張り詰めている雰囲気を背負っている彼の事を、ティスは内心とても心配していた。飄々とした態度も無く、何処か遠い存在というように接されても、兄馬鹿と言われても構わないと言うように、彼が彼になった時からいざと言うときは守ると決めている。
寝かせておいてあげようと、ティスはノブに手を掛けた、だが一度振り返る。
「お前は、こんな人生でも、幸せか……?」
その呟きに、答える声は無かった。
同じ頃、違う場所で。
かあ、かあとカラスが鳴くのも五月蝿く感じるくらい、二人の心は真っ白だった。
「……夕暮れだな」
「――うん、夕暮れだねぇ」
無情にも時は過ぎ去り、彼らは呆然と立ち尽くす。既に身体はくたくたに疲れきっていて、今直ぐにベットで眠りに就きたいと思う。だが、明日に向けての準備が整っていないため、それは叶わない夢であった。
イリルは一つ欠伸を漏らし、背伸びをする。一歩前に出てクリスナと向かい合ってから、一つだけ言葉を交わしあった。
「またな」
「また明日」
クリスナも欠伸を漏らしながら帰っていく、その背を見送りながら、ふとイリルは離宮を遠目で見る。離宮は第二王子だけでなく、貴族の客人も泊まる事がある。その時ばかりはさすがの第二王子も大人しくしている、との噂らが流れていた時期があった。
「たしか、前年はクラウディア侯爵だったけ。三年前がリファス伯爵と夫人、その一年前が、フォルトパーソン公爵――……」
あの公爵が来たときは議会中にティスへの刺客が来て、それを退治した覚えがある。けれど公爵の顔を見たわけではなく、ただ短く切りそろえられた金髪が綺麗だと、男性ながら思ってしまったくらいだ。
途方も無い事に思いふけていたイリルは、視界の片隅に映った影に声を掛けた。
「ティスっ! 何でここにいるんだ?」
その声に反応して、その影はセミロングの金髪を少し揺らして、イリルに振り向く。姿を確認し、少し驚いた表情を見せていた翡翠の瞳は、何処か悲壮に溢れているような気がした。
小走りにイリルはその影に近づく。自分を見上げてきた彼の顔は年相当の幼さを感じさせた。
夕暮れに照らされた、金の髪を持つ小さな頭をイリルはそっと撫でてやる。顔を上げていたティスは、目を伏せながらそっと顔を俯かせた。そして、少し震えた声音で発した。
「――っ、なんだ、なにか用件でも、ある、のか……?」
顔を合わせずに話す王子に、イリルは微笑んだ。俯くティスにはそれが分からなかったが、彼は微笑んだまま、声を掛けた。
「ここは寒い。秋に入ったばかりと言って、油断してはいけませんよ。……風邪を、拗らせてしまわれます」
彼の手は、まだ王子の頭を撫で続けている。
「なら……帰る。送れ」
それだけを告げてティスは頭の上の手を押し返し、一人で早々と歩いていく。その後姿を眺めながら、イリルは王子の影を追った。
太陽は徐々に沈んでいく。
「夕暮れもそろそろ終わり、漆黒の中で月が照らされる神秘の暗闇が現れるのだろう」
一拍おいて、
「――なんてねぇ。詩的なこと言っちゃったな、ぼくらしくもなくさぁ。きゃはっ」
栗色の髪を少し揺らしながら、彼は首を少し傾げて笑った。笑った表情を崩さずにそのまま傾げた首を正常に戻し、それから表情を崩して俯きながら溜め息を付いた。
綺麗に整えられた髪に手を伸ばし、片手でそれを崩す。無表情が変わっていく。
「ああ、本当にらしく無い。馬鹿馬鹿しすぎる」
空いているほうの手を爪が食い込むほどに握り締める、痛みを感じ無いほど強く。
「本当を知っても、笑ってくれる?」
いいの、笑ってくれなくても。自分はそれだけの事をしていて、騙し続けているから。
彼は黙って踵返した。後ろの彼らを最後まで見送る事無く、ただ歩く。
「ありゃまあ……。どうしたものか」
グラドフィースは部屋の窓からその様子を覗く。彼らの行方を最後まで見送り終えたその時、声を掛けられた。振り向けば書類の山たち、と抱えている書類の山の両側からちょろっと見える赤褐色の髪。
赤褐色の髪の持ち主は抱えていた書類の山をグラドフィースの前の机に勢いよく置く。三、四つの書類の束が空を舞って机の上に落ちる。ようやく顕わになったその顔は標準的な肌色の顔に髪と同じ赤褐色の瞳。着衣にうすい灰色の長袖を纏っている二十代かなり前半くらいの男性。
「大変だな、こんな書類の山を毎日のように運ぶんだもんなあ。肩こり大丈夫か?」
「ええ、本当に。貴方がお仕事をこなしてくれないからこんなに溜まってしまうのですよ。王佐である私の身にもなってもらえると嬉しいのですが。……一応、まだ肩こりは大丈夫ですよ」
彼は自身が抱えてきた書類の一番上の束を手に取ると、グラドフィースの顔の前に突きつける。突きつけた書類を机の、グラドフィースの前に大きな音を立てながら置いた後、机の隅に追いやられた付けペンとインクを掴んで書類の真横に置く。
「仕事が終わるまで、外出は禁止ですよ!」
「うえ。そんな事言うなよ、クライス。自分で何かを決めるってのは、この世に生きる万物たち全てに与えられた特権なんだぞ。……俺の中では」
最後の最後で弱気になったグラドフィースを尻目に、クライスは誰かに呼ばれて少しの間だけ傍を離れる。
扉の傍で会話をしていると、小さな金属音が耳に入った。何だろう、と思い振り向くとそこにグラドフィースの姿は無く、机の後ろの窓は全開にされていた。慌てて窓を覘くと、そこには探している影が在った。呑気にブイサインをしたあと、何処かへ向かって駆けていった。
「どうした。寧ろ今お前どの世界に行ってる?」
クライスの背中に、話を交わしていたケシスの声が掛かる。その手には一つの書類の束があった。茫然自失状態に陥っているクライスにその声は聞こえないようで、仕方なくケシスはクライスの背後に立ち、手元の書類の束で後頭部を思い切り叩く。
乾いた音がしてクライスの意識は何処か遠くから戻ってきた。
「また――逃げ、た」
「……今オレはお前になんて声を掛ければいいんだ、ご愁傷様、でいいのか?」
クライスは一つ溜め息を吐いて、頭を抱えながら答えた。
「本当にご愁傷様だよ……」
もう一つ盛大な溜め息を吐きながら肩を落としたクライスを見かねて、ケシスは声を掛けた。
「仕事、手伝ってやろうか?」
「いいえ……、迷惑を掛けるわけにはいきませんので……」
あの王の王佐と言う仕事は精神的にも苦痛だな、つくづくそう思う王佐の友人は、本来の用事を思い出してクライスに尋ねる。
その前に思い切り頭を叩いて折れた書類を真っ直ぐにのばす。ぱきっ、と音がして書類は小さなしわを残しながらも直った。
「この書類、オレのところに紛れ込んでいたが内容的に国王の仕事だろう。仕事が進んでないようならこっちで済ませるが、どうする」
瞬きをする間にクライスは勢いよく顔を上げ、その申し出を丁重に断る。どうやら意地でも仕事をさせるようであった。ケシスはその態度にいささか驚いたが、書類を渡して早々とその場を去る。
心労が増え続ける一方の友人を心配しつつも、彼は策士として今の仕事に専念する事にした。
「明後日から忙しくなりそうだ。第一戦目はどのようにするか――」
複雑な思いを抱えつつも、その迷いを隠しながら彼は思い耽る。護るべき者を護るために、それだけを想って。
「みんな、大変そうだねぇ」
ケシスの背後からひょっこりとクリスナが顔を出した。その声に驚いて、ケシスは少し裏声になりながらも言う。
「お前、さっきまで庭に出てなかったか? 二階から覘いた時はまだ庭だったはず」
「ぼくが必ず階段から上がってくるなんて、思わないほうがいいよぉ。イリルとかほかの騎士さんたちもしてるけど、建物と建物の間を跳んできたんだもーん」
悪びれる様子も無く、くすくすと笑うクリスナを見ながらケシスは、後でイリルを叱る事を頭の中におく。ついでと言う事でケシスはクリスナの額を軽く弾く。子供みたいに額を押さえて文句を飛ばすがそれを無視してそのまま歩いていく。
「悩んでたって、何にも変わらないんだからねぇー!」
クリスナが大声で話しかけた。静かにしろ、そう注意されて彼は押し黙る。ケシスは虚を衝かれたが何食わぬ顔のまま、振り向かないで歩き去っていく。
「悩んでも、か」
どうしようもなく、何故か溜め息が出た。色々先の事について考えを巡らせると不思議と、溜め息が絶えない。
戦争に死人はつきものだと言うのに、どうしてもそれが受け入れられない。そこまで到達すると結局自分も人なのだと実感する。結局自分も仕事に感情を挿んでしまう人なのだと、それが明らかになればなるほど憂鬱になる。
空はもう紺色を湛えていて、か細い星の光が一つ二つと増えていく。月はまだ半分の三日月であった。
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騎士と王子、城に勤める者たちが織り成す、願いと思惑の物語。
第一章のⅡ-2です。