「やぁ、絶景かな、絶景かな」
カクの声音に芝居掛かり以上の真実の響きが籠もる。
彼女の感嘆も故無い事では無い。
少し上り坂になった小暗い松林を抜けた後に、視界一面に広がった青の世界。
天から海の底まで、碧空から紺青が、一度に感覚を包み込む。
浮かぶ雲の白さ、波音、潮の匂いを運ぶ、さわやかな、だが、まだ少し夏の熱を残した風。
快美。
それ以上の感想が浮かばない程の、圧倒的な天地自然の造形と色彩であった。
「ぜっけーかな、ぜっけーかな」
カクの隣で、洟垂れも一丁前に、意味も分からずに声を張り上げてから、顔を上げた。
「ぜっけーってなんだ?」
言葉で言い表せない程に、凄い風景の事だと言いかけて、その説明の中にも、この洟垂れが判らない言葉が混じって居そうなのを感じ、カクは暫し、その言葉を頭の中で転がした。
仙狸が意図した事かは知らないが、今まで大人を相手に芸をして来た時には、想像もしていなかった、言葉の選択という行為は、カクに色々な事を考えさせてくれているようであった。
「絶景っていうのはなー、ここみたいな、とっても良い場所を見た時に褒める言葉だい」
「そうかー、ここはぜっけーだー!」
「そうだぞー、ここは絶景だー!」
丈の短い草の上に寝転がり、まだ高い空を見上げながらカクは大声を上げた。
不可解な事ばかりのこの地ではあるが、それでも、カクはここに来て良かったと、今心底から思えた。
傍らの子供の事を考えれば、こんな所に居るより、父親を探して歩いた方が良いのかもしれないが……。
それでも、一時でも。
この子の周囲の大人たちが忙しく、そこに気が回らないだろう中で、よそ者である自分くらいは、こうして他に気を散らす機会は作ってあげねば……。
「はらへったー」
「だよね、それじゃ座って、その竹筒の水で手を洗って、よしよし、今日はおかかと梅と塩のお結びだい、どれが良いー」
「おかかー!」
「はい、それじゃこいつだ、良いかつお節を贅沢に厚く削って作った奴だからねー、味わって食べるんだぞ」
そう、カクが言い切る前に、洟垂れは手にした大きなお結びにかぶりついていた。
「うめー」
「そうだろそうだろ」
自慢げに、こちらは梅お結びにかぶりついたカクだが、これらを用意してくれたのは仙狸である。
ふんわりとしつつ、しっかりと握られたお結びの中に、少し崩した梅肉の味が馴染んでおり、その丁度いい塩味と酸味が、半日歩き回った体に、じんわりと染み込んでいく。
「うん、美味しい」
「うんめー」
顔に白米を付けながらかぶりつく子供の顔をちらりと見てから、カクは顔を上げた。
大きな雲が青い空の中で、天に伸びていく。
この青空のように、今回の件も、きれいさっぱりと決着が付いてくれるんだろうか。
いや……そうじゃ無いな。
「もっとくれー」
「あー、後はね、塩結びしか残ってないんだ、だからこいつを、お姉ちゃんと半分こだい」
ぱかりと割って、真っ白なお結びの半分を渡す。
「おー、はんぶん」
「塩もさっぱりして良い物さ、噛めば噛むほどに良いお味ってなもんだい」
「うんめぇ」
「あはは、この絶景の中で食べてるから美味しいんだぞー」
「おー」
そう、この子の為にも、今回の一件、綺麗さっぱりと片を付けてやろうじゃないか。
「……ん、むぅ」
住職が目を覚ました。
仄暗い中の目覚めは毎朝の事だが、板敷の間に横たわっているとは、いかなる事か。
頭には円座を置いてあるのは、自分でした事だろうか……。
「お気が付かれたか?」
美しい響きの女性の声で目覚めるなど、まだ寺に入る前まで記憶を遡らねばならない。
ゆっくりと顔をそちらに向けた住職は、彼の顔をゆっくりと団扇で扇いでくれていた仙狸の姿を認めた。
ああ……そうであったな。
自分は、何という醜態を晒してしまった事か。
ふぅ、と長い息を吐きながら、何かを振り払うように頭を振ってから、住職はゆっくりと身を起こした。
「お恥ずかしき姿を」
「わっちは何も見ておらぬよ」
猫は忘れっぽい物じゃ。
そう呟きながら、静かにほほ笑む仙狸に、住職は頭を下げた。
「修行の至らぬ事で、汗顔の至り」
「左様な事もありますまい……まして、住職の罪咎でも無き事じゃろう?」
「……そこまでご存知か」
「代々のご住職の日記を拝見した上での推測じゃが、粗方はのう」
書いてあることだけでは無い、不自然な記述の消失、日付の飛び、筆の乱れ……。
そういった事は、その時期に、日記に記載できない「何事か」が有った傍証となる。
そこに、推測と、事実で作った欠片を埋めていった時、仙狸の脳裏には、今回の件の大枠が見えて来ていた。
だが、まだ細部が足りない。
「話して、頂けるか」
目の前に居る式姫の明敏さを前に、ごまかしは通じないと悟ったか。
いや、恐らくこの住職は、仙狸がこの寺を訪れ、日記を見たいと言った時から、こうなる予感があったのだろう。
その上で、仙狸に日記の閲覧を許した。
過去をこのまま握りつぶすのか、白日の下に晒すのか。
それを、式姫という神意に委ねるかのような、そんな心持ちで。
「当寺の……いや、拙僧の恥ともなりますが」
「ご住職、恥も栄誉も、煎じ詰めれば人に付く物じゃ」
その仙狸の言葉に、住職は静かに首を振った。
「他に知る者も無しと思い、この胸一つに納めてしまった時、私もまた同じ罪と恥を負ってしまったのですよ」
寺の評判が悪しくなれば、寄進も減ろうし、何より、彼の法統に連なる自分が、ここに居られなくなるのでは……。
ならば、黙っていた方が良いではないか。
黙っていた方が、誰も不幸にならずに済むなら、これも一種の方便ではないか。
そう、己も騙してしまった。
「私は、師を……彼と寺の名を汚す事が、出来ませんでした」
今より語るのは、私自身の懺悔でもあるのです。
「人の情という物じゃ、仕方なき事よ、余り己を責めなさるな」
幾ら言っても、己自身を責める言葉を他人が和らげる事は出来ない。
それは知っているが、仙狸はそう口にするしか出来なかった。
忝い事です。
そう、深く静かに頭を下げたのは、仙狸に向かってだったのか、それとも、過去に対してだったのか。
顔を上げた住職は、辛そうだが、どこか長きに渡って担い続けた重荷を下ろした人のような、疲れた笑みを浮かべた。
「どこから、お話ししましょうかな」
「ありゃ、何だい、あれ」
お結び三つの昼餉を終えて、食休みをしていたカクがぐるりと巡らせた視界の端に、小さな社が映った。
そのカクの視線を追った洟垂れが、ずるりと青洟を啜った。
「ああ、あれかー、えべっさんのやしろだぁ」
「えべっさん?」
誰だ、と一瞬思ったカクであったが、海近くの祠と名前から、すぐに正解に辿り付いた。
「ああ、恵比寿様かい」
「んだぁ、えべっさんだ」
「そうかー、えべっさんかー、カクの仲間だなー」
「そうなのかー?」
「えべっさんはねぇ、カクと同じ、海の向こうから来た神様だい」
子供にはそう語ったが、本当はそれだけでは無い。
恵比寿は夷であり、戎でもある。
夷戎(いてき)と呼ばれた存在。
自分たちと「異なる」集団を、そう呼んで、区別していた、その名残。
多くは敵として、そして時に、技術や富をもたらす存在として異人を祀った。
「それじゃ、お仲間にご挨拶しておこうかな」
そう口にしながら、カクはひょいと立ち上がった。
しかし、えべっさんとはまぁ、随分と親しみやすそうな名前になっちまったもんだね。
僅かに苦笑を浮かべながら、水とは別の竹筒を手にして、カクは歩き出した。
「おまいりするだか?」
慌てて立ち上がった洟垂れが、カクの後に続く、それに向かってカクは笑いかけた。
「庭先でお弁当使わせて貰ったら、お礼位はするもんだい」
「そんなもんかー」
「そんなもんだい」
程なくして、手入れの行き届いた社の前に立つ。
不漁の時期でも、いや、だからこそか、掃除が行き届き、ささやかながら供物も備えてある社。
格子の間から、丸太に直接刻まれた恵比寿の像が垣間見える。
(まだ、若いかな)
信仰の力は集まり掛かっているのが見えるが、まだまだ神性を宿すところまでは来ていない、木像に毛が生えたような物。
とはいえだ……庭先を借りた事には違いない、カクは綺麗な椀に酒を注いで、それを備え、静かに手を合わせた。
その隣で、洟垂れも殊勝な顔で、手を合わせる。
「ととがけぇってきますように」
(そうだね……祈ると良い、人の子供よ)
恐らく、この神像よりカクの方が、力もご利益もあるとは思うが。
何かに縋るだけでは無い、この子のように、自ら動きながら神に願う時、願いはその人の力ともなるのだ。
それは、今のカクの主も同じ。
彼が願うだけの男なら、式姫は誰も従わない。
彼が自らを恃むだけの男なら、やはり式姫は誰も手を貸さない。
自ら動き、その力の限界を知った人が、心から願った時。
彼女たちは、その大いなる力を、人に貸し与える。
君は……どうかな。
「さてと、次は隣村まで行ってみようか……歩けるかい?」
「でーじょーぶだー、おら、じょうぶがとりえだって、かかがいってただ」
「そっか、でも疲れたらそう言うんだよ、それじゃ元気に出発だい!」
「おー」
Tweet |
|
|
5
|
0
|
追加するフォルダを選択
式姫プロジェクトの二次創作小説です。
前話:http://www.tinami.com/view/950284